熱が籠って頭がぼんやりする。
視界が暗い。

(……いや、ボクの瞼が閉じているんだ……)

霞んでぼやけた意識の中、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

途端に明るい光が目を刺すが、上手くピントが合わず、何回か瞬きする。

「……大丈夫ですか?」

声が聞こえた。
揺らぎのない水面のような穏やかな声だ。

何処から聞こえてくるのだろうか、と視線をさ迷わせれば、次第に視界がハッキリとしてきて、目の前の人物の姿を鮮明に映した。

(しまった……!まさか人の多いところで気を失うだなんて!)

視界が鮮明になると共に思考もクリアになる。
まさか、組織のトップであるこのボクが、いつ何処で狙われるかもわからない所で呑気に寝ていたなんて!
状況を理解すると同時に慌てて起き上がろうとすれば、

「だめ、です。まだ、動かないで下さい。いきなり動くと危険です。」

目の前の人物に静止の声を掛けられる。
単語を区切り、ゆっくりと話すのは恐らくボクが、この国の人間では無いと理解しているからだ。

目の前にいる、倒れる前に話しかけてきたこの少年は典型的な日本人の容姿をしている。
ボクと同じ黒髪に、黒曜石のような瞳。肌も白いとはいえ、黄色人種の白さだ。

(……それなのに、この存在感は一体……)

平凡な学生の格好をしているのに、決して周りに埋もれない存在感が彼にはある。
遠くから見ても目が離せなかった程の存在感だ。目の前にいれば余計にその異質さがわかる。

あまりにじっと見つめすぎたのだろう。少年は少し首を傾げながら口を開いた。

「日本語分かりますよね?」

と。

(ボクはまだ彼の前で日本語を話していないはず。それなのに一体何故……)

日本語がわかりますか?と尋ねるのならまだわかる。見た目からも日本人では無いという事がわかるのだから、答えがなければ日本語がわからないと思うのが妥当だ。

だが、この少年は違う。
ボクが日本語がわかると確信(・・)している。

「……あぁ、はい、確かにわかりますが……」

彼の言うとおり、日本語で答えれば、さも当然という態度でそこに在る少年。

問題はこの少年がいつ、ボクが日本語を話せると確信したか、だ。
可能性があるとすれば、最初に声をかけられた時。

彼のチェスが好きかどうかという質問に対して、ボクは普通に答えようとしていた。

彼が確信を得るとしたらその時のボクの態度や反応だろう。不安や動揺、戸惑いなどといった感情が、瞳孔や仕草等から見えなかったため、この少年はボクが日本語を理解し話せると確信した。

(先程のチェスといい、どうやら、相当頭がきれる少年のようですね……)

観察眼が優れているだけでは無い。それを分析するだけの頭脳が彼にはあるのだろう。

それに少年が打っていたあのチェス。遊び心と冒険心の強さが読み取れたあの盤上を思い出して、気づけばボクは口を開いていた。

「……先程のチェスですが、アドルフ・アンデルセンの名局、『immortal(不滅)』と同じ、ギャンビット(ポーンを犠牲にして)からルーク2つをサクリファイス(有利のための犠牲)にしてキングを取ろうとしていましたよね?ただ相手も貴方なので、アクセプティド(提供されたポーンを取ること)をしなかった。」

アドルフ・アンデルセンは19世紀の棋士だ。
特に19世紀のチェスは激しい展開と速さが好まれた時代で、アドルフ・アンデルセンの『immortal(不滅)』はその激しいチェスの象徴のような、現代にまで残る名局の1つ。

だが、少年の先程のゲームには、『immortal(不滅)』をリスペクトしつつも、気になる点があった。
少年が何も言わずにこちらの言葉を待ってくれるのをいい事に、畳み掛けるように言葉を並べる。

「気になったのは、『immortal(不滅)』のそれを(後手)でやろうとしていたことです。これは(先手)だから活きる布陣でしょう?」

その質問に、今まで動かなかった彼の表情が動いた。
花がパッと咲いたかのように、その作り物めいた顔が笑みに変わる。

「最初に誰かを犠牲にした方が勝つなんてつまらないじゃないですか!」

と、身を乗り出し、なおも言葉を紡いでいく。

「確かにあの定跡は先手に有利なものですが、相手(先手)も、僕ですからね。何をやりたいか分かってるから誘いに乗らない。それを(後手)もわかっているから、より誘いやすく動かしました。後手でどれくらい、『immortal(不滅)』を活かすことが出来るのか、先手はどれくらいそれを交わすことが出来るのか、その結果がどんな局面になるのか。とてもワクワクする試合でしょう!?」

その彼の勢いに思わず言葉が出なかった。
恐らく、というよりも確実にこの少年はボクより歳下だろう。
それなのに、これほどまでに実験的でありながら、ゲームとして成立し、尚且つあれほどまでの見応えのある接戦を繰り広げられるプレイヤーなど、大人でも滅諦にいない。

しかし、一息で話したところで少年は「……すみません、つい。」と勢いを失い、熱い砂が覆う地面に座り込んだ。

その姿に、何時だかのボク自身が重なって見えたような気がした。

これほどのチェスの腕前だ。地頭もいいだろうが、その熱心さから知識にも貪欲のなはず。
更には彼が持つこの存在感。

ただでさえバカしかいない世界だ。ボクと同じで、能力が抜きん出すぎて孤立しているのだろう。
人に使われるしか能がないバカ共のせいで、この子が孤独を感じるなんてなんて可哀想なことか。

「もしよければ、ボクと対局しませんか?」

気づけばボクの口からはそんな言葉が出ていた。
彼自身への興味と、ボクだけは君を理解できるという気持ちからの誘いだったのかもしれない。