「そんなに急がなくて良かったのに」
額に滲んだ汗に前髪が張り付き、肩で息をしている咲良の姿に声を掛ける。相当急いでくれたのか、それとも既に下校途中だったのか尋常でない様子がおかしくて笑っている周に咲良の整った眉が寄る。
「…急ぐだろ、あまね部活あるのに」
「うん、そうだね」
周は真面目だ。だからどれだけ咲良が納得していなかろうと寂しがろうと部活がある時だけはそちらを優先していたし、これからもそれを曲げるつもりはない。けれど今日は。今日だけはこの勢いのまま突っ走らなくてはならないと、そう直感していた。
「とりあえず座って」
隣をぽんぽんと叩くと咲良は素直に腰掛けた。その状態でも咲良の方が目線が高く、いつの間にか大きくなったなぁとまるで親戚のような感想を抱いたがすぐに頭を振ってその思いを退けやる。
いつもと違う周の様子に咲良はどこか落ち着きがなく、何故か行儀良く膝の上に置かれた手が拳を握ったり緩めたりを繰り返していた。蒸し暑い放課後の踊り場、窓から差し込む日の光と吹奏楽部の音がするこの時間を咲良と校舎で過ごすのは初めてだった。
「咲良さん」
「…なんすか」
「デー…、……で、出掛けよう、今度」
「今デートって言おうとした」
「してない」
「した!」
「してない!」
「した!」
隣り合って前を向いていたはずなのにいつの間にか向き合って言い争っていれば、周の顔を見た咲良が一拍間を置いたあと、ぼふんと音がしそうなくらい顔を赤くした。イケメンは顔を赤くしてもイケメンなんだな、なんて思う余裕はその時の周にはなかった。
「なに顔赤くしてんだよ…!」
「あ、あまねだって赤いじゃん! ていうか俺より先に赤かったし」
「しょうがないだろ」
周はまた前を向いて、両手で口元を覆った。細く長く息を吐き、目線を迷子みたいに彷徨わせたあと薄く唇を開いた。
「…デートに誘うのなんて、初めてだし」
デート、今度こそ言い逃れが出来ないほどはっきりと口に出した言葉は想像以上に攻撃力が高くて周は羞恥心に顔どころか耳まで赤く染めた。暑いからなんて気温のせいには出来ないくらいに顔が熱い。運動した時とはまた違う汗の滲み方に周は再び息を吐いた。
「……ねえ、咲良お願いだからリアクションして。おれ恥ずかしくてしんじゃう」
「無理」
口元を覆っている周と同じくぐもった声が聞こえた。そろりと横を見ると周と全く同じポーズをして、そして周と同じかそれ以上顔を赤くした咲良がいて周は目を瞬かせた。
放課後の校舎、夏場の暑い屋上の扉の前で並んで座る男子高校生が二人顔を赤くしている図はとても奇妙だろう。
「…なんでおれより咲良の方が照れてるんだよ」
「……あまねの照れが移ったのと、あと、うれしくてしにそう」
熱のこもった息を吐き出しながら囁かれた言葉に周は下唇を噛んだ。そうしないと何かが耐えられなくなる気がしたからだ。
「…ん、する。あまねとデートする」
噛み締めるように発せられた言葉が容赦無く周を襲って来る。だがしかし自分がした発言だと思い出掛かった言葉を飲み込んで小さく頷いた。ただ用件はこれだけではないのだと周は今でも体の中で暴れ回る羞恥心を落ち着かせる為に深く息を吸い込んだ。
「デート、だけど。……咲良への答えじゃない」
授業中ずっと考えて、そして考えるだけ無駄なのかもしれないと判断したあの瞬間。わからないのであれば、どっちに転ぶかのキッカケも掴めないのであれば、行動に移ればいいのだと判断した。その結果が今だ。
「咲良はおれのこと、好きで、いてくれてるけど。…おれはその、わからないから。だからこれはその、試験期間というか」
しどろもどろで話す周の横顔に咲良の視線が注がれる。視線で焼かれそうだと思いながら、気まずい空気の中ちらと横を見ると、そこには思いの外優しげな顔をした咲良がいて虚をつかれた。
「わかった」
微笑みすら浮かべて嬉しそうに頷いた姿に周はまた瞬く。
「…え、いいの」
自分から言い始めたことなのに思わずそんなことを問いかけてしまった。その言葉に咲良は軽く笑って頷いた。
「いいよ」
簡潔な答えに今度こそ周は体から力を抜いた。どうやら相当緊張していたらしいと今になって気が付く。
「あまねが俺のこと考えてくれんの嬉しい。…無理だって思わないで向き合おうとしてくれてありがと」
それにさ、と続けた咲良はどことなくバツの悪そうな顔をした。
「…俺、アピールするって言ったのに全然出来てねえし、むしろカッコ悪いとこばっか見せてるしであまねに好かれる要素ねえよなってちょっと凹んでだ」
「…おれさっくんの格好いいとこなんて見たことあったかなぁ」
「は?」
いつもの低い声で詰められて周は笑った。その声が誰もいない踊り場に響いて、吹奏楽部の音と混ざって消えていく。
「嘘だよ。スポーツしてる時は格好いい。体育祭の徒競走も格好良かったよ」
「…それ以外は?」
「基本的に可愛いの圧勝ですね」
親指を立てて答えると咲良が見るからに複雑そうに表情を歪めるけれど、思い当たる節があったのか押し黙ってしまった。
少しでも都合が悪くなると黙る癖も相変わらずだなと思いながら周は膝を抱えた。もうそろそろ部活が始まる時間だろうか。ならあとはスマホで連絡を取り合うか。また時間を取って貰えばいいかなと考えていた時だ。
「あまね」
すぐ側で声が聞こえる。
振り向いた先にあったのは思っていたよりもずっと近い距離にある咲良の顔で、思わず目を丸くする。そんな状態でも長い睫毛が綺麗だなと思った。
「な、に」
少しだけ重心を後ろにするけれど相変わらず距離は近い。喋れば息が掛かる程だ。
「…触ってもいい?」
「ぇ」
真剣で、少し熱っぽい目が周を射抜く。聞いたことのない咲良の声に、視線に、鼓動が走り出す。固まってしまった周を見て咲良が片側の口角を上げた。見たことのない顔だったけれど、周は漠然と思った。“男の人みたいな顔”だなと。
周の答えを聞く前に咲良の手が周の手を取った。手を触られるなんて慣れている筈なのに、周の両手を咲良が掬うように触れて親指の腹で手の甲を優しく撫でる。
そんな触られ方、もちろんされたことがない。
「さ、くら…」
「ん」
周の困惑は伝わっている筈なのに咲良は聞いているかどうかわからない返事をするだけで動きは止めず、今度は手のひらが手首を握った。咲良の手は大きくて、周の手首を掴むと親指と中指が完全にくっつくどころか少し余ってしまうのだ。
そしてその手がどんどん上に向かい、距離が0になる。
「……」
周は今、咲良に抱き締められていた。
長い腕が背中に回り、肩口に額が当たる。体温も香りも随分と慣れたもののはずなのに、まるで全然違うもののように感じた。心臓が酷くうるさかった。
「……はぁ」
まるで何かを堪えるような息を咲良が吐いた。背中に回った腕の力が強まり、もう0だと思っていた距離が更に縮まって夏のせいで暑くて仕方がないのに、どうしてだか離れるという選択肢が浮かばなかった。
「…あまね、好き。好きだよ」
痛いくらいの思いを込めて告げられた言葉に今の周が返せるものはなに一つ存在しない。何かを言うことも、背中に腕を回すことも出来ない。それでも好きだと伝えられる度に、周の心は酷く締め付けられた。それと同時に痛感した。
『勘違いじゃねえから』
そう周の目を真っ直ぐ見つめながら伝えられた言葉は確かに真実だったのだ。わかっていた筈なのに、周は今日もまた思い知らされたのだった。
額に滲んだ汗に前髪が張り付き、肩で息をしている咲良の姿に声を掛ける。相当急いでくれたのか、それとも既に下校途中だったのか尋常でない様子がおかしくて笑っている周に咲良の整った眉が寄る。
「…急ぐだろ、あまね部活あるのに」
「うん、そうだね」
周は真面目だ。だからどれだけ咲良が納得していなかろうと寂しがろうと部活がある時だけはそちらを優先していたし、これからもそれを曲げるつもりはない。けれど今日は。今日だけはこの勢いのまま突っ走らなくてはならないと、そう直感していた。
「とりあえず座って」
隣をぽんぽんと叩くと咲良は素直に腰掛けた。その状態でも咲良の方が目線が高く、いつの間にか大きくなったなぁとまるで親戚のような感想を抱いたがすぐに頭を振ってその思いを退けやる。
いつもと違う周の様子に咲良はどこか落ち着きがなく、何故か行儀良く膝の上に置かれた手が拳を握ったり緩めたりを繰り返していた。蒸し暑い放課後の踊り場、窓から差し込む日の光と吹奏楽部の音がするこの時間を咲良と校舎で過ごすのは初めてだった。
「咲良さん」
「…なんすか」
「デー…、……で、出掛けよう、今度」
「今デートって言おうとした」
「してない」
「した!」
「してない!」
「した!」
隣り合って前を向いていたはずなのにいつの間にか向き合って言い争っていれば、周の顔を見た咲良が一拍間を置いたあと、ぼふんと音がしそうなくらい顔を赤くした。イケメンは顔を赤くしてもイケメンなんだな、なんて思う余裕はその時の周にはなかった。
「なに顔赤くしてんだよ…!」
「あ、あまねだって赤いじゃん! ていうか俺より先に赤かったし」
「しょうがないだろ」
周はまた前を向いて、両手で口元を覆った。細く長く息を吐き、目線を迷子みたいに彷徨わせたあと薄く唇を開いた。
「…デートに誘うのなんて、初めてだし」
デート、今度こそ言い逃れが出来ないほどはっきりと口に出した言葉は想像以上に攻撃力が高くて周は羞恥心に顔どころか耳まで赤く染めた。暑いからなんて気温のせいには出来ないくらいに顔が熱い。運動した時とはまた違う汗の滲み方に周は再び息を吐いた。
「……ねえ、咲良お願いだからリアクションして。おれ恥ずかしくてしんじゃう」
「無理」
口元を覆っている周と同じくぐもった声が聞こえた。そろりと横を見ると周と全く同じポーズをして、そして周と同じかそれ以上顔を赤くした咲良がいて周は目を瞬かせた。
放課後の校舎、夏場の暑い屋上の扉の前で並んで座る男子高校生が二人顔を赤くしている図はとても奇妙だろう。
「…なんでおれより咲良の方が照れてるんだよ」
「……あまねの照れが移ったのと、あと、うれしくてしにそう」
熱のこもった息を吐き出しながら囁かれた言葉に周は下唇を噛んだ。そうしないと何かが耐えられなくなる気がしたからだ。
「…ん、する。あまねとデートする」
噛み締めるように発せられた言葉が容赦無く周を襲って来る。だがしかし自分がした発言だと思い出掛かった言葉を飲み込んで小さく頷いた。ただ用件はこれだけではないのだと周は今でも体の中で暴れ回る羞恥心を落ち着かせる為に深く息を吸い込んだ。
「デート、だけど。……咲良への答えじゃない」
授業中ずっと考えて、そして考えるだけ無駄なのかもしれないと判断したあの瞬間。わからないのであれば、どっちに転ぶかのキッカケも掴めないのであれば、行動に移ればいいのだと判断した。その結果が今だ。
「咲良はおれのこと、好きで、いてくれてるけど。…おれはその、わからないから。だからこれはその、試験期間というか」
しどろもどろで話す周の横顔に咲良の視線が注がれる。視線で焼かれそうだと思いながら、気まずい空気の中ちらと横を見ると、そこには思いの外優しげな顔をした咲良がいて虚をつかれた。
「わかった」
微笑みすら浮かべて嬉しそうに頷いた姿に周はまた瞬く。
「…え、いいの」
自分から言い始めたことなのに思わずそんなことを問いかけてしまった。その言葉に咲良は軽く笑って頷いた。
「いいよ」
簡潔な答えに今度こそ周は体から力を抜いた。どうやら相当緊張していたらしいと今になって気が付く。
「あまねが俺のこと考えてくれんの嬉しい。…無理だって思わないで向き合おうとしてくれてありがと」
それにさ、と続けた咲良はどことなくバツの悪そうな顔をした。
「…俺、アピールするって言ったのに全然出来てねえし、むしろカッコ悪いとこばっか見せてるしであまねに好かれる要素ねえよなってちょっと凹んでだ」
「…おれさっくんの格好いいとこなんて見たことあったかなぁ」
「は?」
いつもの低い声で詰められて周は笑った。その声が誰もいない踊り場に響いて、吹奏楽部の音と混ざって消えていく。
「嘘だよ。スポーツしてる時は格好いい。体育祭の徒競走も格好良かったよ」
「…それ以外は?」
「基本的に可愛いの圧勝ですね」
親指を立てて答えると咲良が見るからに複雑そうに表情を歪めるけれど、思い当たる節があったのか押し黙ってしまった。
少しでも都合が悪くなると黙る癖も相変わらずだなと思いながら周は膝を抱えた。もうそろそろ部活が始まる時間だろうか。ならあとはスマホで連絡を取り合うか。また時間を取って貰えばいいかなと考えていた時だ。
「あまね」
すぐ側で声が聞こえる。
振り向いた先にあったのは思っていたよりもずっと近い距離にある咲良の顔で、思わず目を丸くする。そんな状態でも長い睫毛が綺麗だなと思った。
「な、に」
少しだけ重心を後ろにするけれど相変わらず距離は近い。喋れば息が掛かる程だ。
「…触ってもいい?」
「ぇ」
真剣で、少し熱っぽい目が周を射抜く。聞いたことのない咲良の声に、視線に、鼓動が走り出す。固まってしまった周を見て咲良が片側の口角を上げた。見たことのない顔だったけれど、周は漠然と思った。“男の人みたいな顔”だなと。
周の答えを聞く前に咲良の手が周の手を取った。手を触られるなんて慣れている筈なのに、周の両手を咲良が掬うように触れて親指の腹で手の甲を優しく撫でる。
そんな触られ方、もちろんされたことがない。
「さ、くら…」
「ん」
周の困惑は伝わっている筈なのに咲良は聞いているかどうかわからない返事をするだけで動きは止めず、今度は手のひらが手首を握った。咲良の手は大きくて、周の手首を掴むと親指と中指が完全にくっつくどころか少し余ってしまうのだ。
そしてその手がどんどん上に向かい、距離が0になる。
「……」
周は今、咲良に抱き締められていた。
長い腕が背中に回り、肩口に額が当たる。体温も香りも随分と慣れたもののはずなのに、まるで全然違うもののように感じた。心臓が酷くうるさかった。
「……はぁ」
まるで何かを堪えるような息を咲良が吐いた。背中に回った腕の力が強まり、もう0だと思っていた距離が更に縮まって夏のせいで暑くて仕方がないのに、どうしてだか離れるという選択肢が浮かばなかった。
「…あまね、好き。好きだよ」
痛いくらいの思いを込めて告げられた言葉に今の周が返せるものはなに一つ存在しない。何かを言うことも、背中に腕を回すことも出来ない。それでも好きだと伝えられる度に、周の心は酷く締め付けられた。それと同時に痛感した。
『勘違いじゃねえから』
そう周の目を真っ直ぐ見つめながら伝えられた言葉は確かに真実だったのだ。わかっていた筈なのに、周は今日もまた思い知らされたのだった。