咲良が家に戻ってきたのは昼過ぎのことだった。漁が終わってそのまま先輩漁師たちに昼食を奢ってもらったおかげでこの時間になったのだ。
「ただいま」
「おかえり、さっさと風呂入っちまいな」
玄関の扉を開けて中に入るとフミがちょうど廊下の拭き掃除をしているところだった。元々民宿だったこの家の廊下は長く、市販の掃除道具を使えばいいのにフミは頑として雑巾掛けをやめようとしない。けれどそのおかげか家の廊下といわずどこかしこも綺麗に拭き掃除がされていて、咲良はこの家に大きな埃が落ちているところを見たことが無かった。
「…ばあちゃん、いい加減道具使えば」
「あんなもんにばっかり頼るから最近の若いのはみーんな腰が弱っちいんだ。ほら、さっさと風呂行ってきな。上がったらアイス食うかい?」
「いらねえ、どうせあずきのだろ」
「あれが一番美味いんだよ」
「凶器だろあんなの」
靴を脱いで家に上がる。真っ直ぐ廊下を進んで奥側左手にある脱衣所の扉を開けて後ろ手に閉めるとポケットの中からスマホを取り出して棚の上に置く。振動か何かで画面が明るくなるとそこには様々な通知が入っていた。けれどそれらを確かめることなく画面を下にして置き直し、汗と海の匂いがする服を脱いで洗濯機の中へと放り込む。
十数年前にリノベーションした水捌けの良い床に足をつけて浴室へと入るとシャワーの蛇口を捻って温まるのを待たずに咲良は頭を突っ込んだ。夏場といっても水は冷たく肌が粟立つけれど、それも少ししたら慣れてくる。
その体勢のまま、咲良は昨日の夜に来たメッセージを思い出した。
『明日話そう』
周から送られた、たった五文字の文章が咲良は怖くて仕方がなかった。何を言われるのか大体の予想が着いていたからだ。
周は多分、咲良のことを受け入れてくれるつもりだろう。「大丈夫だよ」「いいよ」そう優しい笑顔で伝えてくれるだろう。それを想像しただけで体の内側から喜びが溢れてしまいそうになる。けれど咲良はそれを跳ね除けなくてはならないのだ。
そうしなければあの悪意が周に向いてしまう。それだけは嫌だ。だからやるべきことははっきりとしているのに、咲良はどうしても周に連絡が取れなかった。あんな短いメッセージに既読すら着けることが出来なかった。
温い湯を浴びながら咲良はその場にしゃがみ込む。頭の中にはいつでも周がいる。こんなにも好きなのに、それでも突き放さなければならないこの状況が苦しくて仕方がなかった。嫌で嫌で仕方がないのに、現実が許してくれない。
「…クソ」
もうあの日から何度繰り返したかわからない悪態を吐いて、咲良は髪をぐしゃぐしゃに乱した。湯が目に入って少しだけ痛かった。
風呂から上がって着替えても、相変わらずスマホを見る気にはなれなかった。周に連絡を取らなくなってから明らかに自分の調子が悪いのがわかる。よく眠れないし、食事が美味しいと思えない。だから必然的に食べる量の減った咲良をフミも先輩漁師も心配してくれるが、咲良にはどうしようもなかった。
フミに風呂を上がったことを告げてそのまま二階に上がろうとすると、キッチンからフミが顔を出した。相変わらずの仏頂面でずかずか近づいて来たかと思えば、問答無用であずきのアイスを握らされる。
「食いな」
「…いやいらね」
「食いな」
それだけ伝えてフミはまたキッチンに戻って行った。分かりづらいけれど、心配してくれているのだとわかる。そして高校生になってまで心配を掛けてしまう自分が情けなくて咲良は短く息を吐いた。
握らされたアイスの包装を破り、口に入れながら自室へと向かう。かつては祖父が使っていたらしい部屋は広く、本棚や趣のある机があり障子を開けると部屋全体に染み付いた和の香りが届く。そこに敷かれたままの布団があって、雑誌や筋トレ道具なんかも散らばっている。乱雑まではいかないが整理はされていない部屋に入り、祖父も好きだったらしい腰窓に座る。
改装したとはいえ趣のあるものは残している為、今腰掛けている場所の木も随分と色が濃く、手触りも滑らかだ。咲良もそこに座ってぼんやりと外を眺めるのが好きだった。固くて素朴な甘さのアイスを食べながらただぼんやりと外を眺める。海のきらめきや、狭い路地を歩く近所の人の姿を見てただ何も考えずに時間だけを過ぎさせていく。考えないことは楽だった。
そうしてアイスも食べ終わり、棒を屑籠に捨てると髪も乾かさないまま咲良は布団に寝そべった。顔に濡れた毛先が当たって、ふと周の顔を思い出す。きちんと乾かせと小言を言うくせに結局はいつも周自身が乾かしてくれていた。優しく丁寧に髪を梳く指が心地よかったのを思い出し、また堪らない気持ちになる。
深く深く息を吐き、枕に顔を押し付けた。今眠ると夜に寝れなくなるとわかってはいるけれど、寝て時間を潰さなければ否応にでも周と向き合わなければならなくなってしまう。それが怖くて、咲良は逃げるように目を閉じた。
早朝から漁に行っているおかげか、それとも最近の睡眠不足のせいか、目をキツく閉じて数秒後には緩やかな睡魔がやってきた。このまま寝てしまおうとする意識の片隅で周からのメッセージがちらつくけれど、降りかかる睡魔はまるでそれを覆い隠すように咲良の意識を眠りへと落としていった。
咲良がそれから目を覚ましたのは数時間後のこと。ぼんやりと目を覚ました時室内は真っ暗で、直感的に「寝過ぎた」と後悔したもののまあ良いかと体を起こして大きく欠伸をする。
そこらに放り投げていたスマホを拾い画面を見ると時間は十九時半を少し過ぎたところだった。完全に寝過ぎたが、明日は漁が休みだからまあ問題は無い。咲良はのそりと立ち上がり、寝起きで重心が定まらない体を動かして一階へと降りた。
「よく寝てたじゃないか。腹は減ってるかい?」
「…起こしてくれても良いじゃん」
「最近寝れてなかったみたいだからね、気を利かせてやったんだよ。ほら早く座りな」
寝不足なのもお見通しらしく居心地が悪いが咲良は素直に椅子に腰掛けた。二人で食事を囲むには大きな長方形のテーブルにフミの作った料理が並んでいく。魚がメインの食卓で、咲良の野菜嫌いを完全に無視した煮物や漬物が並んでいく光景に眉が寄る。
「これぐらい食いな。でっかくならないよ」
「もう十分でっかい」
咲良の身長はあと二センチで百八十になるのだ。一般的な平均身長よりは随分高いはずだった。
「…ありがと。いただきます」
こんもりと盛られた白米と湯気の立つ味噌汁を前に両手を合わせる。フミはもう食べ終えているのか咲良の前に座ってテレビを見ていたのだが、この時間には珍しく来客を知らせるチャイムが響いた。「おや誰だろうね」そう呟きながら腰を上げたフミを視界の端に捉えながら白米の上に漬物を乗せて、大きく口を開けて頬張る。
しみじみ美味いと思いながら次の一口を運ぼうとした時、聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。
「フミちゃん、あーちゃんこっちに来てないかしら?」
高くて柔らかな声は周の祖母のものだった。聞こえた言葉に、咲良は考えるよりも先に箸を置いて立ち上がる。
そのまま早足に玄関にまで向かうとそこには眉を下げて困惑しきっている顔をしたトメがいた。
「あまねどうしたの」
出た声はあまりにも余裕が無くて、どこか攻めるような声だった。
「それがね、朝出たっきり帰って来ないのよ。携帯に連絡しても繋がらなくて、どこかで事故にでもあってるんじゃないかって私心配で」
「っ、探して来る」
衝動的に飛び出していた。靴を中途半端に引っ掛けて前につんのめりながら外に出る。後ろからフミの声がしたが咲良はそれを無視して走った。アテなんかどこにもなく、足で行ける範囲にいるのかもわからず、どうすればいいのかもわからない。けれど咲良の頭の中には周のことしか無くて、必死に足を前に出しながらスマホを操作して周の名前をタップする。
一拍の間のあと呼び出し音が鳴る。きっと出ないと思っていたその時プツ、と音が途切れた。
『もしもし?』
「……は?」
あまりに普段と変わらない声のトーンに思わず足が止まる。息が上がっていて、動揺と息切れで上手く言葉が出てこない。
「なんで? あまねのばあちゃんが、あまねがいないって」
『話そうって言ったじゃん、おれ』
ドク、と心臓が大きく脈打った。
『だから待ってる。さっくんならおれが今どこにいるのかわかるよ』
優しいけれど平坦で有無を言わせない声に咲良は何も言えなかった。そして無慈悲に切られた電話にも不思議と焦りは無く、咲良は再び走り出した。向かった先は防波堤を真っ直ぐ突っ切った先にある浜辺。その日の月はとても明るくて、まるであの日みたいだなと、そう頭の片隅で思いながら咲良は何かに急き立てられるようにその場所を目指した。
「ただいま」
「おかえり、さっさと風呂入っちまいな」
玄関の扉を開けて中に入るとフミがちょうど廊下の拭き掃除をしているところだった。元々民宿だったこの家の廊下は長く、市販の掃除道具を使えばいいのにフミは頑として雑巾掛けをやめようとしない。けれどそのおかげか家の廊下といわずどこかしこも綺麗に拭き掃除がされていて、咲良はこの家に大きな埃が落ちているところを見たことが無かった。
「…ばあちゃん、いい加減道具使えば」
「あんなもんにばっかり頼るから最近の若いのはみーんな腰が弱っちいんだ。ほら、さっさと風呂行ってきな。上がったらアイス食うかい?」
「いらねえ、どうせあずきのだろ」
「あれが一番美味いんだよ」
「凶器だろあんなの」
靴を脱いで家に上がる。真っ直ぐ廊下を進んで奥側左手にある脱衣所の扉を開けて後ろ手に閉めるとポケットの中からスマホを取り出して棚の上に置く。振動か何かで画面が明るくなるとそこには様々な通知が入っていた。けれどそれらを確かめることなく画面を下にして置き直し、汗と海の匂いがする服を脱いで洗濯機の中へと放り込む。
十数年前にリノベーションした水捌けの良い床に足をつけて浴室へと入るとシャワーの蛇口を捻って温まるのを待たずに咲良は頭を突っ込んだ。夏場といっても水は冷たく肌が粟立つけれど、それも少ししたら慣れてくる。
その体勢のまま、咲良は昨日の夜に来たメッセージを思い出した。
『明日話そう』
周から送られた、たった五文字の文章が咲良は怖くて仕方がなかった。何を言われるのか大体の予想が着いていたからだ。
周は多分、咲良のことを受け入れてくれるつもりだろう。「大丈夫だよ」「いいよ」そう優しい笑顔で伝えてくれるだろう。それを想像しただけで体の内側から喜びが溢れてしまいそうになる。けれど咲良はそれを跳ね除けなくてはならないのだ。
そうしなければあの悪意が周に向いてしまう。それだけは嫌だ。だからやるべきことははっきりとしているのに、咲良はどうしても周に連絡が取れなかった。あんな短いメッセージに既読すら着けることが出来なかった。
温い湯を浴びながら咲良はその場にしゃがみ込む。頭の中にはいつでも周がいる。こんなにも好きなのに、それでも突き放さなければならないこの状況が苦しくて仕方がなかった。嫌で嫌で仕方がないのに、現実が許してくれない。
「…クソ」
もうあの日から何度繰り返したかわからない悪態を吐いて、咲良は髪をぐしゃぐしゃに乱した。湯が目に入って少しだけ痛かった。
風呂から上がって着替えても、相変わらずスマホを見る気にはなれなかった。周に連絡を取らなくなってから明らかに自分の調子が悪いのがわかる。よく眠れないし、食事が美味しいと思えない。だから必然的に食べる量の減った咲良をフミも先輩漁師も心配してくれるが、咲良にはどうしようもなかった。
フミに風呂を上がったことを告げてそのまま二階に上がろうとすると、キッチンからフミが顔を出した。相変わらずの仏頂面でずかずか近づいて来たかと思えば、問答無用であずきのアイスを握らされる。
「食いな」
「…いやいらね」
「食いな」
それだけ伝えてフミはまたキッチンに戻って行った。分かりづらいけれど、心配してくれているのだとわかる。そして高校生になってまで心配を掛けてしまう自分が情けなくて咲良は短く息を吐いた。
握らされたアイスの包装を破り、口に入れながら自室へと向かう。かつては祖父が使っていたらしい部屋は広く、本棚や趣のある机があり障子を開けると部屋全体に染み付いた和の香りが届く。そこに敷かれたままの布団があって、雑誌や筋トレ道具なんかも散らばっている。乱雑まではいかないが整理はされていない部屋に入り、祖父も好きだったらしい腰窓に座る。
改装したとはいえ趣のあるものは残している為、今腰掛けている場所の木も随分と色が濃く、手触りも滑らかだ。咲良もそこに座ってぼんやりと外を眺めるのが好きだった。固くて素朴な甘さのアイスを食べながらただぼんやりと外を眺める。海のきらめきや、狭い路地を歩く近所の人の姿を見てただ何も考えずに時間だけを過ぎさせていく。考えないことは楽だった。
そうしてアイスも食べ終わり、棒を屑籠に捨てると髪も乾かさないまま咲良は布団に寝そべった。顔に濡れた毛先が当たって、ふと周の顔を思い出す。きちんと乾かせと小言を言うくせに結局はいつも周自身が乾かしてくれていた。優しく丁寧に髪を梳く指が心地よかったのを思い出し、また堪らない気持ちになる。
深く深く息を吐き、枕に顔を押し付けた。今眠ると夜に寝れなくなるとわかってはいるけれど、寝て時間を潰さなければ否応にでも周と向き合わなければならなくなってしまう。それが怖くて、咲良は逃げるように目を閉じた。
早朝から漁に行っているおかげか、それとも最近の睡眠不足のせいか、目をキツく閉じて数秒後には緩やかな睡魔がやってきた。このまま寝てしまおうとする意識の片隅で周からのメッセージがちらつくけれど、降りかかる睡魔はまるでそれを覆い隠すように咲良の意識を眠りへと落としていった。
咲良がそれから目を覚ましたのは数時間後のこと。ぼんやりと目を覚ました時室内は真っ暗で、直感的に「寝過ぎた」と後悔したもののまあ良いかと体を起こして大きく欠伸をする。
そこらに放り投げていたスマホを拾い画面を見ると時間は十九時半を少し過ぎたところだった。完全に寝過ぎたが、明日は漁が休みだからまあ問題は無い。咲良はのそりと立ち上がり、寝起きで重心が定まらない体を動かして一階へと降りた。
「よく寝てたじゃないか。腹は減ってるかい?」
「…起こしてくれても良いじゃん」
「最近寝れてなかったみたいだからね、気を利かせてやったんだよ。ほら早く座りな」
寝不足なのもお見通しらしく居心地が悪いが咲良は素直に椅子に腰掛けた。二人で食事を囲むには大きな長方形のテーブルにフミの作った料理が並んでいく。魚がメインの食卓で、咲良の野菜嫌いを完全に無視した煮物や漬物が並んでいく光景に眉が寄る。
「これぐらい食いな。でっかくならないよ」
「もう十分でっかい」
咲良の身長はあと二センチで百八十になるのだ。一般的な平均身長よりは随分高いはずだった。
「…ありがと。いただきます」
こんもりと盛られた白米と湯気の立つ味噌汁を前に両手を合わせる。フミはもう食べ終えているのか咲良の前に座ってテレビを見ていたのだが、この時間には珍しく来客を知らせるチャイムが響いた。「おや誰だろうね」そう呟きながら腰を上げたフミを視界の端に捉えながら白米の上に漬物を乗せて、大きく口を開けて頬張る。
しみじみ美味いと思いながら次の一口を運ぼうとした時、聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。
「フミちゃん、あーちゃんこっちに来てないかしら?」
高くて柔らかな声は周の祖母のものだった。聞こえた言葉に、咲良は考えるよりも先に箸を置いて立ち上がる。
そのまま早足に玄関にまで向かうとそこには眉を下げて困惑しきっている顔をしたトメがいた。
「あまねどうしたの」
出た声はあまりにも余裕が無くて、どこか攻めるような声だった。
「それがね、朝出たっきり帰って来ないのよ。携帯に連絡しても繋がらなくて、どこかで事故にでもあってるんじゃないかって私心配で」
「っ、探して来る」
衝動的に飛び出していた。靴を中途半端に引っ掛けて前につんのめりながら外に出る。後ろからフミの声がしたが咲良はそれを無視して走った。アテなんかどこにもなく、足で行ける範囲にいるのかもわからず、どうすればいいのかもわからない。けれど咲良の頭の中には周のことしか無くて、必死に足を前に出しながらスマホを操作して周の名前をタップする。
一拍の間のあと呼び出し音が鳴る。きっと出ないと思っていたその時プツ、と音が途切れた。
『もしもし?』
「……は?」
あまりに普段と変わらない声のトーンに思わず足が止まる。息が上がっていて、動揺と息切れで上手く言葉が出てこない。
「なんで? あまねのばあちゃんが、あまねがいないって」
『話そうって言ったじゃん、おれ』
ドク、と心臓が大きく脈打った。
『だから待ってる。さっくんならおれが今どこにいるのかわかるよ』
優しいけれど平坦で有無を言わせない声に咲良は何も言えなかった。そして無慈悲に切られた電話にも不思議と焦りは無く、咲良は再び走り出した。向かった先は防波堤を真っ直ぐ突っ切った先にある浜辺。その日の月はとても明るくて、まるであの日みたいだなと、そう頭の片隅で思いながら咲良は何かに急き立てられるようにその場所を目指した。