だがしかし現実とは想像通りに行くわけではないのである。

「再来週の月曜から中間だぞー。お前らしっかり勉強しとけよー」

 周は担任の声を聞きながらああそうかと黒板の左側にあるその日の時間割りが書かれている場所を見た。備考と書かれた枠の中に確かに中間テストの日程が書き込まれていたがクラスを包む悲壮な雰囲気とは違い周の表情はいつも通りだ。
 優等生を地で行く周は中間テストくらいで焦ることはない。けれど気がかりな点はある。

(咲良、大丈夫かな…)

 そう、幼馴染である咲良のことだった。
 咲良は見た目がクールでそれなりに頭が良さそうな顔をしているけれどそれは本当に顔だけだ。涼しげな顔をして教科書を見ている時は大抵漢字の読み方がわからなくて躓いていたり偉人の顔を見て誰かに似てるなと考えていたりするだけなのだ。
 周を含め、咲良と幼馴染の人は全員それを知っている。知っているからこそ、周は自分のことなんてそっちのけで咲良のことが心配だった。

 そして本日最後の授業が終わり、LHRも終わった頃周は席に座ったままバッグからスマホを取り出した。するといくつか通知が来ていたが、その中に幼馴染からのものがあった。
 周より一つ年下の、咲良と同じクラスになった人物からだ。
 通知は二件。一つ目は『あーくん見てこれ』それに続いて表示されたのはさながら燃え尽きたスポーツマンのように生気を失って項垂れる咲良の写真だった。

「はあ〜〜〜」

 周は頭を抱えて深い溜息を吐いた。そのまま床を貫通して下にある咲良の教室にめり込んでしまいそうな程の溜息だった。

「なに南どうしたの」
「幼馴染がちょっとね」
「あ! もしかしてあのイケメン⁉︎ なあなあアイツまだなんの部活も入ってないんだよな? だったらさ、陸部とかどう? アイツ足速かったって色んな奴から聞いてるし顧問もスカウトしてるらしんだけどさ」
「西田、再来週テストだよ」
「はぅっ」

 心臓を両手で押さえてその場に項垂れた見るからにスポーツマンな西田を尻目に周はさっさと帰宅の準備をして立ち上がりバッグを肩に掛ける。周の所属している茶道部は基本的に部活参加が自由だ。だから余程のことが無い限りテストの二週間前から周は部活を休むようにしているのだ。

「じゃあお疲れ」
「お疲れー…。あ、でも南! マジで幼馴染に声掛けといてくれよ! 才能あんのに勿体ねえって!」
「…ああ、まあ覚えてたらね」

 煮え切らない返事をして周は教室の後ろのドアから出る。
 そのまますぐそばにある階段を使って一階に降りると一年一組の教室へと顔を覗かせる。
 見慣れない先輩の登場に教室に残っている何人かの一年生が周の方を見るから少し気まずいけれど目当ての人物はいるかなと視線を巡らせれば案外すぐに発見することができた。

「あ、あーくん! おい錦ー、あーくん来たぞ生き返れー」
「…あまね…?」
「そうあーくん。こいつウケるよね、テストって聞いた瞬間からマジでこんなんでさ」
「うん、まあ予想は出来てたからなぁ。教えてくれてありがとうね良雄(よしお)
「こんくらいヨユー。そんじゃ俺部活行くね! おっつー!」
「頑張れ。あと良雄もちゃんと勉強するんだよ」

 癖っ毛をふよふよと跳ねさせながら太陽みたいな明るい笑顔と一緒に手を振って教室から出て行った幼馴染の姿を見送ってから周はまだ沈没気味な咲良を見ると隣に行ってしゃがむ。

「咲良」
「…テスト、嫌いだ…」

 見上げた咲良の顔はこの世の終わりと形容しても差し支えないほど絶望に染まっていた。相変わらず勉強が嫌いだなと周は息を小さく吐くが表情は柔らかい。

「うん、知ってる。勉強教えるから一緒に頑張ろう」

 いつもならここで力無く頷くのだが今日の咲良はなにやら複雑そうな顔をした。眉を寄せ唇をむぐむぐと動かして、目には悔しそうな感情すら見える。

「?」

 首を傾げた周を見て咲良は非常に言いづらそうに口を開いた。

「……カッコ悪い。…俺、アピールするって言ったばっかなのに…」
「……」

 耳を澄ませていなければ聞こえない程の小さな声に思い出したのは今朝の出来事。ああ確かに言っていたなと思いはするものの、今はそれに気まずさを抱くことはなかった。むしろ少し、笑いそうになっていた。

「なんで笑うんだよ」

 どうやら堪えきれていなかったらしい。不満だと隠す気もない顔と声で訴えられた言葉に周は今度こそ吹き出すように笑った。

「あはは、ごめん。今更だなぁって思って」
「え」

「咲良が勉強苦手なんてこと子供の頃から知ってるよ。だからそこで嫌になるなんてことない。だからえーっとその、安心して?」

 不満げな顔が言葉を理解し始めて徐々に和らぎ、最終的になんとも言えない顔をして机に突っ伏した姿を見て目を丸くする。どうしたのかと声を掛けようとしたとき「沼…」とくぐもった声が聞こえたけれど周は意味がわからず首を傾げることしか出来なかった。


 ───


「それでもさ」

 放課後、昨日と同じ時間帯の周の家の周の部屋に二人は折り畳み式のローテーブルに向かいあうようにして座っていた。
 一年の教科書と咲良のノートを広げて勉強を教えている最中に空気を切るように言葉を発したのは咲良だった。

「ちょっとは、その、警戒とかしねえの」

 少しだけ居心地悪そうに訴えられた言葉に周を目を瞬かせた。

「しないかな」

 あっけらかんと言い放った周に咲良は悔しそうに表情を歪める。今日の咲良は表情が豊かだなと対照的に周の口角は上がって不思議な空間が出来上がっていた。

「だって咲良はしなきゃいけないことをほっぽり出しておれをどうにかしようなんて思わないでしょ。そんなことしたらおれが怒るって知ってるから」
「……」

 唇を噛んで言葉に詰まっている様子に笑みを深める。

「じゃあ勉強に戻ろうか。入学してすぐのテストだから範囲は狭いし、内容も中学の時の復習みたいなのも多いから大丈夫だよ。とりあえず咲良は文章問題だなぁ」

 一年の教科書をペラペラと捲りながら去年の今頃の記憶を掘り返す。自分の時はどんな問題が出ていただろうかと思いつつ咲良が苦手そうな部分に付箋を貼っていれば、その様子を見ていた咲良がぽつりと声をこぼす。

「…ありがと、あまね」
「…気にしないで」

 こくりと小さく頷いた咲良は見るからに元気が無い。
 今から苦手な勉強をしなくてはいけないし、教室で言っていた「格好悪い」という言葉が余計に落ち込ませているのだろうなと予測する。
 周は恋愛の経験値は少ない。むしろ皆無だと言っていい。だからこそ咲良の気持ちは理解しきれない部分があるが、周自身が感じたことのある感情とリンクするものがあるとするならば“年下には格好いいところを見せたい”という欲かなと思う。

 それなら今の落胆のしようも少しだけわかる気がする。
 気がするのだが、正直周にとって咲良はかわいい後輩で幼馴染で弟のようなものだ。そんな存在が目の前で落ち込んでいるのだから甘やかさないわけにはいかないのである。
 周は軽く身を乗り出して右手を伸ばした。そして欲望の赴くまま丸くて形のいい頭とサラサラの髪を撫で回す。

「は⁉︎」

 驚愕した顔の咲良が目を見開くが周の手が頭にあるせいで顔を上げられずなすがままになるほかない。

「ちょ、ま、あまね…っ」
「んー?」
「クッソ、ガキ扱いすんなっ」
「嫌なの?」

 そう訊くと、咲良は押し黙った。
 そこから周は勝利を確信した笑顔で咲良の頭を撫で回した。その間咲良はなんとも言えない顔で撫でられ続け、勉強会が終わった後はどこか疲れた様子で帰路に着いたとか。