とはいえ、熱中症だった人を木陰だとしても、いつまでも外にいさせる訳にはいかない。
そこで、公園近くのチェスクラブに行って、場所を借りての対戦になった。

「改めて、芝崎です。よろしくお願いします。どちらですか?」

対戦にあたり名前を伝え、先行後攻を決めるため左右に白黒それぞれのポーンを握り、相手に拳を見せる。

「そういえば自己紹介をしていませんでしたね。ボクのことはルド、とでも呼んでください。右で。」

ルドさんですね、と答えながら選ばれた右手を開けばそこには黒のポーンが。

「では、ボクが(後手)ですね。」

その言葉に頷きながら、黒のポーンを戻し、ルドさんの目の前に黒の陣地が行くようにチェス盤を回す。

「お願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」

ワクワクを抑えきれない僕はきっとニヤけた、だらしない顔をしているだろうに、ルドさんは優しく微笑みながら、挨拶を返してくれた。

そして、僕は白のポーンを手に取った。


(……この人、今まで対戦した人の中で、1番強いかもしれない。)

何手か進んだ頃。僕は思わず長考の体勢に入る。
トリッキーなチェス、というよりは堅実な、定跡にそったオープニング(序盤戦)だ。
もちろん、(サーンプ)さんも強いが、(サーンプ)さんの試合よりも、重いプレッシャーを感じる。

正直まだこの段階では相手の力量を測りきれない所があるが、強いと感じるのは駒を置く時の迷いの無さだ。

展開によってその場その場の定石がある囲碁やオセロと違って、チェスの定跡というのは序盤の1手目から10~15手目位までの駒の動かし方を意味している。

ここで重要になってくるのは、このオープニング(序盤戦)で、駒を展開すること。中央を支配すること。キングの安全を確保すること。弱いポーンができないようにすること。ピース同士を連携させること。この5つの要素を相手より優位に立てるように展開できるか、だ。

(囲碁やオセロに比べたら定跡は少ない方だけど、マイナーなものも合わせたらその数は相当存在する……多分、彼はほぼ全てを覚えてる。)

定跡を切り替える時にも駒を置くその手には迷いが全くない。
この配置、この状況で、どうすれば最善の一手なのか。その統計を全てわかっているような、静かで鋭い手を打ってくる。

(……なら、定跡そのものを崩す。)

定跡を崩す、ということは最善から外れるということだ。それで僕がルドさんに勝てるかどうかはわからない。
でも、この堅実なチェスに自分の見通しがどこまで通用するかを試したくなった。

場面はオープニング(序盤戦)が終わるかどうかという辺り。

そこで、僕が手に取ったのは、白のキングだった。

ルドさんの目が見開かれたのを横目に、僕はそれを前に進める。

思わず、という具合にルドさんの口角が上がったのが見えた。

正直、キングをメインで動かすには早すぎるタイミングだし、逆にキングを初めから動かすキングズギャンビットをするにはかなり遅すぎるタイミングだ。

だからこそ、ここからどう動かしていくか、相手がどう動いてくるか、より多くの展開を見通せた者が、このゲームの勝ちを掴み取れるだろう。


結果、この試合はとんでもなく白熱した。
ルドさんも定跡から大きく逸れた試合展開を描き、僕も試合でも滅多に見ない駒運びを展開した。

見る人が見たら「なんだこのめちゃくちゃな手順のチェスは!」となりそうなくらいごちゃごちゃと散らばった棋譜だ。
それでも、そこにある相手との腹の探り合い、戦略、駒の攻防、どの一手一手を見てもワクワクする試合だった。

「残念。引き分けですね。」
「そうですね。」

そう言って肩を竦めたルドさんに同意し、頷く。
ここまで白熱したが、チェスは元々引き分けの多いボードゲーム。
ステルメイト、しかも珍しくお互いが動かせる駒がなくなる展開となり、このゲームは引き分けとなった。

「とても楽しい試合でした。……君とこのまま別れるのが勿体ないくらいです。」

そう言って眉尻を下げたルドさんに、僕は「また縁があったら試合をしましょうね。」と声をかけようとして、

「また、次の時に。」

口下手が発揮された。

伝えたかった言葉の字数より圧倒的に少ない。
伝えたい言葉が圧縮されすぎた。

(もー!!なんで肝心な時に僕は!)

思わず頭を抱え込みたくなるも、ルドさんはこの数時間で、僕という人間の口下手を分かってくれたらしく、今はまで通り優しく微笑みながら、

「……そうですね、また、次の時に。」

と、答えてくれた。

(ルドさん……めっちゃ良い人だ……)



なんて芝崎は感動しているが、残念。そいつは国際テロ組織のボスである。
なんなら自分以外の人間は皆バカだと見下しているタイプの人間なので良い人からはあまりにもかけ離れた人物なのだが、もちろん、芝崎は気がついていない。