八月になった。咲良から連絡が来たら気持ちを伝えようと決意したあの日から、一度も連絡は来ていない。いつもはおはようやおやすみのメッセージが来るのに、それすら来ていない。そして、周からも連絡を取っていなかった。なぜか。
どんな文章を打てばいいのか全く分からなかったからである。もはや普通に「おはよう」と打つことすら出来なくなっていた。ただおはようって送るの変じゃないかな。咲良から何も連絡がないのにこちらから一方的に連絡するのって面倒臭くないかな、など思考は立派に恋する人間のそれだ。
そのおかげで時間だけが悪戯に過ぎていき、気が付けば月が変わり八月ももう少しで中旬となるところだった。
「……でもなんで咲良から連絡来ないんだろう」
朝、周は制服に身を包んで自転車を押しながら学校へと続く坂道を歩いていた。朝といっても気温は既に高く、歩いているだけなのに汗がじわりと滲み出て背中に生地がぺたりと張り付く感触がした。
今日は部活がある日だった。周の所属する茶道部は夏休み期間中はほとんど部活が無い。けれど掃除や作法を忘れない為に週に一回程は任意参加で部活があるのだ。今日はその貴重とも言える活動日だった。なので当然隣には咲良の姿は無く、周は一人で学校に向かっている。
カラカラと車輪の音と蝉の合唱が混ざるのを聞きながら周はふと思う。
(こんなに長かったっけ、この道)
今は坂道の中盤よりも少し上の方だが、なぜだか長く感じる。きっと暑さと湿気の鬱陶しさが体感時間を長くさせているのだろうと推測するが、そうではない理由も周は瞬時に思い至った。そうして一人気恥ずかしさに頬を僅かに染める。
(…咲良がいないからか)
咲良と登校するようになってからは毎日の登校時間があっという間だったと気付いた。咲良の隣はとても居心地が良いのだ。それが例え沈黙でも気まずさなんて感じたことはただの一度だってありはしない。そんな人との登下校が楽しくないはずがないんだよなと周は苦笑した。
そう改めて自分にとって咲良という人物がどれだけ特別なのかを自覚したからこそ、やはり連絡がないのが気になる。学校が違っていた時でさえ連絡を取り合っていたというのに、更にはこんな状況だというのに連絡がないという事実がじわじわと周の不安を煽っていく。
もしかして何かあったのだろうか。怪我や病気をしたのだろうか、そう考えたけれどもしそうならフミが必ずトメに連絡をするからそれはない。それならばもしかして、と嫌な想像が周の脳裏を掠める。
もしかして、嫌になってしまったのだろうか。デートの日自分は何か粗相をしてしまったのだろうか、それともやはり勘違いだったと思い直したのだろうか。そこまで考えて周は首を横に振った。勘違いというのだけは有り得ないと思ったからだ。
それならどうしてだととぼとぼ坂道を歩いていれば、後ろから周を呼ぶ声がした。
「あーーくーーん!」
朝だといっても八月のこの高い気温の中、傾斜の激しい坂道を立ち漕ぎで颯爽とやって来る幼馴染の姿を見て周は目を丸くした。ふわふわと揺れる癖っ毛と、周よりもぱっちりとしていて大きな目。性格の明るさと優しさがそのまま顔に出ている、見た目からして「良いやつ」の良雄が軽く息を乱しながら周がいるところまでやってきて自転車を降りる。
「おはよう良雄。どうしたの」
「おはよ! あーくんがいるの見えて思わず声掛けちゃった。今日茶道部部活あんだね? ねね、茶道部ってどんなことすんの? お茶飲んでお菓子食べれるってまじ?」
咲良が猫なら良雄は間違いなく犬だった。今も尻尾が見える気がすると周は穏やかに目を細める。柔らかそうな髪に人懐っこい笑顔、犬種でいえば柴犬だろうかそのくるんと丸まった尻尾が良雄にはとても似合いそうである。
そんな本人に言えば怒られてしまうようなことを考えながら周は一つずつ質問に答えていく。そうしていれば長いと感じていた通学路もあっという間で、下り坂に差し掛かると二人とも話すのをやめて自転車に跨る。山の上からは海が良く見えた。
夏の日差しは時間関係なく眩くて、それを反射する海もその奥にある入道雲も夏を象徴していてなんとも眩しい。夏の暑さは嫌だけれど、この景色は好きだった。
長い坂道を下って学校に向けてペダルを漕ぐ。その頃にはまた良雄と横並びになって進んでいくのだが、学校が近づくに連れて良雄の様子が少しおかしくなる。なんというか暗いのだ。普段はまるで太陽の化身かと思うのに、今はもうおもちゃを取り上げられた子犬のような顔をしている。
「……良雄、お腹でも痛いの?」
「えっ、なんで?」
「辛そうな顔してるからなんか悪いものでも食べたのかなって」
「俺は子供じゃありません…! 確かに賞味期限切れのプリンとか食っちゃうけど!」
「ほら〜」
「笑うなよお!」
けらけらと笑いながら海沿いの道を進む。部活が始まるには早い時間だからか他の生徒の姿も見えず、たまに近所のおじいさんおばあさんが家の前に椅子を出して雑談している姿が見えた。少し狭いけれど学校への近道を通り、それからもう少し進めば学校へと到着する。
駐輪場へと到着して自転車を降り、二年が停めるスペースに自転車を置いてカゴからあまり荷物の入っていないバッグを取って肩に掛ける。漕いでいる時はそうでもなかったのに止まった途端に流れ出す汗に息を吐くとポケットからタオルハンカチを取り出して汗を拭う。
良雄の所属するバスケ部の練習場である体育館は長い坂を上った先にある為、一緒に行こうと振り向いた時やはり何か思い詰めたような顔をしている姿が目に入って周は首を傾げた。
「え、もしかして本当にお腹痛い?」
「違うよぉ!」
キャン、と良雄が吠えてどうしたことかその場に膝を抱えて座り込んだ。それにぎょっとして慌てて側に駆け寄って膝をついて背中を撫でると「あーくん」と消え入りそうな声が聞こえた。
「どうしたの? 体調悪かったら帰る?」
「ごめん」
周の言葉に被せるように告げられた謝罪の言葉に周は首を傾げた。謝られるようなことをされた記憶も心当たりも何一つ無いからである。そんな周の微量な困惑に気がつくことなく良雄はくぐもった声で言葉を続けた。
「あーくんに謝ることじゃないかもしれないんだけど、でも、俺ちょっとやらかしたかもしんなくて」
「う、うん」
「先輩たちの悪ノリに付き合っちゃって、ハブられんの怖くて」
泣いているように声を震わせている良雄の背中を撫で続ける周だが、やはりなんのことだかさっぱりわからない。
「断れなくて錦に電話掛けたらあいつ怒っちゃって」
「咲良が?」
コクリと良雄が頷く。
「……バスケ部の先輩が、七月に道の駅であーくんと錦が手繋いでんの見たって言ってて、それがガチなのかどうか聞けって言われて。俺嫌だって言ったんだけど、他の先輩たちも悪ノリして俺断るの怖くなっちゃって」
良雄が自分の腕に爪を立てる。普段の周ならそれを気遣う余裕もあっただろうが、今は語られる話の内容が予想外すぎてただ驚いていた。
「それで錦に電話しちゃって。……俺あーくんと錦が昔から仲良いって知ってるから、そんなの普通なんじゃないっすかって言ったんだけど、全然聞いて貰えなくて」
咲良は言葉数も少なくて見た目も冷たい印象を持たれやすい。けれど性格は穏やかだし優しいというのは付き合いの長い幼馴染であれば全員がよく知っていることだ。でもその咲良が怒ったということに良雄は押し潰されそうな程の罪悪感を抱いているようだった。
「…錦、怒らせちゃった。メッセージ入れても既読も付かねえし、どうしようあーくん」
そろりと顔を上げた良雄の目は濡れていた。
「……おれも今咲良と連絡取れてないんだよね。ちなみにそれいつの話?」
「えっと、ちょっと待って」
めそめそと泣きながらポケットに突っ込んだスマホを取り出した良雄が慣れた様子でメッセージアプリを開いてその時のやり取りを見せてくれた。そこに印字されている日付と文章を見て、周は目を細めた。
どんな文章を打てばいいのか全く分からなかったからである。もはや普通に「おはよう」と打つことすら出来なくなっていた。ただおはようって送るの変じゃないかな。咲良から何も連絡がないのにこちらから一方的に連絡するのって面倒臭くないかな、など思考は立派に恋する人間のそれだ。
そのおかげで時間だけが悪戯に過ぎていき、気が付けば月が変わり八月ももう少しで中旬となるところだった。
「……でもなんで咲良から連絡来ないんだろう」
朝、周は制服に身を包んで自転車を押しながら学校へと続く坂道を歩いていた。朝といっても気温は既に高く、歩いているだけなのに汗がじわりと滲み出て背中に生地がぺたりと張り付く感触がした。
今日は部活がある日だった。周の所属する茶道部は夏休み期間中はほとんど部活が無い。けれど掃除や作法を忘れない為に週に一回程は任意参加で部活があるのだ。今日はその貴重とも言える活動日だった。なので当然隣には咲良の姿は無く、周は一人で学校に向かっている。
カラカラと車輪の音と蝉の合唱が混ざるのを聞きながら周はふと思う。
(こんなに長かったっけ、この道)
今は坂道の中盤よりも少し上の方だが、なぜだか長く感じる。きっと暑さと湿気の鬱陶しさが体感時間を長くさせているのだろうと推測するが、そうではない理由も周は瞬時に思い至った。そうして一人気恥ずかしさに頬を僅かに染める。
(…咲良がいないからか)
咲良と登校するようになってからは毎日の登校時間があっという間だったと気付いた。咲良の隣はとても居心地が良いのだ。それが例え沈黙でも気まずさなんて感じたことはただの一度だってありはしない。そんな人との登下校が楽しくないはずがないんだよなと周は苦笑した。
そう改めて自分にとって咲良という人物がどれだけ特別なのかを自覚したからこそ、やはり連絡がないのが気になる。学校が違っていた時でさえ連絡を取り合っていたというのに、更にはこんな状況だというのに連絡がないという事実がじわじわと周の不安を煽っていく。
もしかして何かあったのだろうか。怪我や病気をしたのだろうか、そう考えたけれどもしそうならフミが必ずトメに連絡をするからそれはない。それならばもしかして、と嫌な想像が周の脳裏を掠める。
もしかして、嫌になってしまったのだろうか。デートの日自分は何か粗相をしてしまったのだろうか、それともやはり勘違いだったと思い直したのだろうか。そこまで考えて周は首を横に振った。勘違いというのだけは有り得ないと思ったからだ。
それならどうしてだととぼとぼ坂道を歩いていれば、後ろから周を呼ぶ声がした。
「あーーくーーん!」
朝だといっても八月のこの高い気温の中、傾斜の激しい坂道を立ち漕ぎで颯爽とやって来る幼馴染の姿を見て周は目を丸くした。ふわふわと揺れる癖っ毛と、周よりもぱっちりとしていて大きな目。性格の明るさと優しさがそのまま顔に出ている、見た目からして「良いやつ」の良雄が軽く息を乱しながら周がいるところまでやってきて自転車を降りる。
「おはよう良雄。どうしたの」
「おはよ! あーくんがいるの見えて思わず声掛けちゃった。今日茶道部部活あんだね? ねね、茶道部ってどんなことすんの? お茶飲んでお菓子食べれるってまじ?」
咲良が猫なら良雄は間違いなく犬だった。今も尻尾が見える気がすると周は穏やかに目を細める。柔らかそうな髪に人懐っこい笑顔、犬種でいえば柴犬だろうかそのくるんと丸まった尻尾が良雄にはとても似合いそうである。
そんな本人に言えば怒られてしまうようなことを考えながら周は一つずつ質問に答えていく。そうしていれば長いと感じていた通学路もあっという間で、下り坂に差し掛かると二人とも話すのをやめて自転車に跨る。山の上からは海が良く見えた。
夏の日差しは時間関係なく眩くて、それを反射する海もその奥にある入道雲も夏を象徴していてなんとも眩しい。夏の暑さは嫌だけれど、この景色は好きだった。
長い坂道を下って学校に向けてペダルを漕ぐ。その頃にはまた良雄と横並びになって進んでいくのだが、学校が近づくに連れて良雄の様子が少しおかしくなる。なんというか暗いのだ。普段はまるで太陽の化身かと思うのに、今はもうおもちゃを取り上げられた子犬のような顔をしている。
「……良雄、お腹でも痛いの?」
「えっ、なんで?」
「辛そうな顔してるからなんか悪いものでも食べたのかなって」
「俺は子供じゃありません…! 確かに賞味期限切れのプリンとか食っちゃうけど!」
「ほら〜」
「笑うなよお!」
けらけらと笑いながら海沿いの道を進む。部活が始まるには早い時間だからか他の生徒の姿も見えず、たまに近所のおじいさんおばあさんが家の前に椅子を出して雑談している姿が見えた。少し狭いけれど学校への近道を通り、それからもう少し進めば学校へと到着する。
駐輪場へと到着して自転車を降り、二年が停めるスペースに自転車を置いてカゴからあまり荷物の入っていないバッグを取って肩に掛ける。漕いでいる時はそうでもなかったのに止まった途端に流れ出す汗に息を吐くとポケットからタオルハンカチを取り出して汗を拭う。
良雄の所属するバスケ部の練習場である体育館は長い坂を上った先にある為、一緒に行こうと振り向いた時やはり何か思い詰めたような顔をしている姿が目に入って周は首を傾げた。
「え、もしかして本当にお腹痛い?」
「違うよぉ!」
キャン、と良雄が吠えてどうしたことかその場に膝を抱えて座り込んだ。それにぎょっとして慌てて側に駆け寄って膝をついて背中を撫でると「あーくん」と消え入りそうな声が聞こえた。
「どうしたの? 体調悪かったら帰る?」
「ごめん」
周の言葉に被せるように告げられた謝罪の言葉に周は首を傾げた。謝られるようなことをされた記憶も心当たりも何一つ無いからである。そんな周の微量な困惑に気がつくことなく良雄はくぐもった声で言葉を続けた。
「あーくんに謝ることじゃないかもしれないんだけど、でも、俺ちょっとやらかしたかもしんなくて」
「う、うん」
「先輩たちの悪ノリに付き合っちゃって、ハブられんの怖くて」
泣いているように声を震わせている良雄の背中を撫で続ける周だが、やはりなんのことだかさっぱりわからない。
「断れなくて錦に電話掛けたらあいつ怒っちゃって」
「咲良が?」
コクリと良雄が頷く。
「……バスケ部の先輩が、七月に道の駅であーくんと錦が手繋いでんの見たって言ってて、それがガチなのかどうか聞けって言われて。俺嫌だって言ったんだけど、他の先輩たちも悪ノリして俺断るの怖くなっちゃって」
良雄が自分の腕に爪を立てる。普段の周ならそれを気遣う余裕もあっただろうが、今は語られる話の内容が予想外すぎてただ驚いていた。
「それで錦に電話しちゃって。……俺あーくんと錦が昔から仲良いって知ってるから、そんなの普通なんじゃないっすかって言ったんだけど、全然聞いて貰えなくて」
咲良は言葉数も少なくて見た目も冷たい印象を持たれやすい。けれど性格は穏やかだし優しいというのは付き合いの長い幼馴染であれば全員がよく知っていることだ。でもその咲良が怒ったということに良雄は押し潰されそうな程の罪悪感を抱いているようだった。
「…錦、怒らせちゃった。メッセージ入れても既読も付かねえし、どうしようあーくん」
そろりと顔を上げた良雄の目は濡れていた。
「……おれも今咲良と連絡取れてないんだよね。ちなみにそれいつの話?」
「えっと、ちょっと待って」
めそめそと泣きながらポケットに突っ込んだスマホを取り出した良雄が慣れた様子でメッセージアプリを開いてその時のやり取りを見せてくれた。そこに印字されている日付と文章を見て、周は目を細めた。