相変わらず、このフロアは薄暗い。
 窓は雨戸で閉ざされ、足元灯だけが頼りだ。西側の隅。ひっそりとひとしおの暗がりを揺蕩わせる場所で、俺は立ち尽くしていた。

 ノックするためにかざした手が無意識に震える。彼女は一体、俺のことをどう思っているのだろう。
 二度も、彼女を苦しめた。
 そんな俺に、もちろん彼女に会う権利なんて存在しない。

 今、ここにいる理由は彼女への謝罪のためだけだ。

 でも、怖くて一歩を踏み出せない。彼女からの蔑みを想像するだけで、心がくじけそうになる。
 ようやく、自分が何に恐れているのか理解した。
 きっと、俺は彼女との関わりを心地よく感じていたのだ。何気ない彼女との会話が暗い俺の世界で、微かに色づいていた。ほんの少しの輝きを放っていた。
 だから、それが崩れて無くなってしまうのが、どうしようもなく恐ろしい。

「――日影くん?」

 ドアの向こうで、彼女の声がした。思わず、身体がびくりと波打つ。
 喉がやけに乾いて、生唾が緊張の音を立てる。

 もう一度、名前を呼ばれた。その声が耳に張り付いて、いつまでも残る。いや、俺が必死につかんで離さなかった。

 かざした手を下げる。そして、意を決してドアを開けた。

 数日ぶりの彼女は未だ高熱に蝕まれているようで、ベッドに横たわったまま俺を迎え入れる。

「あ、やっぱり。日影くんでしたね」

 立っているのもばつが悪く、俺はいつも通り窓際の明かりをつけて彼女の傍に座る。

「……なんで、俺って分かった?」

「ふふっ、当たり前じゃないですか。日影くんはこう見えて、案外憶病さんですからね。ドアの前で立ち尽くす人なんて、日影くん以外にいません」

 俺を見つめる彼女の瞳はまだ気怠そうな、重たい目を必死に開けている風だった。自然と点滴管の終着点に視線がいってしまう。

「……悪かった。本当に……。謝っても許されないかもしれないけど、それだけ言いに来た……」

 胸が痛い。刺さった針が、抜けない。

「一体、何を謝っているんですか」

「いや、だって……。また、俺は蛍琉を苦しめて……」

 彼女は俺を不満げに睨みつけた。そして、ややあって一つ息をつく。

「仕方がない人ですね。じゃあ、教えてあげます。私は怒ってなどいませんよ。この前も、今回も」

「えっ……?」

「そもそも、怒る道理がありません。前回のはただの不慮の事故のようなものですし、今回に関してはただ私が勝手に外に出ただけの話です。日影くんの謝罪など、甚だ意味がないものです」

 しかし、そう話す彼女はまだ苦しそうだった。だから、俺の罪悪感は一向に拭えそうもない。

「でも、俺がいなければ――俺と蛍琉が出会わなかったら、どっちも起こりようがないことだったじゃないか……」

「……ちょっと、近くに寄ってください」

 そう言いながら、彼女は俺を手招いた。
 少し、彼女へと近づく。

「もっとですよ。ほら、早く」

 彼女が言うから、椅子から腰を浮かせ、さらに彼女へと顔を近づける。

「目、つぶってください」

「は……?」

「いいから」

 言われるがままに目を閉じる。少し間を置いて、額にぺしっと軽い痛みが弾く。それから、鼻をぎゅっとつままれた。

 思わず目を開けると、やっぱり彼女は頬を膨らませて、ちょっぴりご立腹の様子だった。

「……何すんだよ」

「言っても分からないようだったので、お仕置きです」

 それから、彼女は「私が欲しいのはそういう言葉じゃないんですよ」と付け加えた。
 俺には彼女がどんな言葉を求めているのか分からない。だって、今日は謝罪の言葉しか携えてきていないのだから。

 言葉に詰まっていると、彼女はやれやれと言った風に呆れ顔をする。

「こんなに可愛い女の子が日影くんの応援に行ってあげたんですよ? ほら、何か言うことは無いんですか?」

「あ、ありがとう……?」

 すると、彼女はすっと俺から手を離し、にっこりと微笑んだ。その笑顔にまた絆されている自分がいる。

「最初からそう言っておけばいいんですよ」

 ふと、思いだす。その言葉は、以前に俺が彼女へと向けたものだった。

「蛍琉もこんな気持ちだったんだな……」

「ただのお返しですよ。ようやく、難しい顔以外も見せてくれましたね」

「俺、そんな険しい顔してたか?」

「はい、それはもう。苦しそうで見てるこっちが辛かったです。そういう意味では、そんな顔をさせてしまってごめんなさいと言っておきましょう」

 自分の頬に触れてみる。確かに強張っていた。
 無理矢理笑顔をつくってみると、彼女に声を立てて笑われた。

「日影くんは笑顔が下手くそですね。もっと練習しましょう」

「そんなこと言ったって、出来ないもんはしょうがねえだろ」

「大丈夫です。私がいっぱい笑顔にしてあげますよ。だから、安心してください」

 そのあざとい台詞はきっと、少しでも場の空気を和やかにしようという彼女なりの優しさだ。
 年下にいつまで気を使われているのだろう。

 仄暗い部屋を見渡す。こんな味気ない場所にいる彼女だ。少しでも、俺だって何かを彼女へとあげたい。
 明るい話とか、最近の流行とか。もちろん、そういう話は苦手だ。それでも、彼女のためと思えば、きっと苦じゃないはず。

 少しでもその笑顔を俺に向けてくれるのなら、それで十分なんだ。

「くそっ、もっと早くに来ておくんだった」

「そうですよ。待ちくたびれたんですから。一か月もほったらかしにして、酷い人ですよ日影くんは」

 彼女の母親に言われたから、何だってんだ。俺が味方してやるべきは、いつもひとりぼっちな彼女だ。そのことに気が付くまでに、随分とかかってしまった。

「これからは来れる日は絶対に来る。毎回、見舞いの品とかは期待すんなよ?」

「そんなものいりませんよ。私にとっては、日影くんが来てくれるだけで、それに勝る喜びはありませんから」

「そりゃ、安上がりで助かるな」

「失礼な。私はこう見えてもモテモテだったんですよ? クラスの男の子に四回も告白されたことがあります」

 むしろ、四回で済むのか。彼女の容姿は、そんなものじゃとどまらないように思えるのだけど。

「それ、小学生の時の話だろ」

 そんなブラックジョークも、彼女となら笑いに変えることが出来た。

「バレましたか。でも、モテていたことに変わりはありません」

 彼女が不意に俺の手を取る。高い熱を持っていることが、よく伝わる。まるで、俺のことを包むように、彼女と俺の体温が混ざり合う。

「日影くんの手はひんやりしていて冷たいですね」

「末端冷え性だからな」

 そのまま、彼女は俺の手を自分の頬へと持っていった。しっとりとした感覚に、手が痺れているようだった。
 何となく、気恥ずかしい。しかし、ここには俺と彼女しかいないんだ。だから、しばらくそのまま彼女の温もりを感じていた。

「優しい人は手が冷たいというのは本当なんですね」

「俺が優しいわけないだろ」

 彼女が片目を開けて俺を見る。そして、鼻で笑うように小さく息を漏らす。

「じゃあ、無自覚ですか。全く、人たらしですね」

「はぁ……?」

 彼女は普段、人と関わることが少ないから、自分に向けられる感情のフィルターがズレているんじゃないかとすら思う。
 俺が優しい? だったら、こんな風に彼女を苦しませることなんて無いはずなのに。

 彼女が俺の手を頬ずる。その小さな唇が微かに手に触れる度に、心臓が鐘を打つ。

「そうだ。電話番号教えてください」

「スマホ持ってないだろ?」

「病院には公衆電話がありますからね」

「……かけてくんなよ? 電話、苦手だから」

 紙とペンを手渡される。暗闇では、とても書きづらかった。

「まあ、念のためにですよ。万が一ってこともあるじゃないですか」

 思わず顔をあげて彼女を見てしまった。どういう意味での言葉なのか、俺には判断が付かなかったから。

 暗がりの中、彼女は少しだけ悲しそうな顔をしていたのは、きっと気のせいじゃなかった。