ゆらりと膝に手をついて立ち上がった咲良が中途半端に浮いたままの周の手首を掴んだ。知っているはずの温度なのに緊張から周は瞬きすら出来ない。
 手首を掴む腕には力は入っていない。それでも簡単に周の手首を一周してしまえる咲良の手の大きさが、ひどく傷付いているような咲良の表情が周にそれを振り解かせなかった。

「…意識、されてないのはわかってる」

 足の間に咲良の膝が割り込んで体重を掛けられると周はなす術もなくベッドへと背中から倒れる。
 外からは変わらず家族の笑い声が聞こえるのに、まるで違う世界にいるような感覚が周を襲う。この状態に脳の理解が追い付いていないからだ。それでも本能なのか体は緊張でガチガチに固くなっていた。
 限界まで見開かれた目で咲良を見ることしか出来なかった。声でも出せなかった。

「何もしない。怖がらせたいわけでも、嫌われたいわけでもねえ」

 掴まれた左手首が熱かった。でも見上げる位置にいる咲良は相変わらず力は込めていなくて、ただ周に触れているだけだ。

「けど、好きな人にここまで意識されてねえのは、ちょっとしんどい」

 さらりと長めの髪が落ちるのが見えた。絞り出すような声で紡がれた言葉に周はただ呆然とする他なかった。周はこんなときどんなことを言えば良いのかさっぱりわからないからだ。周には恋愛経験がない。「あ、この子好きだな」と思ったことすらない。
 だからこそ、今この映画やドラマでしか見たことがない状況が自身の身に起こっているという事実をまだ受け止めきれていなかった。
 そして何より、周は理解しきれていなかったのだ。

「さ、くら」

 別に喉なんて乾いていないのに出した声は驚くほど掠れていた。それには咲良も目を僅かに丸くしていたがその体勢のまま変わることはなく、続きを促すようにじっと周を見つめる。
 その視線の真っ直ぐさに些か居心地の悪さを感じつつ、周は恐る恐る口を開いた。

「…咲良が、おれのことをその、好きでいてくれてるのは知ってるんですけども」

 相槌も打たずに切れ長の目がじいっと周を見下ろす。

「その、ですね」

 今までにない歯切れの悪さに咲良の綺麗に整った眉が寄った。周はこれ以上ないくらい視線を彷徨わせた後、覚悟を決めたように深呼吸をしてじっと咲良の目を見返した。

「おれにはその、経験値というものが無く…」
「…?」

 咲良が首を微かに傾げた。そして気が付いたのか表情が見る間に「嘘だろ」というものに変わっていく。周は居た堪れなかった。

「確認なんですが」

 右手で顔を覆う。

「…咲良はその、映画とかドラマの恋人同士の人がやってることを、おれにしたいってこと…?」

 咲良は掴んでいた手首を離して両手で顔を覆い天井を仰いだ。小さな声で「嘘だろ…」驚愕の呟きが聞こえた。
 周もあまりの己の経験値の無さと察しの悪さとその他色々な羞恥心に苛まれ両手で顔を覆って呻いた。穴があったら入りたいとはまさにこのことだった。

「…あまねさん」
「はいなんでしょうか」

 お互い顔を覆ったままくぐもった声で会話する。

「ちょっと一回ちゃんと話しませんか」
「そうした方がいいと思います」

 二人は同じタイミングで大きく息を吐いて同じタイミングで顔から手を離した。周は羞恥やら何やらで顔が赤いのは当然なのだが、何故か咲良も赤かった。共感性羞恥でも与えてしまっただろうかと更に居た堪れなくなりながら、咲良はベッドから降りて床に正座する。
 周もその前に正座して、二人は向き合った。

「まず」
「はい」

 短く強く息を吐いた後切り出した咲良に周は背筋を伸ばした。

「俺はあまねが好き」
「うぐ…っ」
「だから、今日とかテストの時とかみたいに簡単に部屋に上げられるとちょっと微妙」

 恥ずかしげもなく告げられる「好き」の二文字に周は唸った。

「はっきり言っとくけど、俺あまねとセックスしたいって思ってる」
「………」

 驚き過ぎて言葉すら出なかった。
 けれど冷静に、というか真剣に咲良の告白の意味を考えていたら絶対に辿り着けていた筈の行為に周は思い至らなかった。それは周が咲良の気持ちに向き合っていない何よりの証左だ。
 だから咲良は酷く傷付いた顔をしたのだと周はこの時ようやく理解した。けれど理解したからと言って、何と言えばいいのかすら周はわからない。きっと謝るのは違う。謝ったらもっと咲良を傷付けてしまうと、それだけははっきりわかるからだ。

「…んなこの世の終わりみたいな顔すんなって」

 それまで漂っていた重たいと思っていた空気がふわりとなくなるのがわかった。咲良がわざと明るく振る舞ってくれているからだ。それに気が付いているのにそれでも自分でも不思議なくらい言葉が浮かんで来なくて、周はただ咲良の顔を見ることしか出来ない。

「びびるよな。俺だって幼馴染の、それも男にセックスしたいって言われたらびびるわ。ていうか引く」

 咲良はどこか自嘲気味に笑いながら正座を崩して胡座をかいた。
 あ、これダメなやつだと漠然と思った。

「普通に思うよな、気持ちわる」
「ストップ!」

 “気持ち悪い”その言葉が完全に咲良の口から出てきてしまう前に周は咄嗟に手を伸ばして咲良の口を覆った。勢いが余り過ぎてそのまま後ろに倒れ込みドタドタと音がしたが、そんなのには構っていられなかった。
 猫のように目をまん丸にした咲良の口から手を退けて、先程の体勢とは逆で今度は周が咲良を見下ろした。

「そんなこと思ってない!」

 咄嗟に出た声は思いの外大きかった。だけど外が賑やかなおかげで響くことはなかった。

「思ってないよ。確かに驚いたけど、そんなこと思ってない」

 そこまで訴えて、沈黙が降りた。
 見下げていても咲良はイケメンだなとか、やっぱり目は猫っぽいなと思うのは周がこの状態からどう収集を付けたらいいかわからず現実逃避をしているからだ。当然咲良の顔を直視するなんてことも出来ず、かといって気の利いたことが言えるわけでもなく、その永遠とも取れる気まずい時間を過ごしていたのだが不意に軽く息を吹き出すような音がした。

「…俺、あまねのそういうとこが好き」
「ひぇ」
「リアクションやば」

 咲良の起き上がる気配にようやく周も体を動かして元の体制に戻る。咲良は胡座だが周は相変わらず正座だった。

「俺のこと大事にしてくれるあまねが好きだよ。それ以外にも好きなとこあるけど、多分一番好きなのはそこ」

 咲良の手が周の膝に置かれた手に伸びる。宝物に触るみたいに大事に指先から触れて、掬い上げる。そうしてそのまま咲良の両手が周の片手を包んで、まるで祈るみたいに額に当てた。

「…あまねは、あまねだけは俺を昔から大事にしてくれる」

 耳を澄ませていないと聞こえないくらいの声で呟かれた言葉は、意外にもすとんと周の心の中に落ちて来た。納得や理解とは全然違う場所の感情。否、感情とも呼べない感覚に近いものだが、それでも敢えて言葉にするとしたら「腑に落ちた」というものだろうか。
 俯いている咲良の顔が周からは見えない。けれどその姿があの時(・・・)と重なって、周はほとんど無意識に距離を詰めた。