僕が十歳を迎えたその日は、亡くなったばあちゃんの一年目の命日だった。

 なんとなくいつもより早く目が覚めてしまった僕は、ばあちゃんが生きていた頃に寝起きしていた和室に置かれた仏壇の前に座って手を合わせた。 

 僕の家は、父親が内科クリニックの開業医で、母親が看護師。自宅の隣に建てたクリニックで働く両親は毎日忙しく、僕と三つ上の兄は、同居していた父方のばあちゃんに育てられたようなものだった。

 しっかり者だった兄と違って、小さな頃の僕は泣き虫なおばあちゃんっ子で。ばあちゃんは孫の中でも僕のことを一番気にかけてくれていたように思う。そんなばあちゃんが、体調を崩して倒れたときはショックだったし、僕の九歳の誕生日の夜に息を引き取ったこともショックだった。

 あとから父さんに聞いた話だと、ばあちゃんは亡くなる一週間前から、いつ危篤になってもおかしくない状態だったらしい。でも、「あっちゃんの九歳の誕生日をお祝いするまではあの世に行けない」と頑張ってくれていたそうだ。そうして、七月七日の放課後に病院に会い行った僕の顔を見たあと、ばあちゃんは容態が急変して亡くなった。

 ばあちゃんが亡くなったあと、僕は冷たくなったばあちゃんの青白い手を握りしめてめちゃくちゃ泣いた。九歳の誕生日だけじゃなくて、十歳も、十一歳も、その次もずっと、ばあちゃんに誕生日をお祝いして欲しかった。

「ばあちゃん、僕、十歳になったよ」

 遺影の中で笑う、亡くなる何年か前のばあちゃんの顔。見つめて声をかけてみたところで、もちろん返事があるはずもない。

「おめでとう、あっちゃん」と、目尻のシワを深くして嬉しそうに笑いかけてくれたばあちゃん。今年はその笑顔が見られないことを淋しく思いながら、僕はいつもより三十分も早く学校に出かけた。

 朝から算数、国語、社会の授業を受けたあと、四時間目の授業は図書だった。図書室で好きな本を読める図書の時間は、ほかの授業に比べると断然ラクで気が抜ける。読む本の指定もないから、漫画や字が写真ばっかりの図鑑を見てても何も言われない。

 幼なじみの藤川(ふじかわ) 大晴(たいせい)は、同じサッカークラブに入っている友達とふたりで、最近ハマっているサッカー漫画に釘付けになっている。

 僕も普段は大晴のグループに入れてもらって遊ぶことが多いけど、運動全般が得意でないから、サッカーやサッカーの漫画にはあまり興味が持てない。かと言って、別に読書家なわけではないから、活字だけの本も読む気にならない。

 じめじめして暑いし、なんか涼しい気持ちになれるような本がいいな。そう思いながら本棚の周りをうろついていたら、『川辺の生き物図鑑』を見つけた。適度に分厚いし、川辺と魚の写真の表紙はなんとなく涼しげだ。

 これでも眺めて時間をつぶそう。

『川辺の生き物図鑑』を持って、近くの席に座る。

 表紙を捲ると初めのほうには日本のいろいろな川辺の風景写真や川辺に生える植物の写真が載っていて、そのあとから川に生息する魚の写真や説明が始まる。メダカやザリガニみたいに知ってる生き物もいれば、姿も名前も見たことのないような生き物もいて。意外とおもしろいなと思いながら、ページを捲る。

 図鑑の後半は、水辺に生息する昆虫の写真も載っていて。虫は別にいいや、とページを飛ばそうとしたら、ホタルについてのコラムが目についた。

『ホタルは昔、亡くなった人の魂だと信じられていました。亡くなった人がホタルに姿を変えて会いに来てくれた。昔の人はホタルの光を見てそんなふうに考えたようです。』

 亡くなった人が、姿を変えて会いにくる――。

 なんとなく思い浮かんだのは、死んだばあちゃんの顔だった。姿が変わっていても、亡くなった大切な人に会いたい。そんなふうに思う気持ちは、昔の人も同じだったんだろうな。

 ぼんやりとコラムの文字を眺めていると、右後ろから誰かがひょこっと僕の顔を覗き込んできた。不意打ちをくらってビクッとなった僕の耳元で、クスクスと小さな笑い声が響く。

蒼月(あつき)ってば、ビビりすぎ」

 僕の後ろでクスクス笑うのは、幼なじみ青山(あおやま) 陽咲(ひさき)だった。
「なに?」
「そんな怒んないでよ」

 眉間を寄せる僕の隣に遠慮なく座った陽咲が、「真剣に何見てたの?」と図鑑を覗き込んでくる。だけどすぐに「え、虫ばっかりじゃん」と顔をしかめた。

 幼稚園の頃は素手でダンゴムシとか蟻を捕まえていたくせに、最近の陽咲は年頃の女子っぽく、虫全般があまり好きではないらしい。

「僕が見てたのは、ホタルのコラム」
「コラム?」

 さっき読んでいた文章を指先でトンッとつつくと、陽咲が「ああ」と頷く。陽咲と一緒にもう一度コラムを読んでいると、チャイムが鳴って図書の時間が終わった。

「陽咲ー、教室戻ろう」

 チャイムが鳴ると同時に、仲の良い女子の友達に声をかけられた陽咲が「じゃあね」と僕の隣で立ち上がる。

「蒼月ー、戻ろう」

 僕も大晴に呼ばれて立ち上がる。

 ホタルの話はそれでおしまい。そう思ってすっかり忘れていたのに、その日の放課後、陽咲がこっそりと僕に話しかけてきた。

「蒼月、今日の夕方の五時頃、自転車で家を出て来れる? わたし、近くでホタルが見れる場所があるの知ってるんだ」
「え?」

 ぽかんとする僕に、陽咲がこっそりと笑いかけてくる。

「今日は蒼月の誕生日で、おばあちゃんが亡くなった日でもあるんだよね。だったら、お誕生日を祝うために会いにきてるんじゃないかな? 蒼月のおばあちゃん」

 ドキッとした。図書の時間にたった数分、僕の横からホタルのコラムを覗いていただけの陽咲が、僕と同じようなことを考えていたなんて。

「だとしたら、会いたいな……」
「うん、会いたいよね」

 優しい目をして微笑みかけてくれた陽咲の顔を、僕だけが絶対に忘れない。