一体、どんな山道を行かされるのかと思ったが、目的の場所は案外何度も通ったことのある道沿いを、一本逸れた場所にあった。
最寄りのバス停で下車すると、道脇にご丁寧にも看板が伺える。錆びれた端と縦に細く禿げる塗装に、かなり前からあるみかん農家なことが伝わって来た。
夏休みに突入したというのに、車通りの多い道を外れると途端に静けさが満ちる。蝉の演奏会がやかましく、なだらかな坂道にもうんざりした。
みかん農家というからさぞ広大な一面を想像したが、最初に目に入ったのはみかんの木なんかじゃなかく、でかでかと掲げられた『みかん狩り』の看板と直営所だった。
人っ子一人通らない山道沿いに構える店は、蝉だけじゃなくて閑古鳥まで鳴いている。
「思ってたのと違う……」
思わず声に出してしまった。肩透かしを食らった俺に追い打ちをかけるように、駐車場の前には『現在、みかん狩りは行っておりません』の張り紙。
そもそも、直営所とは言え、今の季節はみかんなんて収穫できやしない。だから、店先に並んだ逆さのビールケースの上には何も並んでいない。時期が来れば、鮮やかな橙黄色が網籠に山盛りになって埋まるのだろう。
ダメもとで閉ざされた奥のドアをノックしてみる。
もちろん、反応は無いのだろう。そう思っていた。だから、数拍の後に勢いよく開いたガラスドアに驚く。
出てきたのは初老のおじさんだった。俺よりも数段日に焼けており、深い皺に頬が少し垂れている。短く刈られた白髪頭はすごい硬そうに思えた。まるで剣山みたいだ、と失礼な感想を抱く。昭和の頑固おやじがテレビから出てきたみたいだった。
「はいはい、客かね」
まさか人が出てくると思っていなかったし、ましてや客かどうか尋ねられるなんて想定外だ。向こうからすれば、客であって然るべきなんだろうけど。
「客……なんすかね」
「なんだぁ、違うのか?」
そうは言っても、やっぱりどこを見渡しても商品と思しきものは置かれていない。
「何か売ってたりするんすか?」
「あ? 今はブルーベリーしか売ってねえよ。買うなら品詰中だから、奥からもってくっけど」
「いや、大丈夫っす。みかん狩りやってないか確認に来ただけなんで」
やってても多分、参加してなかっただろうけど。
「みかん狩りなら六月までのニューサマーオレンジで最後。今年は十一月からやるから出直してきな」
「そうですか。ちなみにみかん狩りの時って、みかんの花見れたりします?」
「あぁ? なんでそんなこと気になるんだ」
何でと言われても、それは俺も彼女に聞きたいくらいだ。
「まあ、自由研究みたいな。そんな感じっす。色々聞きたいなぁと」
「なぁんでい、冷やかしかよ。……まあ、いい。入りな」
そう言うと、男性は胸ポケットに下げた軍手を投げてきた。ついてこい、と指で合図される。
奥は狭い倉庫のような場所だった。入った瞬間、ほんのりと甘酸っぱい爽やかな香りが鼻腔を刺激する。プラスチックの籠が端に積まれ、大きな作業台の上には透明なパックと、見たこともない量のブルーベリーが入った箱が置かれていた。
「軍手付けて、俺のやり方を真似しろ」
そう言い、男性は大きなプラケースの前に立つ。よく見ると、蓋に大きさの違う穴がいくつも開いている。籠から鷲掴んだブルーベリーを蓋の上にどさっと置き、そのまま、左右に転がす。すると、ブルーベリーがケースの中に落ちていく。内部は三つに仕切りが建てられ、透明なケースの側面にそれぞれ『1、2、3』と書かれていた。
「ほれ、早くしろ。日が暮れるぞ」
「いや、何で手伝わされる流れになってんすか……」
それ以上、男性は口を聞いてはくれなかった。
重く息を吐くと、空いた隙間を埋めるように肺が芳醇な香りに満たされる。それだけが少しの救いだ。
仕方なく、見よう見まねで作業をすることにした。
ブルーベリーの大きさの仕分けが済むと、今度はパックへの詰め入れ作業が始まった。ぽろぽろと実を作業台に零す度に怒鳴られた。
さらに詰め終わった後はシール貼りをして、ようやくスーパーで見る形に仕上がる。全ての工程が終わると、男性が顔をあげて大きく息をついた。
「よし、お疲れ。もう帰っていいぞ」
「おい、おっさん……」
思わず軽く睨んでしまった。いや、それくらいの権利はあるだろう。なんせ、もう作業をしてから四時間が過ぎていた。
これがバイト先なら四千円だ。現金な妄想がよぎる
「冗談だ。茶入れてやるから待ってろ」
おっさんは深い皺を軽く持ち上げ、低い声で笑う。
「……うす」
しばらくすると、おっさんはティーポットとグラスを二つ持って戻って来た。グラスに緑黄色の液体が注がれる。普通のお茶にしては色味が少し薄く思えた。
「ブルーベリーの葉で出した茶だ。飲んでみろ」
「どうも……っす」
言われるがまま、口に運ぶ。匂いは全然しなかった。含んだ液体を舌で転がすと、苦みは全然なく、微かな酸味が感じられる。後はまあ、普通のお茶って感想だ。
「どうだ、あんま美味かねえだろ」
何故かおっさんは自慢げにしていた。
「いや、まあ普通にお茶っすね。別に美味いっす」
「健康には良いからな、いっぱい飲んでいけ。なんせタダだからな」
豪快に笑って見せるおっさん。仕事中とは大違いだ。そういう意味では、少しウザいけれど関心した。一粒転がしただけで鼓膜が揺れるくらい怒るのだ。それくらい、熱を持って仕事をしているのだろう。
おっさんは山積みのパックを一つ取って封を開ける。何粒かいっぺんに口に放り込んで、残りはパックごと俺の前に置く。
「ほれ、食え。こっちは正真正銘、美味えぞ」
商品なのにいいのだろうか、と思ったけれど、バイト代として貰っておくことにした。食わせてくれるのなら、傷ありなどで排除したもので良かったのに。
青紫の粒を一つ、口の中で転がしてから噛む。つるりと張った皮がぷちっと弾けて、中からしっかりとした果肉が顔を出す。小さな塊からは想像できない甘さが口内を包み込み、後から粒種の心地よい食感と共にほのかな酸味が追いかけてくる。
「うまっ……」
思わず声に出してしまうほどだった。
すると、おっさんは今日初めて見せた柔和な表情を浮かべ、その後、やっぱり豪胆に笑って見せた。少し恥ずかしかったけれど、本当の事だったし、知らぬ間に俺も頬が微かに緩んでいた。
「ブルーベリーには追熟が無いからな。採れたてが圧倒的に一番美味えのよ」
何だか、本当に自由研究のテーマに出来そうなくらいだ。作業工程から、生産者の話まで聞けるのだから、贅沢にもほどがある。無理矢理だったが、付いてきて正解だったと思う。
男二人のティータイムを終えると、おっさんはファーム内を案内してくれた。
「それで、みかんについて何か知りたいんだったか?」
斜面を等間隔に並ぶ低木を前におっさんが振り向く。どうやら、これが本題のみかん畑のようだった。
りんごや桃みたいな大木を想像していたが、みかんの木は幹が細く、高さも三メートルほどしかない。大量の厚い新緑の葉が幹を隠すように生え、青い実がたくさんなっている。
低木でなおかつ斜面になっているから、その広大さがよく分かった。
同時に彼女の歌っていた童謡の歌詞も理解できた。
遠くに青い水平線が見える。立ち昇る入道雲は、まるで海から生えているみたいだった。みかんの木々の合間を吹き抜ける清涼な風が、潮の代わりに酸っぱい柑橘の香りを運ぶ。どんなに美しい宝石も、この景色には敵わない。そう思わされるほど、俺は声も出せずに圧倒されていた。
「冬はこんなもんじゃないぞ?」
悟ったようにおっさんが言う。これでまだ未完成だなんて、とても信じられない。あの入道雲をどうにか切り取って、冬まで持ち越せないだろうか。
「写真、撮ってもいいっすか?」
「あたりめえよ。いくらでも撮りな。なんせ、タダだからな」
多分、このおっさんは普段はケチなんだろうな、と思った。それでも、見ず知らずの若者にこれだけの施しをしてくれた。
照り付ける陽射しの下、心の奥まで熱を持ってしまっては心労に繋がるというものだ。
写真として収めると、やっぱり少し感動が薄くなったような気がする。
それでも、俺は一刻も早くこの感動を彼女に見せてあげたかった。
最寄りのバス停で下車すると、道脇にご丁寧にも看板が伺える。錆びれた端と縦に細く禿げる塗装に、かなり前からあるみかん農家なことが伝わって来た。
夏休みに突入したというのに、車通りの多い道を外れると途端に静けさが満ちる。蝉の演奏会がやかましく、なだらかな坂道にもうんざりした。
みかん農家というからさぞ広大な一面を想像したが、最初に目に入ったのはみかんの木なんかじゃなかく、でかでかと掲げられた『みかん狩り』の看板と直営所だった。
人っ子一人通らない山道沿いに構える店は、蝉だけじゃなくて閑古鳥まで鳴いている。
「思ってたのと違う……」
思わず声に出してしまった。肩透かしを食らった俺に追い打ちをかけるように、駐車場の前には『現在、みかん狩りは行っておりません』の張り紙。
そもそも、直営所とは言え、今の季節はみかんなんて収穫できやしない。だから、店先に並んだ逆さのビールケースの上には何も並んでいない。時期が来れば、鮮やかな橙黄色が網籠に山盛りになって埋まるのだろう。
ダメもとで閉ざされた奥のドアをノックしてみる。
もちろん、反応は無いのだろう。そう思っていた。だから、数拍の後に勢いよく開いたガラスドアに驚く。
出てきたのは初老のおじさんだった。俺よりも数段日に焼けており、深い皺に頬が少し垂れている。短く刈られた白髪頭はすごい硬そうに思えた。まるで剣山みたいだ、と失礼な感想を抱く。昭和の頑固おやじがテレビから出てきたみたいだった。
「はいはい、客かね」
まさか人が出てくると思っていなかったし、ましてや客かどうか尋ねられるなんて想定外だ。向こうからすれば、客であって然るべきなんだろうけど。
「客……なんすかね」
「なんだぁ、違うのか?」
そうは言っても、やっぱりどこを見渡しても商品と思しきものは置かれていない。
「何か売ってたりするんすか?」
「あ? 今はブルーベリーしか売ってねえよ。買うなら品詰中だから、奥からもってくっけど」
「いや、大丈夫っす。みかん狩りやってないか確認に来ただけなんで」
やってても多分、参加してなかっただろうけど。
「みかん狩りなら六月までのニューサマーオレンジで最後。今年は十一月からやるから出直してきな」
「そうですか。ちなみにみかん狩りの時って、みかんの花見れたりします?」
「あぁ? なんでそんなこと気になるんだ」
何でと言われても、それは俺も彼女に聞きたいくらいだ。
「まあ、自由研究みたいな。そんな感じっす。色々聞きたいなぁと」
「なぁんでい、冷やかしかよ。……まあ、いい。入りな」
そう言うと、男性は胸ポケットに下げた軍手を投げてきた。ついてこい、と指で合図される。
奥は狭い倉庫のような場所だった。入った瞬間、ほんのりと甘酸っぱい爽やかな香りが鼻腔を刺激する。プラスチックの籠が端に積まれ、大きな作業台の上には透明なパックと、見たこともない量のブルーベリーが入った箱が置かれていた。
「軍手付けて、俺のやり方を真似しろ」
そう言い、男性は大きなプラケースの前に立つ。よく見ると、蓋に大きさの違う穴がいくつも開いている。籠から鷲掴んだブルーベリーを蓋の上にどさっと置き、そのまま、左右に転がす。すると、ブルーベリーがケースの中に落ちていく。内部は三つに仕切りが建てられ、透明なケースの側面にそれぞれ『1、2、3』と書かれていた。
「ほれ、早くしろ。日が暮れるぞ」
「いや、何で手伝わされる流れになってんすか……」
それ以上、男性は口を聞いてはくれなかった。
重く息を吐くと、空いた隙間を埋めるように肺が芳醇な香りに満たされる。それだけが少しの救いだ。
仕方なく、見よう見まねで作業をすることにした。
ブルーベリーの大きさの仕分けが済むと、今度はパックへの詰め入れ作業が始まった。ぽろぽろと実を作業台に零す度に怒鳴られた。
さらに詰め終わった後はシール貼りをして、ようやくスーパーで見る形に仕上がる。全ての工程が終わると、男性が顔をあげて大きく息をついた。
「よし、お疲れ。もう帰っていいぞ」
「おい、おっさん……」
思わず軽く睨んでしまった。いや、それくらいの権利はあるだろう。なんせ、もう作業をしてから四時間が過ぎていた。
これがバイト先なら四千円だ。現金な妄想がよぎる
「冗談だ。茶入れてやるから待ってろ」
おっさんは深い皺を軽く持ち上げ、低い声で笑う。
「……うす」
しばらくすると、おっさんはティーポットとグラスを二つ持って戻って来た。グラスに緑黄色の液体が注がれる。普通のお茶にしては色味が少し薄く思えた。
「ブルーベリーの葉で出した茶だ。飲んでみろ」
「どうも……っす」
言われるがまま、口に運ぶ。匂いは全然しなかった。含んだ液体を舌で転がすと、苦みは全然なく、微かな酸味が感じられる。後はまあ、普通のお茶って感想だ。
「どうだ、あんま美味かねえだろ」
何故かおっさんは自慢げにしていた。
「いや、まあ普通にお茶っすね。別に美味いっす」
「健康には良いからな、いっぱい飲んでいけ。なんせタダだからな」
豪快に笑って見せるおっさん。仕事中とは大違いだ。そういう意味では、少しウザいけれど関心した。一粒転がしただけで鼓膜が揺れるくらい怒るのだ。それくらい、熱を持って仕事をしているのだろう。
おっさんは山積みのパックを一つ取って封を開ける。何粒かいっぺんに口に放り込んで、残りはパックごと俺の前に置く。
「ほれ、食え。こっちは正真正銘、美味えぞ」
商品なのにいいのだろうか、と思ったけれど、バイト代として貰っておくことにした。食わせてくれるのなら、傷ありなどで排除したもので良かったのに。
青紫の粒を一つ、口の中で転がしてから噛む。つるりと張った皮がぷちっと弾けて、中からしっかりとした果肉が顔を出す。小さな塊からは想像できない甘さが口内を包み込み、後から粒種の心地よい食感と共にほのかな酸味が追いかけてくる。
「うまっ……」
思わず声に出してしまうほどだった。
すると、おっさんは今日初めて見せた柔和な表情を浮かべ、その後、やっぱり豪胆に笑って見せた。少し恥ずかしかったけれど、本当の事だったし、知らぬ間に俺も頬が微かに緩んでいた。
「ブルーベリーには追熟が無いからな。採れたてが圧倒的に一番美味えのよ」
何だか、本当に自由研究のテーマに出来そうなくらいだ。作業工程から、生産者の話まで聞けるのだから、贅沢にもほどがある。無理矢理だったが、付いてきて正解だったと思う。
男二人のティータイムを終えると、おっさんはファーム内を案内してくれた。
「それで、みかんについて何か知りたいんだったか?」
斜面を等間隔に並ぶ低木を前におっさんが振り向く。どうやら、これが本題のみかん畑のようだった。
りんごや桃みたいな大木を想像していたが、みかんの木は幹が細く、高さも三メートルほどしかない。大量の厚い新緑の葉が幹を隠すように生え、青い実がたくさんなっている。
低木でなおかつ斜面になっているから、その広大さがよく分かった。
同時に彼女の歌っていた童謡の歌詞も理解できた。
遠くに青い水平線が見える。立ち昇る入道雲は、まるで海から生えているみたいだった。みかんの木々の合間を吹き抜ける清涼な風が、潮の代わりに酸っぱい柑橘の香りを運ぶ。どんなに美しい宝石も、この景色には敵わない。そう思わされるほど、俺は声も出せずに圧倒されていた。
「冬はこんなもんじゃないぞ?」
悟ったようにおっさんが言う。これでまだ未完成だなんて、とても信じられない。あの入道雲をどうにか切り取って、冬まで持ち越せないだろうか。
「写真、撮ってもいいっすか?」
「あたりめえよ。いくらでも撮りな。なんせ、タダだからな」
多分、このおっさんは普段はケチなんだろうな、と思った。それでも、見ず知らずの若者にこれだけの施しをしてくれた。
照り付ける陽射しの下、心の奥まで熱を持ってしまっては心労に繋がるというものだ。
写真として収めると、やっぱり少し感動が薄くなったような気がする。
それでも、俺は一刻も早くこの感動を彼女に見せてあげたかった。