カチ、シャーペンから芯を出す音がした。
六×五、もしくは六の机が並ぶ教室では教科書を見ながら授業を進める教師の声と、黒板にチョークで字を書く音がする。そこにノートを取るシャーペンの音が混ざったり、こそこそと内緒話をするクラスメイトの声が混ざったりした。
季節は初夏、というには些か暑くなり過ぎた七月の半ば。あと一週間も学校に通えば夏休みに突入するといった時期。窓もドアも全開にした教室には海から運ばれてくる冷えた風が山肌を抜けて入り込み、異常気象だと言われる昨今でも嘘みたいに涼しい。
それでも暑いものは暑くて、男子の中には制服のズボンの裾を膝の上まで捲り上げ半袖シャツの裾も上げている者がいるし、女子もスカートを膝上まで捲っている人もいた。
そんな慣れた日常の中、周はぼんやりとノートを見ていた。
たまに板書をしているから授業の内容が書かれているのだが、今日はそれをいまいち理解出来ていない。というのも、今周の頭の中を閉めているのは別のことだからだ。
(……咲良はどうしておれが好きなんだろう)
もう何度目かわからない自問だった。告白された時から今日までふわりとそう考えることはあったけれど、ここ最近は真面目に考えるようになった。理由は明白で、体育祭の打ち上げの日咲良が自分をどういう目で見ているかはっきりと理解したからだ。
セックスという言葉には確かに驚いているし、今も思い出すだけで恥ずかしさやら難しさやらで眉間に力が入ってしまう。だけど、と周はもう一歩思考の深くへと足を進めた。
嫌なのかと自問してみる。咲良と肌を合わせる自分を想像してみる。正直、出来てしまった。当たり前のように自分が組み敷かれる側なのは多少どころではなく複雑ではあったが、それでも咲良と性行為は別として、裸で抱き合えるかと問われたら周はYESと答えることが出来る。それくらい咲良は周にとって“大丈夫”な側の人間だ。
だけど頭の中でもう一本の枝分かれした道を作る。
──なら、恋人になれるか?
この問いに周はまだ答えを出せていなかった。否、多分出ているけれど、それを伝えたことで咲良に悲しい顔をさせるのがどうしても嫌だった。そう、つまり周は咲良と恋人になれるのかという問いかけには限りなくNOなのだ。
多分、やろうと思えばキスもセックスも出来る。やり方なんてわからないけれど、多分出来るという根拠のない自信があった。だけど恋人は難しいと、そう思ったのだ。
いつの間にか出し過ぎていたシャーペンの芯をノートに当てて適正の長さへと戻す。そのままぺらりとノートを捲って、まっさらなページにした。そこにペンの先を当てて、周は思いつく限りの将来のことを書き出していく。
高校を卒業した後のこと、自分の将来の夢のこと、どんな人生になるのかという予想。そこには当然のように“結婚”と“子供”の文字があったし、疑いようのない未来だと漠然と周は思っていた。つい最近までは。
あまりに簡易的な人生設計図の横に咲良の名前を書く。そうなると書いていた結婚と子供の文字に斜線を引いた。たったこれだけのこと。たったそれだけの行為なのに、その先を思うと周は得体の知れない恐怖に襲われるのだ。
「で、あるからにして〜」
教師が教科書を持ったまま教壇から降りたのを見て咄嗟に教科書でノートを隠す。黒板を見ると知らない情報が沢山書かれていて、周は慌ててページを戻してそれを写していればどうやら寝ていた生徒を起こしに来たらしい教師が該当する生徒の前で立ち止まりそこで授業の解説を行い始めた。
眠っているのはクラスのお調子者の西田で、周りはその様子を可笑しそうに見ている。何度も見た日常の景色なのに、不意にこれがとても新鮮なものに思えた。
それから少しして西田は目を覚まし、すぐそばにいる教師の姿に大袈裟に驚いて見せた。クラスはどっと笑いに包まれ、教師も笑いながら教壇に戻ってまた情報を書き込んでいく。そこまで眺めて、また周はノートに視線を落とした。
書かれている内容はあまりにも簡略的な人生設計図。ただ箇条書きにして、未来の中のきっと最大とも取れる重大事項の二つを消した物。たった数分前まで周はこの図面に恐怖していた。でもたった数分でも時間を置いて見てみるとそれはただの文字の羅列に過ぎない。
周は目立たない程度に細く長く息を吐き出して、人生設計図に×を書いた。
(未来なんて、わからない)
恋人になれないのは、未知の未来が怖いからだ。周はそう結論付けた。でもそれはきっと咲良だって同じはずだ。否きっと周への好意を自覚したその瞬間から咲良は周には想像出来ない程の恐怖と不安と共にあったはずなのだと、これも根拠なく確信していた。
(多分咲良とはキス出来るし、それ以上も、やり方とか全然知らないけど、多分出来る)
男同士でこんな行為を想像すること自体きっと普通ではない。普通じゃないと周も思っていた。だけどそんな境界線はキッカケさえあれば案外簡単に踏み越えることが出来るのだと周はもう知ってしまった。
それに元々周と咲良は世間一般でいう普通の幼馴染とはあの夜の海で既に違っている。自分たちには普通じゃない絆があると周も、そして多分咲良も自覚している。
それならば、必要なものはなんなのか。
キーンコーンカーンコーン
「!」
鳴り響いたチャイムの音に周はばっと顔を上げた。授業の終わりを告げる音が鳴り、教卓で資料の角を揃えた教師が「終わるぞー」と言えば日直の号令があり、教師がいなくなって教室は生徒だけの空間になる。今日の授業はこれが最後で、この後掃除があってHRがあって、それから放課後だ。今日は部活があるから周と咲良は一緒には帰れない。けれど、と放課後になり部活動に行く友人たちを見送りながら周はバッグからスマホを取り出して電源を入れた。
様々な通知を無視して一番に開いたのはメッセージアプリ。そこからいつでも一番上に表示されている咲良を選んで一瞬でも躊躇が生まれないように勢いのまま画面をタップして文章を打ち込み、勢いのまま送信した。
『特別棟の屋上の踊り場集合』
周はバッグを持ち上げて肩に掛け、教室から出た。白高は大きく分けて三つの校舎に別れている。一つ目は職員室や家庭科室、体育館へ続く通路がある管理棟。生徒が主に過ごす普通棟。そして音楽室や美術室、剣道部の練習場である武道館へと続く通路がある特別棟だ。周の所属している茶道部も特別棟にあって放課後の時間帯は生徒の往来が激しい。
二年の渡り廊下から特別棟へと足を進め、いつもは右に向かうところを周はそのまま階段へと足を掛けた。そのまま三階へと上がり、そして四階に進む。正確に言えば三階から上は存在せず、あるのは屋上へと続く階段のみだ。
けれど屋上の扉は施錠されていて開く事はなく、いつでもそこだけ不気味な程に静まり返っている。一気にそこまで駆け上がった周の息はすっかり乱れていて立ち止まった瞬間じわりと汗が噴き出た。
それを手の甲で拭って踊り場に腰を下ろし、バッグに入れたままのスマホを取り出した。通知に咲良の名前は無く、もしかして帰ったかなと思いながらもう一度アプリを開くと返事はないけれど周の送ったメッセージには既読が着いていた。それだけで周には咲良がここに来るという確信が持てるのだから、いかに咲良がこれまで周を優先してきたかを改めて理解して胸がきゅう、と狭くなる。
スマホをバッグにしまい、それから数分と経たず階段を上がってくる音がした。何段か飛ばしでやってくる音が近づくとそこに荒くなった呼吸が混ざる。それが誰かなんてことはもうわかりきっていて、最後の一段を上がりきって現れた姿に思わず周は笑ってしまった。
六×五、もしくは六の机が並ぶ教室では教科書を見ながら授業を進める教師の声と、黒板にチョークで字を書く音がする。そこにノートを取るシャーペンの音が混ざったり、こそこそと内緒話をするクラスメイトの声が混ざったりした。
季節は初夏、というには些か暑くなり過ぎた七月の半ば。あと一週間も学校に通えば夏休みに突入するといった時期。窓もドアも全開にした教室には海から運ばれてくる冷えた風が山肌を抜けて入り込み、異常気象だと言われる昨今でも嘘みたいに涼しい。
それでも暑いものは暑くて、男子の中には制服のズボンの裾を膝の上まで捲り上げ半袖シャツの裾も上げている者がいるし、女子もスカートを膝上まで捲っている人もいた。
そんな慣れた日常の中、周はぼんやりとノートを見ていた。
たまに板書をしているから授業の内容が書かれているのだが、今日はそれをいまいち理解出来ていない。というのも、今周の頭の中を閉めているのは別のことだからだ。
(……咲良はどうしておれが好きなんだろう)
もう何度目かわからない自問だった。告白された時から今日までふわりとそう考えることはあったけれど、ここ最近は真面目に考えるようになった。理由は明白で、体育祭の打ち上げの日咲良が自分をどういう目で見ているかはっきりと理解したからだ。
セックスという言葉には確かに驚いているし、今も思い出すだけで恥ずかしさやら難しさやらで眉間に力が入ってしまう。だけど、と周はもう一歩思考の深くへと足を進めた。
嫌なのかと自問してみる。咲良と肌を合わせる自分を想像してみる。正直、出来てしまった。当たり前のように自分が組み敷かれる側なのは多少どころではなく複雑ではあったが、それでも咲良と性行為は別として、裸で抱き合えるかと問われたら周はYESと答えることが出来る。それくらい咲良は周にとって“大丈夫”な側の人間だ。
だけど頭の中でもう一本の枝分かれした道を作る。
──なら、恋人になれるか?
この問いに周はまだ答えを出せていなかった。否、多分出ているけれど、それを伝えたことで咲良に悲しい顔をさせるのがどうしても嫌だった。そう、つまり周は咲良と恋人になれるのかという問いかけには限りなくNOなのだ。
多分、やろうと思えばキスもセックスも出来る。やり方なんてわからないけれど、多分出来るという根拠のない自信があった。だけど恋人は難しいと、そう思ったのだ。
いつの間にか出し過ぎていたシャーペンの芯をノートに当てて適正の長さへと戻す。そのままぺらりとノートを捲って、まっさらなページにした。そこにペンの先を当てて、周は思いつく限りの将来のことを書き出していく。
高校を卒業した後のこと、自分の将来の夢のこと、どんな人生になるのかという予想。そこには当然のように“結婚”と“子供”の文字があったし、疑いようのない未来だと漠然と周は思っていた。つい最近までは。
あまりに簡易的な人生設計図の横に咲良の名前を書く。そうなると書いていた結婚と子供の文字に斜線を引いた。たったこれだけのこと。たったそれだけの行為なのに、その先を思うと周は得体の知れない恐怖に襲われるのだ。
「で、あるからにして〜」
教師が教科書を持ったまま教壇から降りたのを見て咄嗟に教科書でノートを隠す。黒板を見ると知らない情報が沢山書かれていて、周は慌ててページを戻してそれを写していればどうやら寝ていた生徒を起こしに来たらしい教師が該当する生徒の前で立ち止まりそこで授業の解説を行い始めた。
眠っているのはクラスのお調子者の西田で、周りはその様子を可笑しそうに見ている。何度も見た日常の景色なのに、不意にこれがとても新鮮なものに思えた。
それから少しして西田は目を覚まし、すぐそばにいる教師の姿に大袈裟に驚いて見せた。クラスはどっと笑いに包まれ、教師も笑いながら教壇に戻ってまた情報を書き込んでいく。そこまで眺めて、また周はノートに視線を落とした。
書かれている内容はあまりにも簡略的な人生設計図。ただ箇条書きにして、未来の中のきっと最大とも取れる重大事項の二つを消した物。たった数分前まで周はこの図面に恐怖していた。でもたった数分でも時間を置いて見てみるとそれはただの文字の羅列に過ぎない。
周は目立たない程度に細く長く息を吐き出して、人生設計図に×を書いた。
(未来なんて、わからない)
恋人になれないのは、未知の未来が怖いからだ。周はそう結論付けた。でもそれはきっと咲良だって同じはずだ。否きっと周への好意を自覚したその瞬間から咲良は周には想像出来ない程の恐怖と不安と共にあったはずなのだと、これも根拠なく確信していた。
(多分咲良とはキス出来るし、それ以上も、やり方とか全然知らないけど、多分出来る)
男同士でこんな行為を想像すること自体きっと普通ではない。普通じゃないと周も思っていた。だけどそんな境界線はキッカケさえあれば案外簡単に踏み越えることが出来るのだと周はもう知ってしまった。
それに元々周と咲良は世間一般でいう普通の幼馴染とはあの夜の海で既に違っている。自分たちには普通じゃない絆があると周も、そして多分咲良も自覚している。
それならば、必要なものはなんなのか。
キーンコーンカーンコーン
「!」
鳴り響いたチャイムの音に周はばっと顔を上げた。授業の終わりを告げる音が鳴り、教卓で資料の角を揃えた教師が「終わるぞー」と言えば日直の号令があり、教師がいなくなって教室は生徒だけの空間になる。今日の授業はこれが最後で、この後掃除があってHRがあって、それから放課後だ。今日は部活があるから周と咲良は一緒には帰れない。けれど、と放課後になり部活動に行く友人たちを見送りながら周はバッグからスマホを取り出して電源を入れた。
様々な通知を無視して一番に開いたのはメッセージアプリ。そこからいつでも一番上に表示されている咲良を選んで一瞬でも躊躇が生まれないように勢いのまま画面をタップして文章を打ち込み、勢いのまま送信した。
『特別棟の屋上の踊り場集合』
周はバッグを持ち上げて肩に掛け、教室から出た。白高は大きく分けて三つの校舎に別れている。一つ目は職員室や家庭科室、体育館へ続く通路がある管理棟。生徒が主に過ごす普通棟。そして音楽室や美術室、剣道部の練習場である武道館へと続く通路がある特別棟だ。周の所属している茶道部も特別棟にあって放課後の時間帯は生徒の往来が激しい。
二年の渡り廊下から特別棟へと足を進め、いつもは右に向かうところを周はそのまま階段へと足を掛けた。そのまま三階へと上がり、そして四階に進む。正確に言えば三階から上は存在せず、あるのは屋上へと続く階段のみだ。
けれど屋上の扉は施錠されていて開く事はなく、いつでもそこだけ不気味な程に静まり返っている。一気にそこまで駆け上がった周の息はすっかり乱れていて立ち止まった瞬間じわりと汗が噴き出た。
それを手の甲で拭って踊り場に腰を下ろし、バッグに入れたままのスマホを取り出した。通知に咲良の名前は無く、もしかして帰ったかなと思いながらもう一度アプリを開くと返事はないけれど周の送ったメッセージには既読が着いていた。それだけで周には咲良がここに来るという確信が持てるのだから、いかに咲良がこれまで周を優先してきたかを改めて理解して胸がきゅう、と狭くなる。
スマホをバッグにしまい、それから数分と経たず階段を上がってくる音がした。何段か飛ばしでやってくる音が近づくとそこに荒くなった呼吸が混ざる。それが誰かなんてことはもうわかりきっていて、最後の一段を上がりきって現れた姿に思わず周は笑ってしまった。