もちろん芝崎に、他の面々が考えてるような深い策略などありはしない。
本人は本気でチェスのことしか考えてないし、何ならチェス以外の抗争が起こりつつあることなど全然、全く、これっぽっちも、気がついていない。

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僕があえてキングを前に持ってきたのは、相手の心理を揺さぶるためだ。
正直、早く決着をつけるなら、ポーンを2つ取るほうが良い。
だが、キングが前におり、尚且つポーンも3つ前列にあるとなれば、ポーンを取るか、キングを追い詰める方が得策なのか、そこで相手はより頭を悩ますことになる。

(それに、相手はルドさん……下手にポーンを下げたら多分追い込まれる。)

ルドさんの初期配置の布陣は、一見すると後列にキングとポーンを固めた事で守りに徹しているようにも見えるが、その実、攻撃力の強い駒が前列に並ぶことによって攻めに重きを置いた布陣だ。

だからこそ、心理的に揺さぶりをかけ、攻めあぐねさせる。

「では始めましょう。g-7ビショップ、e-5に移動。」

ルドさんの、決して大きくは無いのによく通るその声が、駒の移動を告げる。

(e-5……クイーンが直接狙われるのを警戒した……?)

ルドさんの陣地はe-7にクイーンがいる。
僕の陣地もe-2にクイーンがいるので、直接クイーンを潰そうと思えば1手目からクイーンを取ることができる位置だ。ただどちらの陣地もクイーンの斜め後ろにポーンがいるので、結局クイーンの共倒れで終わる。

(そうなるとこれは様子見の1手目?今までの定跡は一切通じない。ナイトじゃなくてビショップなのはきっと何か狙いがあるはず。)

頭の中で様々な譜面の予測が飛び交い、あらゆる戦況を予測する僕の口角はいつの間にか上がっていた。
状況が状況だけど、やっぱりチェスは面白い。

そうして戦況は進んでいき、互いに長考を挟みながら、1手1手、攻め、守り、時に逃げ、防ぎ、互いに1歩も譲らない攻防の嵐。
いつもよりも時間をかけて中央のオープニング(序盤戦)が終わろうかというその時だった。

「……そんな馬鹿な……!」

ルドさんの驚愕に震える声と共に、背後のエレベーターが到着を告げる音を鳴らした。

「ありえません……!ボクはもちろん、芝崎君は1歩も動いていないというのに、何故!」

(え、まってどういう状況??)

次に駒を動かすのが僕のため、目はチェス盤から離さないが、足音からして数人がこの部屋に入ってきたとわかる。

「弓の射手、ボス『ルドラ』。既にお前以外の幹部は全て制圧。お前らのメインシステムサーバーは三日月(チャーンド)が乗っ取った。」

(え、(サーンプ)さん達いつの間に……??)

#蛇__サーンプ__#さんが口を開いたことにより、チェス盤から目を離さないままの僕にも来訪者が誰か分かった。

(……というか皆が戦わなくていいようにチェスでの決着提案したのに意味無くね??え、皆そんなに血の気多かったっけ???)

チャトランガ側であるはずの僕も困惑しているのだ。ルドさんの困惑はもっと大きいだろう。

「彼らには全てに対して先を読んで指示を……芝崎君がいたならまだしも、君たちだけしかいないチャトランガに、彼らを倒す力なんて……!」
「シヴァ様はずっと指示を出していましたよ。」

「は……?」
(いや、出てないが……??)

第三の目(アジュナ)である松野君の言葉に脳内が余計に混乱してきた。

え、いつ僕が指示を出したんだろ……僕ずっとチェスしかしていなかったのに。

困惑したまま、ようやくチェス盤から視線を上げれば、ルドさんの揺らいだ瞳とかち合う。

その瞬間、何かに気がついたかのようにルドさんの目が驚愕に見開かれた。

「まさか、このチェス全てが指示……!?」

(いや、そんな馬鹿な……)

「ええ、気がつくのが遅すぎましたね。」

(ええええぇ!!?まって、これが指示になってたの!!?)

知らない間にとんでもない勘違いが生まれていた。
一体何がどうすればこの変則チェスが、幹部たちへの指示へと変わるのか。

松野君あたかも当然かのように言っているけれど、僕にそんなつもりは全くなかった。

(……まあ、相手の幹部制圧できたならよかった……よかったのかなぁ??)

思わず視線を遠くへと飛ばしていると、

「……フフフ、我々の負け……ですか。」

ルドさんがそう自嘲気味に笑って、席を立とうとした。

(え、まだ対局終わってないのに!)

お互いポーンは1つずつ取られ、中央の戦況も拮抗、ここからが面白い所なのに!!
知らない間に部下がやられてチェスへのやる気が無くなったのかもしれないが、こんな所で試合を中止なんて僕には拷問にも等しい。

(でも、なんて声をかければ……いや、ここはもうあたかも長考してました感を出しながら……)

僕はバクバク忙しなく鳴る心臓を落ち着けるようにゆっくり息を吸い込んで

「d-3ナイト、c-5へ移動。」

と、次の駒を指示した。

「え……」
「シヴァ様?」

ルドさんから思わず零れた小さな声。そして、(サーンプ)さんの困惑が乗った声が室内に響く。

「ここから、です。ここからが本番でしょう?」

何とかそう自分の意思を伝えながら、今だ固まって動かない駒係の人へ「早く動かして下さい。」と急かす。

このまま、決着つけずに終わらせてたまるものか!
せっかく盛り上がってきてるのに!

意地でも対局続けてやる!と、意気込めば、「フハッ……!全く……君という子は!」とルドさんが吹き出し笑う。

流石に子供っぽすぎたか……と少し羞恥心に襲われていれば、ルドさんが「君は下がりなさい。」と駒係の人を下げてしまった。

え、と軽く絶望すると、ルドさんは自ら駒を持って、ルークを横へとずらした。
カツン、と軽い音がしてルークが枠に収まる。

「組織間の決着は着きました。ここからはボクと君の個人的な対局です。直接、打ちましょう。」

そういってルドさんは椅子へと座り直した。

(やった!最後まで打てる!)

ルドさんの言葉に頷きながら僕も自陣の駒へと手を伸ばした。

そこから数手。皆が見守る中試合は進み、

「……ボクの負けですね。ポーンを逃がせばキングが取られ、キングを逃がせばポーンが取られる……完璧な終局です。」

この素晴らしい対局が終わりを迎えた。

「……とても、楽しかったです。」

口下手なりに、そう伝えれば、

「……ええ、ボクもですよ。」

と、ルドさんは今まで見た事ないほどの柔らかい笑みでそう答えてくれた。