人のいない夜の海はぞっとするくらい静かで、だけど不思議と居心地が良い。それは多分一定のリズムで波打つ音だったり、月明かりの柔らかさだったりが関係しているんだろうなと思いながら周はスマホを耳から離した。
 緊張で心臓が痛くて心なしか呼吸もしづらい。だけど不思議と不安はなかった。
 潮風が頬を撫で、海面に映る月は常に揺れていてどれだけ見ていても飽きない。もうここに座ってどれだけ時間が経っただろうかと考えてまたスマホを見るけれど、ここで過ごした時間は一時間にも満たないことを確認して思わず息を漏らすように笑った。

「…心配掛けてるよなぁ」

 スマホの画面を見ながらぽつりと呟く。我ながら大胆かつ無鉄砲で阿呆なことをしたと思ってはいるけれど、これが最善のような気がしたのだから仕方がないと開き直る。もう事態を起こしてしまったのだから引っ込みは付かないし、何より自分がこうであれば良いなと思った方向で物事が進んでいる。あとは、ちゃんと向き合うだけだ。

 今一度大きく息を吸ってそして吐き出すと、その数十秒後に離れた場所から走っている音が聞こえた。その音は迷わず浜辺へと降り立ち、そして真っ直ぐに周の方へと向かって来る。スピードが落ちたのは周の姿を見つけたからだろう。砂を踏む音が近づくごとに荒くなった呼吸も聞こえる。
 そして顔が見えたのはほんの一歩分の距離まで近づいた頃。肩で息をして汗を滲ませた咲良がそこには立っていた。

「見つかっちゃった」
「……隠れる気なんて、無かっただろ」
「まあね」

 手の甲で汗を拭う姿を見て笑みを深めると咲良が怪訝な顔をした。

「走ってくれたんだなって思って」
「……そりゃ、焦ったし」
「うん。心配掛けてごめん」

 数秒無言の時間が続いた。咲良から発せられる困惑の雰囲気を理解しているが周は何も言わず、隣に来いと言うように砂を叩く。すると意外にも素直に腰を下ろすが、その距離は少し開いている。片手を伸ばせば十分に触れられる距離ではあるけれど、以前であれば拳一つあるかないかの距離だったことを思えば、それだけで咲良が周から離れようとしていることを察せられる。
 そのことを目の当たりにしても周は驚くことも悲しむこともしなかった。ただ穏やかに咲良の横顔を見つめる。

「…告白の返事をさ、しようと思うんだ」

 月明かりに慣れた目だと咲良の強張りがよくわかった。わかった上で周は言葉を続ける。

「おれ咲良のこと」
「言わないで」

 切羽詰まった声が周の言葉を遮った。掠れ気味の、ともすれば泣きそうだとも思う声だった。

「……ごめん、聞けない」

 色が抜け落ちたような顔の咲良がこちらを見た。何かに絶望した表情というのは、きっとこんな顔のことを言うのだろう。そこまでわかっていて、自分でも酷だなと思いながら周は口を開いた。

「咲良が好きだよ」

 目を見開いて周の顔を凝視していた。何かを言おうとして口を開き、でも言えなくてまた口を閉ざして咲良は下を向いた。

「…咲良、こっち向いて」

 その言葉に咲良は何も言わず、顔を向けることも無かった。だから周は迷うことなく距離を詰めた。

「咲良」

 距離が近付いても咲良は逃げない。だからこれは拒絶じゃない。そんなエゴにも似た答えを持って、周は咲良に手を伸ばす。触れた頬はあたたかくて、季節のせいか熱いくらいだった。促すように顔を上向かせると今にも泣き出してしまいそうな咲良のその顔に周は眉を下げて笑う。
 そのまま膝立ちになって咲良の頭を抱き締めた。

「…さっくん、なんで泣きそうになってるの」

 いつもなら背中に回る腕が今日はだらりと砂浜に落ちている。だけど周のことを拒絶はしない。その不安定さが悲しかった。悲しかったけれど、咲良がこうなっている原因を周は多分理解している。周は咲良を抱き締める腕に力を込めた。絶対に離さないぞと伝えるように。
 咲良は周の問いには答えない。だから周から近付く。

「……良雄から聞いた」

 びくりと腕の中の体が跳ねた。

「咲良がおれに連絡出来なくなった理由、多分おれわかってるよ」

 柔らかな髪に頬を擦り寄せた。シャンプーとほのかに汗の香りがした。

「咲良にとって普通ってなに?」

 腕の中で咲良が動揺しているのがわかる。きっと今必死で言葉を探しているのだろう。だけど周はその思考が完結する前に畳み掛ける。

「咲良にとっておれといることは普通じゃないの? おれは咲良にとっての異常なの?」
「違っ」

 反射的に顔を上げた咲良とようやく目が合った。迷子の子供のように揺れている目が周を捉えた瞬間薄く水の膜を張る。つるりとした表面が場違いにも綺麗だなと思った。

「おれにとっては咲良と一緒にいることが普通だよ。……咲良は違うの?」

 今にも涙が溢れてしまいそうな目元に指を添えながら囁くと咲良は首を横に振った。だらりと砂に落ちたままだった腕が上がり、周の背中に回る。
 そのまま強く抱き締められて服越しの体温が伝わった。

「…ちがわない」

 消え入りそうな程の小さな声のあと、ぎゅ、と強く服を掴まれる。言質を取れたことで周の中で少しだけあった躊躇が消え去ったのがわかった。周はじっと咲良を見た。今でもやはり泣きそうで、眉間に皺を寄せて唇を噛む仕草は子供の頃から全然変わっていない、泣くのを我慢している顔だった。
 周はそういう時はいつだって「この子を元気にしたい」と思ってきた。そしてその通りにしてきた。だから今回もそうするのだ。

「じゃあもう距離取る必要ないね」
「そ、れは」

 咲良の目に迷いが走る。けれどそれすらももう周には関係がなかった。周はもう完全に腹を括っているのだ。この選択の先に待つ未来も、困難も、心ない言葉も、全部覚悟の上でここにいる。
 だってそれら全てと腕の中にいる存在を天秤に掛けた時、どちらに傾くかなんて考えなくてもわかる。大事なものはもう随分前から決まっているから。

 寄せては返す海の音がする。虫の声がする。吹く風は温くて、月は明るい。周は徐に顔を近づけた。咲良の体が驚きに強ばり、涼やかな目が限界にまで見開かれる。月に照らされた二人の影が、確かに重なっていた。
 くちびるを触れ合わせていたのはほんの一瞬。けれどその一瞬で周と咲良の関係は変わる。ちゅ、と小さな音を立てて顔を離し閉じていた目を開けると真っ先に飛び込んできたのは驚きのあまりに硬直している咲良の顔だった。それに思わず周が軽く吹き出すと理解が追い付いたのか魚みたいに何度も口をパクパクと開閉させる。

「あ、まね」
「はいなんですかさっくん」
「…キス、した」
「……うん、したね」

 理解しているようで出来ていないのか小さな声で呆然と「キス…」と呟く姿に周は今度こそ声を上げて笑った。それに目を瞬かせた咲良は一拍置いて複雑な表情を浮かべるのだが、周はそんな姿を見て目を慈しむように細めた。

「好きだよ咲良。待たせてごめん」
「!」

 困った顔をしたと思ったら今度はまた目を見開いて固まる。周の言葉を反芻して咀嚼するように小さく漏らした声は波の音にさらわれた。呆然と見上げてくる彼の頬を撫でながらもう一度「好きだよ」と伝えた。
 「は、」と大きな呼吸音がした。震えていた。それまでも強く抱き締められていたのに、その手が掻き抱くように周の体を締め付けた。その腕の力強さが、震えている呼吸が、今にも溢れてしまいそうな涙が、咲良の気持ちを教えてくれていた。

「あまね」

 縋るような声が呼ぶ。

「うん」

 周は抱き締めていた腕の力を抜いて膝立ちをやめた。そうすると目の高さが近くなって咲良の顔がよく見える。今まで上を向いていたからなのか、顔を周に合わせて下げたせいで大きな一粒が瞬きと一緒に落ちていった。

「……俺といたら、嫌なこと言われるかもしれない」
「うん」
「馬鹿にされて、嫌な思いするかもしれない」
「うん」
「それでも」

 瞬きをする度に咲良の瞳から雨粒みたいに涙が落ちていく。

「それでも俺は、あまねのことが好きなんだ」

 真っ直ぐに誠実に告げられた想いに鼻の奥がツンと痛くなる、ということはなく、むしろ周は笑っていた。表情を綻ばせ、ぼろぼろになっても自分を想ってくれている姿が健気で愛おしいと思っていた。
 だから泣いている咲良には申し訳ないけれど、今の周の感情をパーセンテージで表すのならばその割合は嬉しさがほとんどを占めている。

「咲良」

 息が掛かるほどの距離で名前を呼ぶと、視線が絡まる。

「…多分これから先、今のおれたちじゃ想像がつかないくらいの大変なことが待ってるかもしれない。咲良の言う通り嫌な思いもするかもしれない」

 咲良はきっと周のことを考えて身を引こうとしていた。それが誰も傷付かずにいられる最善手だと周も思う。

「でも、多分、二人なら乗り越えられると思うんだ」

 だけど周は傷が付いても構わないという選択を、その未来に咲良を巻き込む選択をした。周も引けばきっと「いつも通り」に戻れたのに、それをしなかった。その理由はとても単純で子供じみたものだ。
 ただ嫌だったのだ、周りの意見に合わせて自分たちの形を変えるのが。

「…普通も正解も、おれたちが知ってれば良い。自分たちのことは自分たちがわかってればいい」

 咲良の目から涙が止まった。涙に濡れて月に照らされた水面のように輝く瞳がじっと周を見つめている。

「……そう思うのはワガママかな」

 浮かべた笑顔はもしかしたら下手くそだったかもしれない。でも周の心に浮かんだ僅かな不安を払拭するように咲良が声を発した。

「ワガママじゃない」

 はっきりとした声だった。

「それが俺たちの普通だから、ワガママなんかじゃない」

 息を吸う音が震えた。泣いて少し縁が赤くなった目が周を見つめる。

「…俺たちなら、大丈夫」

 その言葉に、心からの笑みが溢れた。