親父がネオンに色づくホテルから出てきたのを見た。笠木よりも先に俺が気付けたのは、そこが父親の現在の職場だと知っていたからだ。
すぐに踵を返し、背を向ける。
「どうしたんすか、先輩?」
不思議そうに笠木が後を付いてくる。
「アイス、食いてえ」
「ふーん、珍しいっすね。でも、それならこの先にコンビニがあるじゃないっすか。なんで、わざわざ戻るんすか」
「いいんだよ。奢ってやるから、付いてこい」
納得がいかなそうな笠木だが、ひとたび俺が足を速めると彼もそれに倣う。確かにコンビニは親父の出てきたホテルのすぐ横にあったし、苦しい言い訳だ。
親父がホテルの清掃員だということは、笠木には伝えてあった。しかし、それがどういうホテルなのか、ということまでは彼は知らない。
一度、恥ずかしいから辞めてくれと親父に相談したことがあった。偶然、さっきのように親父が仕事場から出てくるところを同級生に見られて、散々からかわれたからだ。
職業に貴賤なし。当たり前のことを、年頃の俺は受け入れられない。その理由が、夜間の給与が高いからというのだから尚更のことだ。
狭い世界で生きている俺たちにとって、親父の職場は異分子だった。
すっかり生気を失った親父は見るに堪えられない。これ以上、酷い有様を周りに知られたくは無かった。
我ながら、親不孝者だと思う。何もかもが、気に入らない。口を開けば不平不満。そこに感謝の言葉は一切無い。
それでも、結局はつまらない見栄と意地を張って素直になれない自分が、一番許しがたかった。
「え、先輩珍しいもん買ってるっすね。それ高いっすよ」
無意識にいつものいちご味と青い棒アイスを手に取っていた。
「……やらねーよ」
棒アイスを笠木に渡し、俺はいちご味のカップアイスを食う。
「甘っ……」
どうしてか、炎天の下で食べるよりも、あの空間で食べたアイスの方が美味しかった。それに、歩きながらのカップアイスは恥ずかしい。普通に後悔した。
それでも、シェアハピなんてしてやらなかった。彼女が未だ目を覚まさずに食べられない分だけ、俺が食ってやりたかった。
結局、渇きに悩まされながら帰路に付く。
親父は既に帰宅していたようで、玄関を開けると微かに醤油の匂いが鼻をくすぐる。
濡れた髪も乾かさず、親父がテーブルで野菜炒めだけを食べていた。白米も、味噌汁も、飲み物すらそこには無い。
元々、あまり食べる人ではなかったけれど、鬱になってからは余計にその小食っぷりが顕著になっていた。
鬱って、後遺症とかあるのだろうか。それとも、完治なんてのは嘘で、実はまだ治ってないとか。そう思ってしまうほどに、親父は様変わりした。実親に抱く感情ではないけれど、別人のようで、何となく怖い。
不意に、脳裏に彼女が浮かぶ。
嘘つかないって言ってたくせに。
「そんなんで足りるのかよ」
やせ細った身体に意味もなくイラつく。
「あぁ、おかえり。日影の分も用意してあるから」
台所に目を向けると、ラップのかかった野菜炒めが置かれている。ご丁寧に俺の分だけ豚肉入りだ。それに、小鍋からは白い湯気が立っているし、炊飯器は保温のランプが点灯していた。
「倒れても、看病なんてしねえからな」
きっと、この家が冷たくなったのは親父のせいではない。俺のせいだ。
分かっていても、ありがとうの一言が出てこない。いつも、何かの目の敵にして悪態をついてしまう。そんな資格、母親を殺した俺にあるはずがないのに。
「……明日は部活か?」
「昼、部活。夜、バイト。飯はいらねえ」
トレーに野菜炒め、それと茶碗によそった白米と味噌汁を載せる。冷蔵庫を開けると、ジャムにしてもなお余っていたブルーベリーが一パック、寂し気に佇んでいた。
「そうか、父さん夜勤だから」
そう言い、父親は財布を取り出す。
「金ならいらねーよ。賄い出るから」
いつも言ってるのに。そう思い、ふと振り返る。
俺だって嘘ついてんじゃん。
小皿に分けたブルーベリーを親父の前に置く。親父は自分の買ってきたものにしか手を付けない。こうでもしないと、食べないのだ。
突然差し出されたそれに目を向け、俺にぼんやりと一瞥を投げる親父。
「……そうか」
結局、そんな一言が返って来た。だから、俺もそれ以上は何も言わず、トレーを持って逃げるように自室のドアを開けた。
夕飯を食べ終え、ベッドに横たわって思いだした。
親父の誕生日、今日じゃん。
もうリビングから物音は聞こえなかった。
彼女が目を覚ましたのは、倒れてから五日後のことだった。というのは、俺の勝手な予想だ。だって、俺はもう一か月も彼女に会っていない。
彼女が倒れてから毎日病院に通い、面会を許されたのが、あの日から五日後だった。
俺は彼女の安否だけ聞き届け、そのまま病院を出た。
理由は二つ。一つは彼女に会うのが怖かったから。あの日、俺が見舞いに行かなければ、彼女と話していなければ、あの小学生たちが来ることは無かった。
俺のせいでまた人が死ぬかもしれなかったのだ。
彼女だって、きっと嫌な思いをしたはず。そんな感情では収まらないかもしれない。恨まれてもおかしくない。だって、本人は気を失うほどの高熱に何日も悩まされたのだから。
それこそ、医者の話では病院でなければ危なかったかもしれないと言っていた。
たった数秒の光に照らされただけなのに。
俺は〝死〟という言葉を聞いてもなお、彼女の病気について楽観視していたのかもしれない。その事実が、我ながら恐ろしい。人が簡単に死んでしまうことを誰よりも知っていたはずなのに。
そして、もう一つの理由は彼女の母親に言われてしまったからだ。もう、娘に会わないでください、と。
一時の感情ではなく、真摯に告げられた。
何も言えなかった。言えるわけがなかった。
その思いは流石に反発出来ない。彼女にアイスを食わせるなって言うのとはわけが違う。純然たる一人の母親としてのお願いだったからだ。
結果として、俺と関わって彼女は苦しんだ。だから、素直に頷く以外に出来る術がなかった。
またいつも通りの日常に戻るだけだ。
ライン際に鋭く刺しこむボールを辛うじてはじき返す。何度も経験したシチュエーションに足がついて行かない。
それまで難なく返せていたのに、練習をサボりすぎたツケが回ったのだろう。それか、試合中にずっと他のことを考えてしまっているせいだ。
いつも通りは、努力をしないといつまでも続かない。それまでの自分の努力について行かないと、成しえないのだ。
ふわっと浮いた緩いロブに瞬間的な諦めがよぎる。同時にまた一つ、俺を構成する何かが弾けて溶けた。
ここで相手がスマッシュをミスって、首の皮が一枚繋がる。そして、劇的な逆転。そんなあまりにチープなテンプレは無く、決して届かない線の内側にボールが叩き込まれる。
「ゲームセット、ウォンバイ 吉田 6-4」
一度も負けたことのなかった奴に敗北した。
正直、悔しい。しかし、それ以上に空虚な思いが試合前も、今も、ずっと胸中を染め上げている。
こんなもの続けて、一体何になるんだ。
彼女が欲してやまない世界で、どれだけ無駄な時間を過ごしているんだろう。
「よし、これで全員ローテしたな」
顧問の声に、その場にいた全員が何を言うでもなく輪になって集まる。
「それじゃあ、来週の地区予選団体の選手を発表する」
不平不満の出ない、部員総当たりでの順位決め。その十位までが学校ごとの団体メンバーに選ばれる。といっても、さらにそこから出場できるのはシングルスの三人、そして、ダブルスの四人。残りは補欠だ。コート内に入って試合に出れない、一番中途半端で歯がゆい人たち。
笠木を先頭に次々名前が呼び出され、十人のうちに俺の名前も告げられる。
「次、現時点でのオーダー順を発表する」
胃がチクりとする。最後の試合の負けは痛かったと思う。
「ダブルスは若元・田島、押野・坂本。シングルスは笠木、山内、そして吉田。以上の七名」
何故か、とても恥ずかしくなった。周りの目が見れない。
妥当だ、と思う。でも、今まで一度もスタメン落ちしたことは無かったから、名前を呼ばれないことに悔しさよりも、ある種の羞恥を抱いた。
そんな傲慢な思い上がりを張り詰めた一言が切り裂く。
「ちょっと、待ってください!」
話が終わり、輪が崩れかけた瞬間、対角にいた笠木が声を上げる。その緊張感のある大きめな声に、顧問を含む全員が笠木へと視線を向けた。
「どうした、何かあったか?」
顧問が不思議そうに首をひねる。
「なんで、佐藤先輩がスタメンじゃないんですか?」
ひゅっと喉が締まる。逸れかけていた視線が再び、俺を射抜くように向けられた。
「佐藤は四番手だ。誰か故障したり、言いづらいが敗戦処理に出てもらう」
顧問はきっぱりと言いのけた。予備メンバーというのはそういうものだと理解しているけれど、実際に言葉にされると結構しんどい。
「だって、佐藤先輩と吉田先輩は勝利数が一緒じゃないですか」
「だとしても、佐藤は吉田に直接負けただろ。それに、得失ゲーム数も吉田の方が上だ」
「でも、佐藤先輩は今まで吉田先輩に負けたことなかったはずです! 本当に勝ちに行くなら、そういうコンディションや過去のことも含めて選ぶべきだと思います!」
顧問は困ったように息を吐く。所詮、この人は外部コーチに言われた通りにしているだけだ。だから、困惑しているのだろう。
文句ならコーチに言ってくれと、渋そうな顔が物語っている。
「あのな、それじゃ実際に佐藤に勝った吉田が可哀そうじゃないか」
「それは……でも、大会に勝つならベストメンバーで挑むべきなんじゃ――」
「おい……!」
顧問と笠木の言い争いに、部長の山内が割って入る。
一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
山内は笠木をひと睨みすると、顧問に向き直る。
「先生、この後職員会議ですよね。話をまとめて後で報告に行きます」
「そ、そうか。じゃあ、頼んだぞ、山内」
逃げるように顧問がコートを後にする。正直、教師としてどうなんだと思わなくもない。でも、気持ちは分かる。俺だって、一緒に出ていきたかったくらいだ。
顧問の姿が見えなくなったのを確認して、山内が気怠そうに舌打ちをする。
「笠木、余計な面倒事つくんな」
きっと、山内だけの言葉じゃない。ここにいる全員の総意だった。
「でも、」
「でもじゃない! 一年が自分の考え押し通してんじゃねえよ」
「間違ったことは言ってません!」
「間違ってるだろ! 何のための総当たり戦だと思ってるんだ!」
二人の言い争いから目を離すように空を仰ぐ。
青すぎて、うんざりした。全てのみ込んでくれそうな気配を醸しているくせに、何も持っていっちゃくれない。
「でも、佐藤先輩は本当はもっと……」
ぎりっと奥歯が軋む。無意識に後ろ髪を引っ掻いていた。
「大体、いつも佐藤が、佐藤がって。そんなに佐藤が好きなら笠木、お前の枠を譲ればいいじゃねーかよ!」
いつの間にか、多くの部員が山内と同じ目を笠木に向けていた。どうしてか、俺が睨まれている気分だった。
「そ、それでも、構わないです!」
どろっとした何かが胸の内で落ちる。
刹那、思う。
あっ、駄目だ……。
せき止めていた何かが抜け落ちる気配がした。
「佐藤先輩は本当は僕なんかより全然上手いんです。だから、それでも――」
「――笠木ッ!」
自分の大声にびりびりと鼓膜が痺れる。
耳をすませばやまびこが聞こえてきそうなほど、辺りが静寂に染まった。
全員が、俺に意識を向ける。
もちろん、笠木も俺を見ていた。驚いた表情に、余計腹が立つ。
いつの間にか、ちぎれるんじゃないかと思うほど強く下唇を噛んでいた。
「ど、どうしたんですか? ……先輩?」
どうしたじゃねえんだよ。
怒鳴りたい気持ちを抑え、浅く息を吸う。わななく口をぐっと噛みしめて堪えると、今度は瞳が勝手に笠木のことを睨んでしまった。
どうしても、抑制しきれない感情が溢れ出してしまう。
もう一度、空を仰ぐ。今度は、いくらか感情を持っていってくれたのかもしれない。
「もうこれ以上、俺に恥をかかせんなよ」
吐き捨てるような言葉だった。
怖くて、笠木の顔は見れない。
「えっ、それは……」
「――だからっ! うぜえっつってんだよ!」
結局、声を荒げてしまった。
我慢しようにも、出来なかった。
ゆっくりと視線を下げる。笠木は、ひどく悲しそうな顔をしていた。
胸がえぐられるように痛む。でも、こんな顔をさせたのは紛れもない俺自身だ。
ただの八つ当たり。感情の昇華をしきれなかった俺の未熟さが招いたものだ。
逃げるように背を向けた。ラケットを握る手が痺れる。思いっきり握りしめていないと、零れ落ちてしまいそうで。
荷物をまとめてコートを飛び出す俺を、誰も追いかけては来なかった。
それからの日常は、やけに灰色に染まっていた。
結局、俺は控えの選手として登録されたものの、練習は顔を出しづらくて度々サボった。顧問も俺を試合に出すことは無いと踏んでいるのか、あまりとやかく言われることはない。
それよりも、笠木と顔を合わすのが億劫だった。
あれ以降、彼とは話していない。顔を合わせれば、なぜか申し訳なさそうにするし、俺は意図して避けるようにしていたからだ。
ずっと慕っていてくれていた年下相手に、本当俺って何をやっているんだろう。
彼女にも会いに行けていない。
彼女の母親に来るなと言われたし。
そんな免罪符で彼女との対話を拒んでいた。会えば、何を言われるか分からない。とにかく、怖かった。
結局のところ、俺は憶病なのだ。色々なことから逃げて、そのくせ口と態度は大きくて、まるで臆病者な自分を隠すようにそれらが抑えられない。
「ほんっとう、だせぇな……」
足下にひらりと舞い落ちた紅葉を踏みしだき、呟く。熱するような暑さも落ち着き、半そでのユニフォームでコートに向かう笠木をぼんやり眺めながら、ウインドブレーカーのチャックを上げる。
まあ、いい。今日が終われば、退部届を出す予定だ。
東海に出場する笠木を不動のエースと置いても、ウチの部活は地区大会敗退が決定していた。
これはいわば消化試合というやつだ。勝とうが、負けようが、何の意味もないもの。相手だって既に県大会出場が確定しているから、なおの事、緊張感に欠ける。
三面同時進行で行われる試合は、左からダブルスの二人、そして、真ん中のコートに笠木。一番右のコートに三番手の吉田が入る。そのはずだった。
「おい、佐藤」
顧問に呼ばれ、少し嫌な予感がした。どうせ、雑用を押し付けられるのだろう。そう思っていたから、顧問からの提案は意外なものだった。
「吉田の代わりに試合入ってくれ」
「はぁ……?」
思わず、ため口になってしまった。しかし、顧問はそんなことを歯牙に掛ける余裕も無いようで、慌ただしそうに審判へと合図する。
「さっきの試合でな、吉田が手首を痛めたらしい。だから、この試合はお前が出るんだ。ウォーミングアップはしてあるよな?」
黙って頷く。
全くもって嘘だ。どうせ試合に出ることはないと思っていたし、そんなものしちゃいない。でも、言ったら、後で怒られるだろうから、大人しく首肯しておいた。
「……分かりました」
どうせ、意義のない試合なのだ。他の部員も笠木の応援に駆り出ているし、観客は見事に少ない。
引退試合か……。
こんな風に迎えるなんて、思ってもいなかった。晴れ晴れしい幼少期の頃には想像もつかないものだ。きっと、自分は有名な選手になって、大舞台で幕を下ろすのだと信じて疑わなかった。
今になって思えば、あまりに無謀で、現実味の無い話だ。
靴ひもを結び直し、ラケットを握りしめてコートに繰り出す。相手は夏に個人戦で負けた相手だ。もちろん、今回だって勝てると思っていないし、誰も期待していない。
親父には今日は出場しないと伝えてある。顧問すら、笠木に夢中でこっちに目すらくれない。
でも、それで良かった。これ以上、惨めな姿は誰にも見られたくないのだから。
試合は想定内に進んだ。終始、リードされ続ける展開。練習不足が身に染みるミスばかりしてしまう。
それでも、心中は穏やかだった。闘争心の欠片も無い。まるで、練習試合かのようだ。それどころか、試合となった途端、顔つきが変わった相手に申し訳なくなってしまう。
早く終われとは思わない。だけど、とにかく少しでもマシな印象を持って終わらせることに必死だった。
対角線の相手をずらすように、反対側へと球を返す。
視界の端に、麦わら帽子が映った。強い返球が来て、すぐに目を逸らす。
十月に麦わら帽子はおかしいだろ。
そんなどうでもいいことを思いながら、山なりに返す。若干の猶予が生まれ、もう一度それが映り込んだ。
「――えっ……」
思わず、一瞬立ち止まってしまう。そのせいで、返球への走り出しが遅れる。でも、そんなことどうでも良くて、既に目で球なんて追っちゃいなかった。
「アウトッ!」
審判のコールがやけに遠く聞こえる。周りがすっと遠ざかるように意識の外へ置き去りになり、麦わら帽子の少女だけが、俺の目を掴んで離さなかった。
「蛍琉……?」
フェンス越しの脇に、彼女が立っていた。白いワンピースに身を包み、大きな鍔の麦わら帽子をかぶっている。まるで、夏の景色から飛び出したような季節外れな服装だ。
幻覚を疑ってしまった。ついに、そこまで来たのかと。
でも、違った。確かに聞こえた。
「ファイトーッ! 日影くんー!」
忘れようのない、透き通った声だった。
彼女と目がばっちり合う。緩やかに手を振る彼女に、俺は呆然と突っ立つことしか出来ない。
「きみ、早くポジションにつきなさい」
審判の声かけに我へと返った。
「タ、タイム! 足がつっちまいました」
「……確かに変に止まっていたね。処置しなさい」
おぼろげに頷き、コートを離れる。
頭の中で、色々なことが渦巻いた。
とにかく、一刻も早く彼女を日陰へ――明かりの無い場所に連れて行かないと。その一心で、コートの出口へと足を向けた。
その時、彼女と目が合ってしまった。そして、思いだした。一度でいいから、俺がテニスをしている姿を見たいと言っていたことを。
それに、視界にいる彼女が首を振るのだ。俺が試合を放棄して駆け寄ろうとすることを必死に拒んでいる。
心臓がうるさいくらい瞬いていた。
一体、俺はどうすればいいのだろう。
正解なんて一つだ。でも、本当にそれでいいのだろうか。
だって、彼女の瞳はとても真剣で、まるでおもちゃを貰った子供の様に輝いていたのだから。それを奪い去ってしまうのは、それこそどうかしている。そう、思った。
「頑張れ……!」
小さく、彼女が呟いた。その言葉で、俺は弾かれるようにフェンスから離れる。
気が付けば、再びラケットを手に取ってコートに立っていた。手でつく球を眺め、本当にこれでよかったのかと自問する。
それからはとにかくがむしゃらだった。ただただ、必死に目の前の球を足で追っていた。
危険を冒してまで観に来た彼女を失望させたくない。カッコ悪いところを見せたくない。だから、とにかく負けたくない。
いつしか忘れかけていた感覚が身体に戻って来る。湧き立つような、それでいて頭は冴えわたっているあの感覚。やけに視野が広く思えて、相手の一挙手一投足まで予測が立つ。次に自分が打たなければいけないコースがいくつも浮かぶ。
汗が滴る。全身が紅潮して、まるで炎天下にいるみたいだ。
今日は天気が良い。太陽が燦々と彼女に降り注いでいた。
相手の球がネットの上段、白線を強く叩き、勢いを殺して緩やかにこちらのネット際に落ちていく。
彼女も一緒に戦ってくれている。そう思えば、無理だと頭で分かっている球にも前のめりで飛び込めた。
倒れ込みながら必死に手を伸ばす。
ラケットの先を球が軽く当たり、ふわっと浮く。今度は、俺の返球がネットの白い帯にぶつかり、阻まれる。
音もなくネットの真上を上がった球が境界線を叩き、ゆっくりとこちら側に落ちた。
「ゲームセット、ウォンバイ 高城 6-5」
静寂が終わりを告げるコールで引き裂かれる。地面に倒れ込んだ俺は、茫然と目の前を転がる球を目で追っていた。
呼吸が頭の中で反響してうるさい。鼓動の一つ一つが、血を送り出すその動作が、やけに大きく聞こえる。
悔しい。
いつぶりかに芽を出した感情だった。あと一歩が届かなかったのは、紛れもなく日々の練習の積み重ねがおろそかだった証だ。
最後の球だって、もっと走り込みに参加していれば、ウォームアップを欠かさなかったら、取れたかもしれない。
そう、結局はたらればというやつだ。勝てたかもしれない。泥臭くても、ちょっとはかっこよく見せれたかもしれない。
それでも、勝敗というのは二つしか無くて、今回も負け。今までと何ら変わらない結果だけが残った。
「きみ、早く立ちなさい」
審判の声に視線を上げる。
覗き込む男性をぼんやりと見上げる俺に、彼は首を傾げた。
「それとも、また怪我かい?」
ふと、我に返った。
意識の波が濁流のように押し寄せ、思考の荒波をつくる。
「だ、大丈夫っす! ありがとうございました!」
一方的に相手に挨拶を済ませ、男性の呼びかけを無視して俺はコートを飛び出す。
よろける足を殴りつけ、彼女を探す。さっきまでいたところに、彼女の姿は無かった。
「――ッ! クソッ!」
あんな季節違いの帽子を被っているんだ。すぐに見つかる。逸る心に必死に言い聞かせる。
遠くの方で、サイレンが聞こえた。思わず、吐き気がこみ上げてくる。
自分のしてしまった事の大きさに、今さら取り返しのつかない罪悪感に、押しつぶされそうになった。
逆流してくるそれを無理矢理押さえつけながら、音の鳴る方へ向かう。
白塗りの救急車の傍らで、フレアワンピースがふわりと風に靡いた。大きな木の下で、ぐったりと目を閉じる少女の姿。
ガンガンと激しく殴りつけられるような頭痛に苛まれた。
救急隊がタンカに彼女を乗せる。
「どなたか付き添いの方は――」
照り付ける陽射しも、明滅する救急車の赤い警光灯も、全部憎らしかった。
「乗ります!」
救急隊の人が訝し気な視線を向ける。
「きみは?」
「知り合いっす! 雲母蛍琉! ほら、知ってる!」
そんな、意味の分からないことばかり口から出る。とにかく、必死だった。
「……早く乗って」
運び込まれていくタンカに次いで、救急車に飛び乗る。
「おい、蛍琉! おいっ!」
俺の呼びかけに、彼女は目を開けない。苦しそうに荒い息を立て、必死に呼吸をしていた。
「ちょっと離れて」
救急隊に押しのけられ、狭い車内にずるりと垂れる。恐ろしくて、がくがくと足が震えていた。
「熱が高いな……」
救急隊の呟きにびくりと肩が跳ねる。
ふと見上げると、救急隊の男性がペンライトを彼女に押し当てようとしていた。
「やめろ!」
思わず、それを払いのける。それから、ようやく気が付く。車内は明るすぎる。白色のライトが全体を眩しいくらい照らしていた。
「きみ、一体何を……!」
「彼女! ……明かりが駄目な病気なんです! だから、そんなもん使っちゃ駄目だ! この電気消してください、はやく!」
彼女に覆いかぶさり、天井から注ぐ光を遮る。パニックになる中、とにかく、服から覗く肌を隠すことに必死だった。
「いいから、私たちに任せなさい!」
「分かってる! ……そんなの分かってるから! とにかく、一旦明かりを消してください!」
救急隊の人たちは何度か言葉を重ね、やむなしといった風に天井の明かりを消した。ふっと、車内が薄暗くなる。それでもまだ、彼女には明るすぎるように感じた。
「さあ、早くどくんだ」
救急隊に引きはがされそうになって、思わずぎゅっと彼女を掴む腕に力を入れてしまった。
「……げ、くん? ……ひ、かげ……くん?」
耳元で、彼女が喋った。弾かれたように顔を上げると、額に汗を滲ませ、彼女はうっすらと目を開けて確かに俺を見つめていた。
「そ、そうだ! 俺だ!」
そう返すと、彼女は苦しそうだった表情をやわらげ、にっこりとか弱く笑みを零す。
「ふふっ……、あの、ね。……かっこよかった……よ……?」
彼女が言い終わるのと同時に、強引に救急隊の人によって彼女からはがされる。
羽交い絞めにされる最中、俺は改めて自分の犯した罪の大きさに嗚咽を漏らした。
相変わらず、このフロアは薄暗い。
窓は雨戸で閉ざされ、足元灯だけが頼りだ。西側の隅。ひっそりとひとしおの暗がりを揺蕩わせる場所で、俺は立ち尽くしていた。
ノックするためにかざした手が無意識に震える。彼女は一体、俺のことをどう思っているのだろう。
二度も、彼女を苦しめた。
そんな俺に、もちろん彼女に会う権利なんて存在しない。
今、ここにいる理由は彼女への謝罪のためだけだ。
でも、怖くて一歩を踏み出せない。彼女からの蔑みを想像するだけで、心がくじけそうになる。
ようやく、自分が何に恐れているのか理解した。
きっと、俺は彼女との関わりを心地よく感じていたのだ。何気ない彼女との会話が暗い俺の世界で、微かに色づいていた。ほんの少しの輝きを放っていた。
だから、それが崩れて無くなってしまうのが、どうしようもなく恐ろしい。
「――日影くん?」
ドアの向こうで、彼女の声がした。思わず、身体がびくりと波打つ。
喉がやけに乾いて、生唾が緊張の音を立てる。
もう一度、名前を呼ばれた。その声が耳に張り付いて、いつまでも残る。いや、俺が必死につかんで離さなかった。
かざした手を下げる。そして、意を決してドアを開けた。
数日ぶりの彼女は未だ高熱に蝕まれているようで、ベッドに横たわったまま俺を迎え入れる。
「あ、やっぱり。日影くんでしたね」
立っているのもばつが悪く、俺はいつも通り窓際の明かりをつけて彼女の傍に座る。
「……なんで、俺って分かった?」
「ふふっ、当たり前じゃないですか。日影くんはこう見えて、案外憶病さんですからね。ドアの前で立ち尽くす人なんて、日影くん以外にいません」
俺を見つめる彼女の瞳はまだ気怠そうな、重たい目を必死に開けている風だった。自然と点滴管の終着点に視線がいってしまう。
「……悪かった。本当に……。謝っても許されないかもしれないけど、それだけ言いに来た……」
胸が痛い。刺さった針が、抜けない。
「一体、何を謝っているんですか」
「いや、だって……。また、俺は蛍琉を苦しめて……」
彼女は俺を不満げに睨みつけた。そして、ややあって一つ息をつく。
「仕方がない人ですね。じゃあ、教えてあげます。私は怒ってなどいませんよ。この前も、今回も」
「えっ……?」
「そもそも、怒る道理がありません。前回のはただの不慮の事故のようなものですし、今回に関してはただ私が勝手に外に出ただけの話です。日影くんの謝罪など、甚だ意味がないものです」
しかし、そう話す彼女はまだ苦しそうだった。だから、俺の罪悪感は一向に拭えそうもない。
「でも、俺がいなければ――俺と蛍琉が出会わなかったら、どっちも起こりようがないことだったじゃないか……」
「……ちょっと、近くに寄ってください」
そう言いながら、彼女は俺を手招いた。
少し、彼女へと近づく。
「もっとですよ。ほら、早く」
彼女が言うから、椅子から腰を浮かせ、さらに彼女へと顔を近づける。
「目、つぶってください」
「は……?」
「いいから」
言われるがままに目を閉じる。少し間を置いて、額にぺしっと軽い痛みが弾く。それから、鼻をぎゅっとつままれた。
思わず目を開けると、やっぱり彼女は頬を膨らませて、ちょっぴりご立腹の様子だった。
「……何すんだよ」
「言っても分からないようだったので、お仕置きです」
それから、彼女は「私が欲しいのはそういう言葉じゃないんですよ」と付け加えた。
俺には彼女がどんな言葉を求めているのか分からない。だって、今日は謝罪の言葉しか携えてきていないのだから。
言葉に詰まっていると、彼女はやれやれと言った風に呆れ顔をする。
「こんなに可愛い女の子が日影くんの応援に行ってあげたんですよ? ほら、何か言うことは無いんですか?」
「あ、ありがとう……?」
すると、彼女はすっと俺から手を離し、にっこりと微笑んだ。その笑顔にまた絆されている自分がいる。
「最初からそう言っておけばいいんですよ」
ふと、思いだす。その言葉は、以前に俺が彼女へと向けたものだった。
「蛍琉もこんな気持ちだったんだな……」
「ただのお返しですよ。ようやく、難しい顔以外も見せてくれましたね」
「俺、そんな険しい顔してたか?」
「はい、それはもう。苦しそうで見てるこっちが辛かったです。そういう意味では、そんな顔をさせてしまってごめんなさいと言っておきましょう」
自分の頬に触れてみる。確かに強張っていた。
無理矢理笑顔をつくってみると、彼女に声を立てて笑われた。
「日影くんは笑顔が下手くそですね。もっと練習しましょう」
「そんなこと言ったって、出来ないもんはしょうがねえだろ」
「大丈夫です。私がいっぱい笑顔にしてあげますよ。だから、安心してください」
そのあざとい台詞はきっと、少しでも場の空気を和やかにしようという彼女なりの優しさだ。
年下にいつまで気を使われているのだろう。
仄暗い部屋を見渡す。こんな味気ない場所にいる彼女だ。少しでも、俺だって何かを彼女へとあげたい。
明るい話とか、最近の流行とか。もちろん、そういう話は苦手だ。それでも、彼女のためと思えば、きっと苦じゃないはず。
少しでもその笑顔を俺に向けてくれるのなら、それで十分なんだ。
「くそっ、もっと早くに来ておくんだった」
「そうですよ。待ちくたびれたんですから。一か月もほったらかしにして、酷い人ですよ日影くんは」
彼女の母親に言われたから、何だってんだ。俺が味方してやるべきは、いつもひとりぼっちな彼女だ。そのことに気が付くまでに、随分とかかってしまった。
「これからは来れる日は絶対に来る。毎回、見舞いの品とかは期待すんなよ?」
「そんなものいりませんよ。私にとっては、日影くんが来てくれるだけで、それに勝る喜びはありませんから」
「そりゃ、安上がりで助かるな」
「失礼な。私はこう見えてもモテモテだったんですよ? クラスの男の子に四回も告白されたことがあります」
むしろ、四回で済むのか。彼女の容姿は、そんなものじゃとどまらないように思えるのだけど。
「それ、小学生の時の話だろ」
そんなブラックジョークも、彼女となら笑いに変えることが出来た。
「バレましたか。でも、モテていたことに変わりはありません」
彼女が不意に俺の手を取る。高い熱を持っていることが、よく伝わる。まるで、俺のことを包むように、彼女と俺の体温が混ざり合う。
「日影くんの手はひんやりしていて冷たいですね」
「末端冷え性だからな」
そのまま、彼女は俺の手を自分の頬へと持っていった。しっとりとした感覚に、手が痺れているようだった。
何となく、気恥ずかしい。しかし、ここには俺と彼女しかいないんだ。だから、しばらくそのまま彼女の温もりを感じていた。
「優しい人は手が冷たいというのは本当なんですね」
「俺が優しいわけないだろ」
彼女が片目を開けて俺を見る。そして、鼻で笑うように小さく息を漏らす。
「じゃあ、無自覚ですか。全く、人たらしですね」
「はぁ……?」
彼女は普段、人と関わることが少ないから、自分に向けられる感情のフィルターがズレているんじゃないかとすら思う。
俺が優しい? だったら、こんな風に彼女を苦しませることなんて無いはずなのに。
彼女が俺の手を頬ずる。その小さな唇が微かに手に触れる度に、心臓が鐘を打つ。
「そうだ。電話番号教えてください」
「スマホ持ってないだろ?」
「病院には公衆電話がありますからね」
「……かけてくんなよ? 電話、苦手だから」
紙とペンを手渡される。暗闇では、とても書きづらかった。
「まあ、念のためにですよ。万が一ってこともあるじゃないですか」
思わず顔をあげて彼女を見てしまった。どういう意味での言葉なのか、俺には判断が付かなかったから。
暗がりの中、彼女は少しだけ悲しそうな顔をしていたのは、きっと気のせいじゃなかった。
木枯らしが身体を叩くように吹き抜ける。感覚の無くなった手で握りしめたラケットも、ひんやりと冷たいことだけは嫌でも分かる。
最近は陽が落ちるのもかなり早くなった。
「よし、今日は早いがここまで。寄り道しないでさっさと帰れよー」
座って練習を眺めていただけの顧問が、部員よりも眠たげな眼を向ける。しかし、大変だなとは思う。わざわざ経験のないスポーツの責任役を任されるのだから。
コートの整備が終わるや否や、俺はさっさと荷物をまとめてコートを後にする。スマホを見ると、バイトまで少し時間があった。しかし、病院に寄れるだけの余裕はない。
結局、俺はテニスをやめることが出来ないでいた。あの日のことがあって以降、言いだすタイミングを見失ってしまったからだ。
それどころか、前よりも練習に身が入っている気がする。もう二度と無いことだろうけど、彼女に恥ずかしい姿を見せたくないと思ったから。
一日学業に勤しみ、薄明時まで部活。そして、その後に未成年が働けるギリギリの時間までバイト。相変わらず、そんな生活を繰り返していた。もちろん、病院に行ける日は無理にでも時間をつくって、彼女の見舞いに行った。
今日は残念ながら、彼女の賑やかな声を耳にすることは出来なさそうだ。
バイトや部活をサボってまで見舞いに行けば、彼女はすごく怒る。曰く、「恋人でもない人にそこまで尽くすのは犯罪です」とのことらしい。
全くもって理解が出来ない。
バイトが終わる頃には既に二十一時と半分を回っており、今日も一日があっという間に終わったような、ようやく一息付けたような、不思議な疲労感に襲われた。
朔風がやけに身に染みる。乾いた空気に喉がちくっと痛む。夏以降――特に彼女と出会ってからは、やけに日々が早く過ぎ去っていく気がする。
大学生にでもなれば、もう少し時間に余裕が出来るのだろうか。というか、そもそも俺は進学なんてするのだろうか。
正直、我が家の経済状況はかなりギリギリだ。奨学金を利用するとしても、一人暮らしは到底難しいだろう。ここから通える大学に絞ったとして、俺はそこで何を学ぶのか。
別になりたい職業があるわけでも、叶えたい夢があるわけでもない。それならいっそ、高卒で働いて家に金を入れるほうがいい。
そうすれば、親父だって少しは昔のように戻るだろう。何の確証もない希望的観測だけが浮かんだ。
出来ることなら、親不孝者の俺なんかじゃなく、寄り添ってくれる人でもつくればいいと思う。
もうすぐ事故から五年。母親だって、いい加減許してくれるんじゃないだろうか。
あの人はとにかく、心配性だった。今の親父を見ているのなら、きっと居ても立っても居られなくなってそのうち化けて出て来そうだ。
「そうすれば、俺だって謝れるのに」
周りの人間が壊れていくのを見るのは、もううんざりだ。
街灯を避けつつ、星を見上げて帰る最中、ポケットの中でスマホが震える。メッセージではない。電話だった。
取り出すまでに思い当たる節を探すが、特に思い当たらない。親父は電話なんてかけてこないし、笠木とは未だにギクシャクしたままだ。連絡なんて寄こさないだろう。
画面を見ると、電話番号ではなく『非通知』の三文字だけが表示されていた。じっと見つめ、コールが切れるまで待つ。
知らない番号、特に非通知からの電話は出ないに限る。どうせ間違い電話か詐欺電話だ。一度、スルーしてしまえばかかってこない。
しかし、ものの数十秒でまたしてもスマホが震える。やっぱり、非通知からだった。
「……こわっ」
恐る恐る、受話器のマークを押す。
「……」
『あれ、これ繋がってます?』
古い電話機特有のノイズ交じりな音声が耳に届く。それでようやく、公衆電話からの発信は非通知と表示されるのだと思いだした。
「なんでかけてきてるんだよ」
『あっ、やっぱり繋がっているじゃないですか。公衆電話初めて使ったのでよく分からなかったです』
「いや、そんなこと聞いているんじゃないんだが……」
電話越しににやける彼女の姿が目に浮かんだ。
『まあまあ、いいじゃないですか。それより、今日はバイトでしたよね? そろそろ、終わりましたか?』
「……ちょうど帰り道」
『それは良かったです。じゃあ、います――』
ブツンッという切断音が響く。そして、遅れてツーツーという通話終了の音。
アパートの階段に足をかけ、思わず止まる。今日は親父は日勤のはず。この時間は家にいるだろう。彼女と電話しながら帰るのは、ちょっと気が引けた。
どうせ、すぐにもう一度かかって来るのだから。
案の定、三度目の着信がかかって来た。
『すみません、お金足りなかったみたいです。驚かせてしまいましたよね?』
「いや、やると思ってた」
だって、初めて公衆電話使ったって言ってたし、どうせ十円で約一分ということも知らなかったのだろう。
『お見通しでしたか。流石、日影くんです』
「……で、何の用だよ」
手すりに身体を預ける。正直、座り込みたいくらいには疲れていた。黒いベールに包まれた一面のキャンバスを眺め、今は何ルクスなんだろうかと空漠たる思いに駆られる。
『そうでした。お金がもったいないので簡潔に。私、病院の非常出口で待っているので、早く来てくださいねー』
階段からずり落ちそうになった。思わず意味もなく画面を見てしまう。もちろん、公衆電話にビデオ通話の機能なんてものは存在するはずもなく、ただ無意味に通話時間を刻む数字だけが写し出されている。
「いや、何言ってんだよ。ってか、今病室の外なんだよな!? 何してんだよ!」
『人に見つかったら面倒なので、急いで下さ――』
そこで、通話が途切れた。耳に残る切断音に、鼓動が速くなる。
ほんの数秒立ち尽くし、俺は弾かれたように急いで階段を駆け上がった。靴が叩く鉄階段の音が、やけに響いて聞こえる。
玄関の鍵を開け、財布を取り出して鞄は床に放る。明かりの漏れるリビングの扉に向けて、俺は大きく声をかける。
「ちょっと出てくるから!」
親父の反応を待たずに家を飛び出した。
バス……はもう無い。自転車の鍵を開け、またがる。
十一月の夜に自転車でスピードを出すと、思わず震えてしまうくらい風が冷たかった。病院までは大体十五分ほどかかる。
なだらかな坂道が、やけに長く感じた。一日酷使した足が悲鳴を上げていたけれど、俺は速度を落とさずに出来る限りペダルをこいだ。
そうしているうちに、寒さは感じなくなっていた。むしろ、額にはじんわりと汗が滲んでいる。
「くそっ、本当に振り回してくれるな……」
心臓が痛いくらい早鐘を鳴らしている。
夜の病院の明かりはどんなものか。思い浮かべてみたけれど、分からなかった。そんな遅くまで病院にいたことはないし、ましてや普通なら明かりの有無なんて気に留めることでもない。
一体、彼女は何を考えているんだ。大人しい顔して、やることがいちいち破天荒なのだ。付き合わされる身にもなってほしい。
病院の正門は意外なことに開いていた。きっと、夜間診療もあるからだろう。
入口に目を向ければ、エントランスは明かりがついていて、奥のカウンターには看護師が見えた。
俺はバレないように自転車を門の外の暗がりに止めて、こっそりと裏手に回り込む。建物から漏れ出る明かり以外に特に目立つ照明はなくて、少し胸をなでおろす。
建物の裏側、暗闇に包まれる中にぼんやりと緑色の蛍光で記されたピクトグラムが目に付く。その真下に彼女は座っていた。
気配に気が付いたのか、彼女が顔をあげてこちらを振り向く。そして、その吸い込まれてしまいそうな透き通った瞳を暗がりで輝かせた。
「思ったより、早かったですね」
そう言う彼女は私服に着替え、その上から何やら布のようなものを被るように羽織っていた。ちょうど、彼女の頭先からつま先まですっぽり隠れるくらい大きな外套だ。
思わず、触れてみる。つるつるとした雨合羽のようなゴム引きの素材。生地は重く、とても衣服の類には見えない。
「あぁ、これですか?」
彼女はその場でくるりと一回転して見せた。外套がふわりと靡く。
「えっへん、秘密兵器です! 遮光カーテンですよ。これなら、明かりの少ない夜であれば、私だって外に出られます」
「そんなこと言ったって、駄目に決まってんだろ! 一体、何考えてるんだよ」
「朝の看護師さんの見回りには帰るので大丈夫ですよ。この日のために徹夜で巡回時間とか覚えてきましたし」
彼女は目元まで深くカーテンを被り、深呼吸をする。
どうして、そんなにも満足そうな表情なんだ。
意識して真似してみたけれど、冬の乾いた空気に喉がざらついた。
「久しぶりの外の空気、気持ちいいです。ちゃんと、生きているんだなって感じられますよね」
「……こんな林に囲まれた場所、青臭いだけだろ」
あぁ、そうか。俺たちが当たり前に外に出ている時、彼女はずっとあの牢獄の中なんだ。暗闇でじっと、まるで繭の中で羽化を待つ蛹のように。
だから、彼女の服装だってどこか変なのだ。遮光カーテンから覗く私服は、十一月の真冬にしてはやけにチェック柄が目立つ。
乳白色の長袖のブラウスに、紅葉を想起させる橙色と薄茶色のチェック柄フレアスカート。三日月の意匠が施されたブレスレットがちらりと袖から覗いていた。
長いこと病院にいるのだ。季節感だって、狂ってしまうのだろう。そういや、あの時も、秋だというのに夏の定番のような恰好だった。
「ほら、早く行きますよ。いつまでもここに居ては見つかってしまいます」
彼女に手を引かれる。ひんやりとした中、微かに感じる温もりに彼女が長いこと外で待っていたことが伝わってしまった。
「あっ、おい!」
そのまま、彼女は俺を引っ張るように歩み出す。カーテンで視界が悪いのか、やけに大振りに首を振って周りに目を配っている。
彼女は一生懸命なのだろうけど、すごく非力だ。きっと、抵抗しようとすれば簡単に出来る。嫌がる彼女を無理矢理、病室に戻すことだって容易だ。
でも、それでいいのだろうか。また、外よりもずっと暗いあの部屋に押し込んで、まるで腫物のように扱う。それでは、俺は医者や彼女の母親と同じじゃないか。
だから、俺は強く抵抗出来なかった。もちろん、彼女を外に出すのはすごく怖い。でも……。
もう、自分でもよく分からない。一体、俺はどうしたいのだろうか。
「日影くん、緊張してます? 手汗凄いですよ」
そう言われ、思わず彼女から手を離した。確かに冷え性の俺にしては珍しく手のひらが湿っていた。
コートで雑に拭う。その様子に彼女は小さく笑みを漏らす。
「大丈夫です、気にしませんよ。私なんかにも緊張してくれて、逆に嬉しいくらいです」
彼女が手を差し出す。
一瞬だけ、戸惑った。この手を取るということは、また彼女を外に連れ出すということだ。何かを間違えてしまえば、彼女を命の危険にさらすことになるかもしてない。田舎町とはいえ、この世界は人工的な明かりに満ちている。それだけ、彼女にとっては危うい綱渡りの世界なのだ。事故が起こらないなんて確証は一切持てない。
ただ、それでも、俺くらいは彼女の味方をしてやりたい。
多分、俺の選択は間違っている。彼女も間違っている。
でも、その過ちで彼女に笑みが満ちるのなら――。
「ここまで全力でチャリ漕いできたから、あちぃんだよ」
小さな手をしっかりと握った。そして、今度は俺が彼女を引っ張る。出来るだけ、急に明かりが降り注いでも、俺の陰に隠せるように。
ぎゅっと彼女が手を握り返してくる。
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
小悪魔ちっくな彼女から目を背け、空を見上げる。鬱陶しいほどに、満月が煌々と輝いていた。
月明かりって、何ルクスなんだろうか。
二人で坂道を下りながら、ふと思う。
街灯の一本も無い、左右を木々に囲まれた通りでも、数メートル先くらいは見える。太陽が十万ルクスなのだから、月とか星だってそれなりに明るいのではないだろうか。
不安になって調べようにも、スマホを取り出すわけにはいかない。月明りよりも、絶対にスマホの画面の方が明るいのだから。
一歩後ろをついてくる彼女は、今のところ何の問題も無さそうだ。
時折、前後からカーライトを輝かせた車両が通過するが、それも遮光カーテンのおかげで彼女に光が届くことは無い。それにこれだけ暗いのだ。明かりの接近も、随分と遠くから分かる。
カーテンに身を包む謎の物体を見て、運転手がどう思うかはあまり想像したくない。車から降りて話しかけられないのを祈るばかりだ。
まあ、もしそうなれば俺が彼女をおぶって逃げるだけの話。こんなちっこくて細い彼女一人くらい、他愛もない。
後ろを一瞥すると、その都度彼女がにこっとあどけない笑みを浮かべる。それがむず痒くて、思わず毎回目を逸らしてしまう。
「なあ、何で遮光カーテンなのよ。今時、そういう服だって売ってんだろ」
「簡単な話ですよ。私一人じゃネットショッピングすら出来ないので、お洋服とかは全部家族が買ってきてくれます」
カーテンを前開きにしてわざわざ今日のズレたコーディネートを見せてくれる彼女。しかし、俺は前方から迫る明かりに、彼女をす巻きにして身体の陰に隠す。
「それで?」
「遮光性の高い洋服が欲しいなんて言えば、絶対に疑われます。この前の件で前科が付きましたし」
「なるほどね」
確かに彼女の母親の性格を鑑みるに、その想像に辿り着くことは明白だ。
「その点、カーテンであれば万が一ってこともあるので、買ってもらえました。まさか、誰もこんな風に使うなんて思わないでしょう」
「それな。俺も予想外だわ」
「ふふっ、日影くんに予想が出来ないのに、他の誰が予想できるというんですか」
彼女は可笑しそうに笑う。
「どういう意味だよ」
「そのまんまですよ。日影くんよりも私のことを理解している人なんて、私以外にいないということです」
その言葉には、どう返事をしていいのか戸惑ってしまった。
俺は本当に彼女のことを理解できているのだろうか。分かってあげられているのだろうか。
坂道を下っていくと、徐々に街灯が数を増やしていった。車通りも多い。ここからは道を選んでいく必要がある。
極力、暗くて人通りの少ない道を選んで進むが、どうやったって人工的な明かりを完璧に避けることは難しい。彼女は問題なさそうにしているけれど、俺は彼女を連れてきたことを早くも後悔しそうになっていた。
「この町って、こんなにも色づいていたんですね」
そういう彼女の瞳は、町中の明かりを乱反射しているんじゃないかってくらいに輝いていた。
「そうだな、俺も意識してみてようやく気付いたよ」
彼女の病気を知るまでは、むしろ夜道は真っ暗でどこか寂しいと感じていた。それなのに、意識すると小さな明かり一つでも目に留まって仕方がない。
小道で腰をかがめる。それを不思議そうに見る彼女。
「どうしました? 疲れちゃいましたか?」
「そうじゃねえ。こっから先はもっと明かりが増えるんだ。いちいち避けて通ってたんじゃ、いつまで経ってもご希望の場所に着かねえんだよ」
彼女は小首をかしげていたが、どうやら意図を理解したらしい。カーテンに全身をくるんだまま俺の背にダイブするようにのしかかる。
すごく、すっごく軽かった。
「へへっ、実は私は結構疲れていたんで、助かります」
耳元で聞こえる彼女の声はとても近くて、いつもより意識が削がれる。
「それならもっと早くに言えよ」
病院を抜け出してからニ十分ほど。病室暮らしの彼女にとっては十分すぎる距離だったはずだ。むしろ、俺が先に気づいてあげるべきだったのかもしれない。
前に回した彼女の両手がぎゅっと俺を締め付ける。俺の熱が彼女の冷え切った身体を包んでいく。そんな気がした。
カーテンに隠れているとはいえ、極力街灯や車通りの少ない道を選んで目的の場所に向かう。正直、今の俺と彼女の姿はかなり滑稽だ。
彼女が俺も包み込むようにカーテンを羽織っているせいで、傍から見れば外で二人羽織りをしているおかしな人たちだ。いや、周りから彼女の顔は見えていないはずだから、俺だけが変な奴だ。車通りは仕方がないとして、人通りの少ない田舎町で良かったと心底思う。
「潮の香りがします」
肩越しにひょこっとカーテンから顔を出した彼女が、子犬のように鼻をスンスン鳴らす。
「そうかぁ?」
確かにもう少し行けば、彼女が行きたいといった海辺が見えてくる。しかし、俺にはまだ潮の香りなんてものは分からなかった。
「懐かしいです……」
感慨深そうにする彼女を俺はカーテンの奥に押し戻した。同時にどうしても避けられない街灯の下を通過する。
きっと、俺には当たり前すぎるんだと思う。この眩むような明かりも、そこに集まる小さな虫たちも、そして、未だ感じられない潮の香りも。
毎日のように当たり前にそこにあるから、それを受け取る感覚も鈍くなっていく。
当たり前が当たり前じゃなくなるのって、一体どんな感じなのだろうか。
知りたい、なんて言ってしまえば、彼女に失礼だ。そんなもの、知らなくったっていい。
暗い視界にぼんやりと浜辺が見えてきた。
隙あらば顔を出そうとする彼女を抑え、砂浜に踏み込む。ビーチの入り口は街灯が明るすぎるから、もう少し進んだ。
周りを見渡しても、ひとっこひとりいやしない。俺はそっと胸をなでおろした。夏に通りかかった時はやんちゃそうな人たちが陽気に花火を振り回していたので、実は少し慎重になっていた。しかし、然しもの陽キャたちも、真冬の夜に海ではっちゃけるほどではないということだ。
せっかくだから、砂浜のど真ん中に彼女を降ろした。どうせ、誰も来やしないし、明かりが近づいてくればすぐに分かる。
「ほら、もういいぞ」
俺の言葉と同時に背から飛び降りる彼女。弾みでカーテンが砂浜に落ちる。
「うわぁー! ね、念願の海ですー!」
暗がりでも分かるほど、彼女の瞳は輝いていた。
両手を一杯に広げ、真っ暗な水平線に小さな全身を曝け出す。興奮が冷めやらないのか、彼女は俺の手を引いて波打ち際に向かって走り出した。
こうして見ると、本当に犬みたいだ。怒るだろうから本人には言わないけれど。
海の色が分かるくらい近づくと、不意に世界が変わったような気がした。
振り返ると、遠くで車道を走る車のヘッドライトが通過していく。他にも人工的な明かりが、イルミネーションのように小さな泡となって輝いている。
まるで今、向こうの世界から、こちらの世界に来てしまった。そんな錯覚を覚える。
こちらの世界は音がやかましくなくて、ただ吹き抜ける強い風と、さざ波の音だけが支配している。目が軋むような煩わしい輝きは無くて、月明りの優しい光が世界の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせていた。
ただ、砂浜を跨いだだけだというのに、こうも捉え方が変わるものなのか。
「ひゃー、冷たいっ……!」
見れば、彼女はしゃがみ込んで真冬の海に手を晒していた。
「当たり前だろ」
見ているだけで手がかじかんでくる。
彼女は口をへの字に曲げ、俺を見上げた。
「そういうことじゃないんですよ。……えいっ!」
彼女の飛ばす水飛沫が顔にかかる。あまりの冷たさに足下から震えがこみ上げた。
「おい、冷てえだろ!」
「ノリ悪いこと言っていたので、つい」
意地悪に笑う彼女が濡れ指を弾く。その流れ弾が首根に当たり、俺の体温を著しく奪い去る。
「よーし、喧嘩売ったな?」
腰をかがめて水面に片手を突っ込む。刺されてるのかと思うほど、冷たかった。
「きゃー、日影くんがついに怒りました」
楽しげにしながらも距離を取ろうとする彼女の手をもう片方の手で掴み、ぐいっと引き寄せる。
「え、あれ。ちょっ、力強い……!?」
「運動部舐めんなよ?」
ガシッと彼女の肩を掴み、固定する。
「ち、痴漢! 変態さんです!」
「安心しろよ。ここまでおぶってきたんだから、今更だろ」
引き上げた手に付いた海水を軽く払い、そのまま暴れる彼女の頬へと押し当てた。
「あわ、あわわ……っ! つ、冷たいです!」
「俺の手はひんやりしていて冷たいって言ってただろ?」
「そ、そうですが、これは違います……!」
彼女の濡れ手が俺の頬に向かって伸びる。しかし、俺は身体を逸らしてそれを強引に避けた。
「あー、ズルです!」
「残念、リーチの差ってやつだ。蛍琉の短い腕じゃ、俺には届かねーよ」
「ぐむむっ……。許すまじです……」
水をかけあうという、やけに青春ちっくなことをしているが、今は霜月だ。夏でもなければ、アオハルなんかでもない。ただの馬鹿だ。
でも、この馬鹿な時間が、息の詰まる日常ではやけに輝いていた。普段、あくせく学業にバイトまでやっているのだ。これくらい、許されたっていいじゃないか。
彼女だって、これっぽっちの悪いことは許される。医者が許さなくたって、俺が許してやる。
ひとしきり馬鹿をした後、俺と彼女は広い砂浜に肩を寄せ合って波の行方を見守っていた。といっても、水平線なんて見えやしない。少し先は真っ暗な帳が降りている。
「はぁー、楽しかったです。やっぱり、抜け出して良かったです」
「冷静になると超さみぃーけどな」
「そうですね。私はてっきりまだ十月の半ばくらいだと思ってました」
しかも、真夜中の海沿いだ。吹き荒ぶ風に耳が鈍痛を訴える。
疲労に重たい身体を軽く鼓舞し、やおら立ち上がった。
「温かいもん買ってくるわ。そこから動くなよ? 誰か来たら、カーテン被って隠れろ」
「了解です! お金は後でお支払いしますね」
「いらねーよ。バイト代入ったばかりだし」
まさか彼女を自販機に付き合わせるわけにはいかない。夜の自販機って、改めて前に立つとすごく明るいのだ。それこそ、目が痛くなるほどに。
またこっちの世界に戻ってきてしまったと、不意に感じた。彼女じゃないが、人工的な明かりの全てが身体に毒なんじゃないかと思ってしまう。実際、目には毒なんだろう。じゃなかったら、こんなに瞳の奥がズキズキと痛むことはないはずだ。
悴む手で缶を持つと、じーんっと一面が痺れた。
「ほれ、買ってきたぞ。あと、これ着ておけ。風邪引いたら大変だから」
缶のココアと一緒に着ていたコートを脱いで彼女に渡す。
「ありがとうございます。しかし、コートは大丈夫です。日影くんだって、風邪引いちゃうではないですか」
「俺は鍛え方がちげぇんだよ。風邪なんてもう五、六年引いてねえし」
「しかし……。では、こうしましょう」
彼女は座る俺の足をぐいっと手でこじ開け、その隙間にすっぽりと収まった。そして、俺ごとカーテンで全身をくるっと包み込む。
「こうすれば、二人とも暖かいですね」
「そうだけど、これは流石にちょっとハズいだろ」
ちょうど彼女の頭が前に来るわけで、ふわりと香る匂いに、不覚にも鼓動が速くなってしまう。
「誰も見ていませんよ。それに恥ずかしいのなら、キスでもしてみますか?」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、キスしちゃえば、これくらいのこと恥ずかしくもなんともないじゃないですか」
「だからって、話が飛躍しすぎなんだよ」
口に含んだ缶コーヒーがいつもより苦く感じる。
彼女は何だかやけに楽しそうだ。それなら、まあ、別にこのままでもいいかと思えた。
二人を包むカーテンは案外遮温に優れていた。おかげで、震えるほどの寒さが随分とマシになる。遮光素材なだけあって、分厚いおかげだ。その分、重たいのだけど。
「はぁー、ココア、幸せです……。いつぶりでしょうか」
「また、それかよ」
「仕方がないじゃないですか。病院食で出てくるわけもないし、こんな時じゃなきゃ飲めないんですから」
人の家庭のことをとやかく言いたくはないけれど、難儀だなと思う。過保護や神経質になってくれるのは、彼女が家族に愛されている証拠だ。しかし、それは本人の意思を無視した無償の愛であって、やっぱり互いに少しずつ寄り添い合わないと、子供は反発してしまうのだろう。
その点、俺の家はかなり寛容だ。多分、明け方に帰ろうが何も言われない。
昔の父親なら、俺を叱っただろうか。
どうだろう。正直、想像が付かない。このところ、今の父親を普通だと認識している自分がいる。だから、もう昔の父親のことがよく分からない。
「何だか、二人だけの世界みたいですね」
彼女がぽつりと呟く。
「……だな」
「日影くんはもし私と二人っきりの世界になっちゃったら、どうしますか?」
何だ、その質問。そう思いつつ、想像してみた。
「さあな、でも別に悪くないんじゃねーの」
彼女は何故か少し安心したような表情をしていた。拒絶されるとでも思ったのだろうか。馬鹿な話だ。
彼女が俺のことをそう言うように、多分、この世界で俺のことを誰よりも知っているのも彼女なのだ。こんなに何も考えず、反発も起きずに話せる相手は彼女しかいないのだから。
「いいんですか? タイプじゃない女の子と二人きりなんですよ?」
「それまだ根に持ってんのかよ……」
「当たり前です。普通に傷痕ですよ」
「そりゃ、悪かったな。宣言撤回するよ。蛍琉はすげぇ良い女だよ。俺が保証してやる」
驚いたように彼女が振り返る。甘いカカオの匂いがふんわりと香った。
「冗談でしたのに。私、別に気にしてないですよ」
「まあ、だとしても悪かったとは思ってんだよ。俺にデリカシー求めろって言うのは無理な話なんだが」
「では、素直に謝罪を受け取っておきましょう」
俺の身体に彼女が頭を預ける。ちょうど胸の位置で、高い鼓動を聞かれるんじゃないかと少し焦った。
「日影くんは温かいですね」
目をつぶり、心地よさそうな彼女は何だか猫みたいだ。犬だったり、猫だったり。彼女の前世は動物に違いない。
「冷たいんじゃなかったのかよ」
「今は温かいのです」
「都合の良い奴だな、俺って」
俺の腕を掴み、身体の前で大事そうに抱える彼女は随分と愛くるしい。
俺とは違い、彼女の穏やかな規則正しい鼓動が腕を伝う。ここまで信用されると、逆に恥ずかしくなる。
「夏でも、冬でも、暗い病室は凍えてしまいそうになるんです。ですから、もっと私に熱を分けてください。失いたくないと思ってしまうほど、たくさん……」
静かな語り口が、やけに寂寥感に満ちている。
いつしか、彼女の身体は少し震えていた。
「……大丈夫か?」
沈黙の末、結局、そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
「大丈夫だと、言い聞かせてはいるんです……。ですが、どうでしょう。私にも、分かりません……」
そこにいつもの明るく、天真爛漫な彼女はいなかった。今はただ、現実に怯える年相応の少女だ。
怖くない、寂しくない。そんなはずがない。誰だって、暗いのも、孤独なのも嫌に決まっている。そんなこと、最初から分かっていたのに。
だから、俺はせめて彼女をぎゅっと抱きしめた。細い身体で、加減を間違えれば怪我させてしまいそうだ。
それでも、こんなどうしようもない俺の熱でいいのなら、いくらでも持っていってほしい。いくらあげても足りないほど、彼女からはたくさんの熱を貰っているのだから。
「……ありがとうございます。もう十分ですよ。元気百倍、フルチャージです!」
しばらくして、彼女は無理に口調を戻した。その笑顔も貼り付けの代物だ。
だから、俺は彼女を意地でも離さなかった。彼女は少し困ったようにしていたけれど、そんなの関係ない。
「今さら俺に気なんて使うんじゃねえよ……」
本心だった。
彼女とはそんな駆け引きをしたくはない。
「ご――……っ、ありがとうございます……」
「それでいいんだよ。黙って俺の抱き枕になっとけ」
俺と彼女は顔を見合わせ、同時に笑った。その笑顔が本物で安心する。
「本当、日影くんはデリカシーが無いですね」
「だろ?」
「でも、日影くんもそのままでいてください。私はそんな日影くんの方が落ち着きます」
「それってどうなんだよ……」
誰もいない、真っ暗な砂浜に二人の明るい声だけが響く。
贅沢だなと思う。
「私が望んでいるんですから良いんですよ! さあ、夜は長いんです。いくらでもお付き合いしてあげますよ」
結局、俺たちはこのままで良いんだ。
この時の俺は、確かにそう思っていた。
スポーツにおいて、イップスやスランプの原因は精神的問題が多いと言われている。継続的な鍛錬の中で、今までできていたことが急に出来なくなるのは、技術的衰退とは考えにくいからだ。
だから、俺の場合はイップスやスランプには該当しない。ただの怠慢だ。
過去の出来事を引きずっていると言われれば精神的問題なのだろうけど、俺の場合、そのせいでパフォーマンスが落ちていたのは一時のことで、技術的な衰退がすぐにそれを追い越してしまった。
あの事故の後もずっと努力していたのなら、もしかしたら可哀そうなイップスということになれたのだろう。しかし、俺はそれを否定した。それだけのことだ。
実際の所、イップスやスランプになるのは何も大それた出来事だけじゃない。案外、傍から見ればそれで? と思われるようなことでもなってしまうらしい。
風見がスランプだと相談に来たのは年明けのことだった。
面と向かって対峙するのはかなり久々だ。正直、かなり気まずい。あんなことがあったというのに、まだ俺を頼ってくれるのは、やっぱり今でも風見の憧れに俺が不躾にも居座っているせいなのだろうか。
話を訊けば、原因は分かっているらしい。
二か月ほど前の試合でネット前アクションをした際、足を滑らせてネットを張るポールに頭を思い切りぶつけてしまったらしい。こめかみが大きく切れて、それなりに出血もしたと。
想像するだけで痛々しい話だ。ポールは鉄柱だし、そこに身体をぶつける痛みは俺もよく知っている。
「それ以来、ネットプレイが上手くできなくて……」
「まあ、お前からしたら致命傷だわな」
風見は攻撃的なプレースタイルだ。積極的に前に出ることも多い。このところ、大会の戦績が芳しくないのはそのせいだろう。
「正直、すぐに治るかなと思ったんです。ちょっとビビってるだけだって。でも、なぜか時間が経つほど恐怖心が増して気が散るんです」
「それで、俺にどうしろと? 俺はスランプとやらになったことが無い。正直、専門的な医者に任せる方が良いと思うぞ」
「いえ、本当は相談というわけじゃないんです」
風見は気まずそうに視線を下げた。やっぱり、俺たちの関係はギクシャクとしたままだ。
氷が解けて薄くなった珈琲を啜る。温いし、嫌な苦みだし、まるで俺と風見の事を表しているみたいだった。
男子高校生が二人、場違いにも喫茶店にいるというのにこの沈黙。やけに落ち着かない。
「あの……っ! 俺は先輩に謝りたくて……」
「はぁ? お前が俺に? 何を謝るってんだよ」
俺が謝らなければいけないことはあれど、風見に謝罪を受けるようなことをされた記憶は特にない。そもそも、この数か月ろくに会話すらしていなかったのだ。甚だ見当もつかない。
「今はほんの少しだけっすけど、テニスしたくないんです。だから、俺、今なら先輩のこと分かるんです……。先輩がテニスにとっくに興味が無いことは気づいていたっすから……」
盲目的では無かったということだろう。流石に中学からの俺の態度を見て、まだ昔のままだと言えるのは狂信的というやつだ。
「それでも、やっぱり昔の先輩が今でも俺の憧れで、無理矢理重ねていたんです。そして、俺の理想も不躾に押し付けて。それで、結局先輩に嫌な思いをさせてしまいました……。本当に申し訳ないっす!」
風見は店内に響くほどの大声と一緒に頭を勢いよく下げる。額がテーブルを打ち、グラスがわずかに揺れた。
風見の憧れだった俺はもういない。あの頃のように、今さらテニスに熱中できるとも思わない。
たくさんの経験を積んで、目に見えない数字が増えて行ってしまった。もう何かを犠牲にしてまで、スポーツに人生を投資するのは難しい。
きっと、風見も分かっているのだ。それでも、彼はまだ大事な高校生活をかけてまで、テニスに情熱を注いでいる。だから、その原動力の一端をわずかにでも担っている過去の俺の姿が忘れられない。
その結果、あんな風に部内でもめ事を起こしてしまった。
「あれは俺が悪かったんだよ。風見は俺のことを思って楯突いているって分かってたのに、それを突っぱねちまった。悪かったな」
「いえ、本当に俺のせいです!」
「なら、この話はもう終わりだ。埒が明かねえよ。きっぱり、水に流す。いいな?」
「……おっす」
少し不服そうだが、風見は渋々頷いた。俺だって、あんな意味の無いことで友人を失いたくはない。ちょっと、そりが合わなかっただけだ。互いの言い分は伝わっている。なら、もうそれでいい。
「なあ、一つ訊いていいか?」
「なんすか?」
俺の胸の内を言葉にして表すのはちょっと難しい。だから、妙な間が空いた。
「悪い意味じゃねえんだけど、どうしてまだそこまでテニスに熱中できるんだ? プロ目指してんのか?」
風見は質問の意図が理解できないのか、小首を傾げる。
「プロは流石に考えてないっすよ?」
「じゃあ、どうして一生懸命になれる。俺はもう到底、昔みたいに時間と熱を費やす気にはなれねえんだ」
ようやく、俺の言わんとしていることが伝わったのか、風見は一言「なるほど」と呟き、俺をまっすぐ見据える。その瞳に映る俺の鏡像はやけに小さく感じた。
「俺は将来の夢とか無いですし、それどころか進学かどうかも考えてないっす。かといって、じゃあ俺はだらだら高校生活を過ごしていいとも思わないんすよ」
「だから、テニスに力を注いでいるってわけか?」
その後に続く言葉を俺は飲み込んだ。
尚更、どうしてと思ってしまう。
「今しか出来ないことをとにかく全力でやっておきたいんす」
俺の心を読んだように風見が言う。
今しか出来ないこと……。それって、俺に当てはめると何なんだろうか。俺にとってテニスはそうじゃない。もう、出来なくなったことだ。
じゃあ、俺は今何をするべきなんだろうか。何に貴重な学生生活の日々を賭けるのが良いのだろう。
「俺は死にたくないんすよ」
その言葉の意味が俺にはよく分からなかった。
「無意味に何も考えず一日が過ぎるのって、本当に生きているって言えるんすか? 大人になったら金を稼ぐとか名分があるんでしょうけど、じゃあ、俺たちの大義って何なんすかね」
自問するように呟いた風見の言葉が、何日もずっと頭から離れなかった。
「おし、坊主。それでラストだ」
みかんがどっさりと入った段ボールをトラクターの荷台に乗せ、息をつく。真冬だというのに、上着が煩わしいくらいには身体が火照っていた。
みかん狩りしに来いって言っときながら、どうして俺は働かされているのだろうか。
どうせそんなことだろうと予想していたから、驚きはしなかったがやはり腑に落ちない。
相変わらず、おっさんは人使いが荒い。きっちり日暮れまで力仕事を中心に振り回されてしまった。
今回はバイト代が出るらしいから、別にいいのだけど。
「お疲れっす」
ひと段落着くと、おっさんは前と同じように自家製のお茶やら、お菓子なんかをたんまりと振る舞ってくれた。
柑橘の匂いが充満したここはやけに色彩が鮮やかで、倉庫という言葉が似つかわしくないほどだ。
「俺だけじゃ食い切れねえからな。腹一杯食って帰れ。なんせ、」
「タダっすからね。お言葉に甘えますよ」
「がははっ、分かってるじゃねぇか」
本当、仕事の時と別人だな。
睨むような鋭い目つきと不愛想な態度の先ほどとは違い、今俺を見るおっさんの目はやたらと温厚だ。昔、祖父母に向けられたものとよく似ている。
「坊主と話してっと、息子を思い出すな」
おっさんが懐かしむように表情を綻ばせる。
じわっと滲む気配にみかん茶で口の中の酸味を流し込んだ。
「息子さんいたんすね」
「もう死んじまったけどな」
あっけらかんと実に重たいことを言いのけるものだから、思わず耳を疑ってしまった。そして、ようやくおっさんの視線の意味を理解した。
おっさんは俺に自分の息子の面影を見ていたのだ。
「ちょうど、坊主くらいの歳か。懐かしいものだな」
「そんな早くに亡くなられたんすね……」
「おいおい、かしこまんじゃねえよ。そんなつもりで話したんじゃねえんだ。何より、もう二十年も昔のことなんだからよ」
確かにおっさんを包む気配に寂寞や喪失は無い。ただの世間話の延長だとでも言いたげだった。だとしたら、話題のチョイスが下手くそだなとは思う。
「病気か何かで亡くなられたんすか?」
その単語を出して、ふと彼女が浮かんでしまった。俺も俺で、会話が下手くそだ。
おっさんは足を組み、倉庫の高い天井を見遣る。そして、ややあって呟いた。
「いいや、自殺だよ」
想像もしていない返答だった。
「自殺、っすか……?」
「おう。ったく、意味分かんねえよな。男手一つだが、何不自由なく育ててたつもりだったよ。別に問題事を抱えてる風でも無かった。一体、何が不満だったやら」
自分で自ら命を絶つという想像を、俺は出来ない。そんなこと考えたこともなかったから。
気が付けば、俺もおっさんと同じようにトタン板を見上げていた。
「自殺とか考えたこともないから分かんねえっすわ。遺書とか無かったんすか?」
「もちろん、あったさ。でも、書いてあったことは今でも理解が出来ねえ……」
おっさんは言い淀んだ。もう一度、内容を自分の中で噛みしめるように小さく唸る。
「――俺が俺であるために」
「えっ?」
「遺書の最後の一文だよ。俺はこの二十年間、ずっとこの言葉の意味を考え続けてんだ。この話を出したのも、息子と同じくらいの歳の坊主になら分かるかもと思ってな」
自分であるために、死ぬ。
考えても、俺には分からなかった。その言い回しだと、自分でなくならないために、何かが変わってしまう前に終わらせる。そんな言い方にも思える。
自分が自分じゃなくなるのって、どんな時なんだろう。そもそも、俺は自らの個性を見出していない。そんなんじゃ、到底おっさんの息子の考えに及ばないのだろう。
「俺にもさっぱりっすわ」
風見の言葉を思い出す。
俺は死にたくない。風見はそう言った。それは、まるで殺されそうなのを必死に凌いでいる風な言い回しだ。
死にたくない風見と、自分であるために命を絶ったおっさんの息子。両者は酷く矛盾している。それでも、二人の思惑というか、心の内は同じなのではないかと思えた。
少なくとも、二人とも変化を望んでいない。変わってしまうことを拒絶しているのは確かだ。
今の自分から変わりたいか。そう問われた時、俺は多分答えられない。だから、二人の気持ちにも共感するのが難しいのだろう。
「坊主にも分からねえか。なら、お手上げだな。さっ、今の話は忘れてくれ」
すっかり止まってしまった手に、おっさんがみかんを差し出す。俺はそれを戸惑いながらも受け取った。
最初に彼が言ったように、これは世間話で留めておく方がいいのだろう。だから、俺はなるべく明るい話題を振り絞って口に出した。
少しでも、後味が残らないように。酸っぱい思いは普通の茶と味の違いがあまり分からないみかん茶で押し流す。
帰り際にはやっぱり、段ボールにぎっしり詰まったみかんの土産まで貰ってしまった。もうひと箱用意されていたのだけど、持って帰るまでに力尽きそうだし、消費しきれないから流石に断った。
俺一人を雇ってこれはどう考えても赤字だろう。そう思いつつも、ありがたく農園を後にする。
「まだ間に合うか……」
ここから家までの間には病院がある。俺は箱を抱えたまま向かうことにした。
前回のブルーベリーは日が開いてしまっていたから、今回は採れたてを持っていってやりたかった。みかんには追熟があるらしいから鮮度が落ちるとは言わないのだろうけど、土産話も新鮮な方が良いだろう。
途中、コンビニで昼間に撮影したみかん畑の写真を現像し、バスに乗り込む。
青かった果実が瑞々しいあざやかな橙色に染まっていたのは、夏とはまた別の感動があった。入道雲に変わる冬晴れの積雲と遠くに見える水平線の青も相まって、一つの芸術作品を見ているようだ。この写真が絵になって、そのまま美術館に飾られていたって何ら不思議じゃない。それくらい、心が突き動かされる景色だった。
知られていないだけで、景勝地としても有名になれそうなくらいだ。
今日は蜜柑色を見すぎだ。夕焼けに染まる町を車内から眺めて思う。
バスを降り、受付を済ませる。病院前にバス停があるからすごく便利だ。
薄暗い西階段を上り、いつもの病室へ向かうと、中から話し声が聞こえた。ちゃんと聞き取れないが、どうやら口論をしているようだった。
誰だろうと一瞬だけ考え、すぐに彼女の母親の顔を浮かんだ。
俺は慌てて踵を返したが、運悪く病室の扉が音を立てて開く。
疲労と少しの苛立ちを浮かべた彼女の母親が出てくる。そして、立ち尽くす俺を見つけ、その鋭い瞳で睨まれた。後ろ手で閉める扉の音がやけにけたたましく聞こえたのは、きっと気のせいではない。
「佐藤さんでしたね。もう来ないで下さいと以前、お伝えしたはずですが」
「あ……っと……」
駄目だ。返す言葉も無い。一方的に言われたこととはいえ、その後も彼女と会っていたのだから。
どこまでいっても、結局は俺は部外者だ。それが分かっているから、言葉が出てこなかった。
「――お母さんッ!」
扉が勢いよく開かれ、彼女が病室から飛び出して来た。その瞳は暗がりの中で湿っている。
一瞬、彼女と目が合う。申し訳なさそうな表情に来たことを少しだけ後悔してしまった。
彼女はすぐに目を逸らし、母親へと向き直る。
「日影くんは関係ないって言ったじゃん」
「蛍琉、お母さんを困らせないで頂戴」
「お母さんだって、私と日影くんを困らせてる! 私からたくさんのものを取り上げて、今度は大切な人まで奪うの!?」
今までに見たことのない彼女だった。苦しいくらいの痛みと、悲しみがひしひしと伝わってくる。
「お母さんは蛍琉のためを思って言ってるのよ」
「だから、それが分からないって言ってるんじゃん! 日影くんは何も悪いことはしてない。私だってもううんざりなの。それなのにまだ独りでこの暗い中に居ろって言うの!?」
普段の彼女からは考えられない、強い感情の乗った言葉だ。母親も気圧されて言葉に詰まっている。
部外者だからこそ、互いの言いたいことは分かる。多分、分かり合えることは無いのだろう。それぞれの葛藤と、譲れない思いがそこに明確に存在しているのだから。
長い言い争いの末、彼女の母親が先に折れた。重いため息をつき、肩を落とす。
「今日はもう帰るわ」
そう呟き、俺を一瞥する。到底、納得がいったようには見えなかった。
母親の視線が自ずと俺の持つ段ボールに向かう。すっかり忘れていた。
「みかんっす……。病院食にだって出てくるし、これくらいは問題ないっすよね?」
「……暗くなる前に早く帰りなさいね」
長居はするなと言うことだろう。せめてもの苦言にも思える。
「もういいです。早く入りましょう」
彼女に腕を引っ張られる。今までで、一番強い力だった。後ろ尾を引かれつつも、彼女の母親もそれ以上は何も言わずに行ってしまった。
相変わらず、彼女の母親がいる時の病室は真っ暗で、居心地が悪い。
彼女は足早にランプを点けた。きっと、同じ思いなのだろう。
医者が害は無いと言っているのだから、点けさせてあげればいいのに。そう思ってしまうのは、少なからず俺が彼女へ肩入れしているせいだろうか。それとも、彼女も俺も同じ思春期の病に侵された反骨精神の境遇だからか。
大人は皆、彼女の母親と同じ意見で、俺たちが間違っている。そんなこともあり得る話なのかもしれない。
それでも、俺はとんでもない過ちでないのなら、彼女に寄り添ってやりたい。だから、今回のことも自ら言及するのはやめにした。
「お母さんがすみませんでした。日影くんはただお見舞いに来てくれているだけだと、何度も言っているんですが。聞く耳を持ってもらえなくて……」
「別にいいよ。俺は気にしてない」
「そう言ってもらえると助かります。日影くんに会えなくなってしまっては、私はまたここで独りぼっちになってしまうんですから。……なんて台詞は重たい女ですね。すみません」
彼女は袖口で雑に目元を拭う。
段ボールからみかんを一つ取り出し、彼女の手元に軽く投げる。それを慌ててキャッチする彼女。泣いてるより、そうやって目を丸くしてほっと息をつく姿の方が彼女は似合っている。
「俺は今日だって自分の意思でここに来てんだ。来たくないって思ったら来ねーよ」
平籠に零れそうなくらいのみかんを山積みにし、床頭台の上に置く。いっぱい食ってもらわなくちゃ、俺もおっさんも困る。
彼女はみかんの皮を優しい手つきで撫で、安心したように表情を和らげる。
「これ、例のみかん畑のものですか?」
「そうだよ。俺が自らもぎ取ったやつかもしれねぇ」
あれだけ大量に収穫したのだ。手元のこれが俺の取ったものかなんて判別は付くわけもない。あのおっさんのことだから、わざわざ俺の取ったものを分けておいて持たせてくれた可能性は十分にあるけど。
「いいですねぇ、みかん狩り。私もしてみたいのになぁ」
「やめとけ、やめとけ。その後、大きさの仕分けから詰め入れまでやらされるぞ。せっかくの休みだってのにくったくただ」
重たい肩を回す。特に積み上げはかなりの重労働だった。普段、おっさん一人でやってると思うと、頭が上がらない。
彼女は何故か手元のみかんを俺に戻す。食べたくなかったのだろうか。
「剥いていてください」
「いや、それくらい自分でやれよ」
「いいから、それと後ろ向いてもらっていいですか?」
彼女がぐいっと俺の背を押すから、渋々丸椅子を回転させる。
全然、意味が分からねえ。
彼女の手が肩に触れ、ぐっと力が込められる。と言っても、正直撫でられているくらいのものだ。
「うわぁ、日影くんって肩までカチコチなんですね。全身、筋肉です」
「何言ってんだ。誰だってそうだろ」
「そういう意味じゃないんですよ。私はお肉です。日影くんは筋肉なんです」
「ふーん……」
手元のみかんに目を落とす。普段は取らない白皮を丁寧に取り除いている自分がいた。栄養あるとはいうけど、何だかそういう問題じゃないと思う。実際、おっさんもあの顔で丁寧に白皮を剥いていたし。
「おい、ちょっと思いっきり叩いてくれ」
「えっ……。まさか日影くんってそういうタイプの変態さんですか……?」
「ちげぇよ! 蛍琉の力が弱すぎてくすぐったいだけだ。やるなら、もっと力入れてくれよ」
「えー……でも、痛くないですかね?」
「痛いわけないだろ。蛍琉の力じゃ、顔を殴られたって痛かねえよ」
彼女は戸惑っていたが、俺が自ら肩を強く叩くと、生唾を飲んで腕を振り下ろした。彼女の拳が肩を叩く。
多分、全力では無いんだろうな。
「ど、どうですか……?」
「ちょうどいいぐらいだな」
「うへぇ、痛そうなんですけど……。というか、私の心が痛いです」
つるりと剥けたみかんをちぎり、彼女へ向ける。どうせ、この後に彼女が言いそうなことは分かっていたから、そのまま彼女の口元へと差し出す。
「私の事、分かって来ましたね」
そう言いつつ、彼女は差し出されたみかんを口でつかみ取る。その唇が微かに指に触れて、つい意識してしまう。
「どうせ、手がふさがってるから食べさせろって言うつもりだっただろ」
「その通りです。ほら、もう私の口が空っぽですよ?」
仕方がなく、俺は柔い力で肩を叩かれながら、彼女に餌付けする。今、誰かに見られたら恥ずかしさでおかしくなるかもしれない。
でも、二人だとこの雰囲気が心地よくて、別に悪い気はしない。
跳ねてしまいそうな鼓動を俺は必死に押さえつけた。
「はい、交替です」
彼女は一息つき、くるりとベッドの上で俺に背を向けた。
「俺もやんのかよ……」
「もちろんです。ベッドで惰眠を貪ってると、全身ばっきばきになるんですよ」
小さな背中を見て、思わず息を呑む。彼女の覚悟とはまた違った覚悟が俺には必要だった。
両肩に手を乗せる。じんわりとした温もりが布切れ越しに伝わった。ちょっとでも力を加えたら壊れてしまいそうに思える。それくらい細く、微塵も凝っていなかった。
「どうしたんです?」
「いや、怖い……」
「私の気持ちが分かったでしょう。でも、大丈夫ですよ。私、マッサージは強い方が好きなので」
壊れ物を扱うように、ほんの少し力を加える。柔らかい素肌に指がわずかに沈み込む感覚にすぐ力を緩めた。
逐一、彼女の様子を伺いながら徐々に強めていく。
「はい、剥けましたよ」
ひょいっと口元に割られたみかんが差し出される。
「いや、俺はもう食ったから」
「駄目です。それでは交替の意味がありません」
こうなっては彼女は意思が固い。大人しくそれを口でつかみ取る。顔がほんのり熱を持つのが自分でも分った。暗がりで良かったと不謹慎にも思ってしまう。
「ふふっ、何だかカップルみたいですね」
「肩たたきにみかんって、どう考えても老夫婦だろ……」
彼女は楽しそうにけらけらと笑う。
「老後にもこうしてじゃれ合えるって、理想的な夫婦なのでは?」
「どうなんだろうな」
不意に緩やかな沈黙が訪れた。
彼女の熱に手が痺れる。差し出されたみかんは運が悪かったのか、やけに酸っぱかった。
静寂を彼女が破る。
「私も、そんな未来を送ってみたかったです」
後ろ向きの彼女の表情は見えない。ただ、その背中が寂寥感に満ちていた。
「何言ってんだ。それくらい、俺がいくらでも付き合ってやるよ。どうせ、俺はいつまでも独り身予定だしな」
「駄目ですよ。こんな病に侵された私にいつまでも付き合っていては。ちゃんと、素敵な人を見つけてくださいね」
「ここまで俺のことを振り回しておいて、今さら何言ってんだ。俺は蛍琉のこと、結構……。っ、気に入ってんだよ」
ゆっくりと彼女が振り返る。哀歓を漂わせる儚げな笑みだ。俺を見つめる虹彩が潤んできらりと光る。
「とても嬉しいです。……でも、駄目なんです」
「何が駄目なんだよ。俺のこと嫌いなのかよ」
彼女が瞬きをした拍子に、頬を一筋の流れ星が伝った。暗闇をぽろりと零れ落ちた星が、彼女の服に溶ける。
「そんなわけないじゃないですか」
「だったら、どうして……。病気のことなら、俺は気にしねぇよ」
彼女は小さく首を振る。
「こんなこと伝える日が来ないといいのに。そう、思っていました」
どうしてか、胸がざわついた。息をするのも忘れ、彼女をひたすら見つめることしか出来ない。
この後に続く言葉が、俺には予想できてしまった。でも、それはあまりに非現実的で、ドラマやアニメのような物語の中だけのことだと、意味もなく否定をする自分がいた。
まっすぐに彼女が俺を捉える。そして、不意に悲し気な笑みを浮かべた。
「私、もう長くはないそうです……」
その言葉を聞いた瞬間、世界の輪郭がぐにゃりと歪んだ。揺れる視界に気持ち悪さがこみ上げる。
「な、何言ってんだ……?」
自分の声が水中にいるみたいに聞こえた。くぐもって、やけに聞き取りずらい。息が荒くなったことも相まって、まるで溺れているみたいだ。
「黙っていてすみませんでした。……元々、私は成人にはなれないだろうって言われていたんです」
自分の事のはずなのに、彼女はやけに落ち着いていた。だから、俺は余計に気持ち悪さを感じた。
「ど、どれくらいなんだ……?」
「さあ、どうでしょうか。お医者さんには半年は無理だろうと」
半年……?
視界が明滅し出す。大量のフラッシュが瞬き、思わず目を閉じた。暗闇を自分の浅い息遣いだけが支配する。喉が痙攣して呼吸すらままならない。
彼女が死ぬ。そのことだけが、脳裏を渦巻いて際限なく肥大していく。
悲しいとか、やるせないとか、そんな感情は湧き立つことなく、俺の胸中はとにかく苦しいだった。本当に苦しいのは彼女のはずなのに。
「いや、おかしいだろ。こんなにも蛍琉は元気じゃないか……。そりゃ、明るいところは無理だろうけど、だって……、だって……」
言葉が続かない。やりきれない思いに押しつぶされそうだ。
目の前の彼女は常に笑顔で、たまに見せる弱いところは年相応で、ちょっと明かりが駄目なだけな普通の少女なのに。ただ、それだけのことなのに――。
不意に温かな何かが俺を包み込んだ。
気が付けば、彼女が俺を引き寄せ、抱きかかえていた。彼女の熱が、彼女の匂いが、今までで一番愛おしくて、涙が滲む。
「大丈夫。――大丈夫ですよ」
まるで、赤子をあやすような優しい言葉だった。くぐもった世界で、彼女の声だけは鮮烈に響き、俺の心をかき混ぜて溶かす。
「どうして……。何で蛍琉ばかり……」
一度、感情を吐露してしまうと、もう止まらなかった。
みっともなく嘆く俺を、彼女はいつまでも抱きしめ続けてくれた。
縋ることしか出来ない俺は無力だ。こんな時に彼女を思うことしか出来ない。あまつさえ、彼女に宥められる始末。
理不尽を変える力なんてものは、一介の男子高校生には持ちえない。
悔しい……。何もできない自分が、もどかしい。
「知っていますか、日影くん。太陽って凄いんですよ?」
耳元で彼女が囁く。
「なんで……今そんな話を……」
虚ろな視界の中、彼女だけが鮮明に色彩を放っていた。この暗い世界で、確かに輝いていた。
「――私、太陽になりたいんです」
あどけない笑みを零す彼女に、俺はどうしようもなく見惚れてしまっていた。
母親が亡くなってからの一年は、俺にとって忘れがたい地獄だ。
それまで当たり前に身の回りの世話をしてくれていた人が突然いなくなり、中学への進学時という変容も相まって生活が一変した。
事故以降、精神的に参っていた父親は早々に当てにならないと分かったから、とにかく自分で何とかするしかなかった。
朝起きれば、自分で朝食をつくらなければいけない。学校が終わったら、スーパーに寄らないといけない。帰ったら、洗濯機をかけないといけない。
掃除のやり方は知らなかったから、家中がとにかく埃っぽくて、生ごみの臭いも酷かった。
ただの中学生に家事をするのは中々に困難だ。それでも、俺がやらないといけなかった。ハウスキーパーなんて呼ぶ金は勿体ないし、何より腐り切った父親を他人に見せるのは嫌だった。その思いは父親への配慮なんかじゃなく、ただ俺がこんな人の子供なのだと思われるのが癪だったからだ。
父親は一日中、部屋で母親の遺影を眺め続けるだけ。声をかけても反応しないし、飯だって用意したものをいつ食べているのか分からない。朝用意していったものが、寝る前になっても手を付けられていないことだってよくあった。
正直、父親を気にかけている余裕なんて無かった。
だって、俺は母親を殺した罪悪感に涙を零す暇すらなかったのだから。
自分の罪から目を逸らしてはいけない。その思いが、俺をほんの少し現実と向き合わせたことで、何とか父親のようにならずに済んだだけのことだ。
父親を責められたらどんなに良かったか。でも、そんなこと出来るはずもない。父親はただの被害者だ。突然、最愛の人を失った可哀そうな人なのだから。
教室で友達がゲームをしている最中、俺は冷蔵庫の中身を思い返し、帰りにスーパーで買う品をスマホにメモっていた。
もちろん、心配はされたし、馬鹿にもされた。大人からは前者、同級生からは後者が圧倒的に多かった。仕方がない。中学生なんて、他人の境遇を理解しきれない。俺だって、母親が亡くならなかったら、こんなヤングケアラーまがいの生活をする同級生のことを同情は出来なかっただろう。
事故以降に定期的に訪れていたカウンセリングは、金がもったいないから早々に行かなくなった。優しい言葉で慰められ、あなたは悪くないと言われるたびに、苦しくなったから。
わざわざそんな思いをしてまでどうして時間を使っているのだろう。そんな暇があるのなら、少しでも休息に当てたかった。
きっと、この頃から俺の思春期が加速したのだと思う。父親はろくでもない。カウンセラーは人の心が読めない。学校の先生は話を聞くだけで行動してくれない。
大人はそういう生き物なのだと思うようになった。だから、俺も大人になるのが怖かった。このまま歳を重ねれば、いつかは俺もそんなスカスカな人間になってしまうと。その思いは成長した今でも変わることはない。
最初は気にならなかった父親の態度に、次第に腹が立つようになっていった。多分、母親への罪悪感より、今自分が置かれている状況が悲劇だと感じることが多くなったからだ。
自らの罪を忘れて、母親がやってくれていたことを自分が代わりにしているだけなのに、それを免罪符に父親に強い口を叩くようになった。
父親は言い返してこないし、反論も特にしないから、ストレスの吐きどころにちょうど良かった。今思えば、とんでもない話だ。
ある日、突然父親に殴られた。その日までずっと虚ろな目でぼーっとするだけだったのに、急に刺すような瞳で俺を睨むのだから、俺も無性に苛立った。
今さらキレるのなら、なぜもっと早く殴らなかったんだ。どうして、生活が落ち着きだしてから蒸し返すように暴れるんだ。そんな思いに、俺は殴られた驚きを塗りつぶすために父親を睨み返していた。
辛うじて、手は出なかった。父親が痩せこけすぎていて、怖かったからだ。
俺が殴ったら、壊れかけの父親が本当に壊れてしまう。だから、俺は震える握り拳をそっと床に降ろした。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。母親がいつも花を飾っていた花瓶に埃がつもっているのを見て、思った。
もう、何の花が生けられていたか覚えていない。そもそも、俺は生けられていた花の名前も知らないんだと思う。花屋で働いていた母親の好みだったのだろうけど、気にしたこともなかった。小学生の男子が花に興味を持てというのが無理な話だ。
だから、俺は今でも墓参りの花を自分で選べない。母親の好きだった花は思いだせないのではなく、知らなかったのだから。
あの事故が起こるまで、俺は母親が特別大切な人だと思ってはいなかった。生まれてから、ずっと当たり前に側にいるのだ。どんな時でも、帰ったら家にいておかえりと言ってくれる。その当たり前の幸せを、子供の俺は理解していなかった。
じゃあ、既に大切だと十分に理解している人が亡くなった時、俺はどうなってしまうのだろう。想像は付かないし、したくもない。そんなこと、起きないのが一番だ。
でも、現実は残酷だ。神様なんて、この世界にはいやしない。きっと、悪魔はいるんだろうけど。