それからの日常は、やけに灰色に染まっていた。
 結局、俺は控えの選手として登録されたものの、練習は顔を出しづらくて度々サボった。顧問も俺を試合に出すことは無いと踏んでいるのか、あまりとやかく言われることはない。
 それよりも、笠木と顔を合わすのが億劫だった。

 あれ以降、彼とは話していない。顔を合わせれば、なぜか申し訳なさそうにするし、俺は意図して避けるようにしていたからだ。

 ずっと慕っていてくれていた年下相手に、本当俺って何をやっているんだろう。

 彼女にも会いに行けていない。
 彼女の母親に来るなと言われたし。
 そんな免罪符で彼女との対話を拒んでいた。会えば、何を言われるか分からない。とにかく、怖かった。

 結局のところ、俺は憶病なのだ。色々なことから逃げて、そのくせ口と態度は大きくて、まるで臆病者な自分を隠すようにそれらが抑えられない。

「ほんっとう、だせぇな……」

 足下にひらりと舞い落ちた紅葉を踏みしだき、呟く。熱するような暑さも落ち着き、半そでのユニフォームでコートに向かう笠木をぼんやり眺めながら、ウインドブレーカーのチャックを上げる。
 まあ、いい。今日が終われば、退部届を出す予定だ。

 東海に出場する笠木を不動のエースと置いても、ウチの部活は地区大会敗退が決定していた。
 これはいわば消化試合というやつだ。勝とうが、負けようが、何の意味もないもの。相手だって既に県大会出場が確定しているから、なおの事、緊張感に欠ける。

 三面同時進行で行われる試合は、左からダブルスの二人、そして、真ん中のコートに笠木。一番右のコートに三番手の吉田が入る。そのはずだった。

「おい、佐藤」

 顧問に呼ばれ、少し嫌な予感がした。どうせ、雑用を押し付けられるのだろう。そう思っていたから、顧問からの提案は意外なものだった。

「吉田の代わりに試合入ってくれ」

「はぁ……?」

 思わず、ため口になってしまった。しかし、顧問はそんなことを歯牙に掛ける余裕も無いようで、慌ただしそうに審判へと合図する。

「さっきの試合でな、吉田が手首を痛めたらしい。だから、この試合はお前が出るんだ。ウォーミングアップはしてあるよな?」

 黙って頷く。
 全くもって嘘だ。どうせ試合に出ることはないと思っていたし、そんなものしちゃいない。でも、言ったら、後で怒られるだろうから、大人しく首肯しておいた。

「……分かりました」

 どうせ、意義のない試合なのだ。他の部員も笠木の応援に駆り出ているし、観客は見事に少ない。
 引退試合か……。
 こんな風に迎えるなんて、思ってもいなかった。晴れ晴れしい幼少期の頃には想像もつかないものだ。きっと、自分は有名な選手になって、大舞台で幕を下ろすのだと信じて疑わなかった。
 今になって思えば、あまりに無謀で、現実味の無い話だ。

 靴ひもを結び直し、ラケットを握りしめてコートに繰り出す。相手は夏に個人戦で負けた相手だ。もちろん、今回だって勝てると思っていないし、誰も期待していない。

 親父には今日は出場しないと伝えてある。顧問すら、笠木に夢中でこっちに目すらくれない。
 でも、それで良かった。これ以上、惨めな姿は誰にも見られたくないのだから。

 試合は想定内に進んだ。終始、リードされ続ける展開。練習不足が身に染みるミスばかりしてしまう。

 それでも、心中は穏やかだった。闘争心の欠片も無い。まるで、練習試合かのようだ。それどころか、試合となった途端、顔つきが変わった相手に申し訳なくなってしまう。

 早く終われとは思わない。だけど、とにかく少しでもマシな印象を持って終わらせることに必死だった。

 対角線の相手をずらすように、反対側へと球を返す。
 視界の端に、麦わら帽子が映った。強い返球が来て、すぐに目を逸らす。
 十月に麦わら帽子はおかしいだろ。 
 そんなどうでもいいことを思いながら、山なりに返す。若干の猶予が生まれ、もう一度それが映り込んだ。

「――えっ……」

 思わず、一瞬立ち止まってしまう。そのせいで、返球への走り出しが遅れる。でも、そんなことどうでも良くて、既に目で球なんて追っちゃいなかった。

「アウトッ!」

 審判のコールがやけに遠く聞こえる。周りがすっと遠ざかるように意識の外へ置き去りになり、麦わら帽子の少女だけが、俺の目を掴んで離さなかった。

「蛍琉……?」

 フェンス越しの脇に、彼女が立っていた。白いワンピースに身を包み、大きな鍔の麦わら帽子をかぶっている。まるで、夏の景色から飛び出したような季節外れな服装だ。

 幻覚を疑ってしまった。ついに、そこまで来たのかと。

 でも、違った。確かに聞こえた。

「ファイトーッ! 日影くんー!」

 忘れようのない、透き通った声だった。
 彼女と目がばっちり合う。緩やかに手を振る彼女に、俺は呆然と突っ立つことしか出来ない。

「きみ、早くポジションにつきなさい」

 審判の声かけに我へと返った。

「タ、タイム! 足がつっちまいました」

「……確かに変に止まっていたね。処置しなさい」

 おぼろげに頷き、コートを離れる。
 頭の中で、色々なことが渦巻いた。
 とにかく、一刻も早く彼女を日陰へ――明かりの無い場所に連れて行かないと。その一心で、コートの出口へと足を向けた。

 その時、彼女と目が合ってしまった。そして、思いだした。一度でいいから、俺がテニスをしている姿を見たいと言っていたことを。

 それに、視界にいる彼女が首を振るのだ。俺が試合を放棄して駆け寄ろうとすることを必死に拒んでいる。

 心臓がうるさいくらい瞬いていた。
 一体、俺はどうすればいいのだろう。
 正解なんて一つだ。でも、本当にそれでいいのだろうか。
 だって、彼女の瞳はとても真剣で、まるでおもちゃを貰った子供の様に輝いていたのだから。それを奪い去ってしまうのは、それこそどうかしている。そう、思った。

「頑張れ……!」

 小さく、彼女が呟いた。その言葉で、俺は弾かれるようにフェンスから離れる。
 気が付けば、再びラケットを手に取ってコートに立っていた。手でつく球を眺め、本当にこれでよかったのかと自問する。

 それからはとにかくがむしゃらだった。ただただ、必死に目の前の球を足で追っていた。
 危険を冒してまで観に来た彼女を失望させたくない。カッコ悪いところを見せたくない。だから、とにかく負けたくない。

 いつしか忘れかけていた感覚が身体に戻って来る。湧き立つような、それでいて頭は冴えわたっているあの感覚。やけに視野が広く思えて、相手の一挙手一投足まで予測が立つ。次に自分が打たなければいけないコースがいくつも浮かぶ。
 汗が滴る。全身が紅潮して、まるで炎天下にいるみたいだ。

 今日は天気が良い。太陽が燦々と彼女に降り注いでいた。
 相手の球がネットの上段、白線を強く叩き、勢いを殺して緩やかにこちらのネット際に落ちていく。
 彼女も一緒に戦ってくれている。そう思えば、無理だと頭で分かっている球にも前のめりで飛び込めた。

 倒れ込みながら必死に手を伸ばす。
 ラケットの先を球が軽く当たり、ふわっと浮く。今度は、俺の返球がネットの白い帯にぶつかり、阻まれる。
 音もなくネットの真上を上がった球が境界線を叩き、ゆっくりとこちら側に落ちた。

「ゲームセット、ウォンバイ 高城 6-5」

 静寂が終わりを告げるコールで引き裂かれる。地面に倒れ込んだ俺は、茫然と目の前を転がる球を目で追っていた。
 呼吸が頭の中で反響してうるさい。鼓動の一つ一つが、血を送り出すその動作が、やけに大きく聞こえる。
 悔しい。
 いつぶりかに芽を出した感情だった。あと一歩が届かなかったのは、紛れもなく日々の練習の積み重ねがおろそかだった証だ。
 最後の球だって、もっと走り込みに参加していれば、ウォームアップを欠かさなかったら、取れたかもしれない。
 そう、結局はたらればというやつだ。勝てたかもしれない。泥臭くても、ちょっとはかっこよく見せれたかもしれない。
 それでも、勝敗というのは二つしか無くて、今回も負け。今までと何ら変わらない結果だけが残った。

「きみ、早く立ちなさい」

 審判の声に視線を上げる。
 覗き込む男性をぼんやりと見上げる俺に、彼は首を傾げた。
 
「それとも、また怪我かい?」

 ふと、我に返った。
 意識の波が濁流のように押し寄せ、思考の荒波をつくる。

「だ、大丈夫っす! ありがとうございました!」

 一方的に相手に挨拶を済ませ、男性の呼びかけを無視して俺はコートを飛び出す。
 よろける足を殴りつけ、彼女を探す。さっきまでいたところに、彼女の姿は無かった。

「――ッ! クソッ!」

 あんな季節違いの帽子を被っているんだ。すぐに見つかる。逸る心に必死に言い聞かせる。
 遠くの方で、サイレンが聞こえた。思わず、吐き気がこみ上げてくる。

 自分のしてしまった事の大きさに、今さら取り返しのつかない罪悪感に、押しつぶされそうになった。

 逆流してくるそれを無理矢理押さえつけながら、音の鳴る方へ向かう。
 白塗りの救急車の傍らで、フレアワンピースがふわりと風に靡いた。大きな木の下で、ぐったりと目を閉じる少女の姿。
 ガンガンと激しく殴りつけられるような頭痛に苛まれた。

 救急隊がタンカに彼女を乗せる。

「どなたか付き添いの方は――」

 照り付ける陽射しも、明滅する救急車の赤い警光灯も、全部憎らしかった。

「乗ります!」

 救急隊の人が訝し気な視線を向ける。

「きみは?」

「知り合いっす! 雲母蛍琉! ほら、知ってる!」

 そんな、意味の分からないことばかり口から出る。とにかく、必死だった。

「……早く乗って」

 運び込まれていくタンカに次いで、救急車に飛び乗る。

「おい、蛍琉! おいっ!」

 俺の呼びかけに、彼女は目を開けない。苦しそうに荒い息を立て、必死に呼吸をしていた。

「ちょっと離れて」

 救急隊に押しのけられ、狭い車内にずるりと垂れる。恐ろしくて、がくがくと足が震えていた。

「熱が高いな……」

 救急隊の呟きにびくりと肩が跳ねる。
 ふと見上げると、救急隊の男性がペンライトを彼女に押し当てようとしていた。

「やめろ!」

 思わず、それを払いのける。それから、ようやく気が付く。車内は明るすぎる。白色のライトが全体を眩しいくらい照らしていた。

「きみ、一体何を……!」

「彼女! ……明かりが駄目な病気なんです! だから、そんなもん使っちゃ駄目だ! この電気消してください、はやく!」

 彼女に覆いかぶさり、天井から注ぐ光を遮る。パニックになる中、とにかく、服から覗く肌を隠すことに必死だった。

「いいから、私たちに任せなさい!」

「分かってる! ……そんなの分かってるから! とにかく、一旦明かりを消してください!」

 救急隊の人たちは何度か言葉を重ね、やむなしといった風に天井の明かりを消した。ふっと、車内が薄暗くなる。それでもまだ、彼女には明るすぎるように感じた。

「さあ、早くどくんだ」

 救急隊に引きはがされそうになって、思わずぎゅっと彼女を掴む腕に力を入れてしまった。

「……げ、くん? ……ひ、かげ……くん?」

 耳元で、彼女が喋った。弾かれたように顔を上げると、額に汗を滲ませ、彼女はうっすらと目を開けて確かに俺を見つめていた。

「そ、そうだ! 俺だ!」

 そう返すと、彼女は苦しそうだった表情をやわらげ、にっこりとか弱く笑みを零す。

「ふふっ……、あの、ね。……かっこよかった……よ……?」

 彼女が言い終わるのと同時に、強引に救急隊の人によって彼女からはがされる。
 羽交い絞めにされる最中、俺は改めて自分の犯した罪の大きさに嗚咽を漏らした。