夏の夜は、陽が落ちるのが遅い。夜の七時近くになってようやく周囲が暗くなった頃、大晴から集合がかかった。
【今から花火のシーンの撮影する。二丁目公園まで出てきて】
二丁目公園は、わたし達の家の近くでは唯一、花火可の公園だ。今日はそこで、花火を使ったシーンの撮影をする予定になっている。
あやめは予定があって来れなくて、今日の撮影に参加するのは大晴と涼晴と蒼月とわたしの四人。幼稚園からの幼なじみメンバーだけだ。
「お母さーん、ちょっと出かけてくる」
スマホだけ持って家を出ようとすると、お母さんが玄関まで追いかけてきた。
「ちょっと、って。こんな時間からどこ行くの?」
「二丁目公園。大晴たちと花火の約束してるんだ」
「大晴くんたちと。それならいいけど、あんまり遅くならないようにね」
「はーい」
大晴は、なぜかものすごくわたしのお母さんに信頼されている。わたしと大晴の家が家族ぐるみで仲が良いというのもあるけど、メンバーの中に「大晴がいる」と言えば、わたしが夜に出かけようが、遠出をしようが、お母さんは何も言わない。
「いってきまーす」
わたしが玄関を出ると、大晴からまた連絡が来た。
【おれと涼晴は、準備があるから先に公園に行ってる。蒼月がマンションの前で待ってるから一緒に来て】
え、蒼月が……。
大晴からのメッセージに、わたしはなんだか胸がそわそわした。
映画撮影が進んでいっても、蒼月のわたしに対する態度は毎回違う。数日前に、放課後のデートシーンを撮影したとき、蒼月はなんだかご機嫌で、わたしにたくさん笑いかけてくれた。でも、その次の日の学校での撮影のときは、最初から最後までずっとよそよそしかった。
蒼月の気分が何に影響されて変わっているのか、わたしには全然わからない。今日の蒼月は、どんな感じだろう。
ドキドキしながらエレベーターを降りてマンションのエントランスを出ると、蒼月がぼんやりと空を見上げて立っていた。
「蒼月」
近付いて行って声をかけると、蒼月が無表情で振り向く。
ああ。今日は、少しそっけない日なのかな。
わたしは蒼月と昔みたいに仲良くなりたいという気持ちを少しも諦めきれていなくて、だから、蒼月の態度がそっけない日は気分が沈む。
きっと蒼月は、大晴からわたしのことを無理やり押し付けられて迎えに来てくれたんだろう。
「ごめんね、待たせちゃって」
「全然待ってないよ。空見てたし」
蒼月がそう言って、空を仰ぐ。つられるようにして見上げると、まだ若干夕焼けの色が残る空に、細くて白い三日月が浮かんでいた。
昔から、蒼月には夜の月が似合う。大晴が、眩しくて暑くて、たまに鬱陶しい夏の太陽だとしたら、蒼月は、静かな夜を照らす月。
「夏って、なかなか暗くならないよね」
わたしがつぶやくと、「そうだね」と蒼月が返してくる。
「夏の大三角ってどれだっけ?」
「八時くらいになれば東の空に上がってくるから、わかりやすく見えるのは九時くらいかな」
空を見上げたわたしに、蒼月が教えてくれる。顔を合わせた瞬間は、今日はそっけない日なのかなと思ったけど、わたしの話に答えてくれる彼の声はおだやかで優しい。そのことに、ほっとした。
「けっこう待たないと見れないんだね。公園で花火して、帰る頃に見えるかなあ」
「たぶん。このまま晴れていれば」
「そういえば、昔ホタルを見に行ったときも空がなかなか暗くならなくて、ふたりでずいぶん待ったよね」
わたしが何気ない調子でそう言うと、蒼月がしばらく間を置いてから、「……そうだね」と返してきた。
「そろそろ行こう。あんまり待たせたら、大晴からまた呼び出しがかかるよ」
蒼月が、話をそらして先に歩き出す。今日の蒼月は優しいけれど、昔の話はあまり掘り起こしてほしくないみたいだ。
うつむいて歩きながら、顔の横に流れてくる髪を指で掬っては何度も耳にかける。
「……やっぱり、蒼月は今も七年前のことを気にしてる?」
前を歩く背中に向かってつぶやくと、蒼月が立ち止まって振り向いた。
「あのときのケガは、蒼月のせいじゃないよ。わたしの不注意だし、蒼月のことを誘ったのもわたしだったんだから」
「別に、今はもう気にしてないよ」
「だったら、どうして今もわたしにそっけない態度をとるの?」
「僕、そっけない?」
「今日はふつうだけど、撮影のとき以外は目も合わせてくれない日もあるでしょ」
「そう、だっけ……」
まるで、初めて気付いたとでも言うようにまばたきする蒼月に、わたしは少しむっとした。
わたしは、毎回撮影で顔を合わす度に気にしてたのに。蒼月のほうは無自覚だったなんて。
わたしが黙り込むと、蒼月もきゅっと眉間を寄せて黙り込む。
「そんな難しい顔しないでよ」
「別に、難しい顔なんてしてない」
「でも、さっきから眉間が寄ってる。怒ってる?」
「怒ってもない。ただ……」
人差し指でメガネをあげた蒼月が、その指でそっと眉間を擦る。
「ただ?」
「七年前からずっと、もう、僕のせいで陽咲を傷付けちゃだめだとは思ってる」
「傷って、おでこのケガのこと? それなら、もうとっくに治ってる」
七年前に、蒼月とホタルを見に出かけてできた傷。何針か縫った傷跡は最初こそ痛々しかったけれど、今はもうよく見ないとわからない。今みたいに、暗ければ特に。
わたしが前髪をあげて額を見せると、蒼月がそこから目を逸らして首を横に振った。
「僕が陽咲を傷付けたのは、それだけじゃない……」
無意識なのか、蒼月が自分の左眉の少し上……、ちょうどわたしの傷があるのと同じ場所を撫でる。
夏休みが始まってすぐの頃、蒼月もそこに小さな傷があった。夏休み前に、車に衝突されそうになったわたしを庇ってできた事故の傷だ。その事故のことを、わたしは覚えていないのだけど……。蒼月がわたしを「傷付けた」と言うのは、わたしがその事故の前後の記憶を丸ごと全部忘れてしまっているせいかもしれない。
「わたしが大丈夫だって言っても、それでも蒼月はきっと気にするんだよね……」
事故のことは記憶にないけれど、わたしと蒼月が事故に遭ったのは、奇しくも七月七日。蒼月の十七歳の誕生日だったのだ。
小さな頃から自分の誕生日を厄日だとか、呪われた日だと思っている蒼月が、気にしないはずはない。七年前のわたしのケガも、今年の事故も、蒼月には何の責任もないのに。
「だったら、もう、一生気にしたままでいいよ」
諦めて笑うと、蒼月が「え?」とわずかに目を見開く。
「気にしたままでいいから、せめて、映画撮影をしてるあいだだけは、昔みたいに、ふつうに接してほしい」
「ふつう……?」
「うん。わたしと蒼月と大晴、三人で仲の良い幼なじみだったよね? 大晴に呼び出されてコンビニで三人でアイスを食べながら話してたとき、わたし、昔に戻ったみたいでちょっと楽しかったんだ」
「コンビニでアイス……」
無表情でつぶやく蒼月の反応は薄い。そういえば、前にこの話を持ちかけたときも、蒼月の反応は薄かった。
あのとき、ひさしぶりに三人でバカみたいな会話をして。それが楽しいと思ったのに。蒼月は違ったのかな。
「まあ……、蒼月が嫌だったらムリしなくてもいいんだけど……」
「嫌じゃないよ。気を付ける。でも、僕、すぐに忘れちゃうかもしれないから……。そのときは、陽咲がまた僕に教えてくれる?」
蒼月が指先でメガネを押し上げながら、深刻そうな顔でわたしをじっと見てくる。
「それは、かまわないけど……」
戸惑い気味に頷きながら、変なことを言うなと思った。
すぐ忘れちゃうって、どういう意味――?
適当な大晴なら、冗談でそう言うこともありそうだけど、蒼月の表情を見る限り、冗談を言っているようには見えない。
最近の蒼月は、少し変だ。なにが変なのかと聞かれたら、うまくは答えられないけれど。顔を合わす度に、毎回違う人と話しているような……。そんな感じがするときがあるのは気のせいだろうか。
考えていると、蒼月が、ふいに、斜めにさげていたボディバッグに手を伸ばした。
「大晴から連絡来てる。準備できてるから、早く来いって」
ボディバッグからスマホを出した蒼月が、それをわたしに見せながら苦笑いする。そうやって笑う蒼月の表情からは、さっきまでの深刻さは消えていた。
「早く行こう」
「あ、うん……」
先に歩き出した蒼月を小走りで追いかけると、彼がほんの一瞬足を止めてわたしが隣に並ぶのを待ってくれる。
「そういえばわたし、花火やるの、今年初かも」
「僕も、今年初めて……、なのかな」
わたしの話に、蒼月が曖昧に笑いながら答える。その言い方も、なんだかおかしい。けれど、その奇妙さの理由が、わたしにはやっぱりわからなかった。
【今から花火のシーンの撮影する。二丁目公園まで出てきて】
二丁目公園は、わたし達の家の近くでは唯一、花火可の公園だ。今日はそこで、花火を使ったシーンの撮影をする予定になっている。
あやめは予定があって来れなくて、今日の撮影に参加するのは大晴と涼晴と蒼月とわたしの四人。幼稚園からの幼なじみメンバーだけだ。
「お母さーん、ちょっと出かけてくる」
スマホだけ持って家を出ようとすると、お母さんが玄関まで追いかけてきた。
「ちょっと、って。こんな時間からどこ行くの?」
「二丁目公園。大晴たちと花火の約束してるんだ」
「大晴くんたちと。それならいいけど、あんまり遅くならないようにね」
「はーい」
大晴は、なぜかものすごくわたしのお母さんに信頼されている。わたしと大晴の家が家族ぐるみで仲が良いというのもあるけど、メンバーの中に「大晴がいる」と言えば、わたしが夜に出かけようが、遠出をしようが、お母さんは何も言わない。
「いってきまーす」
わたしが玄関を出ると、大晴からまた連絡が来た。
【おれと涼晴は、準備があるから先に公園に行ってる。蒼月がマンションの前で待ってるから一緒に来て】
え、蒼月が……。
大晴からのメッセージに、わたしはなんだか胸がそわそわした。
映画撮影が進んでいっても、蒼月のわたしに対する態度は毎回違う。数日前に、放課後のデートシーンを撮影したとき、蒼月はなんだかご機嫌で、わたしにたくさん笑いかけてくれた。でも、その次の日の学校での撮影のときは、最初から最後までずっとよそよそしかった。
蒼月の気分が何に影響されて変わっているのか、わたしには全然わからない。今日の蒼月は、どんな感じだろう。
ドキドキしながらエレベーターを降りてマンションのエントランスを出ると、蒼月がぼんやりと空を見上げて立っていた。
「蒼月」
近付いて行って声をかけると、蒼月が無表情で振り向く。
ああ。今日は、少しそっけない日なのかな。
わたしは蒼月と昔みたいに仲良くなりたいという気持ちを少しも諦めきれていなくて、だから、蒼月の態度がそっけない日は気分が沈む。
きっと蒼月は、大晴からわたしのことを無理やり押し付けられて迎えに来てくれたんだろう。
「ごめんね、待たせちゃって」
「全然待ってないよ。空見てたし」
蒼月がそう言って、空を仰ぐ。つられるようにして見上げると、まだ若干夕焼けの色が残る空に、細くて白い三日月が浮かんでいた。
昔から、蒼月には夜の月が似合う。大晴が、眩しくて暑くて、たまに鬱陶しい夏の太陽だとしたら、蒼月は、静かな夜を照らす月。
「夏って、なかなか暗くならないよね」
わたしがつぶやくと、「そうだね」と蒼月が返してくる。
「夏の大三角ってどれだっけ?」
「八時くらいになれば東の空に上がってくるから、わかりやすく見えるのは九時くらいかな」
空を見上げたわたしに、蒼月が教えてくれる。顔を合わせた瞬間は、今日はそっけない日なのかなと思ったけど、わたしの話に答えてくれる彼の声はおだやかで優しい。そのことに、ほっとした。
「けっこう待たないと見れないんだね。公園で花火して、帰る頃に見えるかなあ」
「たぶん。このまま晴れていれば」
「そういえば、昔ホタルを見に行ったときも空がなかなか暗くならなくて、ふたりでずいぶん待ったよね」
わたしが何気ない調子でそう言うと、蒼月がしばらく間を置いてから、「……そうだね」と返してきた。
「そろそろ行こう。あんまり待たせたら、大晴からまた呼び出しがかかるよ」
蒼月が、話をそらして先に歩き出す。今日の蒼月は優しいけれど、昔の話はあまり掘り起こしてほしくないみたいだ。
うつむいて歩きながら、顔の横に流れてくる髪を指で掬っては何度も耳にかける。
「……やっぱり、蒼月は今も七年前のことを気にしてる?」
前を歩く背中に向かってつぶやくと、蒼月が立ち止まって振り向いた。
「あのときのケガは、蒼月のせいじゃないよ。わたしの不注意だし、蒼月のことを誘ったのもわたしだったんだから」
「別に、今はもう気にしてないよ」
「だったら、どうして今もわたしにそっけない態度をとるの?」
「僕、そっけない?」
「今日はふつうだけど、撮影のとき以外は目も合わせてくれない日もあるでしょ」
「そう、だっけ……」
まるで、初めて気付いたとでも言うようにまばたきする蒼月に、わたしは少しむっとした。
わたしは、毎回撮影で顔を合わす度に気にしてたのに。蒼月のほうは無自覚だったなんて。
わたしが黙り込むと、蒼月もきゅっと眉間を寄せて黙り込む。
「そんな難しい顔しないでよ」
「別に、難しい顔なんてしてない」
「でも、さっきから眉間が寄ってる。怒ってる?」
「怒ってもない。ただ……」
人差し指でメガネをあげた蒼月が、その指でそっと眉間を擦る。
「ただ?」
「七年前からずっと、もう、僕のせいで陽咲を傷付けちゃだめだとは思ってる」
「傷って、おでこのケガのこと? それなら、もうとっくに治ってる」
七年前に、蒼月とホタルを見に出かけてできた傷。何針か縫った傷跡は最初こそ痛々しかったけれど、今はもうよく見ないとわからない。今みたいに、暗ければ特に。
わたしが前髪をあげて額を見せると、蒼月がそこから目を逸らして首を横に振った。
「僕が陽咲を傷付けたのは、それだけじゃない……」
無意識なのか、蒼月が自分の左眉の少し上……、ちょうどわたしの傷があるのと同じ場所を撫でる。
夏休みが始まってすぐの頃、蒼月もそこに小さな傷があった。夏休み前に、車に衝突されそうになったわたしを庇ってできた事故の傷だ。その事故のことを、わたしは覚えていないのだけど……。蒼月がわたしを「傷付けた」と言うのは、わたしがその事故の前後の記憶を丸ごと全部忘れてしまっているせいかもしれない。
「わたしが大丈夫だって言っても、それでも蒼月はきっと気にするんだよね……」
事故のことは記憶にないけれど、わたしと蒼月が事故に遭ったのは、奇しくも七月七日。蒼月の十七歳の誕生日だったのだ。
小さな頃から自分の誕生日を厄日だとか、呪われた日だと思っている蒼月が、気にしないはずはない。七年前のわたしのケガも、今年の事故も、蒼月には何の責任もないのに。
「だったら、もう、一生気にしたままでいいよ」
諦めて笑うと、蒼月が「え?」とわずかに目を見開く。
「気にしたままでいいから、せめて、映画撮影をしてるあいだだけは、昔みたいに、ふつうに接してほしい」
「ふつう……?」
「うん。わたしと蒼月と大晴、三人で仲の良い幼なじみだったよね? 大晴に呼び出されてコンビニで三人でアイスを食べながら話してたとき、わたし、昔に戻ったみたいでちょっと楽しかったんだ」
「コンビニでアイス……」
無表情でつぶやく蒼月の反応は薄い。そういえば、前にこの話を持ちかけたときも、蒼月の反応は薄かった。
あのとき、ひさしぶりに三人でバカみたいな会話をして。それが楽しいと思ったのに。蒼月は違ったのかな。
「まあ……、蒼月が嫌だったらムリしなくてもいいんだけど……」
「嫌じゃないよ。気を付ける。でも、僕、すぐに忘れちゃうかもしれないから……。そのときは、陽咲がまた僕に教えてくれる?」
蒼月が指先でメガネを押し上げながら、深刻そうな顔でわたしをじっと見てくる。
「それは、かまわないけど……」
戸惑い気味に頷きながら、変なことを言うなと思った。
すぐ忘れちゃうって、どういう意味――?
適当な大晴なら、冗談でそう言うこともありそうだけど、蒼月の表情を見る限り、冗談を言っているようには見えない。
最近の蒼月は、少し変だ。なにが変なのかと聞かれたら、うまくは答えられないけれど。顔を合わす度に、毎回違う人と話しているような……。そんな感じがするときがあるのは気のせいだろうか。
考えていると、蒼月が、ふいに、斜めにさげていたボディバッグに手を伸ばした。
「大晴から連絡来てる。準備できてるから、早く来いって」
ボディバッグからスマホを出した蒼月が、それをわたしに見せながら苦笑いする。そうやって笑う蒼月の表情からは、さっきまでの深刻さは消えていた。
「早く行こう」
「あ、うん……」
先に歩き出した蒼月を小走りで追いかけると、彼がほんの一瞬足を止めてわたしが隣に並ぶのを待ってくれる。
「そういえばわたし、花火やるの、今年初かも」
「僕も、今年初めて……、なのかな」
わたしの話に、蒼月が曖昧に笑いながら答える。その言い方も、なんだかおかしい。けれど、その奇妙さの理由が、わたしにはやっぱりわからなかった。