◆
蒼月の家に行くと、彼のお母さんが玄関から出てきた。
昔から、蒼月の両親は仕事で不在にしていることがほとんどだ。小学生のときにおばあちゃん亡くなってからは、遊びに来ると出迎えはいつも蒼月で、お母さんとは学校のイベントのときくらいしか顔を見ない。だから、少しびっくりした。
蒼月のお母さんと会うのはいつぶりだろう。
夏休み前の事故のあと、うちのお母さんは蒼月のお母さんと話したみたいだけど、わたしが会うのはかなりひさしぶりだ。
看護師として働いていて、学校のイベントに来るときはいつもお洒落に気遣っている蒼月のお母さんが、今日はノーメイクで少し疲れた顔をしている。
「陽咲ちゃん、ひさしぶりね。急にどうしたの?」
「おひさしぶりです。蒼月はいますか?」
そう言うと、蒼月のお母さんが浴衣姿のわたしを訝しむように見てきた。
「もしかして、蒼月と夏祭りに行く約束をしてた?」
「いえ、夏祭りはもともと別の人と約束してて……。夏祭りとは関係なく蒼月に少し話したいことがあって……」
「そうなのね」
「あの、それで、蒼月は……? 今日は出かけてますか?」
閉じられた玄関のドアを気にしながら訊ねると、蒼月のお母さんが無表情で口を開いた。
「いるわよ。最近はほとんど家にいるの」
淡々と話す蒼月のお母さんの声は、怒っているような気もするし、なにかやりきれない気持ちをぐっと抑えているような気もする。
「あの、蒼月のこと呼んでもらってもいいですか」
なかなか取り継いでもらえないことを焦ったく思っていると、ガチャリと音がして蒼月が玄関から出てきた。
「陽咲……?」
わたしの名前をつぶやいたあと、蒼月が動きを止めて目を見開く。蒼月は、わたしの訪問に驚いているというよりは、わたしの存在そのものに驚いているみたいだった。
蒼月のそういう反応は、夏休みに入ってから何度か見ている。だから、不思議に思うものの、その反応にあまり驚かなかった。
「蒼月、大丈夫なの?」
蒼月のお母さんが、わたしからふいっと顔をそらして蒼月に声をかける。
「大丈夫、心配しないで。陽咲は僕に用事でしょ。母さんは家に入ってていいよ」
「あまり長い時間にならないようにね」
「わかった」
そんな会話のあと、蒼月のお母さんがわたしから背を向ける。けれど、玄関のドアの奥に消える直前、振り向いた蒼月のお母さんがわたしに向けるまなざしを鋭くさせた。
「陽咲ちゃん、蒼月と仲良くしてくれるのは嬉しいけど、こんなふうに急に家に来るのはこれっきりにしてね」
冷たい口調でそう言われて、「え?」と戸惑う。蒼月のお母さんのことは幼稚園の頃から知っているけれど、こんなふうに非友好的な態度をとられたのは初めてだった。
「わたし、蒼月のお母さんになにか嫌われるようなことしたのかな……」
不安になって訊ねると、蒼月が鼻筋に指をあててメガネをあげながら苦笑いする。
「そんなことないよ。最近少し疲れてるみたいだから、気にしないで」
ほんとうにそれだけだろうか。蒼月はフォローしてくれたが、それにしても蒼月のお母さんのわたしを見る目は冷ややかだった気がする。
嫌われていたら困るな……。その理由が、もしわたしが忘れてしまっていることだったら……。
「それで、陽咲はどうしてうちに? その格好、今日は夏祭りだよね」
黙って考えこむわたしに、蒼月が不思議そうに聞いてきた。
「あー、うん。そう。大晴と行く予定だったのに、約束すっぽかしちゃった……」
「大晴と……?」
へへっと誤魔化すように笑うわたしを、蒼月が驚いたように見てくる。
大晴と夏祭りに行くことは海で蒼月に話した。そのとき、わたしの背中を押すように「楽しんできて」と笑ったくせに。今初めて聞いたみたいな反応を返してくるのはワザとだろうか。
「海で撮影したときに話してたでしょ。大晴に誘われたって」
「海……? ああ、そっか……」
納得したような、しないような。微妙な反応をする蒼月。その様子が変だなと思う。うまく説明はできないけれど、何かが変だ。
「だけど、どうして約束すっぽかしたの? 大晴は陽咲と夏祭りに行くのを楽しみにしてたんじゃない? 今からでも間に合うなら行っておいでよ。陽咲が来なくて、きっと拗ねてるよ」
海で話したときと同じように、蒼月がわたしを大晴のところへ行かそうと仕向けてくる。
「わたしが来て、迷惑だった?」
「いや、そうじゃないけど……。ちょっとビックリしたというか……。大晴との約束があるのになんで僕に会いに来てるのかがわからなくて……」
しゅんと肩を落とすと、蒼月が焦ったように早口で言った。
「だってふたりで夏祭りに行くってことは、陽咲は大晴と付き合ったんだよね……?」
メガネの奥の瞳が、遠慮がちにわたしを見つめてくる。どうしてかわからないけど、蒼月はわたしと大晴の関係を勘違いしていた。
「付き合ってないよ。たぶん、断ると思う」
「そう、なんだ……」
小さくつぶやいた蒼月の瞳が、歓喜に揺れたような気がする。それが、わたしの勘違いでなければいいと思った。
「わたしが会いに来たのは、蒼月と話したいことがあったからだよ。ラインしても返信くれないし。直接会いに来るしかなかった」
「話したいこと……?」
「うん。いろいろあるけど、まずは事故にあった七月七日のことを聞きたい。あの日の放課後、どうしてわたしは蒼月と一緒にいたの? わたし達、何してた?」
「なんでそんなこと今さら?」
七月七日というワードに、蒼月の口端がピクリとひきつった。
「蒼月に話を聞けば、何か思い出せるかもしれなあと思って……。わたし、事故の日の記憶がないでしょ。だけど、それだけじゃなかったの。わたしね、事故の日以外の記憶もちょっとずつ消えていっているかもしれないんだ」
「え……?」
小さく口を開い蒼月が表情を失っていく。
「あー、でもね。消えていっているっていっても日常生活に困るとかじゃないよ。今まで生きてきた十七年間の記憶のどれかが知らないまになくなってる感じ? 消えてることも、誰かに指摘されなきゃわからないの。小五の海洋体験のこととか、蒼月と大晴が小学生のときのわたしの誕生日にサプライズケーキを用意してくれようとしたってこととか。あとは、この髪飾り。昔、蒼月がくれたってお母さんから聞いた。わたし、そういうことも忘れちゃってる」
あまり深刻に思われないようにと話し方に気をつけながら、ピンクゴールドの髪飾りを指差す。
「そうだね、あげた。小五のときのあの事件のあと、ケガをさせてしまったおわびに……」
「そうだったんだ……」
この髪飾りは「ホタル事件」のあとのお詫び。それを知っても、あまりピンとこない。やっぱり、一度欠けた記憶を思い出すのはそう簡単ではないのかもしれない。
ちょっとがっかりしていると、「ねえ、陽咲……」と蒼月が唇を震わせる。
「記憶が知らない間に消えてるのって、それ、僕のせいだよね。僕がうまく守れなかったから。また、陽咲のことを……」
両手で頭を抱えた蒼月が、突然、カタカタと震えて地面にうずくまった。
消えた記憶のカケラを思い出すつもりが、わたしはおもいきり蒼月の地雷を踏んだらしい。「僕のせいだ」とうわごとのように繰り返す蒼月の身体は何かに怯えるように震えていた。
「何言ってるの。蒼月が守ってくれたおかげで、わたしは無事だったんだよ。記憶のことは蒼月のせいじゃない」
「僕のせいだよ。だって、あの日は七月七日だった。だから、陽咲と一緒にいちゃいけなかったし、歩道で少し引き止めたのもよくなかった」
「違うよ。全部ただの偶然だよ」
「違わない。七月七日には、毎年ロクなことが起きないんだ。七月七日がハッピーエンドで終わることなんてありえない。全部、僕のせいなんだ……」
七月七日の自分の誕生日を凶日だと思い込んでいる蒼月は、わたしの言葉を聞き入れようとしてくれない。
なぜだかわからないけれど、蒼月は昔からずっと七月七日にはよくないことが起きるという自分でかけた呪いに囚われている。
「蒼月、ほんとうに違うんだよ」
蒼月の前でしゃがんで、両手をつかむ。取り乱す蒼月の顔を見つめながらもう一度言うと、メガネの奥の瞳が揺れた。
「記憶のことは誰のせいでもない。もしかしたら、わたしじゃなくて蒼月が事故の記憶をなくしてた可能性だってあるでしょ。でも知らないうちにどんどん思い出が消えていったら困るから、蒼月に事故の日のことを聞いて少しでもなにかを思い出せればいいと思ったんだ。わたし、これまでの蒼月との思い出をひとつも消したくないんだよ」
真剣に訴えるわたしを、蒼月がどこか虚ろな目でぼんやりと見つめ返してくる。
自分の気持ちがどこまで伝わっているのかわからない。それでも、今を逃したらもう伝えられないかもしれない。この先、いつ、どんな記憶が消えてしまうかわからないから。
「わたし、蒼月のことが好き……。前からずっと……」
緊張で、声が震えて硬くなる。
ああ、よかった。ちゃんと言えた。
ほっと息を吐いた瞬間、わたしを見つめる蒼月の顔が泣きそうに歪んだ。
「それ、このタイミングで聞きたくなかったな……」
その言葉が耳に届いた瞬間、胸にズンッとにぶい衝撃が走った。
わかっていた。『ホタル事件』のあとからわたしと距離をとってきた蒼月が、わたしに対して恋愛感情がないことくらい。
蒼月が感じているのは、もうほとんど目立たなくなった額の傷をつけたことへのわたしへの負い目だけ。
わかっていたのに、わたしは心のどこかでほんの少し期待してもいた。
わたしが気持ちを伝えたら、蒼月は喜んで笑ってくれるんじゃないかって。自惚れもいいところだ。そんなことはありえないのに。
心臓がぎゅーっと押しつぶされたみたいに痛くて、胸の下を締め付ける浴衣の帯に手をあてる。
ああ、苦しいな。告白するのも、フラれるのも、こんなに緊張して胸が痛くなるんだ……。
今さらこんなこと思ってもどうしようもないけど、勇気を出して告白してくれた大晴に、わたしは随分と不誠実なことをした。同じ立場になってみて、そのことに気付く。
「ごめん……、急にこんなこと言われても困るよね。ほんとにごめん……」
笑うような気分じゃないのに、落ち込んだ顔も泣きそうな顔も見せたくなくて、無理やりに口角をあげる。
「謝らないで。陽咲の気持ちは嬉しいんだ。夢かと思うくらい、すごく……。陽咲がくれた言葉をできればずっと忘れずにいたい。でも、陽咲は僕じゃなくて大晴と一緒にいるべきだと思う」
蒼月が首を横に振って、わたしが先に繋いだ手をぎゅっと握り返してくる。冷たい彼の手の温度を感じながら、どうして? って思った。
わたしは蒼月が好きなのに。どうして、蒼月は大晴と一緒にいろって言うの……。
大晴のことは好きだけど、蒼月への好きとは違う。そんなの、頭のいい蒼月なら気付いているはずなのに……。
「わたしは少しも見込みない?」
わたしが聞き返すと、蒼月が蒼月が悲しそうに眉をハの字に下げた。
「僕と一緒にいても、陽咲のこと傷付けるだけだから。明日も、明後日も、その先の未来も」
「なんでそう思うの? どうしてそうやって決めつけるの?」
「陽咲のこと大切だからだよ。たまに暑苦しくて面倒だけど、大晴は僕の知る中で一番いいやつだから。それに、僕は陽咲と大晴が一緒にいるのを見てるのが好きなんだ。僕は、陽咲が大晴のそばで笑ってるのを見ていられたらそれでいい」
胸が、ズキンと痛む。優しい言葉でわたしを諭すようで、これは完全な拒絶だ。完璧にフラれた。どこにも、付け入る隙なんてない。
わたしが蒼月の恋人でいられたのは、映画のストーリーの中でだけ。映画の中のふたりは、悲しい終わり方をしても心の中でずっとお互いのことを想いあってた。
でも、わたしの現実の恋は、ひとりよがりなただの片想い。この想いは報われない。
「……わかった。急に来て変なこと言ってごめん。でも、ひとつ約束して。次に会ったときは、わたしのことを避けないでほしい。幼なじみとして、ふつうに話してほしい。これから、わたしがなにか記憶をなくしてしまったとしても」
フラれたくせに、わたしも往生際が悪い。なんとか最後まで足掻こうとするわたしに、蒼月は薄く微笑んだ。
「できるだけそうする」
蒼月からの返答はかなり消極的だった。
「できるだけ?」
「ごめんね。でも忘れちゃうんだよ。どんなに嬉しくても、大切でも」
蒼月の言葉にドキッとする。
そっか。忘れちゃうから。だからわたしは蒼月にフラれたんだ。
どうして、事故の日のことをなにも覚えてないんだろう。検査の結果では脳に異常はなかったのに。どうして、わたしだけがこんなことになってしまったんだろう。
悲しくて、せつなくて、瞼の裏が熱くなる。
「わかった。話を聞いてくれてありがとう」
泣きたいのをギリギリで堪えて笑うと、わたしは蒼月とさよならをした。
もしわたしの記憶が欠けていくなら、フラれた痛みや悲しみと一緒に、蒼月への恋心が消えればいい。
でも、この苦しさは簡単には消えてなくならない。なぜか、そんな気がする。
蒼月の家に行くと、彼のお母さんが玄関から出てきた。
昔から、蒼月の両親は仕事で不在にしていることがほとんどだ。小学生のときにおばあちゃん亡くなってからは、遊びに来ると出迎えはいつも蒼月で、お母さんとは学校のイベントのときくらいしか顔を見ない。だから、少しびっくりした。
蒼月のお母さんと会うのはいつぶりだろう。
夏休み前の事故のあと、うちのお母さんは蒼月のお母さんと話したみたいだけど、わたしが会うのはかなりひさしぶりだ。
看護師として働いていて、学校のイベントに来るときはいつもお洒落に気遣っている蒼月のお母さんが、今日はノーメイクで少し疲れた顔をしている。
「陽咲ちゃん、ひさしぶりね。急にどうしたの?」
「おひさしぶりです。蒼月はいますか?」
そう言うと、蒼月のお母さんが浴衣姿のわたしを訝しむように見てきた。
「もしかして、蒼月と夏祭りに行く約束をしてた?」
「いえ、夏祭りはもともと別の人と約束してて……。夏祭りとは関係なく蒼月に少し話したいことがあって……」
「そうなのね」
「あの、それで、蒼月は……? 今日は出かけてますか?」
閉じられた玄関のドアを気にしながら訊ねると、蒼月のお母さんが無表情で口を開いた。
「いるわよ。最近はほとんど家にいるの」
淡々と話す蒼月のお母さんの声は、怒っているような気もするし、なにかやりきれない気持ちをぐっと抑えているような気もする。
「あの、蒼月のこと呼んでもらってもいいですか」
なかなか取り継いでもらえないことを焦ったく思っていると、ガチャリと音がして蒼月が玄関から出てきた。
「陽咲……?」
わたしの名前をつぶやいたあと、蒼月が動きを止めて目を見開く。蒼月は、わたしの訪問に驚いているというよりは、わたしの存在そのものに驚いているみたいだった。
蒼月のそういう反応は、夏休みに入ってから何度か見ている。だから、不思議に思うものの、その反応にあまり驚かなかった。
「蒼月、大丈夫なの?」
蒼月のお母さんが、わたしからふいっと顔をそらして蒼月に声をかける。
「大丈夫、心配しないで。陽咲は僕に用事でしょ。母さんは家に入ってていいよ」
「あまり長い時間にならないようにね」
「わかった」
そんな会話のあと、蒼月のお母さんがわたしから背を向ける。けれど、玄関のドアの奥に消える直前、振り向いた蒼月のお母さんがわたしに向けるまなざしを鋭くさせた。
「陽咲ちゃん、蒼月と仲良くしてくれるのは嬉しいけど、こんなふうに急に家に来るのはこれっきりにしてね」
冷たい口調でそう言われて、「え?」と戸惑う。蒼月のお母さんのことは幼稚園の頃から知っているけれど、こんなふうに非友好的な態度をとられたのは初めてだった。
「わたし、蒼月のお母さんになにか嫌われるようなことしたのかな……」
不安になって訊ねると、蒼月が鼻筋に指をあててメガネをあげながら苦笑いする。
「そんなことないよ。最近少し疲れてるみたいだから、気にしないで」
ほんとうにそれだけだろうか。蒼月はフォローしてくれたが、それにしても蒼月のお母さんのわたしを見る目は冷ややかだった気がする。
嫌われていたら困るな……。その理由が、もしわたしが忘れてしまっていることだったら……。
「それで、陽咲はどうしてうちに? その格好、今日は夏祭りだよね」
黙って考えこむわたしに、蒼月が不思議そうに聞いてきた。
「あー、うん。そう。大晴と行く予定だったのに、約束すっぽかしちゃった……」
「大晴と……?」
へへっと誤魔化すように笑うわたしを、蒼月が驚いたように見てくる。
大晴と夏祭りに行くことは海で蒼月に話した。そのとき、わたしの背中を押すように「楽しんできて」と笑ったくせに。今初めて聞いたみたいな反応を返してくるのはワザとだろうか。
「海で撮影したときに話してたでしょ。大晴に誘われたって」
「海……? ああ、そっか……」
納得したような、しないような。微妙な反応をする蒼月。その様子が変だなと思う。うまく説明はできないけれど、何かが変だ。
「だけど、どうして約束すっぽかしたの? 大晴は陽咲と夏祭りに行くのを楽しみにしてたんじゃない? 今からでも間に合うなら行っておいでよ。陽咲が来なくて、きっと拗ねてるよ」
海で話したときと同じように、蒼月がわたしを大晴のところへ行かそうと仕向けてくる。
「わたしが来て、迷惑だった?」
「いや、そうじゃないけど……。ちょっとビックリしたというか……。大晴との約束があるのになんで僕に会いに来てるのかがわからなくて……」
しゅんと肩を落とすと、蒼月が焦ったように早口で言った。
「だってふたりで夏祭りに行くってことは、陽咲は大晴と付き合ったんだよね……?」
メガネの奥の瞳が、遠慮がちにわたしを見つめてくる。どうしてかわからないけど、蒼月はわたしと大晴の関係を勘違いしていた。
「付き合ってないよ。たぶん、断ると思う」
「そう、なんだ……」
小さくつぶやいた蒼月の瞳が、歓喜に揺れたような気がする。それが、わたしの勘違いでなければいいと思った。
「わたしが会いに来たのは、蒼月と話したいことがあったからだよ。ラインしても返信くれないし。直接会いに来るしかなかった」
「話したいこと……?」
「うん。いろいろあるけど、まずは事故にあった七月七日のことを聞きたい。あの日の放課後、どうしてわたしは蒼月と一緒にいたの? わたし達、何してた?」
「なんでそんなこと今さら?」
七月七日というワードに、蒼月の口端がピクリとひきつった。
「蒼月に話を聞けば、何か思い出せるかもしれなあと思って……。わたし、事故の日の記憶がないでしょ。だけど、それだけじゃなかったの。わたしね、事故の日以外の記憶もちょっとずつ消えていっているかもしれないんだ」
「え……?」
小さく口を開い蒼月が表情を失っていく。
「あー、でもね。消えていっているっていっても日常生活に困るとかじゃないよ。今まで生きてきた十七年間の記憶のどれかが知らないまになくなってる感じ? 消えてることも、誰かに指摘されなきゃわからないの。小五の海洋体験のこととか、蒼月と大晴が小学生のときのわたしの誕生日にサプライズケーキを用意してくれようとしたってこととか。あとは、この髪飾り。昔、蒼月がくれたってお母さんから聞いた。わたし、そういうことも忘れちゃってる」
あまり深刻に思われないようにと話し方に気をつけながら、ピンクゴールドの髪飾りを指差す。
「そうだね、あげた。小五のときのあの事件のあと、ケガをさせてしまったおわびに……」
「そうだったんだ……」
この髪飾りは「ホタル事件」のあとのお詫び。それを知っても、あまりピンとこない。やっぱり、一度欠けた記憶を思い出すのはそう簡単ではないのかもしれない。
ちょっとがっかりしていると、「ねえ、陽咲……」と蒼月が唇を震わせる。
「記憶が知らない間に消えてるのって、それ、僕のせいだよね。僕がうまく守れなかったから。また、陽咲のことを……」
両手で頭を抱えた蒼月が、突然、カタカタと震えて地面にうずくまった。
消えた記憶のカケラを思い出すつもりが、わたしはおもいきり蒼月の地雷を踏んだらしい。「僕のせいだ」とうわごとのように繰り返す蒼月の身体は何かに怯えるように震えていた。
「何言ってるの。蒼月が守ってくれたおかげで、わたしは無事だったんだよ。記憶のことは蒼月のせいじゃない」
「僕のせいだよ。だって、あの日は七月七日だった。だから、陽咲と一緒にいちゃいけなかったし、歩道で少し引き止めたのもよくなかった」
「違うよ。全部ただの偶然だよ」
「違わない。七月七日には、毎年ロクなことが起きないんだ。七月七日がハッピーエンドで終わることなんてありえない。全部、僕のせいなんだ……」
七月七日の自分の誕生日を凶日だと思い込んでいる蒼月は、わたしの言葉を聞き入れようとしてくれない。
なぜだかわからないけれど、蒼月は昔からずっと七月七日にはよくないことが起きるという自分でかけた呪いに囚われている。
「蒼月、ほんとうに違うんだよ」
蒼月の前でしゃがんで、両手をつかむ。取り乱す蒼月の顔を見つめながらもう一度言うと、メガネの奥の瞳が揺れた。
「記憶のことは誰のせいでもない。もしかしたら、わたしじゃなくて蒼月が事故の記憶をなくしてた可能性だってあるでしょ。でも知らないうちにどんどん思い出が消えていったら困るから、蒼月に事故の日のことを聞いて少しでもなにかを思い出せればいいと思ったんだ。わたし、これまでの蒼月との思い出をひとつも消したくないんだよ」
真剣に訴えるわたしを、蒼月がどこか虚ろな目でぼんやりと見つめ返してくる。
自分の気持ちがどこまで伝わっているのかわからない。それでも、今を逃したらもう伝えられないかもしれない。この先、いつ、どんな記憶が消えてしまうかわからないから。
「わたし、蒼月のことが好き……。前からずっと……」
緊張で、声が震えて硬くなる。
ああ、よかった。ちゃんと言えた。
ほっと息を吐いた瞬間、わたしを見つめる蒼月の顔が泣きそうに歪んだ。
「それ、このタイミングで聞きたくなかったな……」
その言葉が耳に届いた瞬間、胸にズンッとにぶい衝撃が走った。
わかっていた。『ホタル事件』のあとからわたしと距離をとってきた蒼月が、わたしに対して恋愛感情がないことくらい。
蒼月が感じているのは、もうほとんど目立たなくなった額の傷をつけたことへのわたしへの負い目だけ。
わかっていたのに、わたしは心のどこかでほんの少し期待してもいた。
わたしが気持ちを伝えたら、蒼月は喜んで笑ってくれるんじゃないかって。自惚れもいいところだ。そんなことはありえないのに。
心臓がぎゅーっと押しつぶされたみたいに痛くて、胸の下を締め付ける浴衣の帯に手をあてる。
ああ、苦しいな。告白するのも、フラれるのも、こんなに緊張して胸が痛くなるんだ……。
今さらこんなこと思ってもどうしようもないけど、勇気を出して告白してくれた大晴に、わたしは随分と不誠実なことをした。同じ立場になってみて、そのことに気付く。
「ごめん……、急にこんなこと言われても困るよね。ほんとにごめん……」
笑うような気分じゃないのに、落ち込んだ顔も泣きそうな顔も見せたくなくて、無理やりに口角をあげる。
「謝らないで。陽咲の気持ちは嬉しいんだ。夢かと思うくらい、すごく……。陽咲がくれた言葉をできればずっと忘れずにいたい。でも、陽咲は僕じゃなくて大晴と一緒にいるべきだと思う」
蒼月が首を横に振って、わたしが先に繋いだ手をぎゅっと握り返してくる。冷たい彼の手の温度を感じながら、どうして? って思った。
わたしは蒼月が好きなのに。どうして、蒼月は大晴と一緒にいろって言うの……。
大晴のことは好きだけど、蒼月への好きとは違う。そんなの、頭のいい蒼月なら気付いているはずなのに……。
「わたしは少しも見込みない?」
わたしが聞き返すと、蒼月が蒼月が悲しそうに眉をハの字に下げた。
「僕と一緒にいても、陽咲のこと傷付けるだけだから。明日も、明後日も、その先の未来も」
「なんでそう思うの? どうしてそうやって決めつけるの?」
「陽咲のこと大切だからだよ。たまに暑苦しくて面倒だけど、大晴は僕の知る中で一番いいやつだから。それに、僕は陽咲と大晴が一緒にいるのを見てるのが好きなんだ。僕は、陽咲が大晴のそばで笑ってるのを見ていられたらそれでいい」
胸が、ズキンと痛む。優しい言葉でわたしを諭すようで、これは完全な拒絶だ。完璧にフラれた。どこにも、付け入る隙なんてない。
わたしが蒼月の恋人でいられたのは、映画のストーリーの中でだけ。映画の中のふたりは、悲しい終わり方をしても心の中でずっとお互いのことを想いあってた。
でも、わたしの現実の恋は、ひとりよがりなただの片想い。この想いは報われない。
「……わかった。急に来て変なこと言ってごめん。でも、ひとつ約束して。次に会ったときは、わたしのことを避けないでほしい。幼なじみとして、ふつうに話してほしい。これから、わたしがなにか記憶をなくしてしまったとしても」
フラれたくせに、わたしも往生際が悪い。なんとか最後まで足掻こうとするわたしに、蒼月は薄く微笑んだ。
「できるだけそうする」
蒼月からの返答はかなり消極的だった。
「できるだけ?」
「ごめんね。でも忘れちゃうんだよ。どんなに嬉しくても、大切でも」
蒼月の言葉にドキッとする。
そっか。忘れちゃうから。だからわたしは蒼月にフラれたんだ。
どうして、事故の日のことをなにも覚えてないんだろう。検査の結果では脳に異常はなかったのに。どうして、わたしだけがこんなことになってしまったんだろう。
悲しくて、せつなくて、瞼の裏が熱くなる。
「わかった。話を聞いてくれてありがとう」
泣きたいのをギリギリで堪えて笑うと、わたしは蒼月とさよならをした。
もしわたしの記憶が欠けていくなら、フラれた痛みや悲しみと一緒に、蒼月への恋心が消えればいい。
でも、この苦しさは簡単には消えてなくならない。なぜか、そんな気がする。