「咲良―! これ終わったらもう上がっていいぞー!」
「うぃーっす!」
ごんごんと唸るエンジン音と賑やかな人の声と魚を乗せたコンテナが運び出される音が忙しなく響く中、船長の声が一際大きく咲良の名前を叫んだ。他の乗組員と一緒に魚を上げていた咲良は学校でも出したことがない程の大きな声で返事をして作業を進めていく。
空には太陽が輝き、立っているだけでも汗が噴き出す程の気温の中咲良は漁の手伝いをしていた。手伝いというよりはほとんどアルバイトに近い。
夏休み中漁のある日は毎日船に乗っているおかげかこの短期間で咲良の肌はよく焼けていた。頭に巻いた白いタオルが日光に反射して眩しいと思う程の炎天下の中、咲良は無心で作業を続ける。船から降りて魚が大量に乗ったコンテナを持ち上げて、漁業組合のお姉さん方が待つ作業場へと運ぶ。
大きな搬入口を開け広げているせいで冷房をつけたところで意味はなく、もはや大型の扇風機がぬるい風を送るだけになっている作業所。だがそこで働く人たちはこの環境に慣れたもので、咲良がやってくるとわっと色めきたった。
「あらあら錦さんとこのお孫さんじゃないの! すっかり焼けちまって海の男だねえ!」
「それに年々男前になっていくわ〜! ねえフミさん!」
「アタシの孫なんだ当然だろう! さてみんなちゃっちゃか終わらせるよー!」
「はぁい!」
恰幅のいい女性が咲良の手から魚の入った重たいコンテナをひょいと受け取って作業台に乗せる。一気に捲し立て一気に興味を失う女性の生態にいつまで経っても慣れない咲良は「よろしくお願いします」とだけ伝えてまた船に戻る。
船と作業場を何度か往復したら陸揚げ作業は終わり、今日の漁もここまでだ。日が昇る前の早朝から準備をして日が明ける前に海に出て、朝日の中漁を始める。大体昼前に港に戻ってきて、こうやって新鮮な内に魚を加工するのだ。
港では漁師たちが船を洗っていたり道具を片付けたりしている。咲良もそれを手伝おうろしたが「大丈夫」だと良い笑顔で言われて一足先に上がることにした。オーバーオールと長靴が一体化した胴付長靴は歩く度にがぽがぽと音が鳴るがそれにも慣れたもので、作業所の横にある水道の蛇口を捻って魚の血と鱗で肘の上まで汚れている腕を洗う。
出したばかりの水はぬるかったが出しているとそのうち冷えてきて熱のこもった体にはとても気持ちが良い。
「咲良―、手洗ったらこっち来い! アイスの差し入れあんぞ!」
「マジすか。俺一番高えのが良いっす」
「馬鹿野郎! わっけえのは一番安いのに決まってんだろうが!」
先輩漁師の豪快な笑い声につられて咲良も楽しげに笑い、蛇口を閉めて作業所に隣接している事務所へと向かう。なんとなく職員室と似ているそこには冷蔵庫があり、中に近所の人が差し入れてくれたアイスが入っているらしかった。
「はい咲良くんにはこれー」
「マジで一番安いやつじゃん」
「文句言うんじゃねえよコラ!」
「さーせん」
お互いに冗談を言い合える気軽な関係だからか表情は明るく、生意気を言う咲良の肩を咲良よりも十は年齢が上の男が小突く。それに大袈裟に痛がる振りをしながら有名なパッケージのアイスを受け取って「いただきます」と言ってから袋を開ける。
出てきたソーダ味の青いアイスに齧り付き、冷たさと爽やかな甘さに体が冷やされていくのを感じながら影になっている場所に腰を下ろす。胴付長靴の胸元にあるジッパーを開いて中からスマホを取り出すと数時間ぶりに画面を見た。
いくつか通知が来ている中、真っ先に見つけるのは周の名前だ。港に住み着いている黒猫のボスの写真をアイコンにしていて、太々しい顔の横には「おはよう、気をつけて行ってきてね」の文字。
早朝漁に出る前に送ったおはようのメッセージへの返信だ。なんの変哲もないただの文字なのに、周からだと思うだけで咲良の表情は溶けてしまう。
「船長! あいつケータイ見ながらニヤけてるわ、エロい動画見とるんですわ!」
「おめえの頭ん中にはいっつもそればっかだなぁ。咲良ももう高校生なんだから彼女の一人や二人や三人や四人いるに決まってんだろ! そのどれかからの連絡だわ」
「エロい動画でもねえし彼女でもねえっす。好きな人ではあるけど」
一切照れる様子もなく言い切った咲良を見て、船長と先輩漁師が顔を見合わせた。そして胸をぎゅっと押さえてどこか遠い目をする。
「……俺ら、いつの間にか汚れちまったなぁ…」
「ホントっすね…。嫁にちゃんと好きだって言お、今日…」
「俺も女房にたまには菓子でも買って帰るわ」
大人たちの言葉に首を傾げた咲良だったが手に持ったスマホが震えたのに気がついて視線を戻す。すると画面に表示された名前に一度瞬きをしたあと通話ボタンをタップしてスマホを耳に当てた。
「もしもし、どうした?」
『あ、錦―? もしもし良雄さんですー』
周と同じで保育園からの幼馴染である良雄からの電話だった。いつも何かあってもメッセージで済むから電話は珍しいなと思いながら口を開く。
「おう。で?」
『うわ冷た。いやちょっとさあ、先輩からお前に聞いとけって言われたことあってさー』
「部活なら入らねえ」
『いやそれじゃなくて! それもあるけど!』
咲良はスマホを耳に当てたままアイスを齧る。気温のせいで早く食べないと溶けてしまうと思い、次の一口は大きめに齧り付いた。
『あのさー』
いつもはぽんぽんとリズム良く歌うように喋っているのに何故か今日は歯切れの悪い様子に違和感を覚える。それを良雄も気が付いたのか気まずそうに「えーっと」そう唸ったあと、呼吸音の次に声が発せられた。
『この前あーくんと道の駅いた? 昼頃』
随分と言いづらそうにしていた割には普通の問いに咲良は拍子抜けした。
「いた。それがどうかした?」
『あー、じゃあさ、その』
その時電話口から賑やかな声が聞こえた。何かを囃し立てるような声だ。揶揄うような、面白がっているような、良い印象は受けない声だった。
『……手、繋いでたってマジ?』
慎重に声を潜めて問われた言葉に咲良は瞠目した。見られたことに驚いた訳ではない。幼馴染である良雄にそれを訊かれたことと、その問いが出た途端静かになった電話口に驚いたのだ。
嫌な感じだと思った。咲良にとっては見られたことなんてどうでもいい瑣末なものだ。けれどあれは、あの思い出はこんな風にからかいの対象になって良いものじゃないと腹の奥から沸々と怒りに似た感情が湧いてくる。
「…は?」
その感情がそのまま音になって出ると電話口で良雄が喉を引き攣らせた音がした。
「そんなことで電話してきたの、お前」
『や、ごめん錦その』
「切るわ、お疲れ」
慌てている良雄を無視して通話を切ろうとスマホを耳から離した間際に「ガチギレじゃんこわ」と知らない声が下品な声で嗤っていたのが聞こえた。それにもイラつきながら通話を切ると咲良はその感情を吐き出すように大きく息を吐いた。それでも収まらず髪を掻きむしろうと片手を上げた時だらりと垂れた液体に「げ」と声が漏れた。
「クソ、最悪」
気がつくと持っていたアイスが溶けて地面に落ちていた。青い塊が見る間に溶けて地面に吸い込まれているのを見ているとまだ手に持ったままのスマホが振動した。面倒だと思いながら画面を見ると案の定メッセージアプリの通知で、差出人は良雄だった。
「さっきはごめん!」
「部活の先輩がどうしても聞けってうるさくて」
「俺にとってはあーくんとお前が仲良いなんて当たり前なんだけど」
「先輩達が普通じゃねえってうるさくて」
そこまで読んで、また驚きが咲良を襲う。“普通じゃない”そう当たり前のように表示された文字列に頭を殴られたような気分だった。そして、咲良は唐突に思い出した。一学期の中間テストが終わった頃、体育祭に向けて委員会で集まった時珍しく周が眠ってしまっていた時のことを。
「うぃーっす!」
ごんごんと唸るエンジン音と賑やかな人の声と魚を乗せたコンテナが運び出される音が忙しなく響く中、船長の声が一際大きく咲良の名前を叫んだ。他の乗組員と一緒に魚を上げていた咲良は学校でも出したことがない程の大きな声で返事をして作業を進めていく。
空には太陽が輝き、立っているだけでも汗が噴き出す程の気温の中咲良は漁の手伝いをしていた。手伝いというよりはほとんどアルバイトに近い。
夏休み中漁のある日は毎日船に乗っているおかげかこの短期間で咲良の肌はよく焼けていた。頭に巻いた白いタオルが日光に反射して眩しいと思う程の炎天下の中、咲良は無心で作業を続ける。船から降りて魚が大量に乗ったコンテナを持ち上げて、漁業組合のお姉さん方が待つ作業場へと運ぶ。
大きな搬入口を開け広げているせいで冷房をつけたところで意味はなく、もはや大型の扇風機がぬるい風を送るだけになっている作業所。だがそこで働く人たちはこの環境に慣れたもので、咲良がやってくるとわっと色めきたった。
「あらあら錦さんとこのお孫さんじゃないの! すっかり焼けちまって海の男だねえ!」
「それに年々男前になっていくわ〜! ねえフミさん!」
「アタシの孫なんだ当然だろう! さてみんなちゃっちゃか終わらせるよー!」
「はぁい!」
恰幅のいい女性が咲良の手から魚の入った重たいコンテナをひょいと受け取って作業台に乗せる。一気に捲し立て一気に興味を失う女性の生態にいつまで経っても慣れない咲良は「よろしくお願いします」とだけ伝えてまた船に戻る。
船と作業場を何度か往復したら陸揚げ作業は終わり、今日の漁もここまでだ。日が昇る前の早朝から準備をして日が明ける前に海に出て、朝日の中漁を始める。大体昼前に港に戻ってきて、こうやって新鮮な内に魚を加工するのだ。
港では漁師たちが船を洗っていたり道具を片付けたりしている。咲良もそれを手伝おうろしたが「大丈夫」だと良い笑顔で言われて一足先に上がることにした。オーバーオールと長靴が一体化した胴付長靴は歩く度にがぽがぽと音が鳴るがそれにも慣れたもので、作業所の横にある水道の蛇口を捻って魚の血と鱗で肘の上まで汚れている腕を洗う。
出したばかりの水はぬるかったが出しているとそのうち冷えてきて熱のこもった体にはとても気持ちが良い。
「咲良―、手洗ったらこっち来い! アイスの差し入れあんぞ!」
「マジすか。俺一番高えのが良いっす」
「馬鹿野郎! わっけえのは一番安いのに決まってんだろうが!」
先輩漁師の豪快な笑い声につられて咲良も楽しげに笑い、蛇口を閉めて作業所に隣接している事務所へと向かう。なんとなく職員室と似ているそこには冷蔵庫があり、中に近所の人が差し入れてくれたアイスが入っているらしかった。
「はい咲良くんにはこれー」
「マジで一番安いやつじゃん」
「文句言うんじゃねえよコラ!」
「さーせん」
お互いに冗談を言い合える気軽な関係だからか表情は明るく、生意気を言う咲良の肩を咲良よりも十は年齢が上の男が小突く。それに大袈裟に痛がる振りをしながら有名なパッケージのアイスを受け取って「いただきます」と言ってから袋を開ける。
出てきたソーダ味の青いアイスに齧り付き、冷たさと爽やかな甘さに体が冷やされていくのを感じながら影になっている場所に腰を下ろす。胴付長靴の胸元にあるジッパーを開いて中からスマホを取り出すと数時間ぶりに画面を見た。
いくつか通知が来ている中、真っ先に見つけるのは周の名前だ。港に住み着いている黒猫のボスの写真をアイコンにしていて、太々しい顔の横には「おはよう、気をつけて行ってきてね」の文字。
早朝漁に出る前に送ったおはようのメッセージへの返信だ。なんの変哲もないただの文字なのに、周からだと思うだけで咲良の表情は溶けてしまう。
「船長! あいつケータイ見ながらニヤけてるわ、エロい動画見とるんですわ!」
「おめえの頭ん中にはいっつもそればっかだなぁ。咲良ももう高校生なんだから彼女の一人や二人や三人や四人いるに決まってんだろ! そのどれかからの連絡だわ」
「エロい動画でもねえし彼女でもねえっす。好きな人ではあるけど」
一切照れる様子もなく言い切った咲良を見て、船長と先輩漁師が顔を見合わせた。そして胸をぎゅっと押さえてどこか遠い目をする。
「……俺ら、いつの間にか汚れちまったなぁ…」
「ホントっすね…。嫁にちゃんと好きだって言お、今日…」
「俺も女房にたまには菓子でも買って帰るわ」
大人たちの言葉に首を傾げた咲良だったが手に持ったスマホが震えたのに気がついて視線を戻す。すると画面に表示された名前に一度瞬きをしたあと通話ボタンをタップしてスマホを耳に当てた。
「もしもし、どうした?」
『あ、錦―? もしもし良雄さんですー』
周と同じで保育園からの幼馴染である良雄からの電話だった。いつも何かあってもメッセージで済むから電話は珍しいなと思いながら口を開く。
「おう。で?」
『うわ冷た。いやちょっとさあ、先輩からお前に聞いとけって言われたことあってさー』
「部活なら入らねえ」
『いやそれじゃなくて! それもあるけど!』
咲良はスマホを耳に当てたままアイスを齧る。気温のせいで早く食べないと溶けてしまうと思い、次の一口は大きめに齧り付いた。
『あのさー』
いつもはぽんぽんとリズム良く歌うように喋っているのに何故か今日は歯切れの悪い様子に違和感を覚える。それを良雄も気が付いたのか気まずそうに「えーっと」そう唸ったあと、呼吸音の次に声が発せられた。
『この前あーくんと道の駅いた? 昼頃』
随分と言いづらそうにしていた割には普通の問いに咲良は拍子抜けした。
「いた。それがどうかした?」
『あー、じゃあさ、その』
その時電話口から賑やかな声が聞こえた。何かを囃し立てるような声だ。揶揄うような、面白がっているような、良い印象は受けない声だった。
『……手、繋いでたってマジ?』
慎重に声を潜めて問われた言葉に咲良は瞠目した。見られたことに驚いた訳ではない。幼馴染である良雄にそれを訊かれたことと、その問いが出た途端静かになった電話口に驚いたのだ。
嫌な感じだと思った。咲良にとっては見られたことなんてどうでもいい瑣末なものだ。けれどあれは、あの思い出はこんな風にからかいの対象になって良いものじゃないと腹の奥から沸々と怒りに似た感情が湧いてくる。
「…は?」
その感情がそのまま音になって出ると電話口で良雄が喉を引き攣らせた音がした。
「そんなことで電話してきたの、お前」
『や、ごめん錦その』
「切るわ、お疲れ」
慌てている良雄を無視して通話を切ろうとスマホを耳から離した間際に「ガチギレじゃんこわ」と知らない声が下品な声で嗤っていたのが聞こえた。それにもイラつきながら通話を切ると咲良はその感情を吐き出すように大きく息を吐いた。それでも収まらず髪を掻きむしろうと片手を上げた時だらりと垂れた液体に「げ」と声が漏れた。
「クソ、最悪」
気がつくと持っていたアイスが溶けて地面に落ちていた。青い塊が見る間に溶けて地面に吸い込まれているのを見ているとまだ手に持ったままのスマホが振動した。面倒だと思いながら画面を見ると案の定メッセージアプリの通知で、差出人は良雄だった。
「さっきはごめん!」
「部活の先輩がどうしても聞けってうるさくて」
「俺にとってはあーくんとお前が仲良いなんて当たり前なんだけど」
「先輩達が普通じゃねえってうるさくて」
そこまで読んで、また驚きが咲良を襲う。“普通じゃない”そう当たり前のように表示された文字列に頭を殴られたような気分だった。そして、咲良は唐突に思い出した。一学期の中間テストが終わった頃、体育祭に向けて委員会で集まった時珍しく周が眠ってしまっていた時のことを。