──遡ること十年と少し。

 周と咲良は小学生だった。当然その頃から仲が良く。暇があれば二人かもしくは他の幼馴染も交えて遊んでいた。咲良は当時から運動が出来たからか男子からも女子からも好かれていて、昼休みの時なんて毎日グラウンドで走り回っていた。
 周も運動が得意ではなかったがみんなと一緒に遊ぶのが楽しくて同じようにしっかりと遊んでいたし、学校が終わると今度は咲良と二人で夕方のチャイムが鳴るまで遊び耽った。

 狭く小さな世界だったが毎日が楽しくてしょうがなかった。ご飯が美味しいことも、学校で勉強ができることも友達と遊ぶことも、放課後は咲良といることも、その当時の周にとってはどれもが最上級で、いつだってショートケーキのいちごのような日々だった。
 けれどそんな日常がある時から綻びだした。

「さっくん、どうしたの?」

 夏が始まる前の、まだ朝が涼しいと思える時期。周と咲良は小学生の頃からいつも一緒に学校に行っていた。二人は当然のように手を繋いでお互いのペースでゆっくりと歩きながら昨日見たアニメの話や宿題の話をするのに、その日は違っていた。
 見るからに咲良の元気が無かった。お揃いの黄色い帽子を目深く被っていたから表情は見えなかったけれど、いつも周を見ると嬉しそうに笑う姿がその日は無かった。聞いても咲良は答えてくれなかった。ただいつもより手を握る力が強かったのを、周はぼんやりとだが覚えている。

 その数日後だった、明子から「さっくんのお家ね、」と言いづらそうに伝えられたのは。
 そしてちょうどその日だった。もう時計の針が夜の七時を過ぎた頃、もう日も暮れて暗くなった時間。フミが血相を変えて周の家にやって来たのは。

「咲良が! 咲良がいないんだよぉ! ねえトメ咲良が、咲良が」

 悲痛な叫びと共にトメの腕を掴んで玄関に座り込んだフミの姿に周は酷く動揺した。当時まだ家にいた周の兄と姉も、そして両親も事態を把握するなりすぐさま灯を持って外に飛び出した。
 周はまだ小さくて外に出ることを許されず、トメとフミと一緒に留守番を任せられていた。

「アタシが、アタシが悪いんだ。もっと強く娘を止めてりゃ、もっとちゃんと育ててれば」
「自分を責めちゃだめよフミちゃん。フミちゃんはずっと頑張ってるわよ、わたしはそれを知ってる。…さっくんも大丈夫よ、大丈夫」

 リビングのソファで二人が並んで座っているのを眺めていた。細くて皺がある手で顔を覆って泣いているフミの背中をトメが強くさすって宥めている光景は、未だに周の中に強く刻まれている。
 周はそんな二人に気付かれないように慎重に、忍者みたいにそろりそろりと足音を殺して玄関に向かった。ゆっくりと靴を履いて、音が立たないようにゆっくりと玄関のドアを開いて、そして閉める。
 ばくばくと激しく動く心臓を宥めながら玄関から外の道に出ると、そこは知っているはずなのに知らない道に見えた。お父さんもお母さんもいない、一人きりで見る夜の道はその時が初めてだった。

(夜に食べられそう)

 そんなことを思うくらいには真っ暗な闇が怖かった。だけど周は怖がりながら一歩を踏み出した。一歩を踏み出せたら、走るのまで時間は掛からなかった。
 怒られるかな、お留守番って言われたのにな、おばあちゃんたち大丈夫かな。そんな言葉がいくつも浮かぶのに周の足は止まらなかった。その理由はたった一つだ。

 咲良が寂しがっている、そう思ったからだ。

 周にとって咲良は弟のような存在で、自分が守るべきものだった。だから今自分が起こしている行動を周は間違っているなんて思わなかった。だって周は咲良のお兄ちゃんみたいなものなのだ。
 周には歳の離れた兄と姉がいる。二人ともお兄さんとお姉さんなのに周のかくれんぼに付き合ってくれるのだ。そして周がどこに隠れていてもいつだって魔法のように見つけてくれる。見つかってしまうのは悔しかったけど、それでもその瞬間は楽しくて嬉しい。
 歳の離れた兄たちがそうしてくれるように、周だって咲良にそうするのだ。

 懸命に走ってたどり着いたのは学校から少し離れた海だった。学校のグラウンドの側に神社があって、その神主さんが管理している林を抜けた先にある海。周たちの住んでいる地域からは海沿いの防波堤を真っ直ぐ進んでいれば辿り着ける場所。
 外は相変わらず暗いけれど、もうその時の周は怖くなかった。なぜなら大きな月が道と海を照らしてくれていて、薄暗くはあるけれど前が見えるからだ。

 はっ、はっ、息を弾ませながら周は砂浜を走った。スニーカーの中に砂が入って気持ち悪いけど、でも止まる気になんてなれなかった。海岸を真っ直ぐ進んだところにある、周の住む地域の人たちとは別の地域の港との境目、その岩場。
 大きな植物が垂れ下がって、まるで隠れ家みたいになっている場所があるのを周は知っている。そしてここに咲良がいると、周は根拠もなく確信していた。
 砂に膝をついて、木の枝をかき分けて顔を覗かせる。木の中は暗いけれど、それでもそこに“誰か”がいるのはわかった。

「さっくん」
「…あーちゃん…?」

 怯えたような、信じられないものを見たかのような、そんな掠れた声がした。

「…なんで」

 暗がりの中小さな声が落ちる。

「みんなさっくんがいなくなったって探してるよ。帰ろ、フミさんも心配して」
「なんであーちゃんが来るんだよ‼︎」

 どんっ! 強く体を押されて周は後ろ向きに倒れ、砂浜の傾斜のせいでそのまま後ろに一回転してしまった。何が起きたか分からず目を丸くしている周の上に誰かが乗った。咲良だ。

「なんで、なんであーちゃんなんだよっ、なんでっ」

 時々耳にキンとくるような声で叫びながら咲良が周の体を叩く。
 そんな咲良を見たことがなくて、周はあまりの驚きに固まってしまいされるがままだった。だけど、次に発された叫びにほとんど衝動ともいっていい反射で周は体を起こすことになる。

「なんで母さんと父さんじゃないんだよぉっ」

 どうしてそうしたのか周はわからなかった。だけどそうしなくちゃいけないと思って、周は精一杯腕を伸ばして咲良を抱き締めた。咲良はめちゃくちゃに暴れたし、何か言葉にならない声で叫んでいたけど周は意地でも離さなかった。絶対に離してやるもんかという固い決意で抱き締め続けた。
 どれくらいそうしていたかはわからない。でも咲良が落ち着いた頃にはもうお互いが全力で走った後みたいになっていて、夜で涼しいはずなのに汗で首筋が湿っていた。

「っ、ひ…、うぅー…」

 少し静かになった時、波の音と一緒に聞こえて来たのは押し殺したような咲良の泣き声だった。