◆
スマホやノートを眺めて午前中を過ごしたあと、僕は大晴に言われたとおり、一時半に間に合うように学校に向かった。
パソコン室に着くまでの途中、深澤さんと涼晴から今日の試写会に参加できないというメッセージが届いた。
五人のメンバーのうち二人も不参加なんて。大晴が残念がるだろうな。映画の出来栄えについて自信ありげだった大晴の顔を思い出しつつ、階段の下まで来たとき。
「ひゃっ……」
「え、陽咲?」
幼なじみふたりの声が聞こえて顔をあげると、階段の真ん中で大晴と陽咲が抱き合っていた。大晴の腕の中で陽咲の顔は耳まで真っ赤になっていて、そのことが僕の左胸を騒がせた。
ふたりが仲がいいのも、大晴が陽咲を好きなことも知っている。状況的に、階段で転びそうになった陽咲を大晴が助けたのだろうなということも予想がつく。だけど、あんなふうに大晴を意識している陽咲の顔を見たのは初めてだ。
「ご、ごめん……」
「おれも焦った。気を付けろよ」
「うん、ありがとう」
ふたりの会話をどこか遠くに聞きながら、カレンダーのメモの空白のことを考える。
七月七日の誕生日前夜。僕は大晴から、「陽咲に告った」と報告を受けていた。
七月七日時点で陽咲は大晴に告白の返事をしていなかったみたいだけれど、あれからもう二ヶ月以上が過ぎている。
事故の記憶のない陽咲は、僕の告白を覚えていない。だとしたら、僕の時間が止まっているあいだに陽咲が大晴と付き合うことを決めていてもおかしくない。
もしかしたら、あの空白の日に僕はふたりから付き合うことになったという報告を受けていて、それがショックで記録が残せなかったのかもしれない。その証拠に、今、階段で抱き合う大晴と陽咲の姿を目の当たりにして、僕の心臓はとんでもない焦燥感でバクバク鳴っているのだ。
どうしよう……。このまま見なかったフリをして逃げ出そうにも、身体がフリーズして動かない。
わずかに口を開いたまま直立していると、陽咲と大晴と目が合った。
「お、おう。蒼月」
ふたりに気まずそうな顔をされると、僕も気まずい。たとえ、大晴と陽咲が付き合っていたとしてもふつうにしなければ。僕にふたりの関係に口を挟む権利なんてないんだから。
「おはよう」
僕が挨拶すると、「あ、あー、おはよ」と大晴が返してくる。大晴とは午前中に会っているから、あらためて挨拶するのも変な感じだ。
陽咲と抱き合っていたところを見られたのがよっぽど気まずかったのか、大晴はその場から逃げるようにパソコン室の鍵を撮りに行った。
「今日は大晴と一緒に来たの?」
残された陽咲とパソコン室に向かう途中、ちょっと気になって聞いてみた。
「あ、うん。駅で待ち合わせて一緒に」
「そっか。仲良いね」
「そうだね、仲良いよ」
そう言って笑う陽咲の顔を見て、やっぱひふたりは付き合いだしたのだと察した。陽咲に笑い返しながら、僕は胸が苦しかった。
大晴はどうして、さっき家に来たときに陽咲の無事と一緒に彼女と付き合いだしたことを教えてくれなかったんだろう。大晴のことを恨めしく思ったけれど、すぐその理由に気付く。
大晴が教えてくれなかったのは、僕が今日の記憶を明日に残せないからだ。ふたりが付き合っているとわかっても、カレンダーのメモに残さない限り、その事実を覚えていられない。そして僕は、この事実をたぶん今日のメモには書き残さないだろう。何も知らずに目覚めた明日の自分が傷付くのが怖いから。
パソコン室の前で少し待っていると、大晴が鍵を持ってやってきた。
「お待たせ。メンバーも揃ったし、すぐに上映始めよう」
プロジェクターやノートパソコンなど、必要な準備を整えた大晴がパソコン室の電気を消す。
パソコン室のホワイトボードに映像が映り、夏休みに僕らが撮影したという映画が始まる。
『消えていく君のカケラと、進まない僕の時間』
家にあった台本と同じ映画のタイトルが、夏空の背景に白文字でゆっくりと浮かびあがる。
それから、場面転換して病院のような場所へ。ベッドで眠っていた陽咲が目を覚まし、蒼月と出会う。ふたりは付き合っていたが、事故に遭い、その後遺症で陽咲には記憶障害が残っている。事故に遭ったことだけでなく、蒼月と付き合っていたことも忘れているのだ。
蒼月は、自分との思い出を全て忘れてしまった陽咲ともう一度恋をやり直そうとする。
大晴が「楽しみにしとけ」と言ったとおり、映画はひとつひとつのシーンを丁寧に作ってあった。
藤澤さんと涼晴もキャストとして出ているが、スクリーンに映し出されるのはほとんどが僕と陽咲のふたり。それも、恋人同士のようにふたりで話したり笑ったりしているシーンが多い。
見慣れた駅の改札の前での待ち合わせ。僕らの地元の公園の近くの道。
スクリーンの中の僕に笑いかけてくる陽咲はかわいくて、きらきらとまぶしくて。映像の中の僕の顔は、かなり照れてデレていた。こんな表情が残っていて、他の人にも見られていると思うと恥ずかしい。映画を撮影、編集した大晴には、陽咲を好きな僕の気持ちがダダ漏れだっただろう。
もしかしたら、陽咲にも僕の気持ちがバレていたかもしれない。隣に座る陽咲のことをちらっと盗み見ると、彼女はとても真剣なまなざしで映画に見入っていた。
暗い部屋の中で青白く輝く陽咲の横顔はとても綺麗だ。つい吸い寄せられるように見つめていると、パチパチッと火花の弾ける音が聞こえてきた。
『見て、蒼月。きれい』
陽咲の声に呼ばれてスクリーンに視線を戻すと、スパーク花火を手に持った彼女が嬉しそうに笑いかけてくる。シーンはいつの間にか夜の公園へと移り変わっていて、映画の中の陽咲と蒼月はふたりで花火を楽しんでいた。
そういえばカレンダーアプリのメモに、陽咲たちと公園で花火をしたという記録が残っていたような気がする。それがこのシーンの撮影日のことだったんだ。
花火を楽しむ僕たちの後ろでは、噴射花火があがり、華やかな演出が成されている。花火を手にしてはしゃぐスクリーンの中の陽咲はかわいくて、彼女が画面越しに僕の名前を呼ぶ度に左胸がドクンと高鳴る。
赤、黄色、オレンジ。次々と花火に火をつけていく陽咲を見つめていると、ふと彼女が不思議そうに首をかしげる。
『蒼月は? 花火しないの?』
陽咲に問われるまで気付かなかったが、そういえば、さっきから花火に火をつけているのは彼女だけだ。
『一緒にやろう』と誘う陽咲に、蒼月は不思議なことを言う。
『僕、ほんとうはもう、この世にいないんだ……』
自分で自分のセリフにゾクリとした。
今まで、事故で記憶を失った陽咲と蒼月のピュアなやり直し恋愛ストーリーだと思って見ていたのに。一気に不穏な空気が漂ってきて、不安になる。
この映画の中で、陽咲と蒼月は結ばれない運命なのかもしれない。そんな予感がして、今さらだけど、机の中に置いてあった台本を読んでおけばよかったと思った。
僕はこの映画の出演者なのに、この先物語がどう進んでいくのか見当がつかない。すべてが、初めて目にすることばかりだからだ。
蒼月の様子が何かおかしいと感じつつも、陽咲は海へのデートに彼を誘う。
映画の中で、僕は陽咲と手を繋いで波打ち際を歩いたり、砂浜で遊んだり、海辺のそばのカフェ通りを歩いたり。本物の恋人同士のように、ふたりで過ごしていた。
僕の記憶では、陽咲と最後に手を繋いだのは小学生のときだ。ここ最近は陽咲と隣に並んで歩くことすらままならなかったのに、演技とはいえ、彼女の手を繋いで歩くスクリーンの中の自分を羨ましく思う。それだけでなく、映画の中で、僕は陽咲に告白までされていた。
『わたし、蒼月のことが好き……。前からずっと……』
涙目で声を震わせる陽咲の告白に、演技とはわかっていても胸がぎゅっと苦しくなる。
こんな貴重なシーンを、僕は何ひとつ覚えていなくて。そのことが、ものすごく悔しい。僕はどうしてこんなにも大切なことを覚えておけないんだろう。
海でのデートで映画のストーリーは急展開し、蒼月が実は事故ですでに亡くなってしまっていることがわかる。陽咲が目覚めてからずっとそばにいた蒼月は、彼女にしか見えない幽霊だった。
『陽咲が僕のことを生きている人間だと思い込んでいたから、触れ合えているように感じたんだ。今の僕は、陽咲にしか見えていない。陽咲への未練と執着だけが残した幽霊なんだよ』
そんなセリフを悲しい目をして陽咲に告げるのは、スクリーンの中の僕。覚えのない展開と、蒼月の言葉にすべてを思い出して涙を流す陽咲に感情が揺さぶられて僕も泣きそうになる。
『神様に猶予をもらったんだよ。陽咲が僕を思い出すまで、そばに居させてくださいって。陽咲と過ごせた時間は幸せだった。ありがとう……』
思っているよりも少し音程の違う自分の声を聞きながら、僕の感情はぐちゃぐちゃだった。
映画の中の陽咲と蒼月の恋は、まるで現実の僕らの恋みたいだ。
事故に遭って記憶をなくしたヒロインのように、七月七日にふたりで過ごした時間も僕からの告白も覚えていない陽咲。幽霊になって時が止まってしまったヒーローのように、七月七日より先の記憶が残らない僕。
僕らの関係性は、ヒロインとヒーローがもともと両想いだった映画の中のふたりとは違うけど、この先も一生すれ違ったまま、僕らの気持ちが混ざり合うことはない。
海でのデートのあと、蒼月の姿は消えてしまい、彼のいない世界で頑張って生きていこうと決めた陽咲が彼との『思い出の場所』に足を運ぶ。その場所は、見覚えのある河原で、僕はおもわずハッと息を飲んだ。
石造りの橋、その下に流れる細い川の土手。その河原は、僕の十歳の誕生日に陽咲とふたりでホタルを見に行った場所だった。
どうして大晴は、この場所を撮影地に選んだのだろう。たまたまだろうか。まさか、この場所を選んでくれたのは陽咲……?
ふと都合の良い考えが脳裏を掠めたそのとき、茜色の空の下、ひとりきりで川辺に立つ陽咲の顔がクローズアップされる。
透明にきらめく河面を見つめる陽咲の横顔は、息を飲むほどに綺麗だ。小さな頃から知っている幼なじみが、こんなにも儚く美しい表情ができるのだと驚く。スクリーンの中で、陽咲の唇がゆっくりと開く。
『君がわたしのそばにいなくても、君がわたしのそばにいてくれたことはずっと忘れないよ……。声も笑顔も触れたときの温かさも、記憶はいつか薄れてしまうかもしれないけど……。君への気持ちだけは一生覚えてる。だから、またいつか会えたときには伝えるね。大好きだよ――。ずっと、大好き』
そのセリフを聞いて、なんの根拠もなく、この河原を撮影場所に選んでくれたのは陽咲に間違いないと思った。
七月七日の事故に遭う寸前。告白した僕に、陽咲は言った。
『なんか今、わたし、ものすごくちゃんとわかっちゃったっていうか。だからその……、蒼月に好きって言ってもらえたこと、すごく嬉しい』
あのとき僕のことを真っ直ぐに見つめてふわりと微笑んだ陽咲と僕の気持ちは、ほんの一瞬だけ、たしかに混ざり合った。そして、スクリーンを通して、今この瞬間も。
忘れたくない。消えてほしくない。たしかに胸に響いたこの瞬間を、宝箱にでも詰め込んで鍵をかけて閉じ込めておきたい。
でも……、今夜眠って目覚めれば、僕が感じているこの気持ちは消えるんだ。
嬉しいのに、せつなくて苦しくて悲しくて。もどかしい感情で瞼の裏が熱くなる。
泣き虫だったのは、ばあちゃんがまだ生きていた小さな頃のことで、最近は感情を内側に隠すのがだいぶうまくなったつもりだ。それなのに、込み上げてくる感情がどうしても自分の中だけにとどめておけない。堪えきれずにこぼれ落ちた雫が、頬を流れた。
スマホやノートを眺めて午前中を過ごしたあと、僕は大晴に言われたとおり、一時半に間に合うように学校に向かった。
パソコン室に着くまでの途中、深澤さんと涼晴から今日の試写会に参加できないというメッセージが届いた。
五人のメンバーのうち二人も不参加なんて。大晴が残念がるだろうな。映画の出来栄えについて自信ありげだった大晴の顔を思い出しつつ、階段の下まで来たとき。
「ひゃっ……」
「え、陽咲?」
幼なじみふたりの声が聞こえて顔をあげると、階段の真ん中で大晴と陽咲が抱き合っていた。大晴の腕の中で陽咲の顔は耳まで真っ赤になっていて、そのことが僕の左胸を騒がせた。
ふたりが仲がいいのも、大晴が陽咲を好きなことも知っている。状況的に、階段で転びそうになった陽咲を大晴が助けたのだろうなということも予想がつく。だけど、あんなふうに大晴を意識している陽咲の顔を見たのは初めてだ。
「ご、ごめん……」
「おれも焦った。気を付けろよ」
「うん、ありがとう」
ふたりの会話をどこか遠くに聞きながら、カレンダーのメモの空白のことを考える。
七月七日の誕生日前夜。僕は大晴から、「陽咲に告った」と報告を受けていた。
七月七日時点で陽咲は大晴に告白の返事をしていなかったみたいだけれど、あれからもう二ヶ月以上が過ぎている。
事故の記憶のない陽咲は、僕の告白を覚えていない。だとしたら、僕の時間が止まっているあいだに陽咲が大晴と付き合うことを決めていてもおかしくない。
もしかしたら、あの空白の日に僕はふたりから付き合うことになったという報告を受けていて、それがショックで記録が残せなかったのかもしれない。その証拠に、今、階段で抱き合う大晴と陽咲の姿を目の当たりにして、僕の心臓はとんでもない焦燥感でバクバク鳴っているのだ。
どうしよう……。このまま見なかったフリをして逃げ出そうにも、身体がフリーズして動かない。
わずかに口を開いたまま直立していると、陽咲と大晴と目が合った。
「お、おう。蒼月」
ふたりに気まずそうな顔をされると、僕も気まずい。たとえ、大晴と陽咲が付き合っていたとしてもふつうにしなければ。僕にふたりの関係に口を挟む権利なんてないんだから。
「おはよう」
僕が挨拶すると、「あ、あー、おはよ」と大晴が返してくる。大晴とは午前中に会っているから、あらためて挨拶するのも変な感じだ。
陽咲と抱き合っていたところを見られたのがよっぽど気まずかったのか、大晴はその場から逃げるようにパソコン室の鍵を撮りに行った。
「今日は大晴と一緒に来たの?」
残された陽咲とパソコン室に向かう途中、ちょっと気になって聞いてみた。
「あ、うん。駅で待ち合わせて一緒に」
「そっか。仲良いね」
「そうだね、仲良いよ」
そう言って笑う陽咲の顔を見て、やっぱひふたりは付き合いだしたのだと察した。陽咲に笑い返しながら、僕は胸が苦しかった。
大晴はどうして、さっき家に来たときに陽咲の無事と一緒に彼女と付き合いだしたことを教えてくれなかったんだろう。大晴のことを恨めしく思ったけれど、すぐその理由に気付く。
大晴が教えてくれなかったのは、僕が今日の記憶を明日に残せないからだ。ふたりが付き合っているとわかっても、カレンダーのメモに残さない限り、その事実を覚えていられない。そして僕は、この事実をたぶん今日のメモには書き残さないだろう。何も知らずに目覚めた明日の自分が傷付くのが怖いから。
パソコン室の前で少し待っていると、大晴が鍵を持ってやってきた。
「お待たせ。メンバーも揃ったし、すぐに上映始めよう」
プロジェクターやノートパソコンなど、必要な準備を整えた大晴がパソコン室の電気を消す。
パソコン室のホワイトボードに映像が映り、夏休みに僕らが撮影したという映画が始まる。
『消えていく君のカケラと、進まない僕の時間』
家にあった台本と同じ映画のタイトルが、夏空の背景に白文字でゆっくりと浮かびあがる。
それから、場面転換して病院のような場所へ。ベッドで眠っていた陽咲が目を覚まし、蒼月と出会う。ふたりは付き合っていたが、事故に遭い、その後遺症で陽咲には記憶障害が残っている。事故に遭ったことだけでなく、蒼月と付き合っていたことも忘れているのだ。
蒼月は、自分との思い出を全て忘れてしまった陽咲ともう一度恋をやり直そうとする。
大晴が「楽しみにしとけ」と言ったとおり、映画はひとつひとつのシーンを丁寧に作ってあった。
藤澤さんと涼晴もキャストとして出ているが、スクリーンに映し出されるのはほとんどが僕と陽咲のふたり。それも、恋人同士のようにふたりで話したり笑ったりしているシーンが多い。
見慣れた駅の改札の前での待ち合わせ。僕らの地元の公園の近くの道。
スクリーンの中の僕に笑いかけてくる陽咲はかわいくて、きらきらとまぶしくて。映像の中の僕の顔は、かなり照れてデレていた。こんな表情が残っていて、他の人にも見られていると思うと恥ずかしい。映画を撮影、編集した大晴には、陽咲を好きな僕の気持ちがダダ漏れだっただろう。
もしかしたら、陽咲にも僕の気持ちがバレていたかもしれない。隣に座る陽咲のことをちらっと盗み見ると、彼女はとても真剣なまなざしで映画に見入っていた。
暗い部屋の中で青白く輝く陽咲の横顔はとても綺麗だ。つい吸い寄せられるように見つめていると、パチパチッと火花の弾ける音が聞こえてきた。
『見て、蒼月。きれい』
陽咲の声に呼ばれてスクリーンに視線を戻すと、スパーク花火を手に持った彼女が嬉しそうに笑いかけてくる。シーンはいつの間にか夜の公園へと移り変わっていて、映画の中の陽咲と蒼月はふたりで花火を楽しんでいた。
そういえばカレンダーアプリのメモに、陽咲たちと公園で花火をしたという記録が残っていたような気がする。それがこのシーンの撮影日のことだったんだ。
花火を楽しむ僕たちの後ろでは、噴射花火があがり、華やかな演出が成されている。花火を手にしてはしゃぐスクリーンの中の陽咲はかわいくて、彼女が画面越しに僕の名前を呼ぶ度に左胸がドクンと高鳴る。
赤、黄色、オレンジ。次々と花火に火をつけていく陽咲を見つめていると、ふと彼女が不思議そうに首をかしげる。
『蒼月は? 花火しないの?』
陽咲に問われるまで気付かなかったが、そういえば、さっきから花火に火をつけているのは彼女だけだ。
『一緒にやろう』と誘う陽咲に、蒼月は不思議なことを言う。
『僕、ほんとうはもう、この世にいないんだ……』
自分で自分のセリフにゾクリとした。
今まで、事故で記憶を失った陽咲と蒼月のピュアなやり直し恋愛ストーリーだと思って見ていたのに。一気に不穏な空気が漂ってきて、不安になる。
この映画の中で、陽咲と蒼月は結ばれない運命なのかもしれない。そんな予感がして、今さらだけど、机の中に置いてあった台本を読んでおけばよかったと思った。
僕はこの映画の出演者なのに、この先物語がどう進んでいくのか見当がつかない。すべてが、初めて目にすることばかりだからだ。
蒼月の様子が何かおかしいと感じつつも、陽咲は海へのデートに彼を誘う。
映画の中で、僕は陽咲と手を繋いで波打ち際を歩いたり、砂浜で遊んだり、海辺のそばのカフェ通りを歩いたり。本物の恋人同士のように、ふたりで過ごしていた。
僕の記憶では、陽咲と最後に手を繋いだのは小学生のときだ。ここ最近は陽咲と隣に並んで歩くことすらままならなかったのに、演技とはいえ、彼女の手を繋いで歩くスクリーンの中の自分を羨ましく思う。それだけでなく、映画の中で、僕は陽咲に告白までされていた。
『わたし、蒼月のことが好き……。前からずっと……』
涙目で声を震わせる陽咲の告白に、演技とはわかっていても胸がぎゅっと苦しくなる。
こんな貴重なシーンを、僕は何ひとつ覚えていなくて。そのことが、ものすごく悔しい。僕はどうしてこんなにも大切なことを覚えておけないんだろう。
海でのデートで映画のストーリーは急展開し、蒼月が実は事故ですでに亡くなってしまっていることがわかる。陽咲が目覚めてからずっとそばにいた蒼月は、彼女にしか見えない幽霊だった。
『陽咲が僕のことを生きている人間だと思い込んでいたから、触れ合えているように感じたんだ。今の僕は、陽咲にしか見えていない。陽咲への未練と執着だけが残した幽霊なんだよ』
そんなセリフを悲しい目をして陽咲に告げるのは、スクリーンの中の僕。覚えのない展開と、蒼月の言葉にすべてを思い出して涙を流す陽咲に感情が揺さぶられて僕も泣きそうになる。
『神様に猶予をもらったんだよ。陽咲が僕を思い出すまで、そばに居させてくださいって。陽咲と過ごせた時間は幸せだった。ありがとう……』
思っているよりも少し音程の違う自分の声を聞きながら、僕の感情はぐちゃぐちゃだった。
映画の中の陽咲と蒼月の恋は、まるで現実の僕らの恋みたいだ。
事故に遭って記憶をなくしたヒロインのように、七月七日にふたりで過ごした時間も僕からの告白も覚えていない陽咲。幽霊になって時が止まってしまったヒーローのように、七月七日より先の記憶が残らない僕。
僕らの関係性は、ヒロインとヒーローがもともと両想いだった映画の中のふたりとは違うけど、この先も一生すれ違ったまま、僕らの気持ちが混ざり合うことはない。
海でのデートのあと、蒼月の姿は消えてしまい、彼のいない世界で頑張って生きていこうと決めた陽咲が彼との『思い出の場所』に足を運ぶ。その場所は、見覚えのある河原で、僕はおもわずハッと息を飲んだ。
石造りの橋、その下に流れる細い川の土手。その河原は、僕の十歳の誕生日に陽咲とふたりでホタルを見に行った場所だった。
どうして大晴は、この場所を撮影地に選んだのだろう。たまたまだろうか。まさか、この場所を選んでくれたのは陽咲……?
ふと都合の良い考えが脳裏を掠めたそのとき、茜色の空の下、ひとりきりで川辺に立つ陽咲の顔がクローズアップされる。
透明にきらめく河面を見つめる陽咲の横顔は、息を飲むほどに綺麗だ。小さな頃から知っている幼なじみが、こんなにも儚く美しい表情ができるのだと驚く。スクリーンの中で、陽咲の唇がゆっくりと開く。
『君がわたしのそばにいなくても、君がわたしのそばにいてくれたことはずっと忘れないよ……。声も笑顔も触れたときの温かさも、記憶はいつか薄れてしまうかもしれないけど……。君への気持ちだけは一生覚えてる。だから、またいつか会えたときには伝えるね。大好きだよ――。ずっと、大好き』
そのセリフを聞いて、なんの根拠もなく、この河原を撮影場所に選んでくれたのは陽咲に間違いないと思った。
七月七日の事故に遭う寸前。告白した僕に、陽咲は言った。
『なんか今、わたし、ものすごくちゃんとわかっちゃったっていうか。だからその……、蒼月に好きって言ってもらえたこと、すごく嬉しい』
あのとき僕のことを真っ直ぐに見つめてふわりと微笑んだ陽咲と僕の気持ちは、ほんの一瞬だけ、たしかに混ざり合った。そして、スクリーンを通して、今この瞬間も。
忘れたくない。消えてほしくない。たしかに胸に響いたこの瞬間を、宝箱にでも詰め込んで鍵をかけて閉じ込めておきたい。
でも……、今夜眠って目覚めれば、僕が感じているこの気持ちは消えるんだ。
嬉しいのに、せつなくて苦しくて悲しくて。もどかしい感情で瞼の裏が熱くなる。
泣き虫だったのは、ばあちゃんがまだ生きていた小さな頃のことで、最近は感情を内側に隠すのがだいぶうまくなったつもりだ。それなのに、込み上げてくる感情がどうしても自分の中だけにとどめておけない。堪えきれずにこぼれ落ちた雫が、頬を流れた。