部活終わり、すっかり忘れていたガットの張り替えにスポーツショップを訪れる。日曜ということもあって、張り替え待ちに二時間掛かると言われ断念した。別に待っても良かったのだが、スポーツショップが入っている商業施設は常に人で溢れている。もちろん、救いともいえるカフェや飲食店も軒並み順番待ちだ。娯楽に乏しい田舎らしい光景だ。
しばらくはサブのラケットで我慢しよう。
分かり切っていた無駄足に空虚な思いが広がる。バイトまでまだたっぷりと時間があった。
「一旦、帰るか……」
そんな呟きも、あっという間に陽炎に飲み込まれてしまう。
バスに揺られながら、思いだした。今帰ったら親父と鉢合わせになる。
「……くそっ」
目の前に座る老人に変な目で見られた。当たり前だ。
最寄りのバス停を通り過ぎ、四つ先で下車する。どうして二日連続で足を運んでいるのだろう。そうは思ったものの、俺は金のかからない時間の潰し方を多くは知らない。
だからと言って、病院はどうなんだ。
自問を重ねた結果、別にいっかと至極短絡的に結論付けた。彼女が迷惑そうにしていたら、さっさと帰ればいいだけの話だ。
一階の売店でアイスを買った。高いものを一つと、安いものを一つ。その足で受付に行く。二回とも無断で病室に居座っていたけれど、多分面会は申請が必要だと思ったからだ。
「今日はどうなさいましたか?」
そう訊かれると、やたら緊張する。また、無意識に頭の後ろを掻いていた。
「あの、面会したいんすけど。501号室のえーと、雲母さん」
「ご確認させていただきます。少々お待ちください」
アイス、後で買えば良かったと袋から漂う冷気を感じて後悔した。時間が経つほど、溶けるのはもちろん、病院特有の消毒臭さで美味しくなくなっていくような気がしてならない。もちろん、そんなはずは無いのだけど、こういうのは気分で味が変わる。
「どうぞおあがりください。右手の階段を上って四階になります」
受付の看護師に軽く頭を下げ、その場を後にする。
まさか、二日連続で来るとは思うまい。一体、彼女はどんな反応をするだろうか。
きっと、俺が見舞いに来たことよりも、アイスが食える喜びの方が大きいんだろうな。そりゃ、俺は彼女に好かれるような態度は取っていないわけだし、当然か。
非常口を示す緑の誘導灯に誘われるようにのらりくらり階段を上る。部活後と言うこともあってやけに足が重たい。
彼女の病室をノックしようと右手をかざした瞬間、目の前のドアが静かに開いた。突然のこと過ぎて、その場で動きを固めてしまう。どうして毎回訪れる度に驚かされるのだろうか。
しかし、ドアの向こうにいたのは彼女ではなかった。
身なりの整った女性だ。その透き通るような真っ黒な瞳と、控えめな唇には覚えがある。部屋を間違えたと思ったが、その背景は真っ暗だ。表札にも確かに『雲母』と表記されていた。
「あら、あなたは……?」
その尋ね方で、俺は目の前の女性を推測付けた。多分、彼女の親族だろう。
「えっと、蛍琉さんの見舞いで。あー、すんません。佐藤と言います」
ガリっと後頭部が音を立てる。
彼女の視線が自然に下から上に流れる。しかし、ここで俺が怪しいものでは無いですとは言えるわけもなく、ただ吟味されるがままに口を閉ざした。
「娘のお友達? 珍しいわね。きっと、あの子も喜ぶわ。ゆっくりしていってくださいね」
やっぱりと言うべきか。目の前の女性は彼女の母親だった。
「……うす」
「――でも、」
その言葉が俺を必然と制する。彼女の母親の刺すような視線は、俺の持つコンビニ袋に向けられていた。
そこでようやく、なぜ自分が止められたのかを悟る。
やっぱり、慣れないことはするもんじゃない。アイスを買ってから、二度目の後悔だ。
「娘に見舞いの品は必要ありません。何が毒になるのか分からないんですから」
とげとげしい言い方だった。でも、こればっかりは受け入れるしかない。面と向かって反論しても無駄だと分かり切っている。
「申し訳ないっす。あの、これアイスなんで溶けても何だし、よかったらお持ちください。いらなかったら、捨ててくれていいんで……」
変なことを言ってるのは分かっている。でも、溶けてしまうんだから仕方がない。まさか、彼女の前で二つとも俺が食べるわけにもいかない。
彼女の母親も俺の言わんとしていることが伝わったのか、無言で財布から大雑把な値段分のお金を取り出した。
「いや、頂けません……」
「いいから、受け取っておきなさい。あなたのその気遣いは私も娘も理解しています」
そこまで言われたら、受け取るしかなかった。代わりにコンビニ袋を手渡す。
握りしめた硬貨がとても重たく感じた。
「それでは」
「……はい」
女性が角を曲がるまで見届け、声もなく大きな息を吐いた。この廊下の薄暗さがちょうど俺の胸中を表しているみたいで皮肉に思える。
病室に入ると、彼女はベッドに座り、壁に背を付けてこちらを見ていた。そして、こう言ったのだ。
「――ごめんなさい」
無意識に舌を打っていた。彼女は申し訳なさそうに俯く。ただでさえちっこいのに、今はもっと小さく見える。
こんな顔をさせるために来たわけじゃないのに。
「食事制限ないって、嘘じゃねえよな?」
彼女が俺を一瞥する。そして、すぐにまた俯いてしまう。
「はい。ちゃんとお医者さんに自分で確認しましたから……」
今度は音を立てて息を吐いた。
「ちょっと、待ってろ」
そう言い残し、病室を後にする。早足で階段を駆け下り、もう一度売店で同じものを買った。店員は不思議そうにしていたけれど、そんなの関係ない。
普段、暗闇で何も出来ずに過ごしているのなら、せめて好きな物くらいいつ食ったっていいだろ。医者が問題ないと言っているんだ。
あの母親の気持ちも分かる。
でも、親の意見は医者よりも正しいのか? そんなわけないだろ。
足早に病室へと戻り、変わらない体勢の彼女に袋をかざす。
「おい、食え」
彼女は微動だにしない。大方、俺に迷惑をかけただとか、そんなことを考えているのだろう。ウジウジしているのは自分を見ているみたいでイライラする。
「いらねえなら、俺が全部食うからな」
ドアを閉めると、完全な暗闇に飲み込まれた。あの母親の様子を見るに、恐らく普段はサイドランプも付けさせてもらえないのだろう。
手探りで椅子に座る。目と鼻の先に彼女がいるはずなのに、その姿は寸分も見えない。ただ、そこに気配がある。
彼女には、俺の姿が見えているのだろうか。
不意に、手を握られた。俺の手よりも一回り小さく、温かかい。でも、少し震えていた。その手を握り返してよいのか分からず、結局何も出来なかった。
「ごめんなさい」
また、彼女が同じ言葉を口にする。
握られた手に微かに力が込められた。
「あのランプは点けていいのか?」
「……お医者さんはこの距離なら身体に害は無いと」
「そうか」
立ち上がり、暗闇をすり足で進む。途中、空気清浄機に足をぶつけた。
「くそっ、何も見えねえな」
「……もう少し左です」
背後から彼女の声が聞こえた。やっぱり、彼女には見えている。この暗闇でずっと生活していたら、さぞ夜目が効くようにもなるのだろう。
伸ばす左手に丸型のランプが触れる。スイッチを押すと、お世辞にも明るいとは言えないぼんやりとした明かりが点った。
「ありがとうございます……」
「最初から謝んないで、そう言っておけばいいんだよ」
袋からカップアイスとカトラリーを取り出し、彼女に押し付ける。
「いいから、食え。溶けるだろうが」
ようやく、彼女が俺を見た。その瞳に悲しさを残しながらも、無理して笑おうとする仕草が気に入らない。
俺の分のアイスはもう雫が滴っていた。垂れないように急いで食べると頭の奥が殴られたように痛む。
「俺が汗水垂らして稼いだ金で買ったんだぞ。残したら許さねえからな」
その言葉で、彼女もようやくちまちまと小動物みたいに食べ始めた。
沈黙が痛々しい。本当なら、俺が話題を出すべきなんだろうけれど、生憎とそんなに器用な性格じゃない。
「怒って、いないんですか……?」
ぽつりと彼女が呟く。
「この病室が売店まで遠いことにはキレてる」
「そうじゃなくて……」
「なら、訊くだけ無駄だな」
彼女が押し黙る。そうしてまた、静寂が流れる。
本当、気の利かない性格だな俺って。
「おい、一口くれよ」
仕方なく、そう言った。話題に困ったから、シェアハピとやらを出してみたのだけれど、間違いだったかもしれない。今日は慣れないことをして失敗ばかりだ。
それでも、彼女がちょっと笑ってスプーンを差し出してくれたので、良しとしよう。
昨日ぶりのそれはとても甘ったるかった。一日で味が変わったんじゃないかとすら思う。
しばらくして、彼女が意を決したように姿勢を正した。
「日影くんは何も訊かないんですね」
まっすぐ見つめられるその目が、俺は苦手だ。別に彼女だけじゃなく、誰が相手だろうと、俺は人と真摯に向き合うのには向いていない。
「漫画の鈍感キャラじゃねえんだ。どんな病なのか、想像くらいはつく」
彼女は掴めない表情をしていた。豆鉄砲を食らったような、感心したような、とにかく口が半開きだ。
「まっ、娯楽が無いってのは不便だよな」
独り言に近いぼやきに、彼女はほんのりと笑みをつくる。そして、ゆっくりと語りだした。
「照度の単位って、分かりますか?」
口でアイスの棒を遊ばせ、肩をすくませる。
「まず、そのしょうどってやつが分からん」
彼女は「そこからですか」と声の調子を戻しながら言う。癪だけど、水は差さないでおいた。
「照度って言うのは、特定の範囲を照らす光の明るさの事を言います。そして、その単位がルクスです」
彼女の話を聞いても、到底なるほどとはならなかった。科学だか物理だか分からないけれど、とにかく聞いたこともない。
真っ暗闇はもちろん0ルクス。ろうそくからニ十センチほどの距離だと約10ルクス。病院の廊下なんかは約200ルクスらしい。
「そして、晴天下では10万ルクスにもなるそうです」
「おい、一気に跳ね上がりすぎだろ」
「そうですね。太陽って凄いんですよ」
彼女は何故か嬉しそうに声を弾ませていた。己を蝕む天敵だというのに変なやつだ。
「この部屋はどれくらいになるんだ?」
俺の問いかけに彼女はベッドから立ち上がり、窓際のサイドランプに近づく。
「詳しくは分かりませんが、私に害が及ばないようになっているので、3.5ルクス以下なのは間違いないですね」
つまり、彼女にとってはろうそくの火でも身体に悪影響を及ぼすと言うわけだ。そりゃ、窓なんて開けられるはずもない。
「ヤな病気だねぇ。俺なら二日でギブだ」
今さら気が付いたけれど、アイスの棒に当たりの文字が刻まれていた。
「おや、日影くんはこの話を聞いて、悲しんではくれないんですか?」
意地悪気に彼女が尋ねるから、俺もきっぱり返した。
「悲しんでほしいなら、俺の後輩を紹介してやるよ。そいつは俺が泣けって言ったら、多分泣いてくれるぞ」
彼女は少し驚いたようだった。しかし、ややあっていつも通りの明るい笑顔を見せてくれた。
それでいいんだよ。いつも、そうやって笑ってればいいんだ。
そんなこと、言えるわけもないけれど。
「日影くんって、いじめっ子だったりします?」
「さあね」
いつの間にか、暗がりに目が慣れ始めていた。彼女の瞳に映る自分の鏡像が見える。
口角上がってだらしねえな。
帰り際、彼女はやっぱり名残惜しそうに廊下まで見送ってくれた。
「あの、」
呼び止められて、振り向く。その瞳が、やけに潤いに満ちて暗闇の中で一筋の輝きを放っていた。
「また、来てくれますか……?」
こめかみを意味もなく掻く。
「まあ、暇つぶしに困ったらな」
帰り道、なるべく街灯を避けるように歩いたのは、彼女には内緒の話だ。
人は案外、壊れやすい。
そのことを知ったのは、小学校の卒業を控えた三月のことだった。
全国小学生テニス選手権と書かれた大きな垂れ幕が、遠くの方で見えていたのを覚えている。
俺は緊張に肩を強張らせて後部座席に座っていた。水筒の中身はもう半分になっている。そのせいでトイレに行きたいそわそわとした思いが、余計にプレッシャーを増幅させた。
「いいか、一回戦の対戦相手は関西大会のベスト4らしい。いつも通り、丁寧に粘り強くラリーを続ければ、勝てるからな。ネットプレイだけは慎重に行けよ。あと、ファーストサーブは出来るだけ左右に振っていくんだ。分かったな?」
運転席に座る父親がやけに熱を持って語る。
テニススクールではもちろんコーチがいるけれど、父親も俺にとってはそのコーチの一人だった。幼い頃から熱心になってくれていたし、テニスの経験は無いのに何冊も参考書を買っては読み込んで、俺にアウトプットしてくれる。
だから、俺は父親の言葉に確かな自信が湧いたし、いくらか貧乏ゆすりが和らいだ。
小学生最後にして、ようやく掴んだ全国大会への切符だ。惜しくも東海大会で敗退した笠木の分も、俺が頑張らないといけない。
幼いながらにそんな使命感も勝手に抱えていた。
「怪我だけはしちゃ駄目よ?」
助手席の母親が、俺よりも落ち着きのない様子で振り向く。
「大丈夫だって。今まで怪我したことねーじゃん」
「そんなこと言ったって、心配なものは心配なのよ」
「もー、うるさいな。そんなことより、ちゃんと応援してよね」
口うるさい母親から目を離すように窓の外を見る。
あれ、おかしいな。
咄嗟に感じた。
刹那、横殴りの衝撃に身体がドアに叩きつけられる。シートベルトをしていなかったせいで、カーマットに転がり落ちた。
何が起きたのか分からなかった。ただ、ドアに打ち付けた左肩が燃えるように悲鳴を上げている。声も出ずに、ただ涙を浮かべてえずくことしか出来ない。
やがて、無音だった世界に喧騒が浮かび上がった。誰かの悲鳴と、うるさいクラクション。雑踏がノイズとなって頭の中を駆け巡る。
痛みに染まりそうな思考の片隅で、大会はどうなるんだろうと考えている自分がいた。その思いも、病院に運ばれて検査を受けている時に消えることになった。だって、もうどう考えても間に合わない。それどころか、自分の試合時間なんてとっくに過ぎているかもしれない。
痛み止めを打たれ、眠りについた。
夢の中でも、テニスをしていた。だって、今日試合に出られなかったんだから、仕方がない。
目が覚めて、現実を知った。
大会はもちろん不戦敗になったこと。
父親は軽傷だったこと。
まるで物語のような居眠り事故だったこと。
そして、母親が亡くなったこと。
テニスを辞めるには十分な理由だった。
だって、俺が全国大会なんかに出なければ、母親が死ぬことは無かった。
父親が鬱病になって、仕事を失うこともなかった。
それでも中学でテニス部に入ったのは、部活が強制だったし、何より俺が今までテニス以外に何もやってこなかったからだ。
もちろん、最初は他の運動部を試した。でも、やっぱり気が付けばラケットの上で蛍光色のボールを転がしていた。
それまで学業以外のほぼ全てを注いで来てしまった弊害だ。
母親を奪った根源なのに、止められない。俺はとても薄情な人間だ。自分を貶めることで、テニスをすることを正当化した。
そんな裏切りにも近いことをしてまでテニスを続けたというのに、熱意だけはあの日に置き去りにしてきてしまったらしい。続けるほどに、つまらなくなっていく。試合に勝つのが、怖くなった。
なんで好きだったのか、もうやめてくれと懇願する父親を振り切ってまで続けているのか、分からない。
同時に才能という越えられない壁に直面した。
俺は上手い。そこら辺の奴らとは違う。そう思い描いていた鼻っ面は、あの事故によってへし折られたのだ。
冷静になって俯瞰的に見れるようになった。俺に才能なんてものはない。
でも、それで良かった。もし、また勝ち進んでしまったら、同じことが起こり得るかもしれない。また、大事な人を失ってしまうかもしれない。
練習を度々サボるようになった。努力するのが怖かったから。もし自分の中に知らない才能が眠っていたら、それを呼び起こすのは至極恐ろしいことだ。
一度、父親に殴られた。痛みよりも驚きが勝った。
そして、呆然と倒れ込む俺に猟奇じみた面を向けて、言い放ったのだ。
「父さんが、お前が、母さんを殺したんだ! ――この人殺し……!」
傷つきはしなかった。だって、父親は明らかに病気だったし、第一そんなことをわざわざ言われなくても十分に理解していたのだから。
一度狂った歯車は元には戻らない。
後日、泣いて謝る父親を俺は突き放した。
今思えば、俺も少しどうかしていたんだと思う。
鼻歌が、ドアの向こうから漏れていた。
ここら辺の人間にとってはなじみ深い童謡で、一番なら誰でも歌える。電車の発車メロディーにもなっているくらいだ。聞き覚えが無い方がおかしい。
ドアを開けると、より鮮明に聞こえた。
「みかんの花が 満開で――」
陽気にそこまで歌い、彼女は俺の存在にようやく気が付く。
「――えっ……」
石のように固まる彼女。そんな、何でここにいる、とでも言いたげな表情をされても困る。
スマホを持たない彼女への連絡手段は無い。いつだって見舞いは突然のものになるのだ。
「続けないのか?」
「いや、いやいや……」
膝に乗せた掛け布団を頭まで被り、彼女は暗闇に溶け込んだ。
「上手いんだから、もっと堂々としてりゃいいのに」
サイドランプを点ける。ちょうど、みかんのような色の明かりが一帯を包み込む。
「ほ、本当ですか?」
目元だけ布団から出して、こちらを見る彼女。そんなに恥ずかしがるのなら、せめてロックとかラップでも歌っていてほしかった。そうしたら、存分にいじり倒してやるのに。
「嘘つけねえ性格なのは蛍琉だけじゃねえよ」
いつもの定位置に腰を掛け、一息つく。
無意識にスマホを取り出そうとして、慌ててポケットに押し込む。現代病とは、厄介なものだ。彼女を前にしたら、病気と呼ぶことすら憚られるけど。
「小さい頃、合唱団に入っていましたから」
「ふーん」
確かに、彼女の歌い方はしっかりと指導を受けたうえで土台が存在するものだった。素人でもたったの一フレーズからそのことが分かるのだから、お世辞抜きに本当に達者なのだろう。
「四年前に辞めちゃいましたけどね」
四年前、ね……。
もしかしたら、この生活を四年。途方もない話だ。
「それなら人前で歌うのくらい慣れてんだろ」
「上手く歌おうとか考えてないときに見られたからですよぉ」
「そういうもんかねぇ」
恥のかき損だとでも思っているのだろうか。
「それなら、今度はちゃんと蛍琉なりに上手く歌ってみてくれよ」
彼女がジトっと俺を見て、すごく嫌そうな顔をする。
「……駄目です」
「おい、何でだよ」
「日影くんには聞かせてあげませーん。どうしてもって言うのならば、日影くんが先に歌ってください」
まさか、そんな返しをされるとは思わなかった。流石にさっきの彼女の歌声を聞いた後では、首を縦に振ることは出来ない。そもそも、歌は得意ではないのだ。
「ま、いいか」
仕方がなく、引き下がることにした。そもそも、会話の切り出しに打ってつけの話題があったから引き延ばしただけだ。それ以外の何ものでもない。
でも、彼女の歌声はやけに耳に残る。まだ、俺の脳裏には彼女の潮騒のような心地よい音が滞留していた。
「みかんの花って、何色なんですかね」
暑かったのか、布団を剥いで彼女が大きく伸びをする。患者衣から柔らかに身体のラインが浮かび上がり、そっと視線を逸らす。
「知らねーよ。気にしたこともねえ」
「私も見たことないんですよ。この辺りにはみかん畑が多いはずなんですけどね」
「用が無けりゃ行くこともないだろ」
十六年住んでいて、どこにみかん畑があるのかすら知らない。童謡の舞台になるくらいだ。さぞ、名産地なんだろうが、実際に住んでいたら農家なんてものとは縁遠い。
「そうだ、今度行って確かめてきてくださいよ」
「はぁ? なんでそんなことしなくちゃならねぇんだよ」
彼女が拗ねたように頬を膨らます。そして、さも軽い口調で言ったのだ。
「じゃあ、日影くんは私に死ねと言うんですか?」
「――えっ……」
あまりにも突然の告白だった。
〝死〟という響きに言葉が詰まる。喉が締まって、呼吸がしづらい。
だって、彼女の病気がそういうものだと知らなかった。明るい場所に居られないことは聞いての通り。でも、それに伴う症状のことを彼女は語らなかった。
普段の彼女の様子を見て、厄介ではあるけれど、そんなに重い病気だなんて想像もしていなかった。だとすると、彼女の母親の過敏さにも合点がいく。
目の前の少女が、死と言うリスクを背負って生きている。そのことが、たまらなく恐ろしい。
「い、行けばいいんだろ!」
ほとんど無意識に口にしていた。考えることから逃げるように。彼女との向き合いを拒絶するための逃げ台詞だった。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
でも、彼女はそんなことはどうでも良さそうだ。というか、そもそも俺がその単語に意識を削がれていることにすら気が付いていない。ただ、瑞々しく笑顔を弾けさせて、俺に差し向ける。
「……いいよ、別に。どうせ来週の土日は暇だから」
天井を見上げた。電球色の薄衣に包まれた浅い闇が、一面に広がっている。当たり前だけど、星なんて見えやしない。
「出来れば、一緒に行ってみたかったですね……みかん畑」
悲しそうな呟きだった。
ゆっくり視線を下げると、彼女も倣ったように天井を見つめていた。透き通る硝子玉のような瞳に、3.5ルクスにも満たない暗い空が浮かんでいる。
「みかん、私大好きなんですよ」
「ふーん……」
ぶっきらぼうな俺の態度を彼女は歯牙にも掛けず、続けた。
「だって、みかんってどんな果物よりも、どんな野菜よりも、太陽浴びてるんだなぁって思いませんか?」
「……そうか?」
「そうですよ! だって、あんなに鮮やかな橙色に敵うものはありません。今にも弾けてしまいそうなくらい瑞々しくて、輝いているじゃないですか!」
熱弁の後、彼女は「実際に木になっているの見たこと無いですけど」と付け加える。
言われてみれば、そうなのかもしれない。その時、トマトとかりんごが良い勝負しそうだな、とか思ったけれど、言わなかった。だって、みかんの方が太陽っぽい色だし。
「そもそも、みかんの花って今咲いてるのかよ」
彼女は腕を組んで小さく唸る。
「どうなんでしょうね。冬が旬ですし、ちょうど良い時期に思えなくも無いですけれど」
つまり、彼女は花の咲く季節すら知らずに、俺に確認して来いと言ったのか。
ネットで調べたら開花時期も花弁の色も当然のように分かるのだろう。けれど、それはそれでつまらないなと思う。
彼女が本当に見たいと思っているのだから、俺が代わりにこの目で確かめてやるべきだ。それにもう行くと言ってしまったわけだし。
結局、その日は彼女の病気について、それ以上訊くことは出来なかった。不可思議だった彼女との暗闇での会話が、今さら現実味を帯びたようにほのかに色づきだす。
帰り際には壊れ物を扱うように、慎重に言葉を選んでいる自分がいた。らしくもない。
燃える夕照が、やけに憎らしかった。
一体、どんな山道を行かされるのかと思ったが、目的の場所は案外何度も通ったことのある道沿いを、一本逸れた場所にあった。
最寄りのバス停で下車すると、道脇にご丁寧にも看板が伺える。錆びれた端と縦に細く禿げる塗装に、かなり前からあるみかん農家なことが伝わって来た。
夏休みに突入したというのに、車通りの多い道を外れると途端に静けさが満ちる。蝉の演奏会がやかましく、なだらかな坂道にもうんざりした。
みかん農家というからさぞ広大な一面を想像したが、最初に目に入ったのはみかんの木なんかじゃなかく、でかでかと掲げられた『みかん狩り』の看板と直営所だった。
人っ子一人通らない山道沿いに構える店は、蝉だけじゃなくて閑古鳥まで鳴いている。
「思ってたのと違う……」
思わず声に出してしまった。肩透かしを食らった俺に追い打ちをかけるように、駐車場の前には『現在、みかん狩りは行っておりません』の張り紙。
そもそも、直営所とは言え、今の季節はみかんなんて収穫できやしない。だから、店先に並んだ逆さのビールケースの上には何も並んでいない。時期が来れば、鮮やかな橙黄色が網籠に山盛りになって埋まるのだろう。
ダメもとで閉ざされた奥のドアをノックしてみる。
もちろん、反応は無いのだろう。そう思っていた。だから、数拍の後に勢いよく開いたガラスドアに驚く。
出てきたのは初老のおじさんだった。俺よりも数段日に焼けており、深い皺に頬が少し垂れている。短く刈られた白髪頭はすごい硬そうに思えた。まるで剣山みたいだ、と失礼な感想を抱く。昭和の頑固おやじがテレビから出てきたみたいだった。
「はいはい、客かね」
まさか人が出てくると思っていなかったし、ましてや客かどうか尋ねられるなんて想定外だ。向こうからすれば、客であって然るべきなんだろうけど。
「客……なんすかね」
「なんだぁ、違うのか?」
そうは言っても、やっぱりどこを見渡しても商品と思しきものは置かれていない。
「何か売ってたりするんすか?」
「あ? 今はブルーベリーしか売ってねえよ。買うなら品詰中だから、奥からもってくっけど」
「いや、大丈夫っす。みかん狩りやってないか確認に来ただけなんで」
やってても多分、参加してなかっただろうけど。
「みかん狩りなら六月までのニューサマーオレンジで最後。今年は十一月からやるから出直してきな」
「そうですか。ちなみにみかん狩りの時って、みかんの花見れたりします?」
「あぁ? なんでそんなこと気になるんだ」
何でと言われても、それは俺も彼女に聞きたいくらいだ。
「まあ、自由研究みたいな。そんな感じっす。色々聞きたいなぁと」
「なぁんでい、冷やかしかよ。……まあ、いい。入りな」
そう言うと、男性は胸ポケットに下げた軍手を投げてきた。ついてこい、と指で合図される。
奥は狭い倉庫のような場所だった。入った瞬間、ほんのりと甘酸っぱい爽やかな香りが鼻腔を刺激する。プラスチックの籠が端に積まれ、大きな作業台の上には透明なパックと、見たこともない量のブルーベリーが入った箱が置かれていた。
「軍手付けて、俺のやり方を真似しろ」
そう言い、男性は大きなプラケースの前に立つ。よく見ると、蓋に大きさの違う穴がいくつも開いている。籠から鷲掴んだブルーベリーを蓋の上にどさっと置き、そのまま、左右に転がす。すると、ブルーベリーがケースの中に落ちていく。内部は三つに仕切りが建てられ、透明なケースの側面にそれぞれ『1、2、3』と書かれていた。
「ほれ、早くしろ。日が暮れるぞ」
「いや、何で手伝わされる流れになってんすか……」
それ以上、男性は口を聞いてはくれなかった。
重く息を吐くと、空いた隙間を埋めるように肺が芳醇な香りに満たされる。それだけが少しの救いだ。
仕方なく、見よう見まねで作業をすることにした。
ブルーベリーの大きさの仕分けが済むと、今度はパックへの詰め入れ作業が始まった。ぽろぽろと実を作業台に零す度に怒鳴られた。
さらに詰め終わった後はシール貼りをして、ようやくスーパーで見る形に仕上がる。全ての工程が終わると、男性が顔をあげて大きく息をついた。
「よし、お疲れ。もう帰っていいぞ」
「おい、おっさん……」
思わず軽く睨んでしまった。いや、それくらいの権利はあるだろう。なんせ、もう作業をしてから四時間が過ぎていた。
これがバイト先なら四千円だ。現金な妄想がよぎる
「冗談だ。茶入れてやるから待ってろ」
おっさんは深い皺を軽く持ち上げ、低い声で笑う。
「……うす」
しばらくすると、おっさんはティーポットとグラスを二つ持って戻って来た。グラスに緑黄色の液体が注がれる。普通のお茶にしては色味が少し薄く思えた。
「ブルーベリーの葉で出した茶だ。飲んでみろ」
「どうも……っす」
言われるがまま、口に運ぶ。匂いは全然しなかった。含んだ液体を舌で転がすと、苦みは全然なく、微かな酸味が感じられる。後はまあ、普通のお茶って感想だ。
「どうだ、あんま美味かねえだろ」
何故かおっさんは自慢げにしていた。
「いや、まあ普通にお茶っすね。別に美味いっす」
「健康には良いからな、いっぱい飲んでいけ。なんせタダだからな」
豪快に笑って見せるおっさん。仕事中とは大違いだ。そういう意味では、少しウザいけれど関心した。一粒転がしただけで鼓膜が揺れるくらい怒るのだ。それくらい、熱を持って仕事をしているのだろう。
おっさんは山積みのパックを一つ取って封を開ける。何粒かいっぺんに口に放り込んで、残りはパックごと俺の前に置く。
「ほれ、食え。こっちは正真正銘、美味えぞ」
商品なのにいいのだろうか、と思ったけれど、バイト代として貰っておくことにした。食わせてくれるのなら、傷ありなどで排除したもので良かったのに。
青紫の粒を一つ、口の中で転がしてから噛む。つるりと張った皮がぷちっと弾けて、中からしっかりとした果肉が顔を出す。小さな塊からは想像できない甘さが口内を包み込み、後から粒種の心地よい食感と共にほのかな酸味が追いかけてくる。
「うまっ……」
思わず声に出してしまうほどだった。
すると、おっさんは今日初めて見せた柔和な表情を浮かべ、その後、やっぱり豪胆に笑って見せた。少し恥ずかしかったけれど、本当の事だったし、知らぬ間に俺も頬が微かに緩んでいた。
「ブルーベリーには追熟が無いからな。採れたてが圧倒的に一番美味えのよ」
何だか、本当に自由研究のテーマに出来そうなくらいだ。作業工程から、生産者の話まで聞けるのだから、贅沢にもほどがある。無理矢理だったが、付いてきて正解だったと思う。
男二人のティータイムを終えると、おっさんはファーム内を案内してくれた。
「それで、みかんについて何か知りたいんだったか?」
斜面を等間隔に並ぶ低木を前におっさんが振り向く。どうやら、これが本題のみかん畑のようだった。
りんごや桃みたいな大木を想像していたが、みかんの木は幹が細く、高さも三メートルほどしかない。大量の厚い新緑の葉が幹を隠すように生え、青い実がたくさんなっている。
低木でなおかつ斜面になっているから、その広大さがよく分かった。
同時に彼女の歌っていた童謡の歌詞も理解できた。
遠くに青い水平線が見える。立ち昇る入道雲は、まるで海から生えているみたいだった。みかんの木々の合間を吹き抜ける清涼な風が、潮の代わりに酸っぱい柑橘の香りを運ぶ。どんなに美しい宝石も、この景色には敵わない。そう思わされるほど、俺は声も出せずに圧倒されていた。
「冬はこんなもんじゃないぞ?」
悟ったようにおっさんが言う。これでまだ未完成だなんて、とても信じられない。あの入道雲をどうにか切り取って、冬まで持ち越せないだろうか。
「写真、撮ってもいいっすか?」
「あたりめえよ。いくらでも撮りな。なんせ、タダだからな」
多分、このおっさんは普段はケチなんだろうな、と思った。それでも、見ず知らずの若者にこれだけの施しをしてくれた。
照り付ける陽射しの下、心の奥まで熱を持ってしまっては心労に繋がるというものだ。
写真として収めると、やっぱり少し感動が薄くなったような気がする。
それでも、俺は一刻も早くこの感動を彼女に見せてあげたかった。
「雲母さんは本日、検査のため面会を行っておりません」
受付の看護師に伝えられ、病院を出た。茹だる様な晴天に思わず空を仰ぐと、小さな火の玉がめらめらと燃え盛っている。いつでもそこに佇んでいるのはすごく傲慢だ。
俺が超能力者なら、今すぐにその偉そうなまん丸のど真ん中を穿ってやるのに。そんな妄想に更け、病院を後にする。
わざわざ現像したみかん畑の写真を彼女に見せたかったのだけれども、仕方がない。いつになるか分からないが、近いうちに検査を受けることは彼女から事前に聞いていた。それが今日だったのは運が悪い。
しかし、今日はもう一つ用事があったから、家を出たのは無駄足とは言わないで済む。
途中、花屋に立ち寄り、何本か包んでもらう。種類はいつも店員に任せる。今回も墓花だと伝えたら、すんなりと選んでもらえた。
色とりどりに何種類か選定して纏めてくれたけれど、生憎と菊しか分からない。
海沿いの風が強い場所に、母親は眠っている。お盆休み前ということもあってか、人はかなりまばらだ。というか、全然いない。
手桶に水を汲みながら思う。夏の墓参りは結構しんどい。墓石が太陽を反射するせいで、余計に気温が高く感じる。夏の墓場に陽炎は付き物だ。
遠くの方で海鳥が高く鳴いている。
通りがかりの墓石にひまわりが添えられていた。
変なの、と一瞬思ったけれど、中々にセンスが良い。菊なんかより、ずっと映えている。見た目が良ければなんて言うつもりはないけれど、ひまわりを墓花に選んだ人は、きっとここで眠る人のことをずっと、ずっと、大切に思っているのだろう。そうでなかったら、普通はひまわりを墓花になんて考えもしないはずだ。
俺は母親の墓花を自ら選んだことは無い。供え物だって、持って来ないことの方が多い。
母親が好きだった花なんて、俺は知らない。
柄杓で水を掬い、墓石に頭からかけた。
まだ、四年と少ししか経っていないはずなのに、どうしてか母親が亡くなってからの月日はとても長く感じる。あの事故がもうずっと昔のことようだ。
多分、色々なことがあったし、ずっと苦しいせいだ。とにかく、毎日が腐ったように重たい。世界の色彩がどこか薄暗くて、味気ない。
「薄暗いだけなら、マシなのかもな……」
きっと、母親は何のことだ、と首を傾げているに違いない。
「四年って長いよな」
墓花を添え、持ってきたマッチで線香に火を付ける。一筋の煙が立ち昇り、強い潮風に煽られた。いつだって、いなくなるのは一瞬だ。そんなことを言われているようだった。
「なあ、俺、部活辞めようと思うんだ」
もちろん、眼前の墓石からの返事はなかった。
「おぉー、これがみかん畑ですか。綺麗ですね!」
例の写真を見せると、彼女は暗中で瞳をきらきらと輝かせた。年相応のあどけない表情に、思わず目が吸い寄せられる。
俺は性格が悪いから、きっと外に出られないときにこんな景色を見せられたら、腹を立てるかもしれない。己が持ちえない他人の境遇を妬むのは自然なことだと思う。でも、彼女にはそれがない。少なくとも、そんな素振りを見せない。
「花は見れなかったけどな。五月に咲くらしい」
「桜と梅の花が散ってすぐですか。そんなに早くに咲いちゃうんですねぇ」
「十一月にみかん狩りが始まるから、その時は来いって言われたよ。多分、またこき使われるんだろうけどな」
少しも嫌な気持ちになっていない自分がいた。たったの半日だけど、おっさんとの空間は結構心地よかった。きっと何の遠慮も無しに接してくれる様が、彼女と似ているせいだと思う。
だから、俺は冬もまた訪れることを快く承諾した。
「このブルーベリー、とても美味しいですね。すごい瑞々しくて甘酸っぱいです」
軽く洗い、皿の上に平盛にした青紫色の果実を二粒口に放る。作業場で食べた時よりも、皮の張りが弱くなっている気がした。やっぱり、採れたては別格なんだなと改めて思う。
「土産だって大量に持たされたけど、食い切れなくて困ってんだよな」
「贅沢な悩みですね。そうだ、ジャムにしてみてはいかがですか?」
「料理苦手なんだよ。焦がす未来しか見えねえ……」
そんなことになれば、おっさんにもブルーベリーにも失礼だ。
「そこまで難しくないと思うんですけど。ここが火気厳禁で無ければ、私が作ってあげたいくらいです。フレンチトーストなんかと一緒に食べたら、きっと頬っぺたが落ちてしまいますよ」
なるほど、おっさんの頬が弛んでいるのは、美味いものを食い過ぎたせいかもしれない。
「本当、蛍琉って食い意地張ってんな」
「いいんですよ。私は我慢しないタイプなので。それに食べても太らない体質ですからね」
えっへんと胸を張る彼女。確かに、彼女は心配になるくらい細い。
「そりゃ、また羨ましい話だな」
検査とやらについてはまだ聞いていないけれど、きっと大事ではない定期的なものなのだろう。そう、勝手に決めつけていた。
「日影くんだって、身長のわりに痩せている方なんじゃないですか?」
「俺は部活だってやってるし、バイトも頻繁に入れてるから筋肉ついてんだよ」
彼女がすっと身体を寄せる。
「ちょっと失礼しても?」
「……勝手にしろよ」
それでは遠慮なく、と彼女が俺の手を掴み、ぺたぺたと触る。
筋肉の話をしてたんじゃなかったのかよ。
「手のひらで何が分かんだよ」
ぱっと顔をあげる彼女。距離が近くて、さりげなく座り直す。
「えっと、手が大きいなと思いまして。テニスって、どこの筋肉が一番付くんですか?」
「別に全身くまなく必要だけど、一番分かりやすいのはここなんじゃねーの」
右手を伸ばし、ぐっと力を入れた前腕部を指さす。
改めて自分の腕と比べると、彼女の色白さが際立って見えた。その白磁の指先がそっと、腕に触れる。
「な、何ですかコレ。石……?」
唖然とする彼女はちょっと面白かった。いつも飄々としているのに、まさかその仕草を崩すのが腕の筋肉だなんて拍子抜けもいいところだ。
「ずっとラケット振るわけだしな。嫌でも筋肉が付く」
「そうかもですけれど、これは誰だって驚きますよ。カチコチですもん」
彼女は自分の腕と俺の腕を交互に触り、改めて変なものでも見るかのように俺へと疑惑の表情を向ける。そして、彼女なりのテニスを表す動きなのだろうか、へろへろと腕を横に振って見せた。
「なんだ、それ。肘が伸びすぎだろ」
思わず笑うと、彼女はむっと片頬を膨らませる。
「私、テニスをちゃんと見たことが無いんですよ。一度、日影くんの試合とか見てみたいです」
それはまた、無理な相談だ。彼女は録画した映像すら見ることが出来ない。夜中に照明も無しにやれとでも言うのだろうか。
「俺は弱いから見なくていいよ。どうせ、一か月後の大会だって地区予選負けだろうしな」
卑屈、と言うわけではない。客観的に見た予想だ。事あるごとに理由を付けて練習をサボって、熱意もない。そんな奴が他の人よりも上手いなんて許されるはずがない。それこそ、才能が無ければありえない話だ。
カタッ、と小さな音がした。
ドアの曇りガラスに鳥影が射すのと、締め切っていたドアが勢いよく開くのはほぼ同時だった。
「――えっ……?」
次の瞬間、視界の大部分が真っ白に染まる。瞳の奥を光球が瞬き、揺れ動く。その眩い光は暗闇を切り裂き、俺と彼女を照らし出した。
心臓が脈を打ち損じたのかと思うくらい、大きく飛び跳ねる。
何が起こったのか分からないのに、ぞわっと肌が粟立った。その光があまりにも強く、この部屋に相応しくないものだったから。
「あっ、やっぱり誰かいた!」
光の奥から声が聞こえる。小学生くらいの少年が二人、開け放たれたドアの前に立っていた。その手元には強烈な光線を放つスマホが握りしめられている。
「でも、えろいことしてないじゃん」
「えー、どうかな」
まっさらだった思考が不意に速度を上げる。
ほとんど条件反射で立ち上がっていた。
「――お前ら!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。その声に少年たちの表情が固まる。
一拍遅れて、椅子が床を叩く。
「早く、その明かり消せ!」
ほとんど襲い掛かるように手を伸ばしていた。点から放射状に広がる明かりを手のひらで鷲掴むと、一瞬にして世界の色が深まる。光の残滓を残した病室は、それでもまだ危ないほど明るいと錯覚してしまう。
スマホを離さない少年を廊下に突き飛ばす。とにかく、一刻も早く暗闇を取り戻さないといけない。そう思った。
二人を廊下に引きずり出し、背後のドアを勢いよく閉める。
「お前ら、何してんだ!」
尻餅をつく少年に馬乗りになり、スマホを力ずくで奪い取る。見たことのない機種で、ライトの消し方が分からなかった。
少年たちの顔が恐怖に塗れるのを気にすることも出来ず、ただひたすらに焦る。早く消さないと。それだけしか考えられなかった。
閉めたはずのドアがゆっくりと開く。無意識にスマホを投げ捨てていた。ビニル床を硬く鋭い音を立ててスマホが転がり滑る。
「日影くん……」
背中から聞こえた声に、我に返る。ようやく、自分の息の荒さを認識した。滲んだ額の汗がだらりと頬を這う。
少年の肩を床に押し付けた左手が勝手に緩んだ。
「な、何だよ、コイツ!」
少年たちがこちらの様子を窺うように去っていくのを横目に、彼女を振り向く。何故か、彼女は心配そうに俺を見ていた。
いや、蛍琉がそんな表情をするのはおかしいだろ……。
そんな言葉を飲み込み、彼女の細い肩を掴む。
「お、おい! 大丈夫なのかよ!?」
〝死〟という言葉が、ずっと頭の中を駆け巡っていた。
しかし、彼女は狼狽する俺を見て、緩やかに笑みをつくる。いつも通りの優しいものだ。
「大丈夫だよ」
その一言で急に身体の力が入らなくなった。背中を二度、ぽんぽんと軽く彼女の手が撫でる。
だから、それも俺がするべきものだろ……。
「でも、ちょっとびっくりしたね」
柔らかく彼女が笑う。
こういう時ばかり、どうして敬語が抜けるんだ。
ゆっくりと汗が引いていく。それと同時に渦巻く感情が凪いでいった。
彼女は確かに何も問題無さそうに見えた。ひとまず、ほっと息をつく。
強烈な光だった。何ルクスか知らないけれど、それは明らかにろうそくの火なんか目じゃなかったし、部屋に点る淡いサイドランプの光すら真っ白に溶かしたのだ。3.5ルクスよりも明るいのは明白だった。
「ねえ、」
彼女が俺を覗き込む。ほど近い距離に慌てて掴んだ肩を離して、一歩距離を取る。
「アイス、買ってきてください。甘いもの食べたら、きっと日影くんも落ち着きますよ」
彼女が言うのだから、そうなんだと思った。何より、今は自分で何かを考えられるほどの余裕は無かった。
言われるがまま、売店に向かった。彼女が望んだのだから買ってこなきゃ、なんて思いが大きかった。
俺が過剰に心配し過ぎただけなのだろうか。
もしかしたら、少しくらいなら明るいところも問題ないのかもしれない。医者も、彼女の母親も、過度な暗闇を強いているだけ。本当はそこまで過敏になるような病気じゃないのではないだろうか。
いつものいちご味は売り切れだった。仕方がないから、バニラ味とキャラメル味を両方買った。どっちかは俺が食べればいい話だ。
みかん畑がぼんやりと脳裏に浮かぶ。ひょっとしたら、彼女と一緒に見に行けるかもしれない。他にも、彼女が望む場所に連れて行ってやることが出来るかもしれない。
そんな淡い期待と思い描く未来を、彼女は四十一度という高熱で打ち砕いた。
親父がネオンに色づくホテルから出てきたのを見た。笠木よりも先に俺が気付けたのは、そこが父親の現在の職場だと知っていたからだ。
すぐに踵を返し、背を向ける。
「どうしたんすか、先輩?」
不思議そうに笠木が後を付いてくる。
「アイス、食いてえ」
「ふーん、珍しいっすね。でも、それならこの先にコンビニがあるじゃないっすか。なんで、わざわざ戻るんすか」
「いいんだよ。奢ってやるから、付いてこい」
納得がいかなそうな笠木だが、ひとたび俺が足を速めると彼もそれに倣う。確かにコンビニは親父の出てきたホテルのすぐ横にあったし、苦しい言い訳だ。
親父がホテルの清掃員だということは、笠木には伝えてあった。しかし、それがどういうホテルなのか、ということまでは彼は知らない。
一度、恥ずかしいから辞めてくれと親父に相談したことがあった。偶然、さっきのように親父が仕事場から出てくるところを同級生に見られて、散々からかわれたからだ。
職業に貴賤なし。当たり前のことを、年頃の俺は受け入れられない。その理由が、夜間の給与が高いからというのだから尚更のことだ。
狭い世界で生きている俺たちにとって、親父の職場は異分子だった。
すっかり生気を失った親父は見るに堪えられない。これ以上、酷い有様を周りに知られたくは無かった。
我ながら、親不孝者だと思う。何もかもが、気に入らない。口を開けば不平不満。そこに感謝の言葉は一切無い。
それでも、結局はつまらない見栄と意地を張って素直になれない自分が、一番許しがたかった。
「え、先輩珍しいもん買ってるっすね。それ高いっすよ」
無意識にいつものいちご味と青い棒アイスを手に取っていた。
「……やらねーよ」
棒アイスを笠木に渡し、俺はいちご味のカップアイスを食う。
「甘っ……」
どうしてか、炎天の下で食べるよりも、あの空間で食べたアイスの方が美味しかった。それに、歩きながらのカップアイスは恥ずかしい。普通に後悔した。
それでも、シェアハピなんてしてやらなかった。彼女が未だ目を覚まさずに食べられない分だけ、俺が食ってやりたかった。
結局、渇きに悩まされながら帰路に付く。
親父は既に帰宅していたようで、玄関を開けると微かに醤油の匂いが鼻をくすぐる。
濡れた髪も乾かさず、親父がテーブルで野菜炒めだけを食べていた。白米も、味噌汁も、飲み物すらそこには無い。
元々、あまり食べる人ではなかったけれど、鬱になってからは余計にその小食っぷりが顕著になっていた。
鬱って、後遺症とかあるのだろうか。それとも、完治なんてのは嘘で、実はまだ治ってないとか。そう思ってしまうほどに、親父は様変わりした。実親に抱く感情ではないけれど、別人のようで、何となく怖い。
不意に、脳裏に彼女が浮かぶ。
嘘つかないって言ってたくせに。
「そんなんで足りるのかよ」
やせ細った身体に意味もなくイラつく。
「あぁ、おかえり。日影の分も用意してあるから」
台所に目を向けると、ラップのかかった野菜炒めが置かれている。ご丁寧に俺の分だけ豚肉入りだ。それに、小鍋からは白い湯気が立っているし、炊飯器は保温のランプが点灯していた。
「倒れても、看病なんてしねえからな」
きっと、この家が冷たくなったのは親父のせいではない。俺のせいだ。
分かっていても、ありがとうの一言が出てこない。いつも、何かの目の敵にして悪態をついてしまう。そんな資格、母親を殺した俺にあるはずがないのに。
「……明日は部活か?」
「昼、部活。夜、バイト。飯はいらねえ」
トレーに野菜炒め、それと茶碗によそった白米と味噌汁を載せる。冷蔵庫を開けると、ジャムにしてもなお余っていたブルーベリーが一パック、寂し気に佇んでいた。
「そうか、父さん夜勤だから」
そう言い、父親は財布を取り出す。
「金ならいらねーよ。賄い出るから」
いつも言ってるのに。そう思い、ふと振り返る。
俺だって嘘ついてんじゃん。
小皿に分けたブルーベリーを親父の前に置く。親父は自分の買ってきたものにしか手を付けない。こうでもしないと、食べないのだ。
突然差し出されたそれに目を向け、俺にぼんやりと一瞥を投げる親父。
「……そうか」
結局、そんな一言が返って来た。だから、俺もそれ以上は何も言わず、トレーを持って逃げるように自室のドアを開けた。
夕飯を食べ終え、ベッドに横たわって思いだした。
親父の誕生日、今日じゃん。
もうリビングから物音は聞こえなかった。
彼女が目を覚ましたのは、倒れてから五日後のことだった。というのは、俺の勝手な予想だ。だって、俺はもう一か月も彼女に会っていない。
彼女が倒れてから毎日病院に通い、面会を許されたのが、あの日から五日後だった。
俺は彼女の安否だけ聞き届け、そのまま病院を出た。
理由は二つ。一つは彼女に会うのが怖かったから。あの日、俺が見舞いに行かなければ、彼女と話していなければ、あの小学生たちが来ることは無かった。
俺のせいでまた人が死ぬかもしれなかったのだ。
彼女だって、きっと嫌な思いをしたはず。そんな感情では収まらないかもしれない。恨まれてもおかしくない。だって、本人は気を失うほどの高熱に何日も悩まされたのだから。
それこそ、医者の話では病院でなければ危なかったかもしれないと言っていた。
たった数秒の光に照らされただけなのに。
俺は〝死〟という言葉を聞いてもなお、彼女の病気について楽観視していたのかもしれない。その事実が、我ながら恐ろしい。人が簡単に死んでしまうことを誰よりも知っていたはずなのに。
そして、もう一つの理由は彼女の母親に言われてしまったからだ。もう、娘に会わないでください、と。
一時の感情ではなく、真摯に告げられた。
何も言えなかった。言えるわけがなかった。
その思いは流石に反発出来ない。彼女にアイスを食わせるなって言うのとはわけが違う。純然たる一人の母親としてのお願いだったからだ。
結果として、俺と関わって彼女は苦しんだ。だから、素直に頷く以外に出来る術がなかった。
またいつも通りの日常に戻るだけだ。
ライン際に鋭く刺しこむボールを辛うじてはじき返す。何度も経験したシチュエーションに足がついて行かない。
それまで難なく返せていたのに、練習をサボりすぎたツケが回ったのだろう。それか、試合中にずっと他のことを考えてしまっているせいだ。
いつも通りは、努力をしないといつまでも続かない。それまでの自分の努力について行かないと、成しえないのだ。
ふわっと浮いた緩いロブに瞬間的な諦めがよぎる。同時にまた一つ、俺を構成する何かが弾けて溶けた。
ここで相手がスマッシュをミスって、首の皮が一枚繋がる。そして、劇的な逆転。そんなあまりにチープなテンプレは無く、決して届かない線の内側にボールが叩き込まれる。
「ゲームセット、ウォンバイ 吉田 6-4」
一度も負けたことのなかった奴に敗北した。
正直、悔しい。しかし、それ以上に空虚な思いが試合前も、今も、ずっと胸中を染め上げている。
こんなもの続けて、一体何になるんだ。
彼女が欲してやまない世界で、どれだけ無駄な時間を過ごしているんだろう。
「よし、これで全員ローテしたな」
顧問の声に、その場にいた全員が何を言うでもなく輪になって集まる。
「それじゃあ、来週の地区予選団体の選手を発表する」
不平不満の出ない、部員総当たりでの順位決め。その十位までが学校ごとの団体メンバーに選ばれる。といっても、さらにそこから出場できるのはシングルスの三人、そして、ダブルスの四人。残りは補欠だ。コート内に入って試合に出れない、一番中途半端で歯がゆい人たち。
笠木を先頭に次々名前が呼び出され、十人のうちに俺の名前も告げられる。
「次、現時点でのオーダー順を発表する」
胃がチクりとする。最後の試合の負けは痛かったと思う。
「ダブルスは若元・田島、押野・坂本。シングルスは笠木、山内、そして吉田。以上の七名」
何故か、とても恥ずかしくなった。周りの目が見れない。
妥当だ、と思う。でも、今まで一度もスタメン落ちしたことは無かったから、名前を呼ばれないことに悔しさよりも、ある種の羞恥を抱いた。
そんな傲慢な思い上がりを張り詰めた一言が切り裂く。
「ちょっと、待ってください!」
話が終わり、輪が崩れかけた瞬間、対角にいた笠木が声を上げる。その緊張感のある大きめな声に、顧問を含む全員が笠木へと視線を向けた。
「どうした、何かあったか?」
顧問が不思議そうに首をひねる。
「なんで、佐藤先輩がスタメンじゃないんですか?」
ひゅっと喉が締まる。逸れかけていた視線が再び、俺を射抜くように向けられた。
「佐藤は四番手だ。誰か故障したり、言いづらいが敗戦処理に出てもらう」
顧問はきっぱりと言いのけた。予備メンバーというのはそういうものだと理解しているけれど、実際に言葉にされると結構しんどい。
「だって、佐藤先輩と吉田先輩は勝利数が一緒じゃないですか」
「だとしても、佐藤は吉田に直接負けただろ。それに、得失ゲーム数も吉田の方が上だ」
「でも、佐藤先輩は今まで吉田先輩に負けたことなかったはずです! 本当に勝ちに行くなら、そういうコンディションや過去のことも含めて選ぶべきだと思います!」
顧問は困ったように息を吐く。所詮、この人は外部コーチに言われた通りにしているだけだ。だから、困惑しているのだろう。
文句ならコーチに言ってくれと、渋そうな顔が物語っている。
「あのな、それじゃ実際に佐藤に勝った吉田が可哀そうじゃないか」
「それは……でも、大会に勝つならベストメンバーで挑むべきなんじゃ――」
「おい……!」
顧問と笠木の言い争いに、部長の山内が割って入る。
一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
山内は笠木をひと睨みすると、顧問に向き直る。
「先生、この後職員会議ですよね。話をまとめて後で報告に行きます」
「そ、そうか。じゃあ、頼んだぞ、山内」
逃げるように顧問がコートを後にする。正直、教師としてどうなんだと思わなくもない。でも、気持ちは分かる。俺だって、一緒に出ていきたかったくらいだ。
顧問の姿が見えなくなったのを確認して、山内が気怠そうに舌打ちをする。
「笠木、余計な面倒事つくんな」
きっと、山内だけの言葉じゃない。ここにいる全員の総意だった。
「でも、」
「でもじゃない! 一年が自分の考え押し通してんじゃねえよ」
「間違ったことは言ってません!」
「間違ってるだろ! 何のための総当たり戦だと思ってるんだ!」
二人の言い争いから目を離すように空を仰ぐ。
青すぎて、うんざりした。全てのみ込んでくれそうな気配を醸しているくせに、何も持っていっちゃくれない。
「でも、佐藤先輩は本当はもっと……」
ぎりっと奥歯が軋む。無意識に後ろ髪を引っ掻いていた。
「大体、いつも佐藤が、佐藤がって。そんなに佐藤が好きなら笠木、お前の枠を譲ればいいじゃねーかよ!」
いつの間にか、多くの部員が山内と同じ目を笠木に向けていた。どうしてか、俺が睨まれている気分だった。
「そ、それでも、構わないです!」
どろっとした何かが胸の内で落ちる。
刹那、思う。
あっ、駄目だ……。
せき止めていた何かが抜け落ちる気配がした。
「佐藤先輩は本当は僕なんかより全然上手いんです。だから、それでも――」
「――笠木ッ!」
自分の大声にびりびりと鼓膜が痺れる。
耳をすませばやまびこが聞こえてきそうなほど、辺りが静寂に染まった。
全員が、俺に意識を向ける。
もちろん、笠木も俺を見ていた。驚いた表情に、余計腹が立つ。
いつの間にか、ちぎれるんじゃないかと思うほど強く下唇を噛んでいた。
「ど、どうしたんですか? ……先輩?」
どうしたじゃねえんだよ。
怒鳴りたい気持ちを抑え、浅く息を吸う。わななく口をぐっと噛みしめて堪えると、今度は瞳が勝手に笠木のことを睨んでしまった。
どうしても、抑制しきれない感情が溢れ出してしまう。
もう一度、空を仰ぐ。今度は、いくらか感情を持っていってくれたのかもしれない。
「もうこれ以上、俺に恥をかかせんなよ」
吐き捨てるような言葉だった。
怖くて、笠木の顔は見れない。
「えっ、それは……」
「――だからっ! うぜえっつってんだよ!」
結局、声を荒げてしまった。
我慢しようにも、出来なかった。
ゆっくりと視線を下げる。笠木は、ひどく悲しそうな顔をしていた。
胸がえぐられるように痛む。でも、こんな顔をさせたのは紛れもない俺自身だ。
ただの八つ当たり。感情の昇華をしきれなかった俺の未熟さが招いたものだ。
逃げるように背を向けた。ラケットを握る手が痺れる。思いっきり握りしめていないと、零れ落ちてしまいそうで。
荷物をまとめてコートを飛び出す俺を、誰も追いかけては来なかった。
それからの日常は、やけに灰色に染まっていた。
結局、俺は控えの選手として登録されたものの、練習は顔を出しづらくて度々サボった。顧問も俺を試合に出すことは無いと踏んでいるのか、あまりとやかく言われることはない。
それよりも、笠木と顔を合わすのが億劫だった。
あれ以降、彼とは話していない。顔を合わせれば、なぜか申し訳なさそうにするし、俺は意図して避けるようにしていたからだ。
ずっと慕っていてくれていた年下相手に、本当俺って何をやっているんだろう。
彼女にも会いに行けていない。
彼女の母親に来るなと言われたし。
そんな免罪符で彼女との対話を拒んでいた。会えば、何を言われるか分からない。とにかく、怖かった。
結局のところ、俺は憶病なのだ。色々なことから逃げて、そのくせ口と態度は大きくて、まるで臆病者な自分を隠すようにそれらが抑えられない。
「ほんっとう、だせぇな……」
足下にひらりと舞い落ちた紅葉を踏みしだき、呟く。熱するような暑さも落ち着き、半そでのユニフォームでコートに向かう笠木をぼんやり眺めながら、ウインドブレーカーのチャックを上げる。
まあ、いい。今日が終われば、退部届を出す予定だ。
東海に出場する笠木を不動のエースと置いても、ウチの部活は地区大会敗退が決定していた。
これはいわば消化試合というやつだ。勝とうが、負けようが、何の意味もないもの。相手だって既に県大会出場が確定しているから、なおの事、緊張感に欠ける。
三面同時進行で行われる試合は、左からダブルスの二人、そして、真ん中のコートに笠木。一番右のコートに三番手の吉田が入る。そのはずだった。
「おい、佐藤」
顧問に呼ばれ、少し嫌な予感がした。どうせ、雑用を押し付けられるのだろう。そう思っていたから、顧問からの提案は意外なものだった。
「吉田の代わりに試合入ってくれ」
「はぁ……?」
思わず、ため口になってしまった。しかし、顧問はそんなことを歯牙に掛ける余裕も無いようで、慌ただしそうに審判へと合図する。
「さっきの試合でな、吉田が手首を痛めたらしい。だから、この試合はお前が出るんだ。ウォーミングアップはしてあるよな?」
黙って頷く。
全くもって嘘だ。どうせ試合に出ることはないと思っていたし、そんなものしちゃいない。でも、言ったら、後で怒られるだろうから、大人しく首肯しておいた。
「……分かりました」
どうせ、意義のない試合なのだ。他の部員も笠木の応援に駆り出ているし、観客は見事に少ない。
引退試合か……。
こんな風に迎えるなんて、思ってもいなかった。晴れ晴れしい幼少期の頃には想像もつかないものだ。きっと、自分は有名な選手になって、大舞台で幕を下ろすのだと信じて疑わなかった。
今になって思えば、あまりに無謀で、現実味の無い話だ。
靴ひもを結び直し、ラケットを握りしめてコートに繰り出す。相手は夏に個人戦で負けた相手だ。もちろん、今回だって勝てると思っていないし、誰も期待していない。
親父には今日は出場しないと伝えてある。顧問すら、笠木に夢中でこっちに目すらくれない。
でも、それで良かった。これ以上、惨めな姿は誰にも見られたくないのだから。
試合は想定内に進んだ。終始、リードされ続ける展開。練習不足が身に染みるミスばかりしてしまう。
それでも、心中は穏やかだった。闘争心の欠片も無い。まるで、練習試合かのようだ。それどころか、試合となった途端、顔つきが変わった相手に申し訳なくなってしまう。
早く終われとは思わない。だけど、とにかく少しでもマシな印象を持って終わらせることに必死だった。
対角線の相手をずらすように、反対側へと球を返す。
視界の端に、麦わら帽子が映った。強い返球が来て、すぐに目を逸らす。
十月に麦わら帽子はおかしいだろ。
そんなどうでもいいことを思いながら、山なりに返す。若干の猶予が生まれ、もう一度それが映り込んだ。
「――えっ……」
思わず、一瞬立ち止まってしまう。そのせいで、返球への走り出しが遅れる。でも、そんなことどうでも良くて、既に目で球なんて追っちゃいなかった。
「アウトッ!」
審判のコールがやけに遠く聞こえる。周りがすっと遠ざかるように意識の外へ置き去りになり、麦わら帽子の少女だけが、俺の目を掴んで離さなかった。
「蛍琉……?」
フェンス越しの脇に、彼女が立っていた。白いワンピースに身を包み、大きな鍔の麦わら帽子をかぶっている。まるで、夏の景色から飛び出したような季節外れな服装だ。
幻覚を疑ってしまった。ついに、そこまで来たのかと。
でも、違った。確かに聞こえた。
「ファイトーッ! 日影くんー!」
忘れようのない、透き通った声だった。
彼女と目がばっちり合う。緩やかに手を振る彼女に、俺は呆然と突っ立つことしか出来ない。
「きみ、早くポジションにつきなさい」
審判の声かけに我へと返った。
「タ、タイム! 足がつっちまいました」
「……確かに変に止まっていたね。処置しなさい」
おぼろげに頷き、コートを離れる。
頭の中で、色々なことが渦巻いた。
とにかく、一刻も早く彼女を日陰へ――明かりの無い場所に連れて行かないと。その一心で、コートの出口へと足を向けた。
その時、彼女と目が合ってしまった。そして、思いだした。一度でいいから、俺がテニスをしている姿を見たいと言っていたことを。
それに、視界にいる彼女が首を振るのだ。俺が試合を放棄して駆け寄ろうとすることを必死に拒んでいる。
心臓がうるさいくらい瞬いていた。
一体、俺はどうすればいいのだろう。
正解なんて一つだ。でも、本当にそれでいいのだろうか。
だって、彼女の瞳はとても真剣で、まるでおもちゃを貰った子供の様に輝いていたのだから。それを奪い去ってしまうのは、それこそどうかしている。そう、思った。
「頑張れ……!」
小さく、彼女が呟いた。その言葉で、俺は弾かれるようにフェンスから離れる。
気が付けば、再びラケットを手に取ってコートに立っていた。手でつく球を眺め、本当にこれでよかったのかと自問する。
それからはとにかくがむしゃらだった。ただただ、必死に目の前の球を足で追っていた。
危険を冒してまで観に来た彼女を失望させたくない。カッコ悪いところを見せたくない。だから、とにかく負けたくない。
いつしか忘れかけていた感覚が身体に戻って来る。湧き立つような、それでいて頭は冴えわたっているあの感覚。やけに視野が広く思えて、相手の一挙手一投足まで予測が立つ。次に自分が打たなければいけないコースがいくつも浮かぶ。
汗が滴る。全身が紅潮して、まるで炎天下にいるみたいだ。
今日は天気が良い。太陽が燦々と彼女に降り注いでいた。
相手の球がネットの上段、白線を強く叩き、勢いを殺して緩やかにこちらのネット際に落ちていく。
彼女も一緒に戦ってくれている。そう思えば、無理だと頭で分かっている球にも前のめりで飛び込めた。
倒れ込みながら必死に手を伸ばす。
ラケットの先を球が軽く当たり、ふわっと浮く。今度は、俺の返球がネットの白い帯にぶつかり、阻まれる。
音もなくネットの真上を上がった球が境界線を叩き、ゆっくりとこちら側に落ちた。
「ゲームセット、ウォンバイ 高城 6-5」
静寂が終わりを告げるコールで引き裂かれる。地面に倒れ込んだ俺は、茫然と目の前を転がる球を目で追っていた。
呼吸が頭の中で反響してうるさい。鼓動の一つ一つが、血を送り出すその動作が、やけに大きく聞こえる。
悔しい。
いつぶりかに芽を出した感情だった。あと一歩が届かなかったのは、紛れもなく日々の練習の積み重ねがおろそかだった証だ。
最後の球だって、もっと走り込みに参加していれば、ウォームアップを欠かさなかったら、取れたかもしれない。
そう、結局はたらればというやつだ。勝てたかもしれない。泥臭くても、ちょっとはかっこよく見せれたかもしれない。
それでも、勝敗というのは二つしか無くて、今回も負け。今までと何ら変わらない結果だけが残った。
「きみ、早く立ちなさい」
審判の声に視線を上げる。
覗き込む男性をぼんやりと見上げる俺に、彼は首を傾げた。
「それとも、また怪我かい?」
ふと、我に返った。
意識の波が濁流のように押し寄せ、思考の荒波をつくる。
「だ、大丈夫っす! ありがとうございました!」
一方的に相手に挨拶を済ませ、男性の呼びかけを無視して俺はコートを飛び出す。
よろける足を殴りつけ、彼女を探す。さっきまでいたところに、彼女の姿は無かった。
「――ッ! クソッ!」
あんな季節違いの帽子を被っているんだ。すぐに見つかる。逸る心に必死に言い聞かせる。
遠くの方で、サイレンが聞こえた。思わず、吐き気がこみ上げてくる。
自分のしてしまった事の大きさに、今さら取り返しのつかない罪悪感に、押しつぶされそうになった。
逆流してくるそれを無理矢理押さえつけながら、音の鳴る方へ向かう。
白塗りの救急車の傍らで、フレアワンピースがふわりと風に靡いた。大きな木の下で、ぐったりと目を閉じる少女の姿。
ガンガンと激しく殴りつけられるような頭痛に苛まれた。
救急隊がタンカに彼女を乗せる。
「どなたか付き添いの方は――」
照り付ける陽射しも、明滅する救急車の赤い警光灯も、全部憎らしかった。
「乗ります!」
救急隊の人が訝し気な視線を向ける。
「きみは?」
「知り合いっす! 雲母蛍琉! ほら、知ってる!」
そんな、意味の分からないことばかり口から出る。とにかく、必死だった。
「……早く乗って」
運び込まれていくタンカに次いで、救急車に飛び乗る。
「おい、蛍琉! おいっ!」
俺の呼びかけに、彼女は目を開けない。苦しそうに荒い息を立て、必死に呼吸をしていた。
「ちょっと離れて」
救急隊に押しのけられ、狭い車内にずるりと垂れる。恐ろしくて、がくがくと足が震えていた。
「熱が高いな……」
救急隊の呟きにびくりと肩が跳ねる。
ふと見上げると、救急隊の男性がペンライトを彼女に押し当てようとしていた。
「やめろ!」
思わず、それを払いのける。それから、ようやく気が付く。車内は明るすぎる。白色のライトが全体を眩しいくらい照らしていた。
「きみ、一体何を……!」
「彼女! ……明かりが駄目な病気なんです! だから、そんなもん使っちゃ駄目だ! この電気消してください、はやく!」
彼女に覆いかぶさり、天井から注ぐ光を遮る。パニックになる中、とにかく、服から覗く肌を隠すことに必死だった。
「いいから、私たちに任せなさい!」
「分かってる! ……そんなの分かってるから! とにかく、一旦明かりを消してください!」
救急隊の人たちは何度か言葉を重ね、やむなしといった風に天井の明かりを消した。ふっと、車内が薄暗くなる。それでもまだ、彼女には明るすぎるように感じた。
「さあ、早くどくんだ」
救急隊に引きはがされそうになって、思わずぎゅっと彼女を掴む腕に力を入れてしまった。
「……げ、くん? ……ひ、かげ……くん?」
耳元で、彼女が喋った。弾かれたように顔を上げると、額に汗を滲ませ、彼女はうっすらと目を開けて確かに俺を見つめていた。
「そ、そうだ! 俺だ!」
そう返すと、彼女は苦しそうだった表情をやわらげ、にっこりとか弱く笑みを零す。
「ふふっ……、あの、ね。……かっこよかった……よ……?」
彼女が言い終わるのと同時に、強引に救急隊の人によって彼女からはがされる。
羽交い絞めにされる最中、俺は改めて自分の犯した罪の大きさに嗚咽を漏らした。