「さっくん」

 あれだけ話せと暴れ回っていた手が、今度は周の服を千切るんじゃないかってくらいの力で握っている。ひっくとしゃくり上げる背中をぎこちなく撫でながらおずおずと声を掛けると、咲良は我慢していたものを全て吐き出すように話し出した。

「お父さんと、お母さん…っ、い、いなくなっちゃった…っ! どっか、行っちゃったっ」

 明子が言っていたことを思い出した。

『さっくんのママとパパがね、その、遠くに行っちゃったんだ。だからさっくんはこれからフミさんと一緒にいるんだけどね』

 明子が言葉を詰まらせながら、それでもぽつぽつと話してくれた。

『…さっくんすごく寂しいと思うから、周がいっぱい遊んであげるんだよ』

 見たことがない悲しそうな顔をした母の言葉に周は意味も分からず頷いた。“咲良が寂しがっている”そのことしか理解出来なかったけれど、今この世界の悲しいものを全部詰め込んだような泣き方をしている幼馴染を見て、周はいっそう腕に力を込めた。

「だいじょぶ、だいじょうぶだよ」

 周が泣くといつも祖母がそうやって撫でてくれるみたいに、周も咲良を撫でる。腕の中で咲良が首を横に振る。大丈夫じゃないって全身で訴えていた。だけど周はなんて言ったらいいのかなんて分からなくて、おもちゃみたに「大丈夫だよ」と繰り返した。



 咲良の両親は奔放な人だった。母親はフミの娘で、幼い頃から厳しく育てられた反動か高校卒業と同時に家を飛び出して、そうして出会った男性との間に子供を儲けた。それが咲良だった。
 当時は泣きながらフミを頼ってきたらしい。フミはそれは激昂したが、それでも最後には受け入れて咲良の世話をすると決めた。その頃すでにフミの夫は亡くなっていて、これから娘と孫とやっていこうと決意していたのに、お腹の子の父親が現れた。

 最初は良かった。きちんと子供を認知してここまで娘を探しに来てくれたのだと、フミは感動すら覚えた。けれど徐々にその感情は消えていくことになる。二人は、親になるには若過ぎたのだ。一人の人間の親になるには、あまりに未熟だったのだ。

 咲良が成長するにつれて喧嘩が増えた。父親の帰りが遅くなっていった。それに娘が苛ついて、男が帰ってきたら口論になった。時には物を投げ、怒鳴り合うこともあった。フミはそれを懸命に止めようとしたけれど、なんの力にもなりはしなかった。フミができたのは両親の諍いの声が咲良の耳に入らないように、細心の注意を払うことだけだった。
 そしてそんな日々が続いたある日のこと、フミの娘が発狂したように取り乱しながら男に掴み掛かった。「お前不倫してるだろ」般若のような顔で叫んだ娘の言葉に、フミは目の前が真っ白になった。

 気が付いたら、男は家から出て行っていた。ぼろぼろになった娘は生気を失った顔で二日程寝室から出て来なかった。その間の咲良の世話は全てフミがしていた。
 そして二日経ったある日、寝室から出てきた娘はいやにめかしこんでいて、フミは血の気の引くような悪い予感に眩暈がしそうだった。

「母さん、あたしあの子いらない」
「あいつそっくりな子どもいらない」
「あいつが好きに生きてるのに、あたしがそうしちゃいけない理由があるはずない」

 咲良が学校に行っている間の出来事だった。
 咲良は、まるで飽きられたおもちゃのように捨てられたのだ。




 夜の海辺で咲良の引き攣った声が雨みたいに落ちていく。

「おれ、が、ずっと家、帰らなかったら…っ、母さんが、さがしに来てくれるって、おもっ、た、のに…っ」

 大きな目からぼたぼたと涙が流れている。

「なんで、あーちゃんが来るんだよっ! あーちゃんが来ちゃったら、母さんが来てくれない! あーちゃんのせいで、母さん来てくれなくなったじゃんか!」

 いつもの周なら怒っていたと思う。咲良の感情に触発されて同じくらいの声の大きさで怒って、一緒に泣いていたと思う。だけど今の周はとても落ち着いていた。真正面から泣きじゃくってまた暴れる咲良を抱き締めながら口を開いた。

「ごめんね」

 ぴたりと咲良の動きが止まった。それでも構わず周は喋った。

「さっくんのママじゃなくてごめんね」

 二人の間に少しだけ静かな時間が流れた。波の音と、虫の声だけが聞こえる。

「うあ…、ぁ…」

 小さな手が周の背中に回って、今出せる精一杯の力で服を握った。それから咲良は大きな声で泣いた。耳のすぐ側だったからちょっとうるさかったけど、周は何も言わずにぎゅっと咲良を抱き締める。
 夜の海はとても静かで、咲良の声はとても良く響いていた。このまま咲良のお母さんにこの声が届けばいいのにって、そう思った。
 大きな声でたくさん泣いた咲良はいつの間にか周に抱き着いたまま眠ってしまっていた。それにほっとしたのも束の間、海岸の側の道路から人の声がした。大人の声だとすぐにわかった。でも周は声が出せなかった。なぜなら自分も言いつけを破った悪い子だからである。見つかったら怒られてしまうと思って声が出せなかったけれど、横からピカッと眩しい光に照らされて二人の影が遠くまで伸びた。

「周‼︎」

 明子の声だとすぐにわかった。周の心臓はバクバクだった。ぎゅうっと咲良のことを抱き締めながら咄嗟に叫ぶ。

「怒らないで!」

 走っていた明子の足が緩く止まって、肩で息をしながら周を見た。

「お、おれは怒ってもいいけど、さっくんは怒んないで…っ」

 周は今になって泣きそうになった。

「さっくん、寂しかっただけだから、さっくんのママに会いたかっただけだから、だから怒んないで」

 周は今どうして自分が泣いているのか分からなかった。感情が昂ったのか、今になって咲良につられてしまったのか分からないけれど、心が痛くてしょうがなかった。

「…怒らないよ」

 ふわりと、いつも周を慈しんでくれる香りがした。柔らかくて優しい匂いと温度に、母に抱き締められているのだとわかった。

「怒るわけないでしょ…!」

 明子の声も周と同じくらい震えていた。母も泣いているのだと理解した途端に、周の涙腺は決壊した。わんわんと声を上げて泣いていると少し遅れてやってきた父の優が息を切らしながら周の前に膝をついた。

「周」
「っ、はい」
「さっくんのこと、見つけてくれてありがとうね。……さあ、みんなで帰ろう。さっくんもフミさんも今日はうちで泊まりだね」

 穏やかな声にその場の空気が緩んだのがわかった。周のように声を上げることはなかったが、それでもしっかりと泣いた明子の顔は中々すごいことになっていてそれを見た優は笑うのを必死に堪えていた。

「みなさんもありがとうございました」
「良いってことよ。見つかって良かったなぁ」
「本当になぁ。南さんとこも気にしなくて良いからな。わしらがガキの頃なんぞこんなんしょっちゅうだったでな。あの頃の親の気持ちが知れて新鮮だったわ」

 泣き疲れて眠ってしまった咲良は優が抱え、周は明子に手を引かれながらゆっくりと家に帰る。途中合流した兄姉が心底ほっとした顔で周の頭を撫で回し、家に戻るまでの間会話はなかったけれど、それでも安心出来る空気が流れていたのを覚えている。
 家を出るときはあんなに怖かった夜の暗さがそのときはもう怖く無くなっていた。柔らかく照らしてくれる月明かりのおかげもあっただろうが、しっかりと手を繋いでくれる温もりが何よりも周を安心させた。
 そしてその日の夜は周の家の一番大きな部屋に敷布団を敷き詰めて、みんなで一緒に寝た。周はしっかりと咲良の横を陣取って、フミさんと一緒に咲良の寝顔を見ていた。
 フミさんの細くて皺の多い手が何度も何度も咲良の髪を撫でていた。

「周、ありがとうね」

 深くて一本芯の通った声がその時は掠れていた。もう何度も聞いた言葉に周は眠そうになりながら頷く。

「本当にありがとうね」
「…だいじょうぶだよ」

 一回瞬きをするごとに意識が一歩ずつ眠りへと進んでいくような気がする。ぼんやりとする意識の中、周はむにゅむにゅと口を動かした。

「だいじょうぶ」
 

 ───


 その日から周と咲良の関係は少しだけ変わった。見た目に何か変わったわけではないけれど、互いを特別に思うキッカケになったのは確かだった。
 だから周は誰よりも咲良の“寂しい”の感情に敏感になった。寂しいじゃなくても、咲良が辛そうだと思うことには敏感だった。だから、今も。

「……こういうのも、意識されてないみたいで微妙」
「それはちょっと聞けない相談かなぁ…」

 包まれていた手をするりと解いた周は咲良の頭を胸に寄せるように抱き締めた。微妙なんて言いつつも咲良はゆっくりと背中に手を回して周のことをぎゅう、と縋るように抱き締めた。