ただ、熱中症で倒れたボクを少年が心配して、チェスは室内で行うことになった。
ちょうど、公園の近くにチェスクラブがあったのはラッキーだったと言えるだろう。
「改めて、芝崎です。よろしくお願いします。どちらですか?」
と、少年は自分の名前を伝えてから、白黒それぞれのポーンを握った拳を見える位置まで上げる。
「そういえば自己紹介をしていませんでしたね。ボクのことはルド、とでも呼んでください。右で。」
ルドさんですね、と少年基、芝崎君が右手を開けばそこには黒のポーンが。
「では、ボクが黒ですね。」
黒のポーンを戻しながら、ボクの目の前に黒の陣地が行くように芝崎君がチェス盤を回す。
「お願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
お互い軽く頭を下げ、芝崎君は白のポーンを手に取った。
***
(……このタイミングで長考?)
開始から数手進んだ頃、芝崎君が盤上を鋭く見つめたまま、動かなくなった。
細い白魚のような指が顎に当てられ、動かない様はまるで精巧に出来た彫刻のようだ。
現時点ではまだ、定跡にそっただけの、堅実かつ真面目な試合運びが行われている。
周りで観戦している人間たちもこのタイミングでの長考に、不思議そうに芝崎君を見やった。ただ無闇矢鱈に騒がないのは芝崎君の圧倒的な存在感が周りを威圧しているからだろう。
(正直、ここから先数手はまだ定跡通り正しく並べるオープニングでしかないはず。決して圧倒的優位という訳でもないが劣勢でもないはず。……それなのに、一体何故?)
お互いが多くの定跡をしっかり覚えているのだ。定跡とは先人たちからの統計による最善手。お互いが多くそれを知っているのなら、堅実で真面目なチェスにならざるを得ない。
ボクは1度彼のチェスを見ているが、全く初めての向こうはボクの実力も未だ掴みきれていないはず。
オープニングの今このタイミングは、定跡通りの最善手を打ちつつ、相手に攻め入る隙を与えないことを気をつけるべきタイミングだ。
中盤にかけ、どう自分が攻め込むか。それを考えるにしても長考するには少し早い気がする。
長くも、短くも感じる時は、彼が盤上へ手を伸ばしたことで終わりを迎えた。
彼のその細く、指先まで美しい指が持ち上げた駒は、
(ここでキング……!?)
なんと、白のキングだった。
定跡を崩す所の話じゃない。キングズギャンビットをするにはあまりにも遅いタイミングであるし、オープニングが終わってもいない盤上でキングをメインで動かすなんて見たことも聞いたこともない!
(キングが追い詰められたら終わりだと言うのに……!)
自分の口角が上がるのがわかる。
この少年は、ボクに対して、新しい事をしようとしている。
彼の頭脳が持てる全てをボクにぶつけようとしている。
(嗚呼、素晴らしい!こんな天才が日本のような国にいたとは!)
これは、彼に認められたということだ。
ボクの実力を未だ掴みきれていないはず?
とんでもない!
彼はこの数手、ただ定跡をなぞっただけに過ぎないチェスで、ボクの実力を正しく理解していた。
だからこそ、自分の才能をボクにならぶつけてもいいと、彼は行動に出たのだ。
彼が、本気を出してもいいとボクには思ってくれた。
(嗚呼……素晴らしい……久々ですよ、こんな歓喜に震えるような瞬間は。)
バカを相手にしている時とはまるで違う感覚。
まるで魂の片割れを見つけたかのような、そんな気分だ。
当然、試合は今までにないくらい白熱した。
ボクも定跡から大きく逸れた試合展開を描き、芝崎君も驚くような滅多見ない駒運びを展開する。
永遠に続けばいい、と思ったところで、最後の一手でお互い動かす駒のないステルメイト状態になっている事に気づいた。弱いポーンを中々作り出さないボク達らしい終わり方だ。
「残念。引き分けですね。」
そうボクが肩を竦めれば、
「そうですね。」
と、力を抜いた芝崎君も首肯する。
「とても楽しい試合でした。……君とこのまま別れるのが勿体ないくらいです。」
つい、本音が口から零れた。
ボクはこの国でやらなければならないことがある。ボクのためにも、そして何より彼自身のためにもこれ以上の接触は避けるべきだ。
頭ではわかっているはずなのに、それに納得できていない、心がいる。こんなことは初めてだった。
とは言え、芝崎君からすれば初対面の、友達でもなければ血の繋がりがある人間でもないボクに、こんなことを言われても困るだろう。
冗談として誤魔化そうとしたところで、
「また、次の時に。」
僕の言葉よりも先に、芝崎君の次を確信している言葉が耳に飛び込んできた。
拒否すべきだ。断るべきだったのに。
「……そうですね、また、次の時に。」
気づけば、ボクの口からするりと言葉が流れ出ていた。
チェスクラブを出て、彼の背中を見送る。
人混みに紛れてもなお見失わない彼の背中を眺めながら、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
早く、芝崎君のためにも早くこの腐敗しきった社会を壊さねば。
バカしかない社会を壊し、ボクらが輝ける世界を創る。
(嗚呼、早く彼にもその世界を見せなければ。)
耳元に当てたスマートフォンから呼出音が鳴る。何回かして途切れた音の向こうから「何何?どうしたの? 」なんていうヴァジュラの軽い声が聞こえてきた。
「遅いですよ。至急調べて欲しい人物がいます。 」
彼が言ってくれた『次』を確実な未来にしなければ。
ちょうど、公園の近くにチェスクラブがあったのはラッキーだったと言えるだろう。
「改めて、芝崎です。よろしくお願いします。どちらですか?」
と、少年は自分の名前を伝えてから、白黒それぞれのポーンを握った拳を見える位置まで上げる。
「そういえば自己紹介をしていませんでしたね。ボクのことはルド、とでも呼んでください。右で。」
ルドさんですね、と少年基、芝崎君が右手を開けばそこには黒のポーンが。
「では、ボクが黒ですね。」
黒のポーンを戻しながら、ボクの目の前に黒の陣地が行くように芝崎君がチェス盤を回す。
「お願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
お互い軽く頭を下げ、芝崎君は白のポーンを手に取った。
***
(……このタイミングで長考?)
開始から数手進んだ頃、芝崎君が盤上を鋭く見つめたまま、動かなくなった。
細い白魚のような指が顎に当てられ、動かない様はまるで精巧に出来た彫刻のようだ。
現時点ではまだ、定跡にそっただけの、堅実かつ真面目な試合運びが行われている。
周りで観戦している人間たちもこのタイミングでの長考に、不思議そうに芝崎君を見やった。ただ無闇矢鱈に騒がないのは芝崎君の圧倒的な存在感が周りを威圧しているからだろう。
(正直、ここから先数手はまだ定跡通り正しく並べるオープニングでしかないはず。決して圧倒的優位という訳でもないが劣勢でもないはず。……それなのに、一体何故?)
お互いが多くの定跡をしっかり覚えているのだ。定跡とは先人たちからの統計による最善手。お互いが多くそれを知っているのなら、堅実で真面目なチェスにならざるを得ない。
ボクは1度彼のチェスを見ているが、全く初めての向こうはボクの実力も未だ掴みきれていないはず。
オープニングの今このタイミングは、定跡通りの最善手を打ちつつ、相手に攻め入る隙を与えないことを気をつけるべきタイミングだ。
中盤にかけ、どう自分が攻め込むか。それを考えるにしても長考するには少し早い気がする。
長くも、短くも感じる時は、彼が盤上へ手を伸ばしたことで終わりを迎えた。
彼のその細く、指先まで美しい指が持ち上げた駒は、
(ここでキング……!?)
なんと、白のキングだった。
定跡を崩す所の話じゃない。キングズギャンビットをするにはあまりにも遅いタイミングであるし、オープニングが終わってもいない盤上でキングをメインで動かすなんて見たことも聞いたこともない!
(キングが追い詰められたら終わりだと言うのに……!)
自分の口角が上がるのがわかる。
この少年は、ボクに対して、新しい事をしようとしている。
彼の頭脳が持てる全てをボクにぶつけようとしている。
(嗚呼、素晴らしい!こんな天才が日本のような国にいたとは!)
これは、彼に認められたということだ。
ボクの実力を未だ掴みきれていないはず?
とんでもない!
彼はこの数手、ただ定跡をなぞっただけに過ぎないチェスで、ボクの実力を正しく理解していた。
だからこそ、自分の才能をボクにならぶつけてもいいと、彼は行動に出たのだ。
彼が、本気を出してもいいとボクには思ってくれた。
(嗚呼……素晴らしい……久々ですよ、こんな歓喜に震えるような瞬間は。)
バカを相手にしている時とはまるで違う感覚。
まるで魂の片割れを見つけたかのような、そんな気分だ。
当然、試合は今までにないくらい白熱した。
ボクも定跡から大きく逸れた試合展開を描き、芝崎君も驚くような滅多見ない駒運びを展開する。
永遠に続けばいい、と思ったところで、最後の一手でお互い動かす駒のないステルメイト状態になっている事に気づいた。弱いポーンを中々作り出さないボク達らしい終わり方だ。
「残念。引き分けですね。」
そうボクが肩を竦めれば、
「そうですね。」
と、力を抜いた芝崎君も首肯する。
「とても楽しい試合でした。……君とこのまま別れるのが勿体ないくらいです。」
つい、本音が口から零れた。
ボクはこの国でやらなければならないことがある。ボクのためにも、そして何より彼自身のためにもこれ以上の接触は避けるべきだ。
頭ではわかっているはずなのに、それに納得できていない、心がいる。こんなことは初めてだった。
とは言え、芝崎君からすれば初対面の、友達でもなければ血の繋がりがある人間でもないボクに、こんなことを言われても困るだろう。
冗談として誤魔化そうとしたところで、
「また、次の時に。」
僕の言葉よりも先に、芝崎君の次を確信している言葉が耳に飛び込んできた。
拒否すべきだ。断るべきだったのに。
「……そうですね、また、次の時に。」
気づけば、ボクの口からするりと言葉が流れ出ていた。
チェスクラブを出て、彼の背中を見送る。
人混みに紛れてもなお見失わない彼の背中を眺めながら、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
早く、芝崎君のためにも早くこの腐敗しきった社会を壊さねば。
バカしかない社会を壊し、ボクらが輝ける世界を創る。
(嗚呼、早く彼にもその世界を見せなければ。)
耳元に当てたスマートフォンから呼出音が鳴る。何回かして途切れた音の向こうから「何何?どうしたの? 」なんていうヴァジュラの軽い声が聞こえてきた。
「遅いですよ。至急調べて欲しい人物がいます。 」
彼が言ってくれた『次』を確実な未来にしなければ。

