物語の終わりが嫌いだ。
ペットボトルの飲み物を一口分だけ残す人と似ている。あるいは、敬愛していた人物の何気ない姿に失望の念を禁じ得ないものと同じかもしれない。だから、いつの間にか最終巻が発売されていた漫画も、一応は買ったけれど、多分読むことはないのだ。
それまでの巻は全て本棚に並んでいる。そこに最終巻だけ存在しないのはどこか気持ちが悪い。でも、透明の包装はきっといつまで経っても剥かれないのだろう。
読んでしまえば、見てしまえば、知ってしまえば、文字通り終わってしまうのだ。一つの物語が綺麗に、もしかしたら、残酷に。自分の中で幕を閉じる。どんな形であれ、終わりということには変わりない。
しかし、知らなければ物語は終わらない。最後の一ページさえ読まなければ、もしかしたらまだずっと先のことが描かれている可能性は零ではない。
大抵の人は名残惜しさを感じつつもページをめくるのだろう。そうしないのは知的好奇心よりも、終わりを認識する恐怖の方が何倍も大きい。それだけのこと。
選択は日常だ。人は一日に三万五千回選択をしているらしい。
本当かよ? と思う反面、そうだろうなあ、とも思う。
シェイクスピアだって、『Life is a series of choices.(人生は選択の連続である)』と作中で書いているくらいだ。
日々の選択の中、自分がこの漫画の最終巻を読まないと選択をしただけのこと。
だからこそ、あの時の選択が正しかったのか、今でも時折疑問に思うことがある。
きっと、正解なんてどこにもない。ただ、結果という事実が残っているだけだというのに。
*
「この、人殺し……!」
そう言われて、俺はただ頭を下げた。ボロボロと泣きじゃくって声を荒げる女性を振り向く人はあまりいない。そもそも、この室内にはごく少数の列席者がいるだけ。焼香の並びなんて、出来やしない。
緩やかな焼けた香木の香りに紛れ、白い花の甘いジャスミンのような匂いが鼻を撫でる。
少しだけ、泣きそうになった。奥歯を強く噛みしめて堪える。まだ、彼女との約束が残っていた。
天井を仰ぐ。明るすぎるな、とつい思ってしまう。
深く息を吸い、この場に似つかわしくないほど大きく口角を上げる。
「――あっはっはっはっ!」
自分の高笑いが反響して空気を揺らす。
眼前の彼女と目が合った。今にも笑い声が聞こえてきそうなあどけない笑顔だ。だから、俺は悪びれもなく笑い続けた。目の前の女性がたじろいでも、周りの大人が止めようと肩を掴んできても、ずっとずっと大笑いした。それが、彼女の望みだったからだ。
悲しい気持ちをぶち壊すだけの大声での笑顔。そのはずなのに、笑うほどに胸が締め付けられていった。
息が切れるほど笑いこけ、部屋が静まると、ようやく女性が呟く。
「あなた……狂ってるわよ……」
そんなこと、言われなくても自分が一番分かっている。
もう一度、女性に頭を下げて式場を後にした。眩い白球に照らされた天井より、真っ暗な空がやけに落ち着く。
ネクタイはさっさと外した。やっぱり、あんまり似合わないね、という声が今にも聞こえて来そうだったから。
駐車場の外壁を背に、ずるりと座り込む。五月にしては暑苦しい夜だ。
身体中の力を抜くと、月明りがやけに目に沁みた。
昨年の夏は極めて暑く、長かった。そのせいか、今年の夏は梅雨を引きずったように湿っぽい日が多い。
湿度が高いのは色々と困る。
例えば、いつも以上に呼吸があがるのは早いし、汗が混じってへばりつくユニフォームにほんの少し気持ちが削がれる。
まるで待ち構えたかのように、コートに入った途端しとしとと降り始めた霧雨は、いつしか雨粒が大きくなり始めていた。こんな日に限って、あいにくのクレーコート。つくづく、俺は貧乏くじを引き当てるのが上手いらしい。
しかし、それは相手も同じこと。蛍光色のそれがいつもよりバウンドしないことも、水分を含んだ足場は踏ん張りが効きづらいことも、全部条件としては一緒だ。だから、インパクトの瞬間、わずかにビビッて力を入れ過ぎたことは言い訳にはならない。しかも、愚かなことに重心移動ではなく、肘から先だけをいつも以上に振り曲げた、正真正銘小手先によるものだ。
降り注ぐ雨が横なぎにボールと一緒に打ち払われる。その弾道を見て、ようやく自分の悪手に自問する。
ぬかるむ足下に走り出しが遅れたのなら、無理せず山なりのロブで返すべきだったのだ。どうして、ストロークを打ったのだろう。
そんな自責の念を深める余裕があるくらい、放った強打は白線の外側へと大きく外れて着地した。
「ゲームセット、ウォンバイ 高城 6-2」
審判が声と共に審判台から降りる。それが、終わりの合図だ。
ようやく、雨音が耳に伝わる。次に隣のコートの打球音、薄れゆく歓声。最後に右手首が上げた微かな悲鳴だった。
「……ありがとうございました」
白いネットを跨いだ相手と両脇の審判に形式じみた挨拶をして、ゆらりとコートを後にする。
湿ったテニスバックからタオルを取り出し、顔を覆う。とにかく額に張り付いた前髪がうっとおしかったからだ。乱雑に拭うと帽子が邪魔で、外して足下に放る。
いつからだろう。コートを出る時に紙の一枚を持っていなくなったのは。その足で運営の元に報告へ行く必要が無くなったのは。
悔しいとは思う。試合に負けて何も思わない奴がいるわけない。ただ、昔よりもだいぶ薄れてしまった。そればかりか、仕方がないとすら思う始末。
「先輩、お疲れさまっす!」
コートを出てすぐに、溌剌な声と共に傘が頭上を覆う。
「あぁ……サンキュー」
自分よりも少しだけ背の低い後輩から傘を受け取る。雨脚が強まる中、そそくさと撤収した部員に紛れず、独り律義に待っていてくれた笠木には悪いが、今は傘を差すことすら気怠い。どうせ帽子からシューズの中までびしょ濡れなのだから、今さらとも思う。
「いやー、惜しかったっすね。雨が降るなんてついてないっす。序盤は押してたのに、最後の方はボールが弾まなくなってたから、先輩のキレッキレな伸びのあるストロークが機能しづらくなってたし」
「……まあ、しゃーねーわな」
正直、かなりどうでも良かった。そんなことより、濡れたままのユニフォームを早く着替えたい。
冷静に分析するくせに、きっと笠木は俺が相手よりも単純に弱かったから負けたとは考えないのだろう。
笠木はいつもそうだ。小学生の時から同じテニススクールで、いつだって俺のことを盲目的に慕ってくれている。テニススクールを辞めた後、別々の中学に進学しても大会や練習試合で見かける度に、いつも目を輝かせて近寄って来た。
「あれ、先輩のお父さんじゃないですか?」
笠木が指さす方向を一瞥し、ため息をつく。
「いいよ、別に。お前は今日はもう試合無いんだろ? さっさと帰ろーぜ」
「いいえ、そうはいきませんよ。やっぱり挨拶しないと」
そう言い、笠木はくるっと方向転換した。
どうして、こうも律義なのだろう。
渋々、彼の後を遅れてついていく。毎回、この気まずい時間が嫌いだった。
「こんにちはーっす! お久しぶりです!」
猫背の男性はもちろん、こちらを見ていた。浅くかけていた傘を少し上げ、笠木に軽く会釈をする。それに合わせて笠木が帽子を外し、一段と深く頭を下げた。
「笠木くん、こんにちは。相変わらず元気がいいね」
「はい! それだけが取り柄なんで!」
それだけなもんか。まだ一年だというのに、笠木は順調に勝ち続けて駒を進めている。こんな地区大会の三回戦で負けるような俺とは違う。
男性が俺へと向き直る。くたびれた服に、年齢にしては深い皺。皸の目立つ手はいつ見ても痛々しい。
「お疲れさま」
たったの一言。毎回同じ言葉をかけられる。試合の勝敗やプレーについての言及はなく、ただいつもその言葉で労われた。
向けられる眼差しを、俺は素直に見れない。
「来なくていいって言っただろ」
結局、俺もいつもと同じ言葉を吐き捨てた。
「……今日はどうする」
親父の取り出した車のキーがチャリっと音を立てる。
「こいつとバスで帰るからいい。飯も食ってくる」
あ、ガット拭き忘れた。
小さく育った水溜まりを眺めて、ふと思いだした。張りが弱くなると、交換しなくてはいけないから面倒だ。
「そうか。じゃあ、コレ」
差し出された千円札をしばし眺め、俺は受け取った。
こうでもしないと、親父は笠木に金を預ける。そうなると、親父よりも笠木の方が面倒だ。正義感の強い笠木は、何が何でも親父の意向をくみ取って俺を逃がさない。こういう時だけ、笠木は俺の味方をしてはくれないのだ。
「だりぃ……」
小さな背中が遠ざかっていくのを見ながら、気が付けば呟いていた。
「何がっすか?」
全部だよ。
「……なんでもねぇよ」
あー、だっせぇなぁ……。
伸ばした右手首がズキズキと痛む。気のせいじゃなかった。
「これは、捻挫だね」
独特な薬品の匂いが漂う病室で、俺は医者の言葉に頷いた。予想通りの診断結果だったからだ。
一週間後に念のため経過を見せに再訪することを告げられ、三十分も待ったのにわずか五分で診察が終わってしまった。処方された湿布も市販のものだ。
しかし、診療代を含めてもドラッグストアで買うより安い。湿布の値段は案外馬鹿に出来ない。
ライフハックと自分に言い聞かせるが、その実、病院に来たのは部活をサボるための口実でもある。ラケットを握れない部員は無限走り込みだ。
診察室を出て、窓の外へ目を向ける。昨日とは打って変わって煮えつくような真夏日。辺りを木々が囲っているせいか、蝉の合唱がずっと響き続けている。
アルミのサッシを眩い日差しが乱反射し、瞳の奥がきしきしと痛む。日光は身体に良いなんて言うけれど、実は有害だったりするんじゃないだろうか。こんな日に夕暮れまで走らされたら、確実にバイトに響く。今日は団体客が入っているから、一層体力は残しておきたいのだ。
ガットの張り替えは……また今度にしよう。
近場のスポーツショップは病院からほど遠い。それに土日は混み合うから余計に時間がかかってしまう。
「すんません、トイレってどこにありますか?」
ちょうど通りかかった看護師に尋ねる。
「この階の反対側か、一つ上の階でしたら上がってすぐのところにありますよ」
総合病院のフロアは広い。素直に階を跨ぐことにした。
階段を登り、妙な違和感を覚える。診察室から廊下まで、昼白色の明かりで隅々まで照らされていた下の階とは打って変わって、一つ上の階は全体的に薄暗かった。病室らしき部屋が伺えるが、人の気配は分からない。
もしかして、立ち入り禁止の場所だったりするのだろうか。
しかし、よくよく全体を見渡すと、暗いのは階段を登ってすぐの西側だけのようだ。角を曲がると、先ほどまで見慣れた明るさが広がっていた。大方、蛍光灯が切れていたりするだけなのだろう。
トイレは一番暗い突き当りにあった。足元灯のぼんやりとした優しい光を辿る。病院ということもあってか、ちょっと不気味だ。
「……あれ?」
ドアにつけられた曇りガラス越しに電気が自動でついていることが分かる。しかし、隣の女子トイレのガラス窓は暗がりに覆われていた。
電球切らしすぎだろ、と手を洗いながら心の中で独り言ちる。
トイレを出ると、目の前の病室のドアが微かに開いていることに気が付いた。隙間から見える室内は廊下と同じく暗灰色に包まれている。
空き部屋と思ったが、よく見ると『雲母』という表札がかかっていた。
「うんぼ……?」
見たことのない珍しい苗字に思わず声に出して呟く。『佐藤』というごく平凡な自分の苗字とは大違いだ。
「――きらら、と読みます」
不意にドアの向こうから声が聞こえて思わず飛び跳ねる。同時にやらかしたという、間違っているような、合っているような、複雑な罪悪感が滲んだ。
気まずいことこの上ない。
いっそ、このまま立ち去ってしまおうか。
しかし、もう遅かった。僅かに開いた隙間から、暗がりでも分かる透き通った黒色の瞳が浮かび上がった。
一歩後ずさり、慌てて視線を彷徨わせる。
とにかく返答をしなければ。でも、一体何を……。
「あー、なんつーか……。その、珍しい苗字だなって」
焦ると頭の後ろを掻く癖はもう一生治りそうもない。ガシガシと自分だけに伝わる音に、幾分落ち着いた。
「よく言われます。――あなたは?」
声からして女性、それも年が近そうに思える。少なくとも大人ということは無さそうだった。
「……佐藤日影」
「え?」
「……ん?」
妙な沈黙にようやく苗字を訊かれたのだと気が付く。
耳の先が熱くなるのが分かった。そりゃ、名前まで律義に名乗ったのだ。そういう反応が返ってきてもおかしくない。
ややあって、浮かぶ瞳が垂れ細くなる。
「ふふっ、雲母蛍琉。十五歳です」
年齢まで追加で語ったのは、この少女のいたずらごころだろうか。何にせよ、返す言葉に戸惑った。というか、今さらだがどうして見ず知らずの人と会話しているのだろう。
突然、ドアがガラッと開く。
そこにいたのは俺の顎先にも満たない小柄な少女だった。暗闇に浮かび上がる服装はセパレート型の患者衣で、紛れもなくこの病室の主であることを示している。長い黒髪が背中に流れ、整った鼻筋と小さな唇がぼんやりと伺えた。
一歩引くように斜めにした身体は、どうやら俺を室内へ招いているらしい。
「どうぞ、入ってください。暗いところですけれど」
「えっ……あ、いや、俺は別に」
「いいえ、そう言わず暇つぶしに付き合ってください」
彼女の手が俺の腕を掴む。足元灯に照らされた彼女の腕は細く、白磁に染まっていた。日に焼けた自分の腕と比べると、その白さが余計に際立って見える。
ぐいっと引っ張る力は随分と非力だ。抵抗しようと思えば簡単に出来たけれど、苗字を読み間違えた罪悪感が俺の足を室内に運び込む。
病室内は一言で表すと、暗かった。それは入る前から分かっていたことだけど、彼女がドアを閉めると一層、闇が深まった。ほとんど何も見えない。大まかな広さすら把握できなかった。
彼女の手がすっと離れる。そのまま、目の前の彼女すらも暗闇に溶け込んでしまった。
ぞわっと背筋を冷ややかな気配が駆け抜ける。もしかして、怪談にでも巻き込まれたのだろうか。そんな馬鹿げた思考がよぎる。
「すみません、今明かりをつけますね」
離れた位置で彼女の声が聞こえてきた。ほぼ同時に、ぼんやりとした柔らかな温白色の明かりが点る。卓上の小さなサイドランプだった。
ようやく、室内の景色が薄く映る。リクライニング式のベッドが一つ、その横にぬいぐるみやら花瓶が置かれた床頭台。明かりを放つランプは窓際の一番離れた位置に置かれていた。壁にはよく見えないが、何やら額縁や紙が貼り飾られており、生活感を覚える。
至って一般的な一人部屋の病室。しかし、とてつもない違和感がある。
まず、カーテンが無いのにも関わらず、陽光が一切射し込まない。窓に雨風を避けるためのシャッターが下りているせいだ。それに、ベッドが入口付近にあることもおかしい。普通、窓際じゃないのだろうか。
「何も無いですけれど、どうぞ座ってください」
そう言い、彼女は丸椅子をベッドの下から取り出す。促されるまま置かれた椅子に腰を掛けると、彼女は満足したようにベッドに座り、壁に背を預けた。
奇妙な沈黙が互いの間に流れる。暇つぶしに付き合えと言われても、何を話せばいいのだろうか。そもそも、この部屋の明らかな違和感を訪ねても良いのかすら分からないでいた。
「なんだか照れますね」
彼女がおずおずと前髪をいじる。
「いや、俺は普通に困惑している」
だって、そうだろう。何だよ、この状況。
「ですよね。どう考えても変ですもん、この部屋」
彼女はきっぱり言い放った。
「触れて大丈夫だったのかよ……」
「もちろんです。むしろ、疑問に思われなかったなら、すごくおかしな人です」
「そりゃ、変だなぁとは思ってたけど」
彼女は何度か同調するように頷く。
薄明りに照らされた彼女は、おそらく整った顔立ちをしている。というのも、俺には彼女の顔がうっすらとしか見えていないのだ。
サイドランプは離れた位置にあるし、何より普通のランプに比べてとても光量が少ない。これまた電球が切れかかっているか、接触不良でも起こしているんじゃないかと思うくらいだ。だから、すぐそばの彼女の顔もぼんやりとしか伺えない。
「それでは、改めて雲母蛍琉といいます。学校に通っていれば、高校一年生です」
随分と含みのある言い方だ。つまり、学校には行っていないのだろう。
察するに、やっぱり何か病気でも患って入院していると考えるのが妥当。この病室はやけに生活感に溢れている。長いこと入院している証拠だ。
「……佐藤日影。高二」
「なんと、一つ違いでしたか。てっきり、大学生くらいかと思っていました」
「そりゃ、老けてるって言いたいのか」
彼女はきょとんと目を丸くし、そして笑みを零した。
「違いますよ。背が高くて、ガタイが良かったもので。ペラペラな私とは大違いです」
確かに身長は百八十ちょい。小柄な彼女からすれば、それなりに大きく見えるのだろう。
「それで、俺はあんたの何に付き合えばいいんだ? この後バイトなんだよ」
と言っても、まだ三時間以上先の話だ。あっけなく彼女に手を引かれたのは、時間を潰すという意思もほんの少しだけあったりする。
「ここじゃ、お喋りくらいしか出来ませんから。それに同年代の方と話すのは久々なのです。よければ、そのバイトのお時間までお付き合いいただけませんか?」
今一度、室内を見渡す。びっくりすることに電子機器の類が全く見当たらない。機械的なものが見えるとするならば、ベッド際の壁に埋め込まれたナースコールなどのボタン類、後はエアコンと空気清浄機だけだ。いわゆる、娯楽的なテレビやスマホなどは見える限りでは置かれていなかった。
ここまで状況証拠が整っているのだ。彼女がどういう類の病気なのかは、何となく察しが付く。思い描く病に覚えはないけれど。
「まあ、別にそれくらいなら」
彼女の表情が少し明るくなった気がした。
「ありがとうございます。断られたらどうしようかと思いました」
「……同情だよ」
「なんとストレートな表現ですね。では、可哀そうな私に、日影さんがどんなバイトをしているのか教えてください」
小さく息が零れる。
「さんなんて付けなくていい。敬語だっていらない。先輩後輩でもあるまいし」
「そうですか、では日影くんも私のことは〝あんた〟ではなく、〝蛍琉〟と呼んでください」
敬語は辞めないのかよ、と思ったがこういう喋り方なのだと一人結論付けることにした。
それにしても、いきなり女性を名前で呼ぶのはハードルが高い。しかし、こと目の前の彼女に関しては、苗字で呼ぶ方が気恥ずかしさで勝る。
ため息が漏れた。今日は何度幸せを逃がしたのかもう分からない。
「で、バイトだっけ? 別にただの居酒屋だよ。駅前にある海鮮居酒屋。知ってる?」
意地悪な聞き方だったかもしれない。バイト先は二か月前にオープンしたばかりだ。入院生活の彼女が知っているとは到底思えない。
「んー、分からないです。でも、居酒屋でバイトってそれこそ大学生みたいですね。憧れます」
「そんな良いもんじゃない。酒くせぇし、他人のゲロぶちまけた便器洗うんだぞ?」
彼女の眉間が少し狭まる。
俺は他人との会話に気を使えるような人間じゃない。だから、早々にこの男との会話には何のメリットも無いと思ってくれるのなら、それでいい。
「それは……確かにお金を頂いて然るべきですね」
しかし、意外なことに彼女は神妙な面持ちのまま、気にすることなく返した。箱入りかと思いきや、案外そうでもないらしい。
ばつが悪くなり、俺は口を噤む。
「ところで、今日はどうして病院にいらしたんですか?」
「あんたは医者かよ」
「あんたじゃないですよ、日影さん」
なるほど。ほんの数分の会話で、彼女の性格の良さと悪さが同時に垣間見えた。しかし、調子は狂うが変に気を使われたり、取り繕われたりするくらいならこの方が話しやすい。
「……手首の捻挫。っていう建前の部活のサボり。痛ぇのは本当だけどな」
無意識に右手首を擦ると、彼女の視線もつられて俺の手元に向かう。
「部活は何をなさって? ――あ、ちょっと待ってください。当ててみせます」
そう言い、彼女は俺のつま先から頭の先まで、じっくり吟味するように眺めた。この薄暗い部屋で、今さら見返して分かることなんてあるのだろうか。
「うーん、そうですね。ひとまずスポーツなのは前提として――」
「おい、なんで運動部確定なんだよ」
「だって、日影くんが文化部って想像しただけでじわじわ来てしまうじゃないですか。その大きな身体でフルートとか吹いてるの想像してみてくださいよ」
とんだ偏見だ。SNSなら炎上したって文句は言えないぞ。
俺が言葉を失っていると、彼女は本当に頭の中に描いてしまったのか、可笑しそうに笑った。
「よし、性格がすこぶる悪いってことがよく分かった」
「誰がです?」
「だから、あ――」
「あ……?」
彼女がずいっと身を乗り出す。近くなった距離にほんの少し心臓が鐘を打つ。
「……蛍琉が、だ」
じっと俺を見つめる彼女は緩やかに笑顔をつくる。
くそっ、宣言撤回。存分に気を使って、取り繕われた方が何倍もましだ。
それからも彼女が質問をして、俺が返す。そんな質疑応答を繰り返す羽目になった。その間、俺は彼女について何かを訊くことは出来なかった。やっぱり何を訊こうにも、彼女の地雷を踏んでしまいそうで口に出せない。
暗がりにすっかり目が慣れた頃、気が付けば壁に掛けられた時計が二時間以上進んでいた。
「そろそろ、俺バイトだから」
話が途切れたタイミングで切り出す。本当、なんで会ったばかりの人とこんなに長いこと会話していたのだろうか。
「そうですか、名残惜しいです」
「そんな後ろ尾を引くようなこと喋ったつもりはねぇよ」
だって、ほとんど世間話か俺への質問だったのだから。
すると、彼女は小さく笑みを漏らす。
「そんなことないですよ。とても有意義な時間でした。バイト、頑張ってきてくださいね」
律義に病室の外まで見送る彼女の瞳は、確かに寂しそうに見えた。
病院を出て、そう言えば、と思いだす。あの場所だけ薄暗かったのも、女子トイレだけ自動照明が点いていなかったのも、後になって考えてみれば納得がいく。
色んな人がいるんだな。そんな感想だけが浮かんだ。
すっかり暗がりに慣れてしまった俺の目は、沈みゆく斜陽に細く鈍痛を感じた。
結局のところ、努力による技能には限界がある。どうあがいても、才能を持ち合わせて努力する人間に敵うはずがない。
しばしば、ならばその分たくさん努力すればいいと、笑ってしまうような世迷言を説法する人間がいる。その都度、頭悪いのか、と一蹴したくなる。具体的な向上を促す案を出せない奴らの言葉に、誰が首を縦に振るのだろうか。
努力だけで何とかなるのは、せいぜい小学生までだ。だから、これまでの華々しい功績なんてものは、予選で敗退して、残ったメンバーの試合をフェンスの外側から応援する俺には何の価値もない。
『いっけーいけいけいけいけ笠木! おっせーおせおせおせおせ笠木!』
周りの部員に合わせて、とりあえず口にしておく。今日も生憎の雨天決行。どうせなら、朝から土砂降りにでもなってくれればいいのに。そうしたら今日は有意義な休日を謳歌出来ただろう。
しとしとと降り注ぐ最中、相手のボールがベースラインを割る。
「――シャアッ! デケェッ!」
ガッツポーズと共に笠木が吠える。雄壮な姿は、いつも俺に向けるような懐っこいものとは程遠い。
其処彼処から、ラッキー! だの、ありがとー! と野次が飛んだ。
いつも思う。マナー悪いな、と。でも、これが一般的で疑問を持つ方がプレイヤーからすると難しい。おかしな話だ。
結局、人はその環境に慣れると、何の疑いも持たずに染まっていくのだろう。それが普通になって、当たり前になる。
俺もいい加減、負け癖に慣れてきた。悔しいという感情はもう随分と本気では抱いていない。ある意味、現実を見ることが出来るようになったとも言える。
県大会の一回戦を笠木は難なく突破した。もちろん、俺も他の部員も負ける心配は全くしていなかった。彼の実力なら東海大会はもちろん、全国にだって手が届く。一年にして、我が校の絶対的なエースだ。
大人しく強豪校に行っていれば良かったのに。笠木というプレイヤーを得てしても、ウチの高校の団体戦はいいとこ県大会止まり。底が知れるというやつだ。
「あっ、先輩! お疲れっす!」
「それ、俺の台詞な。お疲れ」
勝利シートを提出するよりも先に、笠木は俺の元へ一直線に足を運んできた。
「ありがとうございます! けど、雨だとやっぱり安定しないっすね。何度も冷や冷やしました」
「あの点差でそれが言えるなら、相手が可哀そうだな」
試合内容は圧勝と言って良いものだったというのに。笠木の中では勝敗というより、ワンプレーごとに区切って考えているのだろう。やっぱり、才能がある奴が努力をすると、ほとほと呆れるくらいどうしようもない。
「そんなことないっすよ。先輩だって晴れてて怪我さえしてなかったら、余裕だったっす!」
笠木の中で、俺は試合の序盤に怪我をしたということになっているらしい。訂正するのも面倒で、俺は無言を貫いた。
本日使う予定なんて無いテニスバックを肩にかけ、立ち上がる。
「あれ、先輩帰るんすか?」
「病院だから早抜け」
とっくに完治した右手をかざして、ひらひらと振って見せる。律義に病院を再訪するような人間ではないけれど、早退の理由にはうってつけだ。
「えー、俺、先輩に見ていてほしかったっす」
笠木が口を尖らせ、しょんぼりと肩を落とす。
「お前が負けるとか一ミリも思ってねえよ。さっさと終わらせて勝ちメッセ送ってこい」
「了解っす! お大事に―!」
笠木の見送る視線に負い目を感じ、俺は逃げるように会場を後にした。
もちろん、医者にも完治宣言をされた。これで受診料が取られるのは正直納得がいかない。せめて、湿布を買い叩いてやろうと思い、まだ痛い気がするとごねてみたものの、ちゃんと治ってるよとあっけなく一蹴されてしまった。
ぼんやりとスマホを眺める。偶然にも、バイトまで三時間だ。
他の場所よりも一段暗い階段に下り足をかけ、悩む。短い葛藤の後、俺は身を翻して階段を上った。
別にトイレに行きたかっただけだ。
相変わらず、そこは天井の蛍光灯がくりぬかれ、地下駐車場のような暗さに包まれていた。トイレのドアに手をかけ、後ろを一瞥する。今日はぴったりとドアが閉まっていた。
別にいいんだけどさ。
そんな訳の分からないことを胸の内で呟く。
気配はあっただろうか。物音なんかはしなかったし、よく分からない。
「――うおっ!?」
トイレを出て、俺は思わず一歩後ろに跳ね退いた。パブリックの手すりにぶつけたわき腹がずんと痛みを帯びる。
正面の病室のドアが半開きになり、そこから二つの瞳がこちらを見ていた。
「脅かすなよ……」
浮かぶ双眸がやんわりとほころぶ。ドアががらりと開き、いつかの如く彼女が半身で姿を見せる。
「こんにちは、日影くん」
そう言うと、彼女はそそくさと部屋の奥へと駆けていき、窓際のサイドランプに明かりを点した。しかし、部屋に入ろうとした瞬間、「ちょっと待ってください!」と彼女が制する。
「……なんだ勘違いかよ。じゃあな」
もやっとした感情に蓋をして踵を返す。
「あー! 違います、違いますよ!?」
背負ったテニスバックがぐいっと引っ張られる。
一体、何だってんだ。
無言で目を向けると、彼女は手に持った二つ折りのミニ財布から千円札を取り出して俺に差し出した。
「アイス、買ってきてください。ハーゲンのイチゴ味でお願いします」
あっけに取られる俺の手を彼女がつかみ、強引に千円札を握らせる。
「なんで俺が買ってこなきゃいけないんだよ」
考えも無しに、口を衝いていた。しかし、同時に彼女では買いに行けないということに気が付く。だから、彼女の返事を待たずに歩き出した。
「あっ、ちゃんと二人分買ってきてくださいね」
背後から聞こえる彼女の言葉に返事はしなかった。
売店は病院の一階に店舗を構えていた。四階の病室までの往復は億劫だ。雨に降られながら他人の試合を観戦するのに比べたら、随分とマシだけど。
彼女の要望した物は最後の一つだった。もし無かったら、代理で味を決めるセンスに悩むところだった。
「ほれ、買ってきたぞ」
お釣りと共に袋ごとベッドに座る彼女に渡す。
正直、病院内は暑くない。それに彼女の病室は個室ということもあって、クーラーが効いている。俺の家に比べたらだいぶ設定温度が低いから寒いくらいだ。
「ありがとうございます。いつぶりでしょうか。よ、よだれが垂れそうです」
心なしか息の荒い彼女を見るに、本当に久しぶりなのだろう。だからこそ、俺は慌てて彼女からコンビニ袋を奪い取った。
「な、なにするんですかー!」
必死に手を伸ばす彼女の腕を掴む。細すぎて、ほとんど触れるだけにとどめた。簡単に折れてしまいそうで怖い。
「まさか、医者に止められてたりしないよな」
だって、アイスくらいいつだって食べようと思えば、食べれるはずだ。それが久々と言われれば、食事制限を受けていると考えてしまう。
彼女にも俺の思惑が伝わったか、「なるほど、」と呟いて力を緩めた。
「食事に関しては制限は受けてませんよ。ただ、母がちょっと過敏でして。普段は買ってもらえないんですよ。わざわざ看護師さんにまで言いつけていて……。だから、日影くんが買ってきてくれて助かりました」
「……本当だろうな」
「もちろんです。私、嘘つかないので」
最後の一言は甚だ疑わしいが、観念して袋を彼女に返す。嬉しそうにアイスを取り出す様子は、まるで餌を貰った子犬みたいだ。口に出したら怒りそうだから心の内にしまっておくことにしよう。
「日影くんは私と同じものではないのですね」
彼女が青いパッケージの棒アイスを取り出して、俺に差し出す。それを受け取り、返事をするわけでも無く合掌袋の包みを開ける。
「味濃いの嫌いなんだよ」
別に嘘じゃない。濃厚を売りにするバニラ系のアイスは食べたところで、いつまでも口の中に味が残るし、喉が渇く。アイス食って、渇きを感じてたら訳が分からない。
「あれ……? いくら日影くんのアイスが安いやつだからって、お釣り多くありませんか?」
知らん顔で青いそれを一口かじる。細かな氷の粒が口の中で音を立てた。彼女の視線が痛い。
「早くしないと溶けるぞ」
彼女は手元のカップアイスと俺を交互に見比べる。どちらを優先しようか揺れ悩んでいるようだ。
わざわざ促したというのに、律義な性格だ。
「それ、日影くんのお金で買いました?」
「当たり前だろ」
「二人分と言ったのはそういう意味ではないのに……」
そして彼女は「一応、」と前置き、百円玉を俺に差し向ける。もちろん、シカトした。ややあって、彼女は観念したのか不服そうな息を吐き、その手を引っ込める。
仄暗い中で食べるアイスはちょっともったいなく感じた。真夏の陽射しを受けながら食べたら、きっともっと美味しいのに。心底、幸せそうにちまちまとアイスを口に運ぶ彼女をぼんやりと眺めて思う。
「一口どうぞ」
物思いに更ける最中、彼女が不意にこちらを見る。
「苦手だって言っただろ」
「あれ、食べたいから見てたのではないのですか。でも、私がそちらも食べたいので。シェアハピです」
それならそうと言えば、いくらでもくれてやるのに。でも、彼女の性格柄、一方的な施しは望まないのだろう。
ずいっと差し出したスプーンから溶けたアイスが零れそうになるのを見て、俺は諦めた。
「それ、死語だろ」
悪態をつきながらスプーンを噛む勢いで口に含む。やっぱり、そんなに好みじゃなかった。
彼女は空いたスプーンを暫し眺める。
「……間接キス」
思わず肩をすくめた。
「そんなの気にするような歳じゃねえから」
「ふむむ、面白くないですねぇ」
彼女が俺の腕を掴み、ぐいっと引っ張る。そして、そのまま大きく口を開けて青い塊にかぶりついた。さっきまでハムスターみたいにちょっとずつ自分のを食べていたくせに。
だんだんと彼女のお淑やかさが剥げてきている。
こっちの方が話しやすいから、別にいいんだけどさ。
「そもそも、俺は蛍琉みたいな女はタイプじゃねーよ」
「こらぁ! デリカシー!」
まあ、今みたいなむくれっ面はきっと多くの人に刺さるのではないだろうか。残念ながら、そんな機会はそう訪れないのかもしれないけれど。
ズボンの中でスマホが震える。さっきから、三度目だ。
「出たらどうですか?」
彼女が上目で俺を見ていた。そんなあざとい風にしたって無駄だ。負けず嫌い精神が透けて余計に白ける。
「いいよ、どうせ後輩からだから」
「それは尚更ではありませんか。友人関係は大事にするべきです」
彼女が言うとどうしても含みがあるように感じてしまうのは、俺が深読みし過ぎているだけだろうか。訊けるはずもなく、俺は薄暗い中を立ち上がる。
病室を出て、スマホを取り出す。案の定、笠木からの勝利報告だった。しかし、こちらが返信をするまで五分置きに送って来るのは頂けない。
ナイス! の文字が描かれたスタンプを送り、画面を消す。
戻ると、彼女は浅い暗闇から俺を見つめ、片微笑んでいた。
「……何だよ」
「いえ、なかなかどうして察しも良いし、気遣いのできる方だなと思いまして」
「はぁ? 悪いが、俺は他人の考えてることを察するのが苦手だ。そう感じたなら、きっと勘違いだよ」
それに気遣いが出来るのはそっちの方だろ。
「まあ、そういうことにしておきましょう。飾らないのは美徳ですからね」
一体、彼女の中で俺はどんな印象になっているのやら。過度に期待されると、ろくなことにならない。短い人生の経験上、俺はそう確信付けているのだから。
バイト先を出たのはすっかり夜の帳が下りる頃だった。これ以上は未成年が働けないギリギリの時間だ。
どうやら雨はバイト中に止んだらしい。初夏の生ぬるい風に乗って、雨上がりの嫌なにおいが鼻腔を刺激する。青臭いような、カビ臭いような。
とにかく、気の抜けた深呼吸をすると、とても不愉快になった。昼をアイスで済ませたから、空腹で尚更気分の下落が激しい。
スーパーで売れ残りの半額弁当とおにぎりを一つ買い、アパートに帰る。玄関を開けると、そこは暗闇が広がっていた。そこはかとなく寒気がする。今日二度目の感覚だ。
リビングのダイニングテーブルにはいつも通り、書き置きと千円札が一枚文鎮の下敷きになっていた。それには一切触れず、さっさと自室のベッドに身体を投げ出すと、一気に疲労と睡魔が押し寄せる。それでも、今日はまだマシな方だ。なんせ、昼間は後輩の試合を観戦して、アイス食いながら井戸端会議をしていただけなのだから。
天井を仰ぐ。電球が嫌でも目に入った。ずっと見つめていると、徐々に周りが薄っすら暗くなる。錯覚なんだろうけれど、伴って光が少し強くなったように感じた。
俺の周りには明かりがあって当然。あの病室は、どうだろうか。テレビも、スマホも無い。暗すぎて、本だって読めやしない。
「そりゃ、知らない人引っ捕まえて暇をつぶしたりもするか」
問題はたまたま相手になったのが、気の利かないデリカシー皆無な男だったってだけだ。
翌朝、玄関の開く音で目が覚めた。リビングに行くと、ちょうど親父が菓子パンを片手に猫背な背中をさらに丸めていた。その後ろ姿には疲労が伺える。振り向いて俺に向ける眼差しも、どこか色が薄い。
「おはよう」
一言、いつも通り言葉を掛けられる。
「もっとマシなもん食えよ」
夜勤明けの親父にとっては、今食べている菓子パンが夕飯だ。せめて、米食えよ。そう思いながら、自分は食パンをトースターに入れる。
冷蔵庫を開けて、牛乳を切らしていたことを思いだした。昨日、帰りがけに買っておくんだった。
「日影は昨日、しっかり食べたのか? 置いていった金は使ってないみたいだけど……」
「バイトで賄い食ったから」
「……そうか」
それ以降、会話らしいやり取りは訪れなかった。昔は賑やかだったこの家も、今ではすっかり物静かな空間だ。
「そうだ、父さん起きたら母さんの墓参りに行こうと思うんだが、一緒にどうだ?」
「無理、今日もバイト」
親父は難しい顔を浮かべる。その表情から感情を読み取るのは、それこそ文字通り難しい。
「たまには母さんに顔を見せてあげなさい」
「分かってるよ。今度、行くから」
話を切るように背を向けて、思いだす。鞄から封筒を取り出し、テーブルに投げ置く。
「これ、先月のバイト代」
それを見て、親父は悲しそうな表情を浮かべた。
意味分からねえ。
毎回、バイト代を渡すときに同じ顔をされる。だから、俺もその度に少し腹が立つ。
「あのな、いつも言ってるけれど、これは日影が自分のために使いなさい。小遣いだって渡せてないんだから」
「もちろん全部じゃねえよ。自分で使う分くらい抜いてあるっつーの」
まだ何か言いたげに思える親父に封筒を押し付け、家を出た。
今日も空はどんよりと一面に灰色の帯を為している。
あいつはこれぐらいでも駄目なのかな。
ふと、そう思った。