カフェを出たあと、僕らは電車で地元の駅に帰った。同じ町内に住む僕らの家は駅から離れていて、バスに乗って十分ほど。遠すぎて歩けないような距離ではないが、朝家を出る時間を少しでも遅らせるために、僕も陽咲も通学にはバスを利用している。

「すぐにバス来そうだね」

 僕が駅のロータリーのバス乗り場で時刻表を確認していると、陽咲が横からグイッとスクールバッグの紐を引っ張ってきた。スクールバッグの紐が肩からずり落ちて肘のところで止まり、ずしっと腕に重みがかかる。

 肩越しに振り返ると、陽咲が眉尻を下げて上目遣いに僕を見上げてきた。ドクンと心臓を鳴らす僕の顔色を窺うように見つめながら、陽咲が少し首を右に傾ける。

「蒼月がよければ、家まで歩いて帰らない?」

 陽咲の誘いに心音が少し速くなる。僕はそんなに他人の感情の機微に聡いほうじゃないけど、それでも陽咲の雰囲気からなんとなくわかる。

 駅から家までは、三十分くらい。五分ほどでやってくるバスではなく歩いて帰りたいという彼女は、時間稼ぎがしたいのだ。それは僕が期待するような理由ではなくて、彼女がまだ僕に伝えられていない話があるから。

「いいよ、歩こうか」

 肘まで落ちたスクールバッグの紐を肩まで引っ張り上げて頷くと、陽咲がほっとしたように頬を緩める。少し複雑な気持ちで陽咲から顔をそらすと、僕から先にバス停を離れて歩き始めた。そんな僕のことを、すぐに陽咲も追いかけてくる。

 駅前のロータリーを抜けて郵便局のある交差点の横断歩道まで来たところで、小走りで着いてきていた陽咲が僕の隣に並ぶ。

 向こう側の歩道に渡る短い横断歩道の信号待ちをしていると、陽咲がなにか言いたそうにチラチラと何度も僕のほうを見てきた。横顔に視線を感じながら立っていると、信号が青に変わる。

 その瞬間に大きな一歩を踏み出した僕からワンテンポ遅れて、陽咲も一歩踏み出す。斜め横から僕を追いかけるようにして横断歩道を渡った陽咲は、それから十数歩進んだところでようやく僕に話しかけてきた。

「そういえば、もうすぐ夏休みだよね。蒼月は何か予定決めてる?」
「別に。学校の夏期講習に行くくらい」

 ほんとうは、もっとほかに話したいことがあるくせに。当たり障りのない会話でとりあえずの沈黙を埋めようとする陽咲をチラリと見る。素っ気ない返事をすると、陽咲は「そっか」と困ったように愛想笑いした。

「特進科は夏休みも勉強忙しいんだね。普通科も一応夏期講習はあるけど、選択制だからほとんどみんな行かないって」
「ふーん、大晴も?」

 意図的に共通の幼なじみの名前を口にしたら、陽咲は「あー、うん。部活あるしね」と答えながら横髪を指で掬って耳にかけた。一度そうしただけで横髪はきちんと耳のところでキープされているのに、陽咲は何度も指で髪を掬うよな仕草を繰り返す。

 それが動揺したり、なにか話しにくいことがあるときの陽咲の癖だと知っている僕は、彼女のために自ら地雷に踏み込んだ。

「陽咲は何か予定決めてるの?」
「わたしも基本的には部活あるんだけど……、海とか行きたいねって誘われてる」

 微妙に足元に視線を落とした陽咲が、話しながら何度も執拗に指で横髪を掬う仕草を繰り返す。その横顔を見つめながら、僕はさらにもう一歩踏み込む。

「大晴に?」

 僕がその名前を口にした瞬間、陽咲の顔がわかりやすく赤くなった。

「な、なんで。やっぱり蒼月、大晴から何か聞いてる?」
「昨日の塾帰りに駅で待ち伏せされて、陽咲に告ったって報告を受けたよ」
「え、昨日? そ、そうなんだ……」

 せわしなく指で髪を掬う仕草を繰り返していた陽咲が、ついに真っ赤になって両手で頭を抱えるように耳を覆う。きっとそこも、顔と同じくらいに赤くなっているんだろう。 

「放課後に教室から呼び出されたときに、すぐにその話をされるんだと思ってたけど……。切り出すまでに随分時間がかかったね。ケーキを奢ってくれたのだって、その話をしたかったからでしょ」

 そう言って唇の端をわずかに引き上げると、陽咲が顔をあげて少しだけ僕を睨んだ。

「それは違う。確かに話はしたかったけど、それとは関係なく、わたしは七月七日に蒼月と一緒に誕生日ケーキが食べたかったんだよ。だって、蒼月、ここ二~三年はわたしのことをあからさまに避けてたし、誕生日にケーキを持って行っても毎年家にいないんだもん。夏にケーキを玄関先に置いていくわけにもいかないし、誕生日当日にケーキを食べさせるには一緒に店に連れて行くしか方法がないでしょ」
「あ、え……。そう……」

 誕生日ケーキの習慣なんて、もうとっくになくなっていたと思っていたのに。知らなかった事実に動揺して、返す言葉に詰まる。

 リアクションの薄い僕を横目に見ながら不満そうに頬を膨らませる陽咲の隣で、僕は少しうつむいた。

 できれば、その事実は今知りたくなかったな。僕はこれから、自らを失意の底に沈めようとしているんだから。

「それで、付き合うの? 大晴と」

 できるだけなんでもないふうに。無表情で、冷静に、さらりと。そんなふうに流してしまおうと思ったのに、口にした言葉がしっかりと僕の胸に跳ね返ってきて、やわらかくて繊細なところをグリグリ突き刺した。

 自分の言葉にすら傷付いているのに、陽咲の言葉で『そうだよ』と肯定されたらどれほどのダメージを食らうだろう。これから襲い掛かってくるであろう衝撃に耐えるために、手のひらを握りしめ、眉間にもぎゅっと力を入れる。だけど……。 

「付き合うかどうかは、まだわかんない。大晴のことは好きだけど、それが恋愛の好きかなんて考えたこともなかったから」 

 陽咲から返ってきた言葉は、僕の想像とは少し違っていた。

「え……?」

 ぽかんと口を開けた僕を見て、陽咲が苦笑いする。

「なにその反応。蒼月には、わたしと大晴が相思相愛に見えてた?」
「……、どちらかと言えば」

 ボソリと答えると「そっかあ」と陽咲が困ったように眉尻を下げて、足元に視線を落とした。それから一歩、二歩としっかり地面を踏みしめるように進んで、「わたしね」とおもむろに口を開く。

「一ヶ月くらい前から、もしかしたら近いうちに大晴に告白されるのかなって気付いてたんだ」
「そう……」
「うん、そうなの。だってね、大晴、変なんだもん。突然、ホタル見に行こうって誘ってきたり、わたしの友達と男女四人で遊園地のグループデートしたがったり、図書館でふたりだけでテスト勉強しようって言ってきたり。あきらかに、自分と一緒にいるときのわたしの反応がどんな感じかうかがってるふうだった」
「へえ……」