べそべそと泣いている良雄をなんとか宥める。慰めている最中えぐえぐと泣きながら語られたのはバスケ部の先輩のことと、どうやって咲良に謝ったらいいかわからないということだった。咲良のことは周にも今はどうしようもないと判断し、もし先輩たちにまた聞かれたらという話をした。

「もしまた言われたらふざけてただけって言っといてくれる? おれの名前出していいから」
「いいの?」
「うん。もしそれでまだ食い下がるんだったら夏休み明けにでもおれのとこに来るだろうし、そうなったら自分で対処出来るからさ」

 汗で濡れた癖っ毛を撫でると良雄はどこか申し訳なさそうに頷いた。それに気にするなと背中を結構な強さで叩いて坂を上る。上り切るまで会話はなかったけれど、体育館へと向かう背中に周は思わず声を掛けた。

「良雄」

 ぴたっと止まって振り返った姿を見て周は口を開く。

「おれと咲良が手繋いでたら変だって思う?」

 その問いに良雄がどんな表情をしているかは遠くてわからなかった。けれど驚いているのはなんとなく伝わったが周は目を逸らすことをしなかった。良雄は斜めがけにしているスポーツバッグの持ち手をぎゅっと両手で握って大きく息を吸った。

「思わない! 少なくとも俺は思わないよ!」

 運動部らしくよく通る声だった。一音一音はっきりと発せられた言葉に思わず笑う。

「うん、ありがとう。部活頑張ってね、良雄」
「うん! 俺こそありがと! また錦にはちゃんと謝る!」

 ぶんぶんと手を振って体育館へと駆け足で向かっていった背中を見て浮かべていた笑みを引っ込めた。そして深く大きく息を吐き、また深く吸った。


 ───


 その日の夜、周はスマホと睨み合っていた。
 打ち込んだ文章を眺めては消し、また打ち込んでは決しての繰り返しでもうどれくらいの時間が経っただろうか。もはや考え過ぎて何を伝えようとしていたのかわからなくなってきて、周は一度スマホをテーブルに置いて背もたれに体重を預けた。
 ぎい、と金属の軋む音がして背骨から腰にかけての筋が伸びているのを感じて心地良い。そしてまた椅子に座り直して机に頬杖を付き、真っ暗で何も見えない空を見る。開け放した窓からは夏虫の声と、波の音が聞こえる。
 たまに光に寄せられた虫が網戸にぶつかって落ちていくのを眺めながら周はぼんやりと考えていた。咲良のことだ。

「………」

 けれど考えたところで妙案が浮かぶ訳でもなく、すっかり煮詰まってしまったなと諦めたように息を吐いて立ち上がった。スマホはそのまま机に置いて、周は部屋の扉を開けた。するとリビングからテレビの賑やかしの声が聞こえてきて、吸い寄せられるように足をそちらに向ける。
 とんとん、と階段を降りてリビングの扉を開けるとそこにはソファに腰掛けてテレビを楽しそうに見ているトメがいて周はなぜだかわからないがほっと息を吐いてそのまま中に入った。

「ばあちゃん、まだ寝ないの?」

 時間は夜の二十二時、いつもの祖母ならもう眠っている時間だった。

「この番組がおもしろくってねえ。それに優と明子さんもいないから久しぶりに夜更かししちゃえって思って。あ、内緒よ〜?」

 茶目っ気たっぷりに片目を閉じて見せる祖母の姿に周は息を漏らすように笑って頷いた。そのままトメの隣に腰掛けると放送されているバラエティ番組を眺める。周の両親は今日から他県に住んでいる友人の家に行っている。学生の頃からの付き合いで、夏休みなど予定が合えば頻繁にお互いの家を行き来している程度には仲が良い。帰って来るのは明後日の夕方の予定だ。
 だから今日明日とこの家にはトメと周しかいないのである。

『アタシね、思うのよ。幸せって人にどう見られるとか関係ないの』

 数年前からテレビに出始めて、今ではお茶の間に欠かせなくなったバラエティタレントの女性の服を着た男性が大きな声を張り上げていた。バラエティ番組だというのにテロップには「幸せとは⁉︎」というなんとも大雑把かつ壮大なテーマが表示されていた。

『そりゃわかるわよ、人の目が気になるとかさ、わかるけど! でもそれを気にして立ち止まってんのは時間が勿体無いって思うわけよ。思わない⁉︎』

 なんてタイムリーな話題だと思った。周は今日、ずっとこのことばかり考えている。

『もう先人たちが耳タコくらい言ってるけどね、人生って本当に一回きりなの。たった一回しかないのよ? それを人目が気になるだ何言われるかわからないだ気にしてたってしょうがないのよ。それにアタシをごらんなさいよ!』

 スタジオがどっと湧く。それをぼんやりと祖母と眺めながら周は口を小さく開いた。

「ばあちゃん」

 ぽつり。

「おれが男と付き合うって言ったらどうする?」

 静かな夜、静かな部屋に浮立つようにバラエティの笑い声が響く。周はじっとテレビを見ている。もう画面では違うタレントの幸せ論が展開されていて、ウケを狙った言葉にお笑い芸人からツッコミが入っていた。

「そうねえ」

 トメも同じようにテレビを見ていた。

「そりゃあ驚いちゃうけど、あーちゃんが幸せなら、おばあちゃんそれが一番だと思うのよ」
「……それだけ?」
「ええ、それだけ。 その選択が幸せかどうか、大事なのかどうか。それはあーちゃんにしかわからないからねえ。あーちゃんが悩んで、それで幸せなんだって選んだことなら、おばあちゃんなんにも言わないよ」

 周はようやくトメの顔を見た。トメは相変わらずテレビを見ていたけれど、その横顔はどこまでも穏やかで、そして静かだった。

「…男なのに変だとか、普通じゃないって思わない…?」

 発した声は、情けないことに震えていた。その声にトメが周の方を向き、目尻に刻まれた皺を更に深くして片手を伸ばす。あたたかくてやわらかな手が頬に触れて、周は無性に泣きたくなった。

「おばあちゃんはそうねえ、驚くわよ。でもさっきも言ったけどあーちゃんが幸せならそれでいいのよ。……あーちゃんは普通じゃないって思うのかい?」

 幼い頃周が泣くと慰めてくれた優しい手は、今も変わらない温度で撫でてくれる。周は溢れそうになる涙を必死に堪えながら首を横に振った。

「大丈夫よ」

 頬を撫でていたトメの手が周の両手を包んでぎゅっと握る。

「大丈夫よあーちゃん。おばあちゃんがついてるからね」

 小さな頃はすっぽりと包まれていた手はいつの間にか自分の方が大きくなっていた。背だって随分前に抜かしたのに、こんなにも大きいと感じる。

「……ありがとう、ばあちゃん」
「ええ、ええ、いいんだよぉ」

 二人は顔を見合わせて笑い合った。そしてトメが「そうだそうだ」と言って立ち上がり、キッチンの冷凍庫から取り出して来たのはお高いカップアイスが二つ。

「これあーちゃんと食べようと思ってたのよ〜。おばあちゃん抹茶味がいいわぁ」
「じゃあおれ余った方で良いよ」

 きっと一般的な祖母なら孫に好きな方を選ばせるだろうが、トメはそうじゃない。それもきっと普通には該当しないのに可愛らしいと思ったから、周は笑った。重くどんよりしていた心が晴れたような、そんな心地だった。
 バラエティ番組はいつの間にかスタジオでの討論からロケ地への映像に変わっていた。そこで様々なドッキリに仕掛けられる芸人たちを見て、その賑やかさに二人は笑い合った。アイスも食べ終わってテレビも終わり、寝る準備をして部屋に戻ると周は机に置いたままだったスマホを手に取った。画面にはなんの通知も来ていない。
 周は表情を動かさないままメッセージアプリを開いて咲良のアイコンをタップする。文字を打ち込む前に大きく息を吸って、そして吐き出す。「よし」気合を入れて親指を動かした。

『明日話そう』