「もしもし。どうしたの?」
『んー…、明日デートだなって思ったらなんか電話したくなった』
「……」
『あ、照れた』
「…うるさいなぁ」

 時間は進んで夏休みに突入した七月の後半の夜の八時頃。周は自室で夏休みの課題に取り組んでいた。机の上に置いていたスマホが震え出し、画面に映ったのは咲良の文字。珍しく電話なんだなと思いながらスマホを耳に当てると、思っていたよりもずっと甘くて優しい声に周は下唇を噛んだ。
 明日二人はデートに行く。
 とはいっても向かうのはバスで行ける範囲内にある道の駅で、幼い頃から親に連れられたり学校行事で何度も行ったことのある場所だ。明日からそこで夏休み期間限定の複数店舗による飲食物の出店があり、それを目当てに行くことになっている。

『HP見たらさ、普通にうまそうなの多くてびびった』
「確かに。咲良何食べたい?」
『肉』
「大雑把過ぎるよ」
『野菜以外』

 年齢を重ねても治る気配のない野菜嫌いに苦笑しつつ背もたれに体重を預けた。キシ、と金属の軋む音がした。

「咲良は今日も漁の手伝い行ってたの?」
『うん、夏休み中は漁がある日はずっと行く。おかげでもうめちゃくちゃ眠い』
「そっか、早いもんね。もう寝る?」
『……嫌だ』

 それなりの間を置いて聞こえた声に周はまた苦く笑った。きっと今顔中に皺を寄せて眠気と戦っているんだろうなと容易に想像が付いたからだ。

「明日会えるからいいじゃん」
『……』
「さっくん」
『…なんで今その呼び方すんの』
「かわいいなぁって思って」

 何の気なしに告げた言葉だったが何かが咲良の琴線に触れたらしく電話口から「はあ〜〜〜〜〜」と体中の酸素を全て吐き出したようなため息が聞こえたあと「沼じゃん。マジで」と以前も聞いた単語が続いた。

「その沼ってなに?」
『あまねは知らなくていい。寝る』

 つい先程まで渋っていたのに手のひらを返した言葉にぱちりと瞬きした。

『あまね』
「あ、はい。どうしたの」

 直前まで拗ねていた気配がしたのに周の微かな動揺に気が付いたらしく電話口で咲良が少し笑っている気がした。

『おやすみ、また明日な』
「…お、やすみ」

 最後に掛けられた言葉も聞いたことがないほど甘いもので、通話が終了しても周は耳にスマホを当てたまま暫しの間呆然としていた。そしてゆっくりとスマホを離し、机に置いてからまた数秒。ぽん、と軽い音がして周は大袈裟に驚いた。

「‼︎」

 驚いたせいでバクバクと跳ねる心臓を宥めながらスマホの画面を見るとそこには先程まで通話していた人物の名前が。そして送られてきた文章に、胸が締め付けられるような心地がした。痛いとか、物理的に苦しいわけではないけれどなんとなく呼吸がし辛い、そんな苦しさがあった。

『明日すげえ楽しみ』

 スタンプも絵文字も何もないシンプルな文章だけれど、それだけで咲良が今どんな顔をしているのかわかる。きっと布団に横になってにやけているに違いない。嘘偽りなく楽しみにしているのだろうなと思うと自然と周の頬も緩んだ。
 離したばかりのスマホを手に取り直し、メッセージに返信をしようと打ち込んでいた時だ。再び何か送られて来て画面が動く。その最下部に表示された言葉を読んで、周は今度こそ顔を真っ赤に染めた。

『好きだよ』

 追い討ちをかけるように紡がれた言葉。周はその日もうなんのメッセージも返せなかった。


 ───


 翌日十時を少し過ぎた頃、周は玄関で靴を履いていた。下ろしたてのスニーカーの紐を通し、解けないようにしっかりと結んでから腰を上げて靴棚に備え付けられている全身鏡で服装をチェックする。
 淡いブルーのオーバーサイズシャツに黒のスキニーデニム、肩からは黒のサコッシュを掛けて本日のコーディネートは終了になるのだが、周はどうも落ち着かなかった。いつも通りの服装だし変なところは何もない筈なのにそわそわするのだ。
 本当に変じゃないだろうかとまた鏡を見るけれど変化している部分なんて当然有りはしない。そして今から着替えるといっても周は似たようなデザインの服しか持っていないため似たようなコーディネートしか出来上がらない。つまり、何をしても無駄な足掻きというやつになる。

「あーちゃん、今日はなんだかそわそわしてるのねえ」
「!」

 ひょこりと顔を覗かせたトメの声に周は猫のように肩を跳ねさせた。ギギ、とぎこちなく顔を向けるとそこにはいつも通り優しげな顔をしたトメがいて、自然と肩から力が抜けていくのがわかった。

「ばあちゃん」
「さっくんとお出掛けなんでしょう? いつものことじゃない」
「そ、そうなんだけど」
「大丈夫よ」

 のんびりと穏やかに向けられた言葉は驚くほどすんなりと周の中に染み込んでいく。

「あーちゃんは可愛いから大丈夫」
「……可愛いは複雑かも」
「あらぁ、いつまで経ってもどれだけ大きくなっても子供も孫もみんな可愛いのよぉ」
「…そういうもの?」
「そういうものですよ」

 緊張していたのが嘘みたいに解けていくのがわかった。すう、と大きく息を吸ってから吐き出すと周は気の抜けた笑みを浮かべた。

「ありがとうばあちゃん。行ってきます」
「はいはい、気をつけて行ってくるんだよ」

 にこにこと優しく頬みながら控えめに手を振るトメに手を振り返して周は扉に手を掛け、家から出る前にリビングにいる明子に大きな声で「行ってきます」と告げてから玄関を開けた。途端にやって来る熱気と眩しさに夏を感じながら外へと踏み出して玄関を閉める。
 その間際に見えた祖母の表情はどこまでも優しくて、まさか今から孫が男と、それも咲良とデートに行くなんて夢にも思っていないんだろうなと思うと何故だか胸が痛んだ。
 もう一度小さく深呼吸をしてから空を見上げるとそこにはどこまでも澄んでいる青がある。もくもくと浮かぶわたあめみたいな入道雲も、直視出来ないくらい眩しい太陽も、ジリジリと肌を焼く熱も、五感に訴えかける全てが夏だ。

「あっつ」

 年々暑くなっている気がしているなと思いながら道に出るとそこに咲良の姿はなかった。けどどうせ徒歩数分もない距離だしなとサコッシュに入れたスマホを取り出してアプリを開くと「もう家出てる」とメッセージを。その際周は意図的に画面を見ないようにしていた。なぜならトーク画面は昨日の咲良のとんでもない爆弾発言で止まっているからである。
 その爆弾発言を見ないままもう一つメッセージを追加する。

「走って来なくていいよ」

 咲良は周を待たせることを昔から良しとしない。だから今回も先手を打っておかないとこの炎天下の中咲良はまず間違いなく走って来てしまう。まあ正直走っても歩いてもこれだけ暑かったら関係無いかもしれないが、それでも念のためと送信ボタンを押した。
 先程送ったものにも今のメッセージにも、もう既読がついている。それでも返信がないのを見るに急いでいるんだろうなと遠い目をしつつ周は防波堤に近付いた。
 周の家の前にある防波堤はちょうど海に出られるような設計になっていて、波止場ではよく釣りをしている人を見る。そしてその波止場の左手に海岸に降りれる階段があり、八月の帰省時期になるとどこかの家族連れで賑わうのだ。
 今日は海には降りずに波止場を進む。日が高いからか釣り人もおらず完全な貸切状態になったそこの先端にまで足を向けると太陽の光を反射して宝石のように輝く海が視界いっぱいに広がった。