軽い音と一緒に振動したスマホ画面に表示されたのは「うまかった。ありがとう」の文章と一件の画像。一瞬躊躇したけれど親指でそこをタップするとトーク画面が開かれる。
また軽い音がして表示されたのは唐揚げを食べている白髪の髪を一つにまとめたしゃっきりとしたおばあさん。
(相変わらず美味しそうに食べるなフミさん)
周の祖母を形で例えるとしたら丸で、フミさんは三角だ。顔つきも性格もまるで違うけれどこの二人は助学生時代からの親友らしい、不思議だなんて思うけれど周の思考は今それ以外のことでほとんどが埋まっている。
祖母について考えたのだって単なる現実逃避だ。
「…なんでおれがこんなに悩んでるのに咲良は普通なんだ…」
理不尽だとすら思った。文面からも写真からも気まずさなんて一ミリも感じない。何事もなかったかのように連絡を寄越してきたことに少しだが怒りすら湧いてきた。でもそれを逃すように細く息を吐いて周は両手で持ったスマホの画面を睨むように見る。
迷いに迷った挙句、送ったものはふてぶてしい顔をした猫がサムズアップしているスタンプだった。その直後に着いた既読のマークに周は肩を揺らした、さながら猫のように。そして帰ってきたのは「おやすみ」の四文字である。
腹が立つほどの通常運転だ、こんなに悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる。そんな思いで周は苛立ちのままおやすみと返してスマホを机の上に置いてベッドに倒れ込んだ。
「……もしかしてあれ夢だったかな」
その方がいっそリアルな気もすると思いながら周は目を閉じた。
けれどそれが夢ではなかったとわかるのは翌日の朝のことだった。
「昨日のマジだから」
朝の挨拶もそこそこに自転車に跨った咲良の言葉に周は思い切り顔をしかめた。
「なんだよその顔」
「……昨日のメッセージじゃ普通だったじゃんか…!」
「あそこで追撃したら周知恵熱出しそうじゃん。あと『落ち着いてー』とか『さっくんの勘違いだよー』とか腹立つこと言われそうだと思って」
ぎくりと周の肩が揺れたのを咲良は見逃さずこれ見よがしに溜息を吐く。
「はじめに言っとくけど勘違いじゃねえから」
いつもはそれなりの速度で進む道を今日は焦ったいくらいのペースで進む。前を見てペダルを漕いでいる咲良の口から出た声は清々しい程に真っ直ぐで迷いなんて一欠片も無かった。
「…わかってるよ」
この真っ直ぐさが眩しいなと思いながら周も前を見ながらぽつりと呟いた。小さな声だったけれど隣にいる咲良には聞こえたみたいで少しだけ視線を感じる。
「咲良が勘違いとか冗談でああいうこと言う人じゃないってわかってる」
キィ、と小さなブレーキ音と一緒に咲良が止まった。少し進んだところで周も止まり、後ろを見る。昨日と同じ景色だなと思いつつ、違うのは空の明るさと驚いている咲良の顔だ。でも少しだけ嬉しそうな色を表情に見つけた瞬間、周は口を開いた。
「だからどうしようってなってるんだろバカ! 男なんですけどおれ!」
周はあまり大きな声を出す性格ではない。だからこそ声の大きさに驚いた咲良が目を丸くして思わず人がいないか後ろを確認したのを見たと同時に周は自転車を漕ぎ出した。
それはもう全力で。
「あ、おい!」
焦ったような声が後ろから追ってくる。今はそれなりにある距離もあと十数秒もしたら縮まってしまうだろう。周と咲良にはそれくらいの運動神経の差がある。
けれど少し時間が稼げるだけで良いのだ。それだけ動けば絶対に体温が上がって顔が赤くなるし息も上がる。そうなれば隠せるから。
弟のように思っていた幼馴染から冗談でも勘違いでもない告白をされたことで赤くなった顔を隠せるから。
(ああどうしよう)
必死にペダルを漕ぎながら周は心臓が早くなるのを感じていた。
告白をされた時は困惑したしその後もうまく事実を飲み込めないでいた。それは今も変わらない。けれど今はっきりとわかってしまったことがある。
(おれ嫌じゃなかった。告白されたの、嫌じゃなかった)
同性に恋愛感情を抱かれていたとわかって最初に行き着くのは大抵困惑と、そして嫌悪のはずだと、そんな偏見が周の中にはあった。だけど昨日から今この瞬間に至るまで嫌悪なんて全然感じていない。居心地の悪さはあるけれど、これは嫌悪じゃない。
純度の高い困惑が周を包んでいる。
その辿り着いてしまった事実に周は「うわあああ!」と声を上げてペダルを漕ぐ。最早立ち漕ぎだ。こんなことしたのは小学生振りな気がする。
「おやまあ南さんちの息子さん今日ははしゃいでるのねえ」
「おはようございます!」
「おはよう、いってらっしゃーい」
畑仕事をしている近所のおばあさんにも大きな声で挨拶をして立ち漕ぎのまま進んでいく。その数秒後に咲良の声が聞こえたからもうすぐそばにいるのだろう。それなのに周が立ち漕ぎをやめたのは山の上り坂に差し掛かる場所だった。
両足を地面に着けて咳き込むほど呼吸が荒れ放題の横に咲良が自転車を止めたのはそれからすぐのこと。咲良も呼吸が乱れているものの周程ではなく、基礎体力の違いを見せつけられて周の眉間に皺が寄った。
「なんで、すぐ、追い付いて来ないんだ…!」
理不尽の極みである。
「追いつかれ待ちだったのかよ」
「そういうわけじゃ、ない、けど…っ。追いつかれたら、止まろうと思ってたんだよ!」
「知らねえよ」
ごもっともである。
「ああ、もう、めちゃくちゃ汗かいてる…。学校着いたら着替えよ…」
一度大きく息を吐き出してから足を前に出す。眼前に見えるのは長い長い坂道で、毎日のことなのに頂上まで遠いなと思ってしまうのは仕方のないことだった。
「あまね」
「なんですか錦君」
「怒ってんの?」
「怒ってるんじゃない。気まずい」
「それを俺に言えるのがあまねのすごいとこだよな」
「なんにもすごくない」
ぎりぎり二人が並んで自転車を押せる程の歩道の幅だと自然と距離が近くなる。昨日までなら目を見ながら他愛もない話ができたのに今日は隣を見ることが出来ない。不自然なくらい真っ直ぐ前を見ながらいつもより気持ち大きめに足を前に出しているのだが隣の咲良はそれにも難なく付いてくる。
「さっきさ」
坂の半分くらいに差し掛かった頃、静かな声で咲良が言う。
「あまねが男なんだけどって言ったじゃん」
「え、うん」
「俺もそれ結構考えてた。どうしてあまねなんだろうって。なんで女子じゃなくてあまねなんだろうって考えた」
何か重たいことを伝えるような雰囲気ではなく、ただ独り言のように語られる言葉は自然と周の中に落ちていく。
「でもわかんなかった」
吹っ切れたような声のトーンに思わず周は横を見た。
「どんだけ考えてもあまねのことが好きだってこと以外わかんなかった」
例えばこれがフィクションの世界なら。
ここで特殊な光効果が使われたり主題歌が流れたりするだろう。妙に咲良の顔がアップになったり、二人の姿が遠くから絵画のように切り取られたりもするのだろう。けれどこれは現実で、告白されているのは周だ。
周は下唇を噛んだ。眉間というか顔中の皺を中心に寄せて側から見たらとんでもない顔をする。ハンドルを握る手に妙に力が入ってギチリと嫌な音がした。
「うわすげえ顔」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「俺」
いつの間にか歩幅はいつも通りになっていた。
ゆっくりと坂を上りながらたまに横切っていく車のナンバーを目で追う。毎日同じ時間帯だからか通る車も大体一緒だ。
「…咲良はさ、おれとどうなりたいの」
少しだけ間が開いた。
「付き合いたい、普通に。好きだし」
でも、とすぐに言葉が続く。
「今のままじゃ無理だから頑張るわ」
「………頑張る、とは」
「アピール?」
照れも何もない。真面目に考えましたけど何か? みたいな顔で見られた周はどう言葉を返せばいいか分からず咲良の方を向いたまま目を見開いていた。戸惑いが、また一段と深くなったのを確かに感じていた。
「だからまあ、これからもよろしく」
なにがどうよろしくなのか周は聞けなかった。聞くべきではないと思った。ただこれから自分の日常が変わっていくのだという確かな予感はした。
嫌悪感は、相変わらずなかった。
また軽い音がして表示されたのは唐揚げを食べている白髪の髪を一つにまとめたしゃっきりとしたおばあさん。
(相変わらず美味しそうに食べるなフミさん)
周の祖母を形で例えるとしたら丸で、フミさんは三角だ。顔つきも性格もまるで違うけれどこの二人は助学生時代からの親友らしい、不思議だなんて思うけれど周の思考は今それ以外のことでほとんどが埋まっている。
祖母について考えたのだって単なる現実逃避だ。
「…なんでおれがこんなに悩んでるのに咲良は普通なんだ…」
理不尽だとすら思った。文面からも写真からも気まずさなんて一ミリも感じない。何事もなかったかのように連絡を寄越してきたことに少しだが怒りすら湧いてきた。でもそれを逃すように細く息を吐いて周は両手で持ったスマホの画面を睨むように見る。
迷いに迷った挙句、送ったものはふてぶてしい顔をした猫がサムズアップしているスタンプだった。その直後に着いた既読のマークに周は肩を揺らした、さながら猫のように。そして帰ってきたのは「おやすみ」の四文字である。
腹が立つほどの通常運転だ、こんなに悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる。そんな思いで周は苛立ちのままおやすみと返してスマホを机の上に置いてベッドに倒れ込んだ。
「……もしかしてあれ夢だったかな」
その方がいっそリアルな気もすると思いながら周は目を閉じた。
けれどそれが夢ではなかったとわかるのは翌日の朝のことだった。
「昨日のマジだから」
朝の挨拶もそこそこに自転車に跨った咲良の言葉に周は思い切り顔をしかめた。
「なんだよその顔」
「……昨日のメッセージじゃ普通だったじゃんか…!」
「あそこで追撃したら周知恵熱出しそうじゃん。あと『落ち着いてー』とか『さっくんの勘違いだよー』とか腹立つこと言われそうだと思って」
ぎくりと周の肩が揺れたのを咲良は見逃さずこれ見よがしに溜息を吐く。
「はじめに言っとくけど勘違いじゃねえから」
いつもはそれなりの速度で進む道を今日は焦ったいくらいのペースで進む。前を見てペダルを漕いでいる咲良の口から出た声は清々しい程に真っ直ぐで迷いなんて一欠片も無かった。
「…わかってるよ」
この真っ直ぐさが眩しいなと思いながら周も前を見ながらぽつりと呟いた。小さな声だったけれど隣にいる咲良には聞こえたみたいで少しだけ視線を感じる。
「咲良が勘違いとか冗談でああいうこと言う人じゃないってわかってる」
キィ、と小さなブレーキ音と一緒に咲良が止まった。少し進んだところで周も止まり、後ろを見る。昨日と同じ景色だなと思いつつ、違うのは空の明るさと驚いている咲良の顔だ。でも少しだけ嬉しそうな色を表情に見つけた瞬間、周は口を開いた。
「だからどうしようってなってるんだろバカ! 男なんですけどおれ!」
周はあまり大きな声を出す性格ではない。だからこそ声の大きさに驚いた咲良が目を丸くして思わず人がいないか後ろを確認したのを見たと同時に周は自転車を漕ぎ出した。
それはもう全力で。
「あ、おい!」
焦ったような声が後ろから追ってくる。今はそれなりにある距離もあと十数秒もしたら縮まってしまうだろう。周と咲良にはそれくらいの運動神経の差がある。
けれど少し時間が稼げるだけで良いのだ。それだけ動けば絶対に体温が上がって顔が赤くなるし息も上がる。そうなれば隠せるから。
弟のように思っていた幼馴染から冗談でも勘違いでもない告白をされたことで赤くなった顔を隠せるから。
(ああどうしよう)
必死にペダルを漕ぎながら周は心臓が早くなるのを感じていた。
告白をされた時は困惑したしその後もうまく事実を飲み込めないでいた。それは今も変わらない。けれど今はっきりとわかってしまったことがある。
(おれ嫌じゃなかった。告白されたの、嫌じゃなかった)
同性に恋愛感情を抱かれていたとわかって最初に行き着くのは大抵困惑と、そして嫌悪のはずだと、そんな偏見が周の中にはあった。だけど昨日から今この瞬間に至るまで嫌悪なんて全然感じていない。居心地の悪さはあるけれど、これは嫌悪じゃない。
純度の高い困惑が周を包んでいる。
その辿り着いてしまった事実に周は「うわあああ!」と声を上げてペダルを漕ぐ。最早立ち漕ぎだ。こんなことしたのは小学生振りな気がする。
「おやまあ南さんちの息子さん今日ははしゃいでるのねえ」
「おはようございます!」
「おはよう、いってらっしゃーい」
畑仕事をしている近所のおばあさんにも大きな声で挨拶をして立ち漕ぎのまま進んでいく。その数秒後に咲良の声が聞こえたからもうすぐそばにいるのだろう。それなのに周が立ち漕ぎをやめたのは山の上り坂に差し掛かる場所だった。
両足を地面に着けて咳き込むほど呼吸が荒れ放題の横に咲良が自転車を止めたのはそれからすぐのこと。咲良も呼吸が乱れているものの周程ではなく、基礎体力の違いを見せつけられて周の眉間に皺が寄った。
「なんで、すぐ、追い付いて来ないんだ…!」
理不尽の極みである。
「追いつかれ待ちだったのかよ」
「そういうわけじゃ、ない、けど…っ。追いつかれたら、止まろうと思ってたんだよ!」
「知らねえよ」
ごもっともである。
「ああ、もう、めちゃくちゃ汗かいてる…。学校着いたら着替えよ…」
一度大きく息を吐き出してから足を前に出す。眼前に見えるのは長い長い坂道で、毎日のことなのに頂上まで遠いなと思ってしまうのは仕方のないことだった。
「あまね」
「なんですか錦君」
「怒ってんの?」
「怒ってるんじゃない。気まずい」
「それを俺に言えるのがあまねのすごいとこだよな」
「なんにもすごくない」
ぎりぎり二人が並んで自転車を押せる程の歩道の幅だと自然と距離が近くなる。昨日までなら目を見ながら他愛もない話ができたのに今日は隣を見ることが出来ない。不自然なくらい真っ直ぐ前を見ながらいつもより気持ち大きめに足を前に出しているのだが隣の咲良はそれにも難なく付いてくる。
「さっきさ」
坂の半分くらいに差し掛かった頃、静かな声で咲良が言う。
「あまねが男なんだけどって言ったじゃん」
「え、うん」
「俺もそれ結構考えてた。どうしてあまねなんだろうって。なんで女子じゃなくてあまねなんだろうって考えた」
何か重たいことを伝えるような雰囲気ではなく、ただ独り言のように語られる言葉は自然と周の中に落ちていく。
「でもわかんなかった」
吹っ切れたような声のトーンに思わず周は横を見た。
「どんだけ考えてもあまねのことが好きだってこと以外わかんなかった」
例えばこれがフィクションの世界なら。
ここで特殊な光効果が使われたり主題歌が流れたりするだろう。妙に咲良の顔がアップになったり、二人の姿が遠くから絵画のように切り取られたりもするのだろう。けれどこれは現実で、告白されているのは周だ。
周は下唇を噛んだ。眉間というか顔中の皺を中心に寄せて側から見たらとんでもない顔をする。ハンドルを握る手に妙に力が入ってギチリと嫌な音がした。
「うわすげえ顔」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「俺」
いつの間にか歩幅はいつも通りになっていた。
ゆっくりと坂を上りながらたまに横切っていく車のナンバーを目で追う。毎日同じ時間帯だからか通る車も大体一緒だ。
「…咲良はさ、おれとどうなりたいの」
少しだけ間が開いた。
「付き合いたい、普通に。好きだし」
でも、とすぐに言葉が続く。
「今のままじゃ無理だから頑張るわ」
「………頑張る、とは」
「アピール?」
照れも何もない。真面目に考えましたけど何か? みたいな顔で見られた周はどう言葉を返せばいいか分からず咲良の方を向いたまま目を見開いていた。戸惑いが、また一段と深くなったのを確かに感じていた。
「だからまあ、これからもよろしく」
なにがどうよろしくなのか周は聞けなかった。聞くべきではないと思った。ただこれから自分の日常が変わっていくのだという確かな予感はした。
嫌悪感は、相変わらずなかった。