東倭国陸軍貴力精鋭部隊。
「軍の何でも屋」の異名を持つこの部隊はいつだって人手不足で、仕事も山積みだ。現場仕事がなくとも隊長の時雨のもとには事務仕事が絶えずやってくる。
 現に今も、隊長室の執務机の上には各種報告書やら経費申請やら、ありとあらゆる書類が積み重なっていた。
 ふだんの時雨であれば、淡々と目の前の仕事を処理していく。
 無駄口を叩くのなんてそれこそ宮田がいるときくらいのものだ。
 しかし今、執務椅子に座った時雨は珍しくひとり物思いに耽っていた。
 目の前には決済待ちの書類があるが、いっこうに手を伸ばす気になれない。
 代わりに頭に思い浮かんだのは、この世にたったひとりの己の番のことだった。
 ――凜花は今頃何をしているだろう。
 日が暮れようとしている今は、みどりと共に夕飯作りをしている頃だろうか。
 もしそうだとしたら今日はなるべく早く帰りたい。緊急出動がないとよいのだが……。

 そうまで考えたところで、ハッと我に返った時雨はたまらず机に突っ伏した。
「何を考えているんだ、私は……」
 仕事をしろ、仕事を。
 そう自身に活を入れると同時に扉が叩かれる。
「隊長、入りますよ――」
「待てっ、宮田!」
 制止も虚しく扉が開かれる。書類の束を抱えて入ってきた宮田は、慌てて机から上半身を起こそうとしていた時雨を見て怪訝そうに眉を顰めた。
「……何をしているんだ?」
「なんでもない」
 時雨はこほん、と咳払いをするが我ながらわざとらしすぎた。
 それに副官の宮田が気づかないはずもなく、書類を机の上にどさりと置いた彼は、何かを探るように目を細めた。
「もしかして……」
「なんだ」
「女、できただろ」
「…………は?」
 一瞬、理解が追いつかずに返事が遅れる。するとその間を肯定と捉えたのか、宮田は途端に目を輝かせた。
「やっぱりなぁ! そうだと思ったんだよ。最近のおまえはどうにも上の空だったからな。そのくせ少し前は幽霊みたいな面してたのに、今じゃすっかり顔色もいい。教えろよ、どんな女――」
「私語は慎め、馬鹿者が」
 機関銃のように一気に捲したてる部下にピシャリと言い放つ。しかし、宮田はにやにやと緩み切った顔で「何を言ってるんだよ」とおどけるように肩をすくめた。
「緩みきった面をした今のおまえにだけは言われたくない。自覚がないなら鏡を見てみろ」
「…………」
 そんなに酷いだろうか。
 仕方なく時雨は引き出しから手鏡を取り出してみるが、そこに映るのは見慣れた仏頂面の自分の顔。別にいつもどおりだ、と視線を鏡から副官に移して後悔する。
 宮田が、肩をくすくすと震わせて笑いを噛み殺していたのだ。
「……宮田」
 あえて低い声で呼べば、宮田は耐えきれないとばかりにぶはっと噴き出した。
「わ、悪い……やっぱりおまえ、箱入りだよな。昔から変なところで素直だったし」
「それをいうなら伯爵家次男のおまえもそうだろうが」
「うちと公爵家とじゃ比較にならねえよ。それにしても、朝葉をこうも骨抜きにするなんて、いったいどんな女だ? 年上のおねーさまとか?」
「うるさい、凜花は――」
 言いかけて、ハッとする。慌てて口をつぐむもすでに遅く、宮田は先ほど以上に緩み切った顔で「へぇ」と唇の端を上げた。
「凜花、ねぇ」
 宮田が凜花の名前を口にした途端、なぜかもやっとした。しかしその理由について深く考えることはなく、時雨は「宮田」と冷ややかな声で副官の名を呼ぶ。
「あと一言でも余計なことを言ってみろ。降格処分にするぞ」
 もちろん冗談だ。私情で階級をどうこうするようなことは時雨はしないし、第一、自分の副官はこの男以外は務まらない。
 しかし、宮田は本気と捉えたのか「それはないだろ!」と文句を言いつつも口をつぐむ。そうしてようやく静かになると、時雨は仕方なくため息をついた。
「……私は、そんなに浮ついているように見えたか?」
「そりゃあもう――って、そっちが話しかけたんだから話していいんだよな」
 いいに決まっているだろう、と時雨が答えると、宮田は苦笑する。
「悪い、俺も少しからかいすぎた。いつもより表情が柔らかくなったのは確かだけど、浮ついてるってほどじゃない。気づいてるのは俺くらいだと思うから安心しろ。――それで、実際のところはどうなんだ?」
「……どう、とは?」
「わかっているくせに。凜花って子は、ようやく見つけた伴侶なんだろう?」
 時雨は目を見張る。
 凜花の存在については彼にも明かしていない。
 選定の儀で起きたことについても、他の候補者には他言無用の制約を課した。宮田は時雨が純血であることは知っていても、番については何も知らないはずだ。
 知っているのは時雨の把握している限り、父とみどり、そして凜花だけ。
 それなのになぜ、時雨の変化と伴侶の存在を結びつけたのか。
「……どうしてそう思った」
「何年の付き合いだと思ってる。それくらい見ていればわかるさ」
 宮田はあっけらかんと答えた。
「それにしても、朝葉もついに妻帯者かぁ」
「……まだ入籍はしていない」
「へぇ。じゃあ婚約者ってわけだ」
「まぁ、そうだな」
 答えながらもだんだんとむず痒くなってくる。
 いい年をした大人の男が、職場で恋愛話をしている状況がなんとも居心地が悪い。しかしそう感じているのは時雨だけなのか、宮田は実に楽しげである。
「せいぜい逃げられないように頑張れよ。まぁ、おまえならなんの心配もないか。それで、俺には会わせてくれないのか?」
 水臭いな、とわざとらしく肩をすくめる宮田に時雨は息をつく。
「……そう遠くないうちに紹介するさ」
 嘆息する時雨に宮田は「楽しみにしてる」とにこやかに微笑んだのだった。

 夕方。職務を終えた時雨は、とある目的のためにひとり市街地に赴いた。
 目当ての店で注文していた品を受け取り、その後は寄り道することなく早々に自動車で屋敷へと戻る。その道中、時雨はハンドルを握りながら宮田との会話を思い返した。
(――確かに、浮かれているな)
 少なくとも職務中に他のことに気を取られる、なんてことは今まで一度もなかった。それにもかかわらず、最近の時雨はふとした瞬間に凜花のことを考えてしまう。
 きっかけは、二週間前。
 全てを告白した時雨を、凜花はただの一言も責めなかった。
 時雨を「優しい」と、「ありがとう」と言ってくれたのだ。
 時雨が彼女のためにしたことなんて、本当にささやかなことばかりだ。
『……時雨様の光気は、こんなにも輝いているのでしょうか』
『あなた様の瞳と同じ色ですね。本当に綺麗……』
 父は気味が悪いと蔑む瞳を、彼女はうっとりとした声で「綺麗」と言った。
『ありがとう、ございます……』
 甘味処に連れて行っただけで、泣きそうな顔で礼を言った。
 いずれも時雨にとっては取るに足らない好意を、凜花はまるで玉石を与えられたように喜んだ。
 ――なんて健気で、いじらしい。
 これまで凜花はとても過酷な環境に置かれてきた。
 血の繋がった親には娘と認められず、下女として扱われる。
 その状況はみどりにとてもよく似ていた。
(みどりには私がいた。でも……)
 凜花は、違う。
 みどりにとっての時雨は、凜花にとっての杏花にあたる。しかし、凜花と血を分けたたったひとりの姉は、こともあろうに自分と同じ顔をした妹を下僕と蔑み、虐げた。
 だからこそ時雨は心に決めた。
(今まで苦しんできた分、私が凜花を大切にする)
 当初、時雨が凜花に丁重に接していたのは、騙して血を得ることへの後ろめたさがあったからだ。
 でも今は、違う。ただひたすらに凜花を大事にしたいし、慈しみたい。
 時雨は運転をしながらちらりと隣の席に視線を向け、そこに置いたものを見た。
 ――彼女は、喜んでくれるだろうか。
 凜花の笑顔を想像しているうちに、車は屋敷に到着する。
「時雨様」
 玄関では凜花とみどりが揃って出迎えてくれた。
 並ぶふたりを見ていると、髪や目の色はまるで違うのになんとなく姉妹のようで、心が温かくなるのを感じる。
「おかえりなさいませ」
「――ああ、ただいま」
 楚々とした百合のようなこの笑顔を守りたいと、強く思った。

 番としての役割を知った夜をきっかけに、屋敷における凜花の役割は少しだけ変わった。婚約者としての立場はそのままに、今まではみどりがひとりで担っていた家事を手伝うようになったのだ。
 純血の貴人や番について明かした時雨は、引き続き屋敷では自由にしてよいと凜花に言った。
 何もせずにおだやかに、のびのびと羽を伸ばしてほしい、と。
 ならば、と凜花は以前と同じお願いを彼にした。
 ――この屋敷で働きたい、と。
 この屋敷における自分の存在意義は、血を時雨に捧げること。
 それがわかったからといって、何もせずに惰眠を貪ることはやはりどうしてもできなかった。
 この凜花の願いに、時雨は「わかった」と渋々ながらも頷いてくれた。
 ただし、基本的には屋敷を出ることはしない、という条件付きで。
 どうやら時雨は、以前市街地であったことをかなり気にしてくれているらしい。
 必要なものがあればみどりに買い出しを頼み、それ以外のやむをえないときは時雨が休みのときに共に出かけるように、と凜花に言い含めた。
 以降、凜花は、日中はみどりとともに屋敷の掃除や時雨の衣類の洗濯など、家事のひととおりをこなすようになったのだった。
 その一方で、時雨は挨拶のように「何か必要なものや欲しいものはないか」と聞いてきた。そのたびに凜花は「ありません」「十分すぎるほどよくしていただいております」と返している。
 それから二週間がたったある日の夜。
 時雨の帰宅後、食堂の夕食の席にて。
「――この魚の煮付け、美味しいな」
 感心する時雨に凜花は笑う。
「よかったです」
 縦長の大きなテーブルを挟んで時雨の対面に座る凜花は、心の中で安堵の息をつく。
(やっぱり、時雨様は薄い味付けの方がお好きのようね)
 最近では自然と朝食はみどりが、夕食は凜花が主に作るようになっていた。
 そしてみどりは、時雨の味付けの好みを凜花に教えなかった。
 意地悪ではない。
『これから先は、あなたの味がこの家の味になっていくのですから』
 そう言ってくれたのだ。
「やはり、みどりは今日も別なのか」
 ぽつり、と時雨は呟く。
 この場に妹の存在がないことが不満そうな姿に、凜花は「はい」と苦笑した。
「私も毎回誘ってはいるのですけれど……」
 答えながら思い起こされたのは、時雨が帰宅する少し前にしたやりとり。
 食事は一緒に取ろう、と声をかける凜花にみどりは言った。
『妹であろうと私は使用人です。それに、恋人の束の間の逢瀬を邪魔したくないので』
 もちろん凜花はすぐに「そんなことない」と慌てて否定したのだけれど。
 ――恋人、なんて。
(私と時雨様は、そのような関係ではないのに……)
 時雨が必要としてくれる限り、彼のそばに居続ける覚悟はできている。むしろ、この先の長い人生を時雨と一緒にいられるなんて、こんなにも幸せなことはない。
 でも、勘違いをしてはいけない。
 時雨が必要としているのは、あくまでこの身に流れる血である。
 凜花という「個」を欲しているわけではない。
 それにもかかわらずこうして心を配ってくれているのは、ひとえに彼の優しさから。凜花を異性として見ているわけではない。
 よくてふたり目の妹といったところだろう。
 ――妹。
 それでも過分なほどなのに、なぜか胸がざわめく。しかし、凜花はそれにあえて気づかないふりをした。
「ごちそうさま。今日もどれも美味しかった。……凜花?」
「あっ……は、はい。お粗末様でした」
 物思いに耽っていた凜花が慌てて返事をすると、箸を置いた時雨はわずかに眉根を寄せる。
「何かあったのか?」
「え?」
「それとも体調がすぐれない? そうだとしたら、今夜は無理をしなくても――」
「だ、大丈夫です!」
 時雨を遮った凜花は急いで否定する。
 今夜はこのあと、時雨の書斎を訪れることになっている。
 ――血を捧げるためだ。
 数日に一度、時雨は凜花の血を啜る。そうすることで彼は健康を保つことができるのだという。事実、この二週間で四回その機会を設けたが、時雨は目に見えて顔色が良くなった。
 彼のその姿を見るたびに凜花は安堵する。
 必要とされていると、感じることができるから。
「……お恥ずかしいですが、お腹がいっぱいになって、少し眠くなってしまったようです」
 ごまかすと、時雨は「ならいいが」と心配そうに眉を下げた。
 それから時雨を見送り、食事の片付けと入浴を済ませた凜花は、寝衣に上着を羽織り書斎へと赴く。場所は寝室ではないのは、時雨がそう望んだからだ。
 睡眠薬で眠らされていた以前ならともかく、同意の上の行為となった今、目的がどうあれ妙齢の男女が夜に寝室でふたりきりになるのは好ましくないから、と。
「失礼いたします」
 返事を待って中に入ると、執務椅子に座る時雨がふっと頬を緩める。
「もう少しで終わるから、座って待っていてくれるか?」
「はい」
 頷いた凜花は革張りのソファに静かに座る。対する時雨は、万年筆を手に何やら書き物をしている。
(……お忙しいのね)
 時雨は軍人であるが、朝葉公爵家の後継ぎでもある。凜花には考えも及ばないような仕事がたくさんあるのだろう。
 血を捧げ、家事をする。
 彼が凜花にしてくれたことを思えば、それだけでは到底足りない。
(番として以外でも……何か、力になれればいいのに)
 それが何かわからない自分をふがいなく思いながら、凜花は視線をなにとはなしに壁へと移した。以前見た家族の肖像画には、再び暗幕がかけられている。
「待たせてすまない」
 声をかけられた凜花が視線を時雨に戻すと、顔を上げた彼と目が合った。
「招待状の返事が溜まってしまって。都度返信をしているのに、それを上回る数がくるものだから困ったものだ」
「招待状、ですか?」
「ああ。夜会やら昼食会やら、毎日のようにあちらこちらから誘いが届く。こんなことは言いたくないが、断る方の手間も考えてほしいものだ」
 鬱陶しそうに肩をすくめる時雨に凜花は目を瞬かせた。
「……招待状を頂いて、嬉しくはないのですか?」
「嬉しい?」
 凜花は頷く。
 少なくとも杏花はそうだった。目立つことが大好きな姉は、招待状の束を前に「私は忙しいのに」と口では言いながらもまんざらではない顔をしていた。
 時雨は杏花のような目立ちたがりではないだろうが、招待されるということは、それだけ望まれているということではないのだろうか。
 凜花の疑問に時雨は苦笑する。
「確かに望まれてはいるのだろうが、彼らが求めているのは私自身ではなく『純血の貴人』だ。前にみどりも言っていたが、見せ物のようなものだ。気乗りはしないな」
「あ……」
 その答えに、己の考えの浅はかさを思い知る。
「申し訳ありません、その……」
「謝ることはない。むしろ、あなたのそういう純粋なところは美徳だ」
 顔を強張らせる凜花を宥めるように、時雨は微笑む。
「さて、この話は終わりだ」
 そうして立ち上がった彼は、凜花の隣にそっと腰掛けた。
 ぎしっとソファの軋む音にドクンと胸が跳ねた。自らの意思で血を捧げると決めてから、今日で五回目。それなのに、この瞬間はいつだって緊張する。
「――いいか?」
 頷いた凜花は、下ろしていた髪をかきあげ首筋を晒した。
 じっとこちらを見つめる金の瞳に自分が映っていることを、凜花は毎回奇跡のように感じる。時雨は片手を凜花の肩に、もう片方の手を顎に添えた。
「すぐに終わる」
「……はい」
 凜花の同意を得た時雨はゆっくりと顔を近づける。
 ――まるで、口付けを交わすようだ。
 きゅっと瞼を閉じると同時に鈍い痛みが首筋に走る。
「んっ……」
 声を漏らす凜花の皮膚を温かな舌がつうっとなぞった。
 それからすぐに顔が離れる気配がすると、かわりに大きな手のひらが噛み跡に触れる。ひだまりの中にいるような温かさは、時雨が治癒をしているからだ。
 唇が触れた瞬間から治療まで、十数秒にも満たない。
 そんなつかの間の番としての時間を、凜花は一瞬にも、何時間にも感じた。
 恥ずかしくて早く終わればいいという気持ちと、触れられているときの心地よさをもっと堪能したいという相反するふたつの気持ち。
 それらを感じながらも、凜花はふと違和感を覚える。
 首筋から手が離れると同時にソファが軋む音がしたと思った途端、髪を触れられたのだ。
「時雨様?」
 ぱっと瞼を開けた凜花は、驚いた。時雨がいつの間にか凜花の背後にまわっている。その上、なぜか彼はソファ越しに、下ろしていた凜花の髪に触れていたのだ。
「何を、されているのですか?」
「もう少しだけじっとしていて」
「は、はい」
 わけがわからないまま前を向く。そうこうするうちに「こうか」「……いや、こちらの方がいいか」と時雨はひとりごとを言いながら手を動かす。それからすぐに「よし」という声とともに手は離れた。
「……もう、よろしいですか?」
「ああ」
 振り返ると、なぜか満足そうな顔をした時雨が立っている。
(首がすうすうする……)
 時雨が髪を結ったのだろうか。でも、なぜ?
 戸惑いながらも凜花はそっと自身の髪の毛に触れて、ハッとした。髪になにかが挿さっている。
 まさか――。
 ハッとする凜花に、時雨は「こちらへおいで」と、暖炉の上の壁に設置された鏡の方へと誘った。時雨は凜花に手鏡を渡す。
「壁の鏡と合わせ鏡にしてごらん。そうすればよく見える」
「は、はい」
 言われるがまま凜花は、暖炉の上の鏡に背中を向けて手元の鏡を覗き込み――息を呑んだ。すっきりとひとつに纏められた髪を華やかに彩るものがあったからだ。
(髪飾り……?)
 金色のそれは、花の形をしている。
「時雨様、これは――」
「桔梗の髪飾りだ」
 驚きをあらわにする凜花に、時雨は穏やかに微笑む。
「あなたの成人祝いはうやむやになったままでいただろう? その後も何度も聞いてもあなたは何もいらないと言うから、こちらで選ばせてもらった」
 凜花、と。
 宝物のように優しい声で、彼は呼ぶ。
「改めて、成人おめでとう」
「っ……!」
「受け取ってくれるね?」
 今までの凜花なら。
『このような高価なものはいただけません』
 と、顔を真っ青にして誇示していただろう。
 でも、今は違う。
 こんなにも優しく温かな眼差しを向けられて、いらないなんて言えるはずがない――言いたくなかった。
(どうしよう)
 嬉しすぎて、胸が痛い。
「ありがとうございます。……一生、大切にいたします」
 これに時雨は「大袈裟だな」と苦笑する。
「桔梗の花言葉は色によって異なるようだが、『気品』『清楚』などがあるらしい。桔梗の凛と咲く姿があなたにとてもよく似ていると思って、選んだ」
「私に……?」
 頷いた時雨は笑顔で言った。
「『凛とした花』。あなたそのものだ」
 まるで眩しいものを見つめるように目を細めて、時雨は微笑む。
 その柔らかな声色に、優しい眼差しに。
 ――ことり、と。
 心が動く音を、凜花は聞いた気がした。

 それからも日々は穏やかに過ぎていった。
 朝、時雨を見送ったあとは、みどりとともに家事をこなす。夕方になると夕食作りに取りかかり、時雨を出迎える。そうしてふたりで食事を囲み、眠りにつく。
 平穏な毎日に慣れる一方で、凜花はいまだに夢のようだと思うことがある。
 今の凜花は過分なほどの待遇を受けている。
 生きる意味を見出せなかった自分を必要としてくれた人がいて、その上この先もずっと一緒にいてほしいと望まれたのだ。
 こんなにも幸せな日が訪れる日が来るなんて、実家にいた頃は想像したこともなかった。
 ――いつまでもこんな日々が続けばいい。
 そう思っていたある日、変化が訪れた。

 桔梗の髪飾りを贈られてから一週間ほどたった日の昼過ぎ。
 買い物に出かけたみどりの代わりに郵便を受け取った凜花は、うちのひとつを見て目を見張った。白の封筒には、手習の手本のような流麗な筆跡で『長嶺凜花様』と自分の名前が書いてあったのだ。
 凜花は、驚きながらも差出人を見て絶句する。
 ――朝葉道景。
 そこには、時雨の父であり、朝葉家の現当主の名前があったのだ。
「どうして……」
 玄関の前で立ち尽くしていると、ちょうどみどりが帰ってくる。
「ただいま戻りました」
「あ……」
「……何かあったのですか?」
 顔面を蒼白にする凜花を見るなり、みどりは眉をひそめた。
 わずかなためらいの後、凜花は手に持った封筒をみどりに見せる。受け取った彼女は差出人を見るなり一瞬肩を震わせ、さあっと血の気の引いた顔をした。
 その表情に「しまった」と思う。
 朝葉道景はみどりの実父だ。しかし、ふたりの間に親子としての交流は皆無だったと時雨から聞いている。名前を見ただけでこの様子では、彼女にとっても当然のように好ましい相手ではないのだろう。
 それなのに迂闊に見せてしまった己を恥じる。
 しかし、「ごめんなさい」と凜花が口を開くよりも早くみどりは言った。
「中は、読んだのですか?」
 凜花は首を横に振る。
「私が勝手に開けていいものだとは思えなかったから……」
「懸命な判断です。開封する前に時雨様にお見せした方がいいかと。……もっとも、何が書いてあるかはおおよそ見当はつきますが」
「……どういうこと?」
 目を瞬かせる凜花に、みどりは忌々しそうに眉間に皺を寄せて答える。
「朝葉公爵は、自分の誕生日を祝うという名目で、毎年この時期になると朝葉家の分家や、近しい友人らを本邸に招いて夜会を開くんです。その手紙の中身はおそらく夜会の招待状でしょう」
 いい年をした男が誕生会なんて、と毒づく姿からは朝葉道景に対する嫌悪が滲み出ている。
「この夜会には時雨様も出席されます。それなのにあなたを名指ししてきたのは、こうでもしないと時雨様があなたを連れてこないと思ったからでしょう。実際、時雨様は公爵に『伴侶の顔を見せろ』と何度も言われているようですし」
 初耳だった。
「でも、そんなこと時雨様は一言も……」
「あえて耳には入れないようにしていたのでしょう。……本邸は、只人にとって居心地の良い場所とは言えませんから」
 それが実体験から来る言葉なのは間違いなかった。
「……もしも私が夜会に行かなかったら、どうなるのかしら」
「どうにもなりません。実質、今の朝葉家を動かしているのは時雨様です。せいぜい周りが影口を叩くくらいかと。純血の貴人相手に面と向かって文句を言える人はそうそういませんし」
 逆に言えば、凜花が欠席すれば時雨が悪様に言われるということだ。
 嫌だ、と率直に思った。
 時雨自身が気にしないとしても、凜花のせいで時雨が後ろ指をさされるなんてあってはならないことだ。
「時雨様はあなたのことが大切だから、連れていきたくないのでしょうね」
「大切……」
「まさか、自覚がないとでも?」
 呆れるような、からかうような口調に凜花は慌てて首を横に振る。
「十分すぎるほどよくしていただいているわ」
「それならいいんです。水晶まで贈られているのに、これで自覚がないと言われたら、さすがに時雨様に同情します」
 みどりがそうも言うということは、やはりあの琥珀色の水晶はとんでもなく価値が高いらしい。改めて自分はとんでもないものを持っているのだな、と服の上からそっとお守りに触れる。
「もっとも、そうでなくともあなたは鈍そうですから、時雨様くらい行動に移さなければ伝わらないのでしょうね」
「鈍い……?」
「そういうところです」
 意味がわからず目を瞬かせる凜花に、みどりは悪戯っぽく微笑んだ。

 その夜。
 凜花は、時雨が食事を終えたのを見計らい、昼間の手紙を差し出した。
 それを見るなり彼の顔は一気に不愉快そうなものに変わる。そうして時雨が開封したところ、予想どおり中身は夜会への招待状だった。
「不愉快な思いをさせたな。これは私の方で処理しておくから、あなたは何も気にしなくていい」
 話は終わりだ、とでもいうように時雨は乱暴な仕草で招待状を封筒に戻す。
 それを見ていた凜花は、意を決して切り出した。
「私も、ご一緒してはいけないでしょうか?」
 目を見張る時雨に、凜花はためらいながらも続けた。
「私は……私のせいで、時雨様は悪く言われるのは嫌です」
 正直に告げると、時雨はふっと表情を和らげた。
「そんなことをあなたが気にしなくてもいい。影で何を言われようと、直接私に意見しようなんて人間はいないのだから」
 つまりそれは、意見しないだけで彼を悪く言う人が確実にいるということだ。
 それを時雨の口からはっきり聞いたことで、凜花の気持ちは定まった。
(時雨様は、長嶺から……杏花から私を守ってくださった)
 そして、朝葉公爵は実の子である時雨を「化け物」と罵るのだと言う。
 だからこそ凜花は時雨のそばにいたかった。只人の自分にできることは、それしかないから。
「時雨様」
「……なんだ」
 凜花がこれから何を言おうとしているのか、きっと彼は気づいている。難しい顔をしているのもそれ故だろう。それでも、凜花は言った。
「私は、あなたの番です」
 今すぐ結婚すると言い切るほどの覚悟は、まだ持てない。
 時雨の妻になると言うことは、すなわち次期朝葉公爵夫人になるということだ。
 公爵夫人。この国でたった三人しか存在しないその席に自分が座るなんて、想像しただけでも身がすくむ思いがする。それでもこの先ずっと、彼のそばにいたいと思う気持ちに嘘はない。
「時雨様の番である私は、いずれ朝葉公爵様にお会いすることは避けられません」
「凜花……」
「そもそもこちらでお世話になっている以上、もっと早くにご挨拶を申し上げるべきだったのだと思います。ですからどうか、私もご一緒させてはいただけませんか?」
 時雨はすぐには答えなかった。思い悩むように眉根を寄せた彼は、じっと凜花を見据えている。やがてためらいがちに彼は口を開いた。
「……夜会に参加するほとんどが貴人だ」
「承知しております」
「……父は、典型的な貴人だ。貴力を持たない人を蔑み、自分は特別なのだと思い込んでいる。そんなところにあなたを連れて行っても嫌な思いしかしないだろう。それでも、行きたいと?」
「はい」
 何を言っても引かない凜花に、先に折れたのは時雨の方だった。
「――わかった。一緒に行こう」
 その言葉に凜花が礼を言おうとした、そのとき。
 時雨は覚悟を決めたかのような真剣な表情で、凜花を見据えた。
「あなたのことは、私が守る」
 ただ一心に凜花を見据える眼差しに、声色に。
 胸のときめきを抑えることは、できなかった。

 夜会当日。
 自室の姿見の前に立つ凜花は、人生二度目の「自分に見惚れる」経験をしていた。
(私じゃないみたい……)
 鏡の中に映る凜花は今、鮮やかな薄紫色の着物を着ている。裾の部分に流麗な桔梗の柄をあしらった着物は、今日のために時雨が仕立ててくれたものだ。
 普段は簡素に一つに結んでいるだけの髪は、みどりの手によって一部の乱れなくすっきりと纏められた。うなじがすうすうとしているのがなんとも落ち着かないものの、髪を上げることでほっそりとした首筋が際立っているように見える。
 そうしてうっすらと化粧を施した凜花は、紛れもない令嬢だった。
 もしも長嶺の使用人がこの姿を見ても、おそらく凜花だとは気づかないだろう。
 それだけではない。
(杏花とも、違う……?)
 本来、同じ顔で、上等な着物を着れば杏花と瓜二つになるはず。
 それなのに今、凜花は漠然と姉とも別人のようだと思った。
 しかし、その理由がわからないでいると、みどりは仕上げに髪飾りを挿してくれる。先日、時雨から贈られたものだ。
「完璧ですね」
 鏡越しに満足そうに頷くみどりに凜花が礼をいうと、彼女はふっと微笑んだ。
「そういえば、桔梗の花言葉を知っていますか?」
 不意の質問に凜花は目を瞬かせる。
「確か、時雨様は『気品』や『清楚』といった意味があるとおっしゃっていたけれど……」
「そうですね。でも、それだけではありません」
「他の意味があるの?」
 ええ、と頷き、みどりは言った。
「紫色の桔梗の花言葉は、『変わらぬ愛』」
「え……?」
「時雨様は、なぜこのお着物を選ばれたのでしょうね?」
 悪戯っぽく微笑むみどりに凜花は何も答えられなかった。
 ただ、鏡に映る自分の顔は耳まで真っ赤だった。

「――どこか調子でも悪いのか?」
 みどりに見送られて屋敷を出てまもなく、ハンドルを握る時雨は言った。
 隣を見ると、正面を見据えた時雨が眉間に皺を寄せている。
「なぜ、ですか?」
「先ほどから何も言わないから。無理をしているようなら――」
「あっ……そうではないのです!」
 凜花が慌てて否定すると、当然のように「では、なぜ?」と質問される。
 これに凜花は「うっ」とまたも返事に詰まった。
 一瞬、答えが喉元まで言葉が出かかるが、寸前で引っ込める。
 口数が少ないのは、出発前にみどりから聞いた話が原因だ。
 そうだとしても、本当のことなど言えるわけがない。
『紫の桔梗の花言葉を知った上で、この着物を選んでくださったのですか?』
 なんて。
 そんなことを口にしたら「私を好きなのですか?」と質問したも同然だし、そもそも自惚れが過ぎるというものだ。
 きっとただの偶然だろうと結論づけて、凜花は呼吸を整えた。
「その……少し緊張していたのだと思います」
 嘘は、ついていない。
 これから朝葉本邸に向かい、時雨の家族と対面することを考えると自然と背筋が伸びる。ただ、桔梗の花言葉の衝撃がそれを上回ってしまったというだけで。
 幸いにも運転中で前を見据える時雨に凜花の拙いごまかしは通じたようで、それ以上追求されることはなかった。そうして彼の車に揺られること、しばらく。
「凜花」
 不意に、名前を呼ばれる。
 隣を見ると、彼は前を見据えたまま口を開く。
「その着物、とてもよく似合っている。姉とは似ていないな」
「え……?」
「あなたの方が、百倍綺麗だ」
 ちらりと横目で凜花を見た時雨はふっと微笑む。そのとても優しい笑みや言葉に、凜花は一度は引いたはずの熱が再びぶりかえすのを感じた。
 いくらなんでも褒めすぎだ。そう思うのに、頬が緩むのを止められない。
「……ありがとう、ございます」
 言えたのはただそれだけ。
(顔が、熱い)
 それから本邸に到着するまで、凜花はあえて時雨とは反対の方を見続けた。
 どうか顔の火照りが治まりますように、と願いながら。

「兄上」
 朝葉本邸に到着したふたりがエントランスホールに踏み入れると、すぐに声をかけられる。揃って声の方に目を向けると、黒髪に濃茶色の瞳をした青年がちょうど正面玄関から降りてくるところだった。
「……和泉」
 時雨がぽつりと呼んだ名前に凜花はハッとする。
(この方が、時雨様の弟さん……)
 そして、みどりのもうひとりの兄でもある。まさか朝葉公爵令息直々出迎えするなんて、と内心驚く凜花の前に、和泉は軽快な足取りでやってきた。
「はじめまして。朝葉和泉と言います」
 にこっと人好きの笑みを浮かべる和泉に、凜花は深々と腰を折る。
「長嶺凜花と申します」
 するとすぐに「頭を上げてください」と苦笑する声が頭上に振る。
「あなたはいずれ私の義姉上になる方だ。私相手に頭を下げる必要はありませんよ」
 そんなわけにはいかない、と本心では思いつつも、ここは素直に従った方が良さそうだと判断した凜花はゆっくりと顔を上げる。
 和泉は、依然笑みを湛えたままだ。
「お会いできてよかった。兄上が頑なに連れてこようとしないから、どんな方なのかとずっと気になっていたんです。でもその理由がわかりました。こんなにも可愛らしいお嬢さんでは、兄上が隠したくなる気持ちもわかる」
「……恐縮です」
 恭しく答えながらも、凜花は不思議に思った。
 和泉に「可愛らしい」と言われてもぴくりとも心が動かなかったのだ。
 もちろんお世辞だとわかっているが、時雨に言われたときは胸がどきどきして仕方なかったのに……そう頭の片隅で考えていると、「和泉」と時雨がやけに低い声で弟の名を呼んだ。
「もういいだろう」
「ああ、そうだったね。そろそろ行かないと、父さんも他の皆さんも、兄上たちがくるのを待ち侘びているよ。招待した人はもうほとんど来ているからね」
「どういう意味だ? 私たちは時間に余裕を持ってきたはずだ」
 時雨は眉根を寄せた。凜花も表情にこそ出さないものの、心の中で「えっ」と声を上げる。対する和泉は「あれ?」と大袈裟に目を丸くする。
「それなら、招待状を作成するときに手違いがあったのかもしれないね。少なくとも夜会が始まってもう三十分は経っているから」
「――手違い、な」
 時雨は忌々しそうに吐き捨てる。彼のそんな仕草を初めて見た凜花が目を丸くすると、彼は「なんでもない」と息をつく。
「それならなおのこと私たちはもう行かなければ。おまえは戻らないのか?」
 時雨の問いに和泉は肩をすくめた。
「まだひとりだけ来ていなくてね。僕がここで待っているから、ふたりはお先にどうぞ」
「そうさせてもらう。――行こう、凜花」
「はい」
 頷いた凜花は時雨に一礼する。そして歩き始めた時雨の後ろに続こうとした、そのときだった。
 ――ゾクっと、背筋が震えた。
 凜花はハッと後ろを振り返る。しかしそこにいるのは笑顔で手を振る和泉だけだった。
 何やらとても強い視線を感じた気がしたが、気のせいだったようだ。
 それから時雨の後に続いて大広間の扉の前に到着する。
 すでにほとんどの招待客が来ているという和泉の言葉どおり、扉越しにも賑やかな雰囲気が伝わってくる。
(しっかりしないと)
 ここで凜花が何か失敗をすれば、時雨に恥をかかせることになる。それだけは絶対に避けなければならない。凜花は深呼吸をして気を引き締める。
 すると、それを見ていた時雨が「凜花」と名を呼んだ。
「お守りは持っているな?」
「はい」
「ならいい」
 目の前に差し出された時雨の左手に、凜花は息を呑む。
 ――手を、繋ごうというのか。
 ふたりきりの時ではなく衆目の中で、自分と?
 そのためらいを感じ取ったのか。それとも待ちきれなかったのか。
 時雨はくすっと苦笑すると、少しだけ強引に凜花と手を絡める。
「時雨様⁉︎」
「あなたは不思議な人だな。手を繋ぐよりも濃密なことを、私たちはすでにしているのに」
 それが吸血行為のことを指しているのは、すぐにわかった。
「時雨様っ……!」
 ポッと頬の火照りを感じた凜花はたまらず名前を呼ぶ。それに時雨はクックと小さく笑い、そして言った。
「肩の力は抜けた?」
「あ……」
 確かに、今のやりとりのおかげで、過度な気負いが抜けたような気がする。
「あなたはそのままで十分魅力的だ。だから、何も気負う必要はない」
 魅力的、なんて。
 お世辞とわかっていても、心は揺れる。 
「行こうか」
 優しくも力強い声色に誘われるように、凜花は頷いた。
 そうして二人は共に大広間へと足を踏み入れた。
 直後、それまでの賑やかさが嘘のようにしん……と静まり返る。水面に雫が落ちて波紋が広がるように会場中に伝わったそれは、数秒の後にざわめきへと転じた。
 中にいた人々の視線が一気に時雨と凜花に集中する。それらが好意的なものでないのを、凜花はすぐに肌で感じた。
「只人が、どうして……」
「あれが時雨殿の選んだ伴侶だというの……?」
 皮膚がひりつくような眼差しを感じながら、凜花はある違和感に気づいた。
 一見しただけでわかるほどに女性客の割合が多い。しかもその大半が凜花と同じ年頃に見える。当然、時雨も気づいた。
「――そういうことか」
 何やらそう小声で呟いた小声は、明らかに苛立っていた。次いで彼は「凜花」と小声で言った。
「父への挨拶が済んだらすぐに帰ろう」
 その理由を問うことはこの場ではできなかった。
 凜花と指を絡めた時雨は、迷いのない足取りで会場の最奥へと向かう。
 その最中も、凜花は突き刺すような眼差しを感じていた。
 そのとき、前を見据えて歩く時雨がぎゅっと握った手のひらに力を込めた。ハッと隣を仰ぎ見ると、ほんの一瞬こちらを向いた時雨が唇を綻ばせる。
 まるで、「大丈夫」とでも言うように。
 それに呼応するように、凜花もまたそっと彼の手を握り返した。
 そうして到着した場所は、すでに人だかりができていた。ならばこの中心にいるのが朝葉道景だろう。
「失礼」
 時雨が厳しい口調で言うと、人だかりがさぁ……とはけていく。
 そうして姿を見せた人物に、凜花は心の中で驚きの声を上げた。
 年齢はおそらく五十代後半。一目で高級とわかる黒の紋付袴を着た立ち姿はすらりとしている。白髪混じりの黒髪と同じ黒の瞳を持つその人物は、確かに整った顔立ちをしている。
 しかし、纏う雰囲気はとても朝葉家当主のものとは思えなかった。
 なぜなら、あきらかに酔っているのだ。
 耳まで真っ赤な顔に、とろんと所在なさげな瞳は酔っぱらいそのものである。
(この方が朝葉公爵様……時雨様の、お父様?)
 似ていない。
 率直にそう思った。
「おお、時雨。遅かったな、待ちくたびれたぞ」
 道景は、時雨を見るなり両手を広げて喜びを示す。その様子は、とても息子を化け物呼ばわりする父親には見えない。対する時雨は眉ひとつ動かさなかった。
「お待たせして申し訳ありません。どうやら招待状に手違いがあったようです」
「そうか。まあ、こうして来たのだからよしとしよう」
 赤ら顔でニヤリと唇の端を上げる道景は、凜花には一瞥もくれない。この振る舞いに声を上げたのは、時雨だった。
「父上。紹介いたします。こちらが長嶺凜花さんです」
 紹介を受けた凜花は、和泉のとき同様、深く頭をさげる。
「長嶺凜花と申します。このたびはご招待を賜りまして――」
「時雨」
 しかし、凜花は最後まで挨拶を言うことができなかった。道景が遮ったのだ。
「見なさい。今日は、おまえのためにこんなにもたくさんのお嬢さん方に集まっていただいた」
 道景はあからさまに時雨を遮った。
 こうまでされてわからぬほど凜花は鈍くない。
 ――彼は、凜花をいないものとして扱うつもりなのだ。
 周囲の人間も当然それに気付いたのか、どこからともなく嘲笑が漏れ始める。
 それらの矛先は無論、時雨でも道景でもなく凜花だ。
「身の程知らず」「只人のくせに生意気なのよ」……ひそひそと囁かれる悪意に反応するように、繋いだ手にぎゅっと力が込められた。
「――どいつもこいつも、馬鹿ばかりで嫌になる」
 時雨は、傍らの凜花にだけ聞こえるほどの小声で吐き捨る。そして、一切の感情を打ち消し道景を見据えた。
「私のため? 今日は、父上の誕生日を祝う場でしょう」
「そうだとも。だから、これは私のためでもある」
 大仰に頷いた道景は一歩踏み出し、時雨の耳元でそっと囁いた。
「――いい加減に目を醒ませ。そこにいる番は、妾にでもすればいい」
 その声は、凜花にも確かに聞こえた。 
「何を――!」
 直後、声を上げようとする時雨を、凜花は手をぎゅっと繋ぐことで制した。
 弾かれたようにこちらを振り向く彼に、凜花は小さく頷く。
 ――私は大丈夫です。
 そう、伝えたかった。
 衆目の中、今ここで彼が声を荒らげて好影響になることはない。むしろ大多数が凜花の存在を疎んでいる中、時雨が大っぴらに凜花を庇えば彼の評判に関わる。
 それは凜花の望むところではないし、第一、凜花はこの状況をさほど気にしていなかった。道景の言動に驚きはしたけれど、怒るようなことではない。
 むしろ正当なことだとさえ思った。
 時雨には、凜花より相応しい令嬢なんてたくさんいるのはまぎれもない事実だ。
(それでも時雨様の番は、私だけ)
 その事実が凜花に勇気を与えてくれる。
 だから何も怒ることはないし、傷つくことはない。こんなの杏花の仕打ちにくらべればなんてことないのだ。
 そんな凜花の気持ちが通じたのだろうか。
「父上」
 時雨は一転して表情を和らげた。直後、周囲の令嬢たちから「はぁ……」と感嘆の息が漏れる。その気持ちが凜花には十分すぎるほどよくわかった。
 時雨の微笑みにはそれだけの威力がある。道景にとっても息子のこの反応は予想外だったのか、戸惑いを隠しきれずに目を見張っている。
 そんな中、時雨は笑顔で言った。
「私は、父上に感謝を申し上げたいことがあります」
「……ほう?」
 道景は驚きつつも気分よさげに頬を和らげる。
 対する時雨はすうっと目を細め、冷ややかに微笑んだ。
「父上は、大変愛情深く、一途でいらっしゃる。私も同じようになりたいものだと常々思っておりましたが、念願叶ってこうして生涯を共にする伴侶を見つけることができました。これも全て、私に見本を示してくださった父上のおかげですね」
 それが道景に対する強烈な皮肉であると、凜花にはわかった。
 なぜなら道景は、三人の女性との間にそれぞれ子供を儲けている。
 一途とは到底言い難い。当然、道景が気付かぬはずがなかった。
「時雨、おまえっ……!」
 一転して怒りをあらわにした道景が声を荒らげようとした、そのとき。
 不意に凜花たちの後方からざわめきが聞こえた。何事かと思った凜花は大広間の入り口の方へと視線を向ける。
 そして、目を疑った。
「どう、して……」
 ゆっくりとこちらに向かってくる和泉の傍には、杏花がいた。
 ふらっと足から力が抜ける。すかさずそれを支えた時雨は、「どういうことだ」と、凜花同様驚きをあらわにしている。
 ならば、姉が来ることは彼も知らされていなかったのだ。
 ――和泉が待っていた最後の招待客が、杏花だったなんて。
 そうこうするうちに和泉に伴われた杏花がすぐ目の前にやってくる。
「どういうことだ、和泉」
 すぐさま説明を求める時雨に、和泉は「どうもなにも」と肩をすくめて微笑んだ。
「彼女はお客様ですよ、兄上。凜花さんの姉ならいずれ朝葉の親戚となる方でもある。お呼びすることになんの問題もないでしょう?」
「時雨様、ごきげんよう」
 杏花は、青ざめる凜花と険しい顔の時雨にふわりと微笑む。
 その姿は、最後に市街で見たときとは打って変わって落ち着いていた。
 次いで杏花は道景に恭しく頭を下げる。
「長嶺杏花と申します。このたびはこのような素敵な会にご招待いただきまして、心より感謝申し上げます。父からもくれぐれもよろしくお伝えするように、と申しつけられました」
 いやというほど耳に馴染んだ、鈴の音のように軽やかな声が挨拶を述べる。
 今度は最後まで挨拶に耳を傾けた道景は、唇の端をあげてニヤリと笑う。
「こちらこそよく来てくれた。長嶺殿のご息女が成人したとは聞いていたが、こんなにも素敵なお嬢さんだったとはな。――やはり、貴人は違う」
「めっそうもございません」
 道景が凜花と杏花を比較しているのはあきらかだった。
 ふたりのやりとりを見聞きしていた周囲からは、たちまち「やはり選ばれたのは杏花さんなのでは……」「杏花さんの方がふさわしいわ」との声が聞こえ始める。
 そんな中、凜花は指一本動かせずにいた。
 ――目の前に杏花がいる。
 その事実が、たまらなく恐ろしい。
「帰ろう」
「あっ……!」
 時雨はすでに道景はもちろん、杏花のことも見ていなかった。金の瞳に映るのはただひとり、凜花だけ。
「長嶺伯爵が約束を違えたことは後日追求する。今は、こんなところ一秒だっている価値はない」
「待ちなさい、時雨!」
 凜花の手を掴んだ時雨は、道景の制止も無視して歩き出す。直後、杏花が動いた。
「凜花!」
 姉が呼んだのは時雨ではなく、凜花だった。彼女は何を思ったのか凜花の空いていた方の手を掴んだのだ。
 柔らかな両手が凜花の手をそっと包み込む。水仕事など一度もしたことがない滑らかな手。そして、数えきれないほど凜花を叩い、爪を立てた手でもある。
「っ……!」
 途端に長嶺にいた頃の記憶が凜花の頭の中を一気にかけ巡る。
『――遅いわ、この愚図!』
『もしも選ばれなかったら……今度こそおまえのことを殺してしまうかも』
『自分と同じ顔をした出来損ないがこの世に存在すると思っただけで、吐き気がするわ』
「ああ、会いたかったわ!」
 しかし、記憶の中と同じ声で杏花は真逆の言葉を口にした。
「あなたったら、時雨様のお屋敷に行ったきり文のひとつもよこさないのですもの。お父様やお母様も心配していたのよ? だめじゃない、両親に心配をかけては。でも、ここで会えてよかったわ。あなたはたった一人の妹だもの。……本当に、会えてよかった」
 溢れ出す感情を堪えきれないように杏花の瞳に涙が滲む。
 花のように可憐な顔に一筋の涙が伝うその様は、どう見ても妹を案じる優しい姉にほかならない。だが凜花は、姉が自分を心配することなど万にひとつもないと知っている。
 ――何を言っているの?
 ――意味がわからない。
 ――怖い、離して。
 言いたいのに、言えない。喉がカラカラに乾いて声が出ない。
 恐怖で目の前が真っ暗になりかけた、そのとき。
「もう十分だ。これ以上は、耳が腐る」
 時雨が、杏花の手を叩き落とした。
 そのまま彼は凜花を自分の背中に隠す。
「あえて言葉にするまでもないと思っていたが、思い違いがあるようなのではっきり言っておく。私が選んだのは、ここにいる長嶺凜花ただひとり。それ以外の誰も私の伴侶にはなり得ない」
 そして、彼は声を張り上げた。
「彼女に否を唱えるのは、純血の貴人たる私に意見するのと同義であると頭に叩き込め!」
 腹の奥に響くような声が室内に轟き、空気を震わせた。
 時雨から発せられた怒気にあてられたのか、道景を含めた大広間にいたほぼ全ての人間がその場に膝をつく。例外は、和泉と杏花だけ。
 時雨はそのふたりに一瞥もくれることなく背を向ける。
 そして、凜花の肩を抱き寄せ広間を後にした。
 その後ろ姿を、杏花が蛇のような鋭い目つきで見送っていたことを、ふたりは知らない。

「……今日は、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」
「凜花」
 帰宅後、時雨は凜花を自室に送り届けてくれた。 
 深く頭を下げよう俯く凜花を、柔らかな声がそっと止める。
「あなたが謝る必要は何もない。今宵のことはすべて私の落ち度だ。守ると言っておきながら……本当にすまない」
 まさかの謝罪に凜花は弾かれたように顔を上げる。そして首を横に振った。
 違う、そんなことない。だって時雨は凜花を守ってくれた。凜花以外だけが伴侶だと、時雨が選んだのは凜花なのだと公言してくれた。
 それなのに凜花は、何もできなかった――。
(私は、何も変わっていない)
 再び俯く。情けなくて、とても時雨の顔が見られなかった。
 強くなりたいと、強くならなければならないと思った。
 それなのに現実はこれだ。前回はみどりの、今回は時雨の背中に隠れて自分自身は震えて、言い返すどころか一言すら発することができなかった。
 道景に無視をされても、周囲の令嬢に冷ややかな目を向けられても耐えられた。
 でも、杏花だけはだめだ。
 姉の前に立った途端、凜花の思考は停止する。
 頭の中は恐怖でいっぱいになって赤子のように無力になってしまう。
 ……いや、赤子の方がよほど強いかもしれない。
 少なくとも黙りこむ凜花と違い、赤子は快、不快を泣き声で伝えられるのだから。
「凜花」
 視線を下げたままの凜花に、時雨は辛抱強く話しかける。
「大丈夫。ここには私しかいない」
 だから、と。
 時雨はそっと凜花を抱き寄せた。
「泣きたいだけ泣けばいい。そうしたところであなたを責める者は誰もいない」
「っ……!」
「溜め込むな。虐げられて当然だなんて思うな。そんなことをされていい人間なんてどこにもいない。貴人かどうかなんて関係ない。あなたは、怒っていいんだ」
 その言葉に。逞しい胸板に。背中に回された温かな手に。
 気持ちが、決壊した。
(怖かった……)
 天女のような微笑みを浮かべる姉が恐ろしくてたまらなかった。でも、それ以上に。
「悔しい……」
 杏花を前に何もできなかった弱い自分が悔しくて、悔しくてたまらなかった。
「嫌いっ……!」
 生まれて初めて、その感情を唇に乗せる。
 今までずっと、姉に何をされても仕方ないと思ってきた。
 出来損ないだから、役立たずの只人だから、姉を苛立たせる自分が悪いから。
 そう理由付けて自分の感情を殺してきた。そうでもしないと、辛い現実の日々を乗り越えることはできなかったから。
 でも本当の自分は、ずっと怒っていたのだと、今初めてわかった。
「私がほしいものを全部持っているくせに……私がどれだけ望んでも手に入らないものを持っているのに……家族が、いるのに!」
 家族。両親の愛情。自分の居場所。
 それらを全てを持ちながらもなお、姉は凜花を苦しめる。
「杏花なんて、大嫌い……!」
 それと同じくらい、弱い自分が嫌いだと心の底から思う。
「あなたには、私がいる」
 でも、そんな凜花を受け止めてくれる人がいた。
「私があなたの家族になる」
「時雨様……」
「あなたは、ひとりじゃない」
 その言葉は、渇いた凜花の心にすうっと染み渡る。
(ああ……)
 凜花は今、初めて自覚する。
 多分、初めて出会ったときからこの気持ちは心の中に芽生えていた。
 それは時雨とともに過ごすうちに……彼の優しさという慈雨を浴びるうちに密かに育ち、そして今、確かに凜花の中で花開いた。
(時雨様が、好き)
 命の恩人としてだけではない。
 異性として、自分は彼に焦がれている。