「おぉー、これがみかん畑ですか。綺麗ですね!」

 例の写真を見せると、彼女は暗中で瞳をきらきらと輝かせた。年相応のあどけない表情に、思わず目が吸い寄せられる。
 俺は性格が悪いから、きっと外に出られないときにこんな景色を見せられたら、腹を立てるかもしれない。己が持ちえない他人の境遇を妬むのは自然なことだと思う。でも、彼女にはそれがない。少なくとも、そんな素振りを見せない。

「花は見れなかったけどな。五月に咲くらしい」

「桜と梅の花が散ってすぐですか。そんなに早くに咲いちゃうんですねぇ」

「十一月にみかん狩りが始まるから、その時は来いって言われたよ。多分、またこき使われるんだろうけどな」

 少しも嫌な気持ちになっていない自分がいた。たったの半日だけど、おっさんとの空間は結構心地よかった。きっと何の遠慮も無しに接してくれる様が、彼女と似ているせいだと思う。
 だから、俺は冬もまた訪れることを快く承諾した。

「このブルーベリー、とても美味しいですね。すごい瑞々しくて甘酸っぱいです」

 軽く洗い、皿の上に平盛にした青紫色の果実を二粒口に放る。作業場で食べた時よりも、皮の張りが弱くなっている気がした。やっぱり、採れたては別格なんだなと改めて思う。

「土産だって大量に持たされたけど、食い切れなくて困ってんだよな」

「贅沢な悩みですね。そうだ、ジャムにしてみてはいかがですか?」

「料理苦手なんだよ。焦がす未来しか見えねえ……」

 そんなことになれば、おっさんにもブルーベリーにも失礼だ。

「そこまで難しくないと思うんですけど。ここが火気厳禁で無ければ、私が作ってあげたいくらいです。フレンチトーストなんかと一緒に食べたら、きっと頬っぺたが落ちてしまいますよ」

 なるほど、おっさんの頬が弛んでいるのは、美味いものを食い過ぎたせいかもしれない。

「本当、蛍琉って食い意地張ってんな」

「いいんですよ。私は我慢しないタイプなので。それに食べても太らない体質ですからね」

 えっへんと胸を張る彼女。確かに、彼女は心配になるくらい細い。

「そりゃ、また羨ましい話だな」

 検査とやらについてはまだ聞いていないけれど、きっと大事ではない定期的なものなのだろう。そう、勝手に決めつけていた。

「日影くんだって、身長のわりに痩せている方なんじゃないですか?」

「俺は部活だってやってるし、バイトも頻繁に入れてるから筋肉ついてんだよ」

 彼女がすっと身体を寄せる。

「ちょっと失礼しても?」

「……勝手にしろよ」

 それでは遠慮なく、と彼女が俺の手を掴み、ぺたぺたと触る。
 筋肉の話をしてたんじゃなかったのかよ。

「手のひらで何が分かんだよ」

 ぱっと顔をあげる彼女。距離が近くて、さりげなく座り直す。

「えっと、手が大きいなと思いまして。テニスって、どこの筋肉が一番付くんですか?」

「別に全身くまなく必要だけど、一番分かりやすいのはここなんじゃねーの」

 右手を伸ばし、ぐっと力を入れた前腕部を指さす。
 改めて自分の腕と比べると、彼女の色白さが際立って見えた。その白磁の指先がそっと、腕に触れる。

「な、何ですかコレ。石……?」

 唖然とする彼女はちょっと面白かった。いつも飄々としているのに、まさかその仕草を崩すのが腕の筋肉だなんて拍子抜けもいいところだ。

「ずっとラケット振るわけだしな。嫌でも筋肉が付く」

「そうかもですけれど、これは誰だって驚きますよ。カチコチですもん」

 彼女は自分の腕と俺の腕を交互に触り、改めて変なものでも見るかのように俺へと疑惑の表情を向ける。そして、彼女なりのテニスを表す動きなのだろうか、へろへろと腕を横に振って見せた。

「なんだ、それ。肘が伸びすぎだろ」

 思わず笑うと、彼女はむっと片頬を膨らませる。

「私、テニスをちゃんと見たことが無いんですよ。一度、日影くんの試合とか見てみたいです」

 それはまた、無理な相談だ。彼女は録画した映像すら見ることが出来ない。夜中に照明も無しにやれとでも言うのだろうか。

「俺は弱いから見なくていいよ。どうせ、一か月後の大会だって地区予選負けだろうしな」

 卑屈、と言うわけではない。客観的に見た予想だ。事あるごとに理由を付けて練習をサボって、熱意もない。そんな奴が他の人よりも上手いなんて許されるはずがない。それこそ、才能が無ければありえない話だ。

 カタッ、と小さな音がした。
 ドアの曇りガラスに鳥影が射すのと、締め切っていたドアが勢いよく開くのはほぼ同時だった。

「――えっ……?」

 次の瞬間、視界の大部分が真っ白に染まる。瞳の奥を光球が瞬き、揺れ動く。その眩い光は暗闇を切り裂き、俺と彼女を照らし出した。

 心臓が脈を打ち損じたのかと思うくらい、大きく飛び跳ねる。
 何が起こったのか分からないのに、ぞわっと肌が粟立った。その光があまりにも強く、この部屋に相応しくないものだったから。

「あっ、やっぱり誰かいた!」

 光の奥から声が聞こえる。小学生くらいの少年が二人、開け放たれたドアの前に立っていた。その手元には強烈な光線を放つスマホが握りしめられている。

「でも、えろいことしてないじゃん」

「えー、どうかな」

 まっさらだった思考が不意に速度を上げる。
 ほとんど条件反射で立ち上がっていた。

「――お前ら!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。その声に少年たちの表情が固まる。
 一拍遅れて、椅子が床を叩く。

「早く、その明かり消せ!」

 ほとんど襲い掛かるように手を伸ばしていた。点から放射状に広がる明かりを手のひらで鷲掴むと、一瞬にして世界の色が深まる。光の残滓を残した病室は、それでもまだ危ないほど明るいと錯覚してしまう。
 スマホを離さない少年を廊下に突き飛ばす。とにかく、一刻も早く暗闇を取り戻さないといけない。そう思った。
 二人を廊下に引きずり出し、背後のドアを勢いよく閉める。

「お前ら、何してんだ!」

 尻餅をつく少年に馬乗りになり、スマホを力ずくで奪い取る。見たことのない機種で、ライトの消し方が分からなかった。
 少年たちの顔が恐怖に塗れるのを気にすることも出来ず、ただひたすらに焦る。早く消さないと。それだけしか考えられなかった。

 閉めたはずのドアがゆっくりと開く。無意識にスマホを投げ捨てていた。ビニル床を硬く鋭い音を立ててスマホが転がり滑る。

「日影くん……」

 背中から聞こえた声に、我に返る。ようやく、自分の息の荒さを認識した。滲んだ額の汗がだらりと頬を這う。
 少年の肩を床に押し付けた左手が勝手に緩んだ。

「な、何だよ、コイツ!」

 少年たちがこちらの様子を窺うように去っていくのを横目に、彼女を振り向く。何故か、彼女は心配そうに俺を見ていた。
 いや、蛍琉がそんな表情をするのはおかしいだろ……。
 そんな言葉を飲み込み、彼女の細い肩を掴む。

「お、おい! 大丈夫なのかよ!?」

 〝死〟という言葉が、ずっと頭の中を駆け巡っていた。
 しかし、彼女は狼狽する俺を見て、緩やかに笑みをつくる。いつも通りの優しいものだ。

「大丈夫だよ」

 その一言で急に身体の力が入らなくなった。背中を二度、ぽんぽんと軽く彼女の手が撫でる。
 だから、それも俺がするべきものだろ……。

「でも、ちょっとびっくりしたね」

 柔らかく彼女が笑う。

 こういう時ばかり、どうして敬語が抜けるんだ。

 ゆっくりと汗が引いていく。それと同時に渦巻く感情が凪いでいった。
 彼女は確かに何も問題無さそうに見えた。ひとまず、ほっと息をつく。
 強烈な光だった。何ルクスか知らないけれど、それは明らかにろうそくの火なんか目じゃなかったし、部屋に点る淡いサイドランプの光すら真っ白に溶かしたのだ。3.5ルクスよりも明るいのは明白だった。

「ねえ、」

 彼女が俺を覗き込む。ほど近い距離に慌てて掴んだ肩を離して、一歩距離を取る。

「アイス、買ってきてください。甘いもの食べたら、きっと日影くんも落ち着きますよ」

 彼女が言うのだから、そうなんだと思った。何より、今は自分で何かを考えられるほどの余裕は無かった。
 言われるがまま、売店に向かった。彼女が望んだのだから買ってこなきゃ、なんて思いが大きかった。

 俺が過剰に心配し過ぎただけなのだろうか。
 もしかしたら、少しくらいなら明るいところも問題ないのかもしれない。医者も、彼女の母親も、過度な暗闇を強いているだけ。本当はそこまで過敏になるような病気じゃないのではないだろうか。

 いつものいちご味は売り切れだった。仕方がないから、バニラ味とキャラメル味を両方買った。どっちかは俺が食べればいい話だ。

 みかん畑がぼんやりと脳裏に浮かぶ。ひょっとしたら、彼女と一緒に見に行けるかもしれない。他にも、彼女が望む場所に連れて行ってやることが出来るかもしれない。
 そんな淡い期待と思い描く未来を、彼女は四十一度という高熱で打ち砕いた。