季節は春、陽光が柔らかく照らす坂道を錦咲良は少し急ぎ気味に進んでいた。この一年で靴はローファーからスニーカーに変わり、一年の頃は少しサイズが大きい気がしていたブレザーも体型にフィットしてきたような気がする。
スラックスを履き、白シャツを着て緩くネクタイを締めブレザーを羽織る姿はこの田舎の高校にしては珍しく垢抜けた印象を抱くのだが、当の本人は今必死に前を歩く人物を追いかけていた。
「あまね…!」
息切れしながら名前を呼ぶと少し前を歩いていた人の足が止まりふいとこちらを振り返る。一年前と変わらない少し前髪の長い髪型と、シャツのボタンを一番上まで留めたきっちりとした着こなし。周はその視界に咲良を捉えるとふわりと蕾が綻ぶように微笑った。
その微笑みに咲良の心臓が今までの比じゃないほど騒ぎ出す。
「おはようさっくん、間に合ったね」
「……おはよう。ねえなんで先行ったんだよ」
その鼓動の早さを悟られないように平静を装いながら咲良は周の隣に並んだ。ほぼ毎日一緒にいるせいか二人とも気がついていないが、一年前よりもその身長差は少し広がっている。
「起こしに行ったよ? でもフミさんがまだ寝てるから先行きなって」
「部屋に起こしに来てくれても良いじゃん」
思わず拗ねたような言葉と声になってしまうのは仕方がない。なぜならこの朝の時間は咲良にとって一日の中で最も大事な時間といっても過言ではないからだ。それは周も同じはずなのにと視線を幼馴染に向けた時、思わず咲良の背筋が伸びる。
「この前それでとんでもない目に合わせてくれたのは誰だっけ?」
口許は笑っているけれど目は一切笑っていない。その時を振り返ると咲良個人としてはとても有意義な時間だったのだが、どうやら周からすると怒りに触れるものだったらしい。らしい、という言い方はよそう。実際怒りに触れていた。
林檎みたいに顔を真っ赤にした周が自分の布団の中で息を切らしている(しかも制服)姿は正直堪らなかった。あれ程学校に行きたくないと思った日は無い。けれど周は真面目だし、朝だし平日だし、一階にはフミもいるしで居た堪れなかったのだろう。その日咲良は口をきいてもらえず、メッセージアプリに返信さえしてもらえなかった。
あの日のことは思い出すだけで心臓が縮む気がする、と思いながら咲良は隣にいる恋人の機嫌を伺うように少し背を丸めて顔を覗き込む。
そう、二人が恋人という関係になってから季節が二つ過ぎ春がやって来ていた。
柔らかく生まれたての瑞々しい草木の香りを風が運んで来る。その風に吹かれながら周は咲良を見て仕方がないなと言うように息を吐いた。自然と伸びた手が咲良の髪に触れて混ぜるように撫でていく。その優しい手つきと心地よさが咲良は好きだった。
あの夏の海でお互いの気持ちを確かめ合った日から今日まで、まだ二人は誰にも恋人というのを打ち明けていなかった。表面上はただの幼馴染として、けれど二人きりになったら恋人として過ごす日々に不満がないかと言ったら嘘になる。咲良はどんな時でも周と手を繋いでいたいし、人目も憚らず抱きつきもしたい。
こんなに素敵な人が自分の恋人なのだと言い触らしたいし見せびらかしたいのだが、それは周によってキツく止められている。もちろん羞恥から来るものもあるのだろうが、一番の要因はそこではない。
まだ大人じゃない自分たちでは出来ることがあまりに少ないからだ。
咲良には深くまで理解できなかったが、周はどうやらしっかりとこの関係の未来を見据えてくれているらしく何かにつけて慎重だ。もちろんその気持ちは嬉しくて仕方がないのだけれど、たまに我慢が出来なくなる時がある。
「、咲良」
困ったような周の声がする。眉尻を下げた視線は下に向けられて、そこには繋がれた手があった。指を絡めるそれはいわゆる恋人繋ぎというやつで、普段は室内か余程人がいない場所でしかしない。でも朝のこの場所はいつでも周と咲良しかいなくて今繋いだって誰にも見られる心配はない。
でも周は慎重派だから例え周りに人目が無くても外だととても気にしてしまう。
「誰もいねえから。それに周りからも見えねえよ、ここ」
「そう、だけど」
「初ちゅーの時はあんな堂々としてたのに」
「あれはその場の空気っていうのがあってさあ…!」
繋いだ手を振り解くことはせずそのままに、周の顔が林檎みたいに赤くなった。その顔を見て咲良はあまりの愛おしさに破顔する。初めて唇にキスをした日、周はあんなにも堂々としていて潔さすらあったのにそれ以降の周は手を繋ぐことにすら躊躇するし、キスなんてしようものなら今みたいに顔が熟れた果実のように真っ赤に染まるのだ。
「…咲良こそあの時はべしょべしょだったじゃん」
「しょうがねえだろ切羽詰まってたんだから」
校舎へと続く坂道のちょうど中腹辺り。咲良は絡めた指をきゅ、と強く握った。するとわかりやすく周の指がぴくっと跳ねるけれど、やっぱり手を離すような素振りはない。それが周も自分との触れ合いを求めてくれているのだとわかって胸の内側に柔らかくて温かなものが広がっていく。
これが愛しさだということは随分前に理解している。
「あまね」
足を止めると周も一緒の位置で止まる。
「どうしたの?」
その時、ぶわりと突風が吹いた。春風が桜色に染まって視界に花弁がちらつく。漢字は違えど同じ響きを持つ花に周が包まれている様は、まるでこの人を閉じ込めているようで少しだけ気分が良い。
でもこの人を閉じ込めることなんて出来ないから、それは咲良の胸の中だけで思うこと。
「──キスしてもいい?」
半歩近づき囁いた言葉に周は目を丸くする。折角治まりかけていた顔の赤みがまた戻って来ていてその初々しさに自然と口角が上がった。
だけどそれだけで、周はそれきり黙ってしまった。咲良はそれが周なりの大丈夫のサインだと知っている。
(ああ、かわいい)
きっと同性にこの言葉を使うのは間違っている。多分、一般的には。でも咲良にはこれが絶対的な正解だ。
繋いでいる手とは反対側の手で周の頬を撫でるとぴく、と震える。少し顔を近づければ震えている呼吸が唇に触れて愛おしさに口許が緩む。そして二人が同じタイミングで目を閉じると僅かにあった距離は無くなり、柔らかな感触と優しい温度が触れた場所からじわりと伝わっていく。
その一瞬の触れ合いだけで離れようとする周の後頭部に手をやり、もう一度強く唇を触れ合わせると周の目が大きく見開かれて全力で咲良から離れようとする。それでも負けじとキスを続け、幾度か柔らかな唇を啄んだあとようやく顔を離せば少しだけ息を切らした周が咲良のことをわなわなと震えながら睨んでいた。
怒らせたかなと思ったけれど、咲良は悪びれることもなく言い放つ。
「あまねがして良いって言った」
「言ってない!」
「言ったも同じだろ。というか同じだしだめって言わなかったし許可取ったし」
「屁理屈…!」
頬を染めたまま訴えるのをけらけらと笑いながら流して手を繋いだ状態で足を動かす。そうすると不満気な顔をしていても周も着いてきてくれるから、咲良はそれもおかしくて笑ってしまった。
前にも後ろにも誰もいない校舎へと続く坂道、白島高校、通称白高は校舎に続く結構な傾斜のある坂道が有名だ。それは坂を覆うように植えられた桜が原因で、見頃の時期は遠目から見ると坂の全てが桜色に染まる。
春風がそよぎ、あたりにひらひらと花弁が舞う景色を二人は進む。もう少しで坂を登り切るというところで満開の桜の中、再び二人の唇が重なった。
どちらともなく唇を離し、顔を見合わせて笑い合った。二人の普通が、そこには詰まっていた。
(了)
スラックスを履き、白シャツを着て緩くネクタイを締めブレザーを羽織る姿はこの田舎の高校にしては珍しく垢抜けた印象を抱くのだが、当の本人は今必死に前を歩く人物を追いかけていた。
「あまね…!」
息切れしながら名前を呼ぶと少し前を歩いていた人の足が止まりふいとこちらを振り返る。一年前と変わらない少し前髪の長い髪型と、シャツのボタンを一番上まで留めたきっちりとした着こなし。周はその視界に咲良を捉えるとふわりと蕾が綻ぶように微笑った。
その微笑みに咲良の心臓が今までの比じゃないほど騒ぎ出す。
「おはようさっくん、間に合ったね」
「……おはよう。ねえなんで先行ったんだよ」
その鼓動の早さを悟られないように平静を装いながら咲良は周の隣に並んだ。ほぼ毎日一緒にいるせいか二人とも気がついていないが、一年前よりもその身長差は少し広がっている。
「起こしに行ったよ? でもフミさんがまだ寝てるから先行きなって」
「部屋に起こしに来てくれても良いじゃん」
思わず拗ねたような言葉と声になってしまうのは仕方がない。なぜならこの朝の時間は咲良にとって一日の中で最も大事な時間といっても過言ではないからだ。それは周も同じはずなのにと視線を幼馴染に向けた時、思わず咲良の背筋が伸びる。
「この前それでとんでもない目に合わせてくれたのは誰だっけ?」
口許は笑っているけれど目は一切笑っていない。その時を振り返ると咲良個人としてはとても有意義な時間だったのだが、どうやら周からすると怒りに触れるものだったらしい。らしい、という言い方はよそう。実際怒りに触れていた。
林檎みたいに顔を真っ赤にした周が自分の布団の中で息を切らしている(しかも制服)姿は正直堪らなかった。あれ程学校に行きたくないと思った日は無い。けれど周は真面目だし、朝だし平日だし、一階にはフミもいるしで居た堪れなかったのだろう。その日咲良は口をきいてもらえず、メッセージアプリに返信さえしてもらえなかった。
あの日のことは思い出すだけで心臓が縮む気がする、と思いながら咲良は隣にいる恋人の機嫌を伺うように少し背を丸めて顔を覗き込む。
そう、二人が恋人という関係になってから季節が二つ過ぎ春がやって来ていた。
柔らかく生まれたての瑞々しい草木の香りを風が運んで来る。その風に吹かれながら周は咲良を見て仕方がないなと言うように息を吐いた。自然と伸びた手が咲良の髪に触れて混ぜるように撫でていく。その優しい手つきと心地よさが咲良は好きだった。
あの夏の海でお互いの気持ちを確かめ合った日から今日まで、まだ二人は誰にも恋人というのを打ち明けていなかった。表面上はただの幼馴染として、けれど二人きりになったら恋人として過ごす日々に不満がないかと言ったら嘘になる。咲良はどんな時でも周と手を繋いでいたいし、人目も憚らず抱きつきもしたい。
こんなに素敵な人が自分の恋人なのだと言い触らしたいし見せびらかしたいのだが、それは周によってキツく止められている。もちろん羞恥から来るものもあるのだろうが、一番の要因はそこではない。
まだ大人じゃない自分たちでは出来ることがあまりに少ないからだ。
咲良には深くまで理解できなかったが、周はどうやらしっかりとこの関係の未来を見据えてくれているらしく何かにつけて慎重だ。もちろんその気持ちは嬉しくて仕方がないのだけれど、たまに我慢が出来なくなる時がある。
「、咲良」
困ったような周の声がする。眉尻を下げた視線は下に向けられて、そこには繋がれた手があった。指を絡めるそれはいわゆる恋人繋ぎというやつで、普段は室内か余程人がいない場所でしかしない。でも朝のこの場所はいつでも周と咲良しかいなくて今繋いだって誰にも見られる心配はない。
でも周は慎重派だから例え周りに人目が無くても外だととても気にしてしまう。
「誰もいねえから。それに周りからも見えねえよ、ここ」
「そう、だけど」
「初ちゅーの時はあんな堂々としてたのに」
「あれはその場の空気っていうのがあってさあ…!」
繋いだ手を振り解くことはせずそのままに、周の顔が林檎みたいに赤くなった。その顔を見て咲良はあまりの愛おしさに破顔する。初めて唇にキスをした日、周はあんなにも堂々としていて潔さすらあったのにそれ以降の周は手を繋ぐことにすら躊躇するし、キスなんてしようものなら今みたいに顔が熟れた果実のように真っ赤に染まるのだ。
「…咲良こそあの時はべしょべしょだったじゃん」
「しょうがねえだろ切羽詰まってたんだから」
校舎へと続く坂道のちょうど中腹辺り。咲良は絡めた指をきゅ、と強く握った。するとわかりやすく周の指がぴくっと跳ねるけれど、やっぱり手を離すような素振りはない。それが周も自分との触れ合いを求めてくれているのだとわかって胸の内側に柔らかくて温かなものが広がっていく。
これが愛しさだということは随分前に理解している。
「あまね」
足を止めると周も一緒の位置で止まる。
「どうしたの?」
その時、ぶわりと突風が吹いた。春風が桜色に染まって視界に花弁がちらつく。漢字は違えど同じ響きを持つ花に周が包まれている様は、まるでこの人を閉じ込めているようで少しだけ気分が良い。
でもこの人を閉じ込めることなんて出来ないから、それは咲良の胸の中だけで思うこと。
「──キスしてもいい?」
半歩近づき囁いた言葉に周は目を丸くする。折角治まりかけていた顔の赤みがまた戻って来ていてその初々しさに自然と口角が上がった。
だけどそれだけで、周はそれきり黙ってしまった。咲良はそれが周なりの大丈夫のサインだと知っている。
(ああ、かわいい)
きっと同性にこの言葉を使うのは間違っている。多分、一般的には。でも咲良にはこれが絶対的な正解だ。
繋いでいる手とは反対側の手で周の頬を撫でるとぴく、と震える。少し顔を近づければ震えている呼吸が唇に触れて愛おしさに口許が緩む。そして二人が同じタイミングで目を閉じると僅かにあった距離は無くなり、柔らかな感触と優しい温度が触れた場所からじわりと伝わっていく。
その一瞬の触れ合いだけで離れようとする周の後頭部に手をやり、もう一度強く唇を触れ合わせると周の目が大きく見開かれて全力で咲良から離れようとする。それでも負けじとキスを続け、幾度か柔らかな唇を啄んだあとようやく顔を離せば少しだけ息を切らした周が咲良のことをわなわなと震えながら睨んでいた。
怒らせたかなと思ったけれど、咲良は悪びれることもなく言い放つ。
「あまねがして良いって言った」
「言ってない!」
「言ったも同じだろ。というか同じだしだめって言わなかったし許可取ったし」
「屁理屈…!」
頬を染めたまま訴えるのをけらけらと笑いながら流して手を繋いだ状態で足を動かす。そうすると不満気な顔をしていても周も着いてきてくれるから、咲良はそれもおかしくて笑ってしまった。
前にも後ろにも誰もいない校舎へと続く坂道、白島高校、通称白高は校舎に続く結構な傾斜のある坂道が有名だ。それは坂を覆うように植えられた桜が原因で、見頃の時期は遠目から見ると坂の全てが桜色に染まる。
春風がそよぎ、あたりにひらひらと花弁が舞う景色を二人は進む。もう少しで坂を登り切るというところで満開の桜の中、再び二人の唇が重なった。
どちらともなく唇を離し、顔を見合わせて笑い合った。二人の普通が、そこには詰まっていた。
(了)