瀬戸内海には大小それぞれ沢山の島が浮かんでいる。今周が立っている場所からも目視出来るだけで既に五つ以上の島が見える。そのおかげで水平線というものとは縁がないのだが、それでも白波一つ立っていないこの凪が周は昔から好きだった。
 潮騒と鳥の声とすぐ側にある港から車と船のエンジン音、海で冷やされた風が頬を撫でていき、ただ道路で待つよりもずっと快適な環境に周は目を細めた。目線を下げると比較的浅い場所で魚が泳いでいるのも見える。
 昔は見えているのだから獲るのも容易いのではと思っていたが、見えている方が難しいのだと教えてくれたのは祖母だったなと思い出した。濃い潮の匂いと、寄せては返し、岩場にぶつかる波の音が聞いていて心地が良い。

(今日海に入れば気持ち良いだろうな)

 ぼんやりとそう思ったが、今日はそういう訳にもいかないのだ。

「あまね!」

 呼ぶ声にぱっと振り向いて、そして見えた姿に周は眉を寄せながら苦笑を浮かべた。
 ボーダーのTシャツの上に白シャツを羽織り、下は黒のテーパードパンツ。夏らしく浅いシューズを履いた見るからに爽やかな出立ちの咲良が走って向かって来る。既読はついていたから確実に確認しているはずなのになと思いつつ、まあそれで咲良が言うことを聞くはずもないかと周は納得してしまっていた。

「走らなくていいって言ったじゃん」
「歩いても走ってもどうせ汗出るし、別にいいかと思って」

 そこまで息は乱れていないけれどそれでも頬の赤みが急いで来てくれたことを如実に表していて思わず息を吐く。当の本人はけろりとした顔で周を見ているのだから、もうそれ以上言えることは無かった。

「おはよう、咲良」
「おはよ。バス何時だっけ」
「もうちょっとだよ、行こ」
「ん」

 するりと、熱が手に触れた。

「ぇっ」
「声裏返ってんじゃん」
「だ、だって、手…!」

 自然過ぎる動きで取られた手に周は一気に動揺してしまった。一晩と、そしてトメからのエールのおかげで随分と平常心を取り戻せていたと思ったのに、咲良の突然の行動のせいで見る間に顔に熱が集中していくのがわかった。

「デートだし」
「み、見られる…!」
「波止場から抜けたら離す」

 指先が絡み合う、いわゆる恋人繋ぎというものに周は繋がれた手と咲良を交互に見た。平常心も余裕も一瞬にして消え去った周の様子に、咲良は心からご満悦といった表情で口角を上げている。

(ああ、もう)

 周は何も言えなかった。心から嬉しそうに笑う咲良を前にしてしまうと周は何も言えなくなってしまうのだ。昔からそうなのだ。なぜなら──

(かわいいんだよなぁ…!)

 身長を抜かされ、体格で負け、声の低さでも負け、見た目がどれだけ変わっても周にとって咲良は変わらず可愛いままなのだ。好意を寄せられていようとも、決して可愛らしい触れ方で無かったとしても、感情表現がそこまで得意ではない咲良のドヤ顔にも近いその顔に、周は昔から弱かった。

「…波止場出るまでね…」

 折れた周の言葉に咲良の背後に小花が舞った気がした。
 宣言通り波止場から出るまでの数分だけ二人は手を繋ぎ、そこから一歩出ると以外にも咲良の方からすんなりと手を離してくれた。それに意外そうにしている周を見て当人は少しだけ唇を突き出した。

「離さなかったら怒るじゃん。あまねに怒られんのやだ」

 どうやらすんなりと見えていただけで本心はそうではなかったらしい。我慢が出来て偉いなと無意識に伸ばした手にハッとして中途半端なところで止めると、やはりまたドヤ顔めいた嬉しそうな顔をした咲良が少し背を丸めて周に頭を差し出した。
 その行動の原理をいまいちわかっていないまま周はさらさらの咲良の髪を存分に撫でて、それからようやくバス停に向かう。
 歩いて十分も掛からない国道何百号線沿いにあるバス停は、屋根も柱も風化していて所々が赤茶に錆びている。雨ざらしというのもあるだろうが、一番の原因は潮風だろうなと振り返った先に見える海を思い浮かべた。屋根の下に二つ並んだ日に焼けて白っぽくなった緑の椅子の左側に時刻表があって、周は一応そこで時間を確認する。

 一時間や二時間にバスが一本しか来ない田舎では一本乗り遅れるとその日の予定が全て狂うことになる。だからこそこの島の住民でバスを利用する人たちは何度もバスの時刻を確認するのだ。
 時間が間違っていないことを確認してバスを待つこと数分。やってきたバスに乗車して、まずはキツく効いている冷房の風に二人して安堵の息を吐く。バス特有のなんとも言えない香りは得意ではないけれど、この涼しさの中目的地にまで行けるのならそんなのは瑣末なことだ。

「あまね、奥行こ」
「うん」

 夏休みだというのにバスには乗客がほとんどいない。二人は最後尾に並んで座り、目的地に着くまでの十数分を他愛無い会話で過ごすと思いきや、そんなことは無かった。
 他に人がいないからという理由でまた手を繋ぎ、冷房がガンガンに効いている筈なのに周は妙な汗をかいてしまった。それでも咲良はずっと楽しそうで、そんな咲良を見るとやはり周は強く出られなくて結局目的地までそのままでいた。
 そうしてやって来た道の駅には思った以上に人がいた。
 そもそも田舎というものは車社会だ。だからこそバスに人は乗っていないし、イベントごとがあれば基本車移動になる。そして、車社会の象徴となるのが広い駐車場だろうか。

「……おれここにこれだけ車が停まってるの初めて見た」
「俺も。…あ、見てあまね、札幌ナンバーがある」
「札幌⁉︎」
「うわ、県外ナンバーばっかだ」

 瀬戸内海に浮かぶ白島は夏になれば一気に観光地化する。その影響で県外からの人も多くやって来るのだが、いざナンバープレートに書かれた地名を見ると二人とも驚きに感心すらしていた。

「…あまね、俺思ったんだけどさ」
「うん」
「こんだけ駐車場埋まってんなら飯系やばくね」
「⁉︎」

 今日のこの時間は二人の共通認識として「デート」となっている。だがしかし二人は一般的で健康的な育ち盛りで食べ盛りな男子高校生。つまり“色気より食い気”なのである。
 二人は意識を道の駅の建物に向けた。観光地化する島内でも屈指のお土産物売り場として構えているだけあって建物は立派で、土産物売り場の他にもレストランとソフトクリーム屋もある。敷地自体はL字になっていて細長い区画には夏限定の飲食店が並ぶのだが、二人の目当てはそこだった。
 時間は昼の十一時を少し過ぎた頃、空腹かと言われたら首を傾げる程度の腹具合だけれど、腹が空くのを待っていたらきっと飲食物が無くなると二人の直感が訴えた。それに何より、立ち並ぶ飲食店から発せられる美食の香りが急速に二人の胃袋を刺激していく。

「俺ローストビーフ丼」
「おれとんこつラーメン」
「席は?」
「先に会計終わったほうが確保」
「了解」

 簡潔に用件を伝え合った二人は戦場に向かう戦士のような顔をしてその場を離れた。デート、という甘い響きは今の二人からは消え去っていた。二人の頭の中にあるのは美味いものを無事入手出来るのか、ただそれだけだった。
 そして十数分後、無事に整理券をゲットした周は屋台のように並ぶ店舗の他にもキッチンカーが来ているのを発見してしまう。そして風にはためく幟に書かれた文字を視認した瞬間、周は吸い寄せられるようにキッチンカーの行列に並んだのだった。