気づけばこの夏、毎日夏実ちゃんと一緒だった。
八月も下旬に差し掛かろうとする今日の今日まで、毎日毎時間毎分毎秒、ほぼ一緒だった。それに慣れてしまった馬鹿な俺は、夏実ちゃんをだんだん鬱陶しく感じてしまっていた。しかも、それを涼にいに見透かされていた。恥辱感が体中を駆け巡る。今日会ったらすぐに謝ろう。
寝起きは最悪だった。浅い眠りで身体は重く、頭痛もする。
「爽くん、おはよう」
聞き覚えのない声に反応し、振り返って即座に正座し、目をこすってよく見ると、夏実ちゃんのお母さんだった。
「あ、おはようございます。珍しいですね」
「いつもなら夏実が率先して起こしに行くのにね。夏実の姿が見えんかったけん、てっきり爽くんと出かけとるんかと思っとったわ。いつもやったら先にどこに行くんかとか教えてくれるんやけど、妙やねえ」
「え、昨日の夜は?」
「え、一緒に帰ってきたんやないがか?」
喧嘩をしたなんて、何か言われそうで、言えなかった。
でも、それならあんな雨の中、一体どこへ行ってしまったのだろう。安全なところにいるのだろうか。心配になってきた。
「え、じゃあ、昨日はどこまで一緒におったが?」
「午前中は一緒に練習に付き合ってもらいましたが、それっきりですね。午後からは別行動だったので、てっきり家に戻っているのかと思っていました」
「昨日、昼ごはんのときに夏実も涼くんも爽くんも帰ってこんかったけん、みんなで出かけとったと思うとったわ。涼くんも夏実と一緒に別行動になったんかね?」
「いや涼にいは午後からも一緒に練習してもらって、三時頃には解散になりましたけど」
「なら、夏実とは別々のタイミングやね。ちょっと心配やね。電話かけてみよっか」
「ですね、お願いします」
夏実ちゃんのお母さんの顔が徐々に厳しくなっているのと比例して、思い出したように罪悪感がのしかかってきた。俺のせいでとんでもないことになったかもしれない。行方不明。失踪。そんな重たい単語がどんどん頭の中で蠢いていく。なんであの後すぐに連絡しなかったのだろう。すぐじゃなくても、夜でも連絡を取っていればこんな事態にはなっていなかったかもしれないのに。夏実ちゃんがいることが当たり前すぎて、いなくなることなんて想定外だった。
「夏実、電源切れとるみたいで全然繋がらんわ。爽くんごめん、心当たりあるところ、探してみてくれん? 今日はここを離れられんけん、うちはここで夏実が帰ってくるの待っとくけん」
「もちろんです。行ってきます」
昨日のが尾を引いているのだろう。不意に昨日の悲しげな夏実ちゃんの表情が浮かんでくる。直接夏実ちゃんに向けて言われたのではないとはいえ、あの状況で間接的にキツいことを言われている。しかもそのとき俺が味方になれずに曖昧な態度を取ってしまったのは、相当ショックだっただろう。今日会ったらすぐに謝ろうと思っていたのに、会えないのかもしれない。
みかん畑の中のグラウンドに行ってみたが、誰もいない。一緒にボール拾いをしてくれた夏実ちゃんが頭の中に浮かんできて、急に寂しさが襲ってきた。
昨日の雨のせいか、油照りの朝。じわりと湧いてくる汗でべたつく体に、今日は全く風が吹いてこない。一段下のみかん畑の横を通り、じめじめと生温かい空気を切り裂きながら、まずはバス停へと向かう。もしかしたら単に街に遊びに行っているだけかもしれないし、愛媛球団の応援に行っているだけかもしれない。バス停で待っているところを発見できるかもしれない。
焼かれた鉄板の様に熱い道路の上を歩き、獣道のようなトンネルを抜け、眩しさの中に出た。その横から続く深緑の森の小道は、木漏れ日に照らされて所どころ黄緑色に染められている。油照りの中でも心地よさを感じるこの道の先に、民宿に埋め込まれたような、あの純粋扉が今日も変わらず存在感を放っている。
もしかしたらと思って辺りを見回すが、夏実ちゃんはいない。この先の道をいけば神社がある。神社とは反対側に進めばバス停がある。とにかく知っているところを一つ一つ潰していくしかない。
苔の階段は上へ上へと続いており、神社の境内に向かって伸びている。森の中に佇む鳥居の奥には、あの苔のびっしり生えた神社が佇んでいる。夏祭りの日以来か。はじめて見た夏実ちゃんの浴衣姿が印象的で神社そのものはあまり印象になかった。でも森の中の神社は独特の雰囲気で、自然と心が落ち着く気がする。
引かれるように一段一段登っていき、鳥居をくぐって森の中に歩を進めると、またあの時みたいに狛犬と目が……合わなかった。ここにはいない、すれ違いだ、と言われているような気がした。日陰が日光を遮り、森に阻まれて風もない。ただ手水舎の中からちょろちょろと雫が水面を打つ音がするだけで、そこには人の気配はなかった。
鳥居を出て反対方向のバス停へと降りていく。熱気を感じる真っ黒の道路。緩やかな曲がり角まで真っすぐに伸びる道がまるで地平線の彼方にまで伸びるように感じる。先の見えない国道にゆらゆらと浮かぶ、吸い込まれそうな陽炎。その先にはバス停の錆びた看板が立っていた。
逃げ水を追うようにそこへ向かって歩いていく。いつもよりも歩幅は広く、スピードに乗っているような気がする。夏実ちゃんが見つかるかもしれないという薄い膜のような期待。そんな期待を抱きながらバス停に着いた。だがそんな期待も金魚すくいのポイのように簡単に破れてしまった。やっぱりここにもいなかった。
汗をぬぐうのも忘れていて、ふと気付いた時には顎先からも汗がぽとりと滴を垂らしていた。この汗は暑さから来るものなのだろうか。それとも焦りから来るものか。
夏実ちゃんの幻が一瞬だけ現れては消えた。熱気の中に佇む一瞬の幻。夏実ちゃんの姿を追いかけても蜃気楼のようにどんどん離れていく。身体的にも、精神的にも。
次のバスは、あと五〇分。前のバスは数分前にすでに出ていた。
しまった。もしかしたらそのバスに夏実ちゃんが乗っていた可能性がある。神社に寄り道していなかったら、もしかしたら間に合ったのかもしれない。
このまま五〇分間何もしないで待つようなことはしたくない。でも、当てがない。どうすれば良いのか分からず膝に手をついたとき、思い出した。夏祭りの日、夏実ちゃんが俺に肝試しに行こうと誘ってくれたことを。そしてそれが、バス停の向こうの鬱蒼とした森だったことを。もしかしたらその方向に進んでいるかもしれない。
夏実ちゃんに関するありとあらゆる記憶をたどって、静かで薄暗い森に向かって歩を進める。汗で貼りつくTシャツの背中をつまみ剥がすと、草いきれが迫ってくるように足先から身体を包んだ。それは昔飼っていたカブトムシの虫籠によく似た匂いだった。
4Gの回線が、ときどき繋がりにくくなっている。
地図のアプリをずっと繋げているせいか、充電ゲージも半分以下まで下がっている。
朝食を食べていないせいで、今頃になってようやく空腹に気がついた。早く諦めたい。楽になりたい。なんで俺がこんなこと。
また目線の先に夏実ちゃんの幻を見つけた。片足を上げておどけて見せている。ときどき俺の方を振り返りながら裸足で歩いていく。森の先に小さく見える夏実ちゃんの幻は、いつしか走り抜ける風のように消え去っていた。
まるで陽炎のように儚い夏実ちゃんの幻影。手を伸ばせば掴めそうなのに、どこまで行っても決して届かない。ずっと追いかけているのに追いつけない。夏実ちゃんから見た俺も、もしかしたらそんな感じなのかもしれない。近くにいるのに何も思い出せない俺は、夏実ちゃんが期待しているような俺じゃない、ということか。昔の思い出は夏実ちゃんの中にしっかりと根を張っているのに、俺の中ではすっかり色褪せてしまっている。だからこそ夏実ちゃんは、あの頃に戻りたいと願い、俺に昔を思い出させようといろいろな場所へと連れて行ってくれたのだろう。
あの頃に戻る努力を、俺はしていたのだろうか。
別に戻る必要はないけど、少しは思い出す努力をしても良かったのかもしれない。小さい頃の自分をもっと想像して、子供の自分をもっと見てあげれば良かった。小さい頃に囚われることなく、未来しか見ていないわけでもない、自分の中の心のバランス。それが、
あっちに行ったりこっちに行ったり、フラフラしていたのかもしれない。夏実ちゃんに振り回されたようで、実はバランスを取ってくれていたのかもしれない。休憩を促してくれたり、背中を押してくれたり、そんな夏実ちゃんを、俺は本当に真正面から受け取っていただろうか。
耳の奥の方でいつかの夏実ちゃんの言葉が密かに、そして微かに聞こえた気がした。自然に伸びる左手。あの日のようにこけないように手を添えようとしたとき、我に返った。
自分ひとりしかいなかった。
森の涼しさに吹き飛ばされたはずの汗が、またじんわりと額や鼻の下を濡らしていく。
本能的に何かに導かれるように、獣道のような山道を進んでいくと、土手道に出た。遠くに海が見える。入道雲の真下に広がる多島美に、八幡浜大島まで一緒に行ったことを思い出した。
海に出たらバス停があるはずだ。もうバスに乗って帰ろう。お腹が空いてまともな思考が出来ていないのは自分でもわかっている。普通は夏実ちゃんを心配して探し続けるのが筋だろう。でも俺にだって限界はあるのだ。ダサいけど。
熱気立つ土手道を越えると、今度は海に向かって斜面を下るように小さな漁師町が広がっていた。低いブロック塀の横をすり抜け、古いタバコ屋の軒先に座ってゆったりと世間話をしているお年寄りに軽く会釈を交わす。
トタン屋根の機材置き場。枠だけになってしまった店先の看板。海に向かって低く伸びているコンクリート塀。どれもまるで海まで案内してくれているかのようだ。勾配の角度はそれほど急ではないため、背中を押されるように足が進む。
まるで迷路の中を進んでいくように赤い瓦や青いトタン屋根の家々をくねくねと下る。錆びた鉄格子や宇和海からの磯の香りに、どこかノスタルジーを感じる。
車もうまく通れないほど細い道の先に、エメラルドブルーが見えてきた。黒い石畳を真っすぐ下っていく。集落の先には船着き場があり、砂利浜が広がっていた。太陽光を反射しながらゆったりと揺れる澄んだ碧が、陽の光を浴びて透き通っている。ゼリーのように透明感のある綺麗な水は、昨日の雨を微塵も感じさせない透明度を誇っている。
でも。やっぱりそこにも夏実ちゃんはいなかった。落ち着いた水面が呑気に見えて、逆に無力感が募っていく。この海のどこかに、純粋扉の鍵が沈んでいる。でも、途方がなさすぎて探そうとも思えない。夏実ちゃんも、純粋扉の鍵も、どんどん遠ざかる。
大通りに出てバス停の方向へと向かう。右手にはみかんの段々畑、左手には果てしなく続く水平線。それを遮る堤防の、ほんの少しの影に収まるように、肩をすくめて歩いた。
五〇キロ制限の標識を越え、カーブミラーに映るみかん畑を確認すると、その先に水色のベンチと時刻表が佇んでいた。
終点の八幡浜駅まで爆睡していた。
結局集中力が途切れてしまい、民宿とは逆方向の、八幡浜駅方面のバスに乗ってしまった。なんでこんなことに。でも駅前でようやく食料にありつけ、パン屋で買ったあの塩パンを頬張ると、ちょっと気持ちが落ち着いた。
やっぱり探しに行こう。もうここまで来てしまったし、今から帰ってもこのまま探しても対して変わらないだろう。だったら何よりも夏実ちゃんの安否のほうが気になる。
駅の改札に向かおうと思って歩を進めていたのだが、八幡浜駅の改札口に掲げてある愛媛球団の応援ボードに目が留まった。本日の予定欄には大きく『移動日』の文字が。つまり今日は試合がないということだ。ということは、夏実ちゃんは試合を見に行ってない。松山まで行こうとしていただけに、これは大きな時間の短縮に繋がる。
しかし同時に、もうほとんど探すべき箇所が思いつかないということに気付いた。あとひとつあるとすれば、それはこの前一緒に行った下灘駅。急いで下灘駅に行ける松山行きの予讃線に乗り込み、席について息を整えているとき、あの日のひと言が不意に蘇った。
『駆け落ちしちゃおうか』
本当はあのときに告白して、はっきりさせておけば良かった。一番応援してくれている夏実ちゃんが、俺のことを考えていろいろなところに連れて行ってくれて、気分転換させてくれた。そんな存在をぞんざいに扱って、傷つけてしまった。三人の幼馴染でいたいのに涼にいから二人の関係を迫られて、だからこそ、そんな単語が突発的に出てきたのかもしれない。涼にいの存在は関係ないはずなのに、勝手な悪い想像で萎縮してしまい、被害妄想で一歩を踏み出せなかった。素直に正面から関わるべきだった。
窓枠いっぱいに広がる青空と海。あの日と同じ光景だが目の前には誰も座っていない。あの日の横顔と同じように外を眺めても何も発見はない。あるのは真っ青な海と空だけ。
夏実ちゃんは俺といるとき、何を見ていたのだろう。何を感じていたのだろう。駅に到着してそこに降りても、やはり誰もいなかった。
腰掛けまでたどり着き、後ろにもたれかかるように座った。全身の力を抜き、まっすぐ一点に海辺を見つめる。淋しそうに鳴く蝉々に聞き耳を立てていると夏の終わりをしみじみと感じる。汗が視界をふさぎ、背中を濡らし、腿の裏に溜まっていく。
反対方向の電車が来るまでしばらく待っていた。その間、この夏の夏実ちゃんとの思い出に思いを馳せていることくらいしか出来なかった。
夏実ちゃんと出会って、応援してもらいながら練習したグラウンド。初めてまともに話したバス停。一緒に行った海や球場。神社のお祭りに行ったあの夜。告白できなかったこの駅。生ぬるい風が吹いて、その思い出から夏実ちゃんの姿を消していく。
誰もいないグラウンド。誰もいないバス停。誰もいない海。誰もいない神社。誰もいない廃駅。結局、どこに行っても夏実ちゃんの姿は見つけられなかった。
もう一生会えないのかもしれないとさえ考え始めた頃にようやく電車が来て、帰路につくことにした。もう探せる場所は他にない。本当に縁があるのなら、運命があるのなら、きっとどこかで探し出せるはず。でも探し出せなかったということは、そうじゃないということなのだろう。
八幡浜まで戻って、そこからおなじみのバスで民宿まで戻る。昼下がりの静まり返った駅前のバス停に、蝉の鳴き声だけが延々と響いている。さっきの塩パン以外はまだ何も食べていないため、空腹で頭が回らない。それをなんとかこらえつつバスを待っていると、いつも一緒に乗った車体が荒々しいエンジン音と共に近づいてきた。
バス停を発ち、海が見える山道を進み始めた。うつりゆく田舎の風景を横目に、くすんでいる窓に頭を寄せる。いつの間にか夕焼けになりかけている空に照らされて風景がセピア調に見える。それは窓越しに見ているせいではなく気持ちの問題なのかもしれない。空腹でさらに増したセンチメンタルな気分が、ぽっかり空いた穴をほじくり返してくる。
やがて見慣れた風景にたどり着いた。数時間前に訪れたバス停が遠くのほうに見え、左腕を伸ばして呼び鈴を押す。なんとも間抜けに聞こえるバスの呼び鈴。こもったアナウンス。ひと夏を過ごした、感傷的な景色。
どこまでも続くような地平線は、いつもよりもさらに遠く感じる。夕暮れが近づいているのに、まだ陽炎が揺らめいているのが確認できる。その陽炎はよく見ると夏実ちゃんの華奢な背中のようで、心なしか元気がないような気がする。
またあの幻か。どうせ近づいても消えてしまうだろう。疲れか何かのせいで幻想が見えているのだろう。体だけでなく心の疲れが幻想を見せていたのだ。その正体は陽炎や蜃気楼の類。そういうものだろう、きっと。
心の中でそう呟くと、最後だけでも夏実ちゃんの幻に近づきたくて、歩を進めた。今まで逃げ水のように離れていた夏実ちゃんの幻。最後くらい、近づかせてくれ。そして、思い切り抱き締めさせてくれ。最後くらい、いや最後だからこそ。
夏実ちゃんの幻はやがて道路脇の古びた岩の階段を上って行った。ここは確か夏実ちゃんが足を怪我してしまった場所。あの時の場面を頭に思い浮かべながらフラフラと拙い足取りでついていく。
ここで異変に気付いた。陽炎や蜃気楼は、長く平たい場所にできるはずだ。俺の今までの経験からしてそうなるはずだ。しかし夏実ちゃんの幻は今、階段をゆっくりと上っている。しかも、それはよく晴れた日にできるはず。徐々に日が沈みつつある中、そんな幻が見えるはずがない。それに、いくら近づいても一向に消えそうもない。
ということはまさか、本物?
そのまさかだった。民宿の正面玄関の方に歩いていくそれは紛れもなく夏実ちゃんの背中。鮮やかな青いノースリーブワンピースにおなじみのカンカン帽が映えている。まだ帰っていなかったのだ。ということは、今から純粋扉の方に向かって歩いていくはず。
考え過ぎて先に進めないなら、考えなければ先に進める。
世の中そんなに簡単じゃないけど、今日は特に頭より体が先に動いている気がする。
民宿の中に入っていく夏実ちゃんを確認して、残りの体力を全部使って追いかけた。館内の奥の方、大広間に続く階段を登っていくのがかすかに見えて、後を追う。
初めてのときにトイレの位置を教えてもらったのを思い出してまた懐かしくなる。しばらく真っすぐ進んで、トイレがある方向に曲がった先に、ようやくお目当ての純粋扉にたどり着いた。
「やっとみつけた」
「爽くん」
ドアを背に、猫背になって足を抱えているブルーのワンピース。カンカン帽で隠していた顔をのぞかせたときに久しぶりに目が合った。目の前にいる夏実ちゃんという存在が、今までのどんな場面よりも目に焼きつく。思わずその場で廊下にゴロンと寝転がって、その場から動けなくなった。本当は勢い余ったことにして抱きつきたかった。でもこんな汗だくで汚くて臭いのを、夏実ちゃんに近づけたくもなかった。
「つかれたあ!」
球場でボールを呼ぶときみたいに思いっきり吐き出すと、やっとスッキリした。窓から夕日が差し込む。オレンジ色というよりも、橙色という漢字表記の方がよく似合うほど濃い色に覆い尽くされている。
「どこ行っとったん? 全部探したんよ」
「え、探してくれたが? うちのこと?」
夏実ちゃんは嬉しそうにいつもの無邪気な笑顔に変わっていた。それはそれで嬉しかったけど今欲しいのはその反応じゃない。これだけ心配したのに、温度差がありすぎて違和感がある。
「実はあのあと、もうパニックになって。気づいたら下のバス停で雨宿りしとって。涼にいが車で拾ってくれて。なんかビックリさせちゃって。そのまま昨日のことわざわざ謝ってくれて。ちょっと言い過ぎたって。その後は、またドライブに連れてってもらって。その……昨日はそのまま涼にいの家に泊めてもらっちゃって」
「ああ、そう……」
そこまでは予想できていなかった。家に泊まった。涼にいの。それだけで十分インパクトが強い。俺がこんなに体力も気力も使って一日中夏実ちゃんのことを探していたのに。そっか、そういう感じか。
「練習の邪魔になっちゃいけんけ、うちがおらんほうがいいけ、今帰ってきたとこ」
「そっかそっか。そんなもんか。邪魔なんかじゃないよ。夏実ちゃんと行ったところ、心配だったけ全部探し回ってきた。なんかあったらどうしようって。それこそ俺のせいでああなったようなもんじゃけ、責任を感じとった。でも、どこにもおらんけ、もう会えんのんじゃないかって心配になって。しんどかった。疲れた。でも、おってくれて安心した。すっごい安心したんよ。でもいざ見つかったら、なんかいつも通りで普通で、拍子抜けしたわ。まずは心配かけてごめんとかそういう感じじゃないん? なんでそんな感じなん」
窒息しそうだ。酸素が足りない。責めているわけじゃないけど、そう聞こえてしまっているかもしれない。ついエスカレートして語気が強くなってしまった。いったん冷静にならないと。
「ごめん」
「いや、俺も言い過ぎたわ。ごめん。あと昨日のことも、言い返せんでごめん。野球のことばっかりになって、夏実ちゃんがおるのが当たり前になっとった」
「ううん、実際、うちもしつこかったんやと思う。ごめんなさい」
気まずい。しばらく間が空いた後、空腹が思い出したように押し寄せて腹が鳴った。それに対して気まずそうな夏実ちゃんだったが、連続して腹が鳴ってしまって、思わずお互いに吹き出した。こんな些細なことでも笑ってくれる夏実ちゃんの存在が、当たり前なんかじゃないのだと、やっと気づけた。
「爽くん、この扉、どこに繋がっとるか分かる?」
うん、わかるよ。ここは最初に来たときにトイレだと勘違いした、あの開かずの扉だ。そしてそれはつまり。
「どこにも繋がっていない?」
「正解。これ、あの純粋扉なんよ。ここに鍵穴はあるけど、鍵はどこにあるんかうちにもわからんけ、もう一生開くことはないんやろうね。ここも、爽くんとの思い出の場所なんよ。鍵のありか、爽くんはもう……」
「……知らない」
嘘。実は知っているけど。昨日、涼にいから聞いた。鍵はもう海の底だ。でも涼にいならこの扉を開けられる。ただ、俺はこの扉を開けられない。涼にいには勝てない。昨日の涼にいの話がフラッシュバックする。全部涼にいの手の内にあるような気がして恐ろしくなる。
涼にいが昨日話してくれたことは夏実ちゃんにはまだ伝わっていないようだ。全ての流れを知らないのは夏実ちゃんだけ。下手なことは言えない。昔のことは何も思い出せないが、今現在起きていることの裏側は全部知っている。頭が変になりそうだ。
「なんにも覚えてないよね。うちのことを覚えてないってことは、うちとの思い出は何一つ残っとらんもんね」
優しい口調だが、どこか鼻につく。結局、夏実ちゃんは過去にこだわってばかりで、俺のことを子供扱いしているように思える。大事なことはなかなか言い出せないのに、いったん口が滑ると、もう止められない。
「じゃあ夏実ちゃんは全部覚えとるん? ひとつも忘れとるものがないってことなん?」
「そんなことないけど」
「なんでそこまで過去にこだわるん? なんで未来志向になれんのん? なんでいつまでも夏実ちゃんの中の俺は小さい頃の俺なん? 子供扱いされとるみたいでしんどいわ」
「しょうがないやん!」
夏実ちゃんの悲痛の声に思わず冷静さを取り戻す。ついついヒートアップしてしまい、せっかくの仲直りの雰囲気が台無しだ。
「みんな勝手にどんどん大人になっていって。爽くんは自分で一生懸命頑張って夢の野球選手が目の前に見えとって。涼にいは勝手に民宿の後継ぎ候補になったりして。周りはみんなどんどん大人になっていく。どんどん先に進んでいく。うちだけ取り残されて、みんなみたいに夢を追いかけられそうになくて、なんか距離を感じるがよ!」
俺や涼にいからすれば夏実ちゃんこそ前に進みたがらないように見える。だが、夏実ちゃんからすれば俺や涼にいが随分先に進んでしまって、距離を感じるということか。
「家におっても落ち着かんけ、爽くんに昔のことを思い出させてあげるって理由をつけて連れ出したがよ。爽くんと一緒におる時だけは、昔の、何も考えんでよかった、あの頃の自分自身でおれる感じがするんよ。役に立てたら嬉しいんよ。ほやけん、共通の話題がほしいがよ。それはうちにとっては小さい頃の思い出話しか無いがよ。ほやけん、それにこだわるのはしょうがないが!」
こんなに攻撃的な夏実ちゃんは、初めてだ。相当溜め込んでいたのだろう。決壊したダムのように、止めどなく流れ出る本心。いつの間にか本心を隠してしまって、いつも我慢し続けていたのだろう。だから、今ではなく過去を大事に大事に守って、簡単に言えば現実逃避していたわけだ。
「ねぇ」
夏実ちゃんのかすれた声が耳に触れる。何も言えず、ただ歩を進めるのを止めた。
「爽くんは今、自分自身のこと、好き?」
こんな空気にしてしまった自分は、どう考えても大嫌いだ。俺から言い出したことなのに、自分のことが好きだとはっきり言えなかった。ということは、本当は自分自身でも納得していなかったのかもしれない。上辺だけ受け取って、自分を知って自分を好きになるという本当の意味は、全然受け止めきれていないのかもしれない。
「ごめん」
好き、とも嫌い、とも答えられなくて、はぐらかした。あえて振り返らなかった。振り返ることは過去に引っ張られるような気がしたから。いや、本心では夏実ちゃんを真正面から見る勇気がなかっただけだ。こんなふうに逃げてしまう自分は、やっぱり嫌いだ。
その晩、みかんの湯船に浸かりながら考えた。こんな良い環境を用意してもらって、俺の方が過保護だったのかもしれない。大人になっていく自分に酔っていたのだろうか。
でも、俺だって本心ではまだ子供でいたい。ていうかまだまだ子供だ。たまたま独立リーグのトライアウトがあったけど、俺だって受験から逃げて現実逃避したようなものだ。
でもそれ以上に、目の前にあるものに挑戦してみたいし、導いてくれたのは他でもない夏実ちゃんだ。新しい可能性をくれたのも夏実ちゃんだし、過去に引っ張ろうとするのも同じ夏実ちゃん。矛盾しているようで、結局は俺の役に立とうと考えてくれていたのに。
さっきの問は、もしかしたらそれは俺への問いかけではなくて、夏実ちゃん自身への問いかけでもあるのかもしれない。ということは、多分夏実ちゃんは、まだ夏実ちゃん自身を好きでいられていないのだ。
そう考えると胸が締め付けられる思いだった。
過去をひとつひとつ掘り起こす夏実ちゃんと、それを飛び越えて先に先に行こうとする俺。夏実ちゃんが言うように、先に行こうとし過ぎていたのかもしれない。もっとペースを落として、夏実ちゃんの歩幅に合わせないといけなかったのかもしれない。
ひと夏の恋にしないためにどうするか。それは、はやる気持ちを抑えて、夏実ちゃんと同じ歩幅でいること。そのためには、少しでも過去の自分がどうだったのかを思い出さないと。そして過去の自分を引き出す鍵は、やっぱり純粋扉を開けることだ。それが次のステージに行く何かのきっかけになるはずだ。ということは、涼にいを越える存在にならないといけない。ラスボスは涼にいってことか。そしてそれはきっと、独立リーグ入りを果たしてから実現するはずだ。
トライアウトまであと一週間、心が決まった。
八月も下旬に差し掛かろうとする今日の今日まで、毎日毎時間毎分毎秒、ほぼ一緒だった。それに慣れてしまった馬鹿な俺は、夏実ちゃんをだんだん鬱陶しく感じてしまっていた。しかも、それを涼にいに見透かされていた。恥辱感が体中を駆け巡る。今日会ったらすぐに謝ろう。
寝起きは最悪だった。浅い眠りで身体は重く、頭痛もする。
「爽くん、おはよう」
聞き覚えのない声に反応し、振り返って即座に正座し、目をこすってよく見ると、夏実ちゃんのお母さんだった。
「あ、おはようございます。珍しいですね」
「いつもなら夏実が率先して起こしに行くのにね。夏実の姿が見えんかったけん、てっきり爽くんと出かけとるんかと思っとったわ。いつもやったら先にどこに行くんかとか教えてくれるんやけど、妙やねえ」
「え、昨日の夜は?」
「え、一緒に帰ってきたんやないがか?」
喧嘩をしたなんて、何か言われそうで、言えなかった。
でも、それならあんな雨の中、一体どこへ行ってしまったのだろう。安全なところにいるのだろうか。心配になってきた。
「え、じゃあ、昨日はどこまで一緒におったが?」
「午前中は一緒に練習に付き合ってもらいましたが、それっきりですね。午後からは別行動だったので、てっきり家に戻っているのかと思っていました」
「昨日、昼ごはんのときに夏実も涼くんも爽くんも帰ってこんかったけん、みんなで出かけとったと思うとったわ。涼くんも夏実と一緒に別行動になったんかね?」
「いや涼にいは午後からも一緒に練習してもらって、三時頃には解散になりましたけど」
「なら、夏実とは別々のタイミングやね。ちょっと心配やね。電話かけてみよっか」
「ですね、お願いします」
夏実ちゃんのお母さんの顔が徐々に厳しくなっているのと比例して、思い出したように罪悪感がのしかかってきた。俺のせいでとんでもないことになったかもしれない。行方不明。失踪。そんな重たい単語がどんどん頭の中で蠢いていく。なんであの後すぐに連絡しなかったのだろう。すぐじゃなくても、夜でも連絡を取っていればこんな事態にはなっていなかったかもしれないのに。夏実ちゃんがいることが当たり前すぎて、いなくなることなんて想定外だった。
「夏実、電源切れとるみたいで全然繋がらんわ。爽くんごめん、心当たりあるところ、探してみてくれん? 今日はここを離れられんけん、うちはここで夏実が帰ってくるの待っとくけん」
「もちろんです。行ってきます」
昨日のが尾を引いているのだろう。不意に昨日の悲しげな夏実ちゃんの表情が浮かんでくる。直接夏実ちゃんに向けて言われたのではないとはいえ、あの状況で間接的にキツいことを言われている。しかもそのとき俺が味方になれずに曖昧な態度を取ってしまったのは、相当ショックだっただろう。今日会ったらすぐに謝ろうと思っていたのに、会えないのかもしれない。
みかん畑の中のグラウンドに行ってみたが、誰もいない。一緒にボール拾いをしてくれた夏実ちゃんが頭の中に浮かんできて、急に寂しさが襲ってきた。
昨日の雨のせいか、油照りの朝。じわりと湧いてくる汗でべたつく体に、今日は全く風が吹いてこない。一段下のみかん畑の横を通り、じめじめと生温かい空気を切り裂きながら、まずはバス停へと向かう。もしかしたら単に街に遊びに行っているだけかもしれないし、愛媛球団の応援に行っているだけかもしれない。バス停で待っているところを発見できるかもしれない。
焼かれた鉄板の様に熱い道路の上を歩き、獣道のようなトンネルを抜け、眩しさの中に出た。その横から続く深緑の森の小道は、木漏れ日に照らされて所どころ黄緑色に染められている。油照りの中でも心地よさを感じるこの道の先に、民宿に埋め込まれたような、あの純粋扉が今日も変わらず存在感を放っている。
もしかしたらと思って辺りを見回すが、夏実ちゃんはいない。この先の道をいけば神社がある。神社とは反対側に進めばバス停がある。とにかく知っているところを一つ一つ潰していくしかない。
苔の階段は上へ上へと続いており、神社の境内に向かって伸びている。森の中に佇む鳥居の奥には、あの苔のびっしり生えた神社が佇んでいる。夏祭りの日以来か。はじめて見た夏実ちゃんの浴衣姿が印象的で神社そのものはあまり印象になかった。でも森の中の神社は独特の雰囲気で、自然と心が落ち着く気がする。
引かれるように一段一段登っていき、鳥居をくぐって森の中に歩を進めると、またあの時みたいに狛犬と目が……合わなかった。ここにはいない、すれ違いだ、と言われているような気がした。日陰が日光を遮り、森に阻まれて風もない。ただ手水舎の中からちょろちょろと雫が水面を打つ音がするだけで、そこには人の気配はなかった。
鳥居を出て反対方向のバス停へと降りていく。熱気を感じる真っ黒の道路。緩やかな曲がり角まで真っすぐに伸びる道がまるで地平線の彼方にまで伸びるように感じる。先の見えない国道にゆらゆらと浮かぶ、吸い込まれそうな陽炎。その先にはバス停の錆びた看板が立っていた。
逃げ水を追うようにそこへ向かって歩いていく。いつもよりも歩幅は広く、スピードに乗っているような気がする。夏実ちゃんが見つかるかもしれないという薄い膜のような期待。そんな期待を抱きながらバス停に着いた。だがそんな期待も金魚すくいのポイのように簡単に破れてしまった。やっぱりここにもいなかった。
汗をぬぐうのも忘れていて、ふと気付いた時には顎先からも汗がぽとりと滴を垂らしていた。この汗は暑さから来るものなのだろうか。それとも焦りから来るものか。
夏実ちゃんの幻が一瞬だけ現れては消えた。熱気の中に佇む一瞬の幻。夏実ちゃんの姿を追いかけても蜃気楼のようにどんどん離れていく。身体的にも、精神的にも。
次のバスは、あと五〇分。前のバスは数分前にすでに出ていた。
しまった。もしかしたらそのバスに夏実ちゃんが乗っていた可能性がある。神社に寄り道していなかったら、もしかしたら間に合ったのかもしれない。
このまま五〇分間何もしないで待つようなことはしたくない。でも、当てがない。どうすれば良いのか分からず膝に手をついたとき、思い出した。夏祭りの日、夏実ちゃんが俺に肝試しに行こうと誘ってくれたことを。そしてそれが、バス停の向こうの鬱蒼とした森だったことを。もしかしたらその方向に進んでいるかもしれない。
夏実ちゃんに関するありとあらゆる記憶をたどって、静かで薄暗い森に向かって歩を進める。汗で貼りつくTシャツの背中をつまみ剥がすと、草いきれが迫ってくるように足先から身体を包んだ。それは昔飼っていたカブトムシの虫籠によく似た匂いだった。
4Gの回線が、ときどき繋がりにくくなっている。
地図のアプリをずっと繋げているせいか、充電ゲージも半分以下まで下がっている。
朝食を食べていないせいで、今頃になってようやく空腹に気がついた。早く諦めたい。楽になりたい。なんで俺がこんなこと。
また目線の先に夏実ちゃんの幻を見つけた。片足を上げておどけて見せている。ときどき俺の方を振り返りながら裸足で歩いていく。森の先に小さく見える夏実ちゃんの幻は、いつしか走り抜ける風のように消え去っていた。
まるで陽炎のように儚い夏実ちゃんの幻影。手を伸ばせば掴めそうなのに、どこまで行っても決して届かない。ずっと追いかけているのに追いつけない。夏実ちゃんから見た俺も、もしかしたらそんな感じなのかもしれない。近くにいるのに何も思い出せない俺は、夏実ちゃんが期待しているような俺じゃない、ということか。昔の思い出は夏実ちゃんの中にしっかりと根を張っているのに、俺の中ではすっかり色褪せてしまっている。だからこそ夏実ちゃんは、あの頃に戻りたいと願い、俺に昔を思い出させようといろいろな場所へと連れて行ってくれたのだろう。
あの頃に戻る努力を、俺はしていたのだろうか。
別に戻る必要はないけど、少しは思い出す努力をしても良かったのかもしれない。小さい頃の自分をもっと想像して、子供の自分をもっと見てあげれば良かった。小さい頃に囚われることなく、未来しか見ていないわけでもない、自分の中の心のバランス。それが、
あっちに行ったりこっちに行ったり、フラフラしていたのかもしれない。夏実ちゃんに振り回されたようで、実はバランスを取ってくれていたのかもしれない。休憩を促してくれたり、背中を押してくれたり、そんな夏実ちゃんを、俺は本当に真正面から受け取っていただろうか。
耳の奥の方でいつかの夏実ちゃんの言葉が密かに、そして微かに聞こえた気がした。自然に伸びる左手。あの日のようにこけないように手を添えようとしたとき、我に返った。
自分ひとりしかいなかった。
森の涼しさに吹き飛ばされたはずの汗が、またじんわりと額や鼻の下を濡らしていく。
本能的に何かに導かれるように、獣道のような山道を進んでいくと、土手道に出た。遠くに海が見える。入道雲の真下に広がる多島美に、八幡浜大島まで一緒に行ったことを思い出した。
海に出たらバス停があるはずだ。もうバスに乗って帰ろう。お腹が空いてまともな思考が出来ていないのは自分でもわかっている。普通は夏実ちゃんを心配して探し続けるのが筋だろう。でも俺にだって限界はあるのだ。ダサいけど。
熱気立つ土手道を越えると、今度は海に向かって斜面を下るように小さな漁師町が広がっていた。低いブロック塀の横をすり抜け、古いタバコ屋の軒先に座ってゆったりと世間話をしているお年寄りに軽く会釈を交わす。
トタン屋根の機材置き場。枠だけになってしまった店先の看板。海に向かって低く伸びているコンクリート塀。どれもまるで海まで案内してくれているかのようだ。勾配の角度はそれほど急ではないため、背中を押されるように足が進む。
まるで迷路の中を進んでいくように赤い瓦や青いトタン屋根の家々をくねくねと下る。錆びた鉄格子や宇和海からの磯の香りに、どこかノスタルジーを感じる。
車もうまく通れないほど細い道の先に、エメラルドブルーが見えてきた。黒い石畳を真っすぐ下っていく。集落の先には船着き場があり、砂利浜が広がっていた。太陽光を反射しながらゆったりと揺れる澄んだ碧が、陽の光を浴びて透き通っている。ゼリーのように透明感のある綺麗な水は、昨日の雨を微塵も感じさせない透明度を誇っている。
でも。やっぱりそこにも夏実ちゃんはいなかった。落ち着いた水面が呑気に見えて、逆に無力感が募っていく。この海のどこかに、純粋扉の鍵が沈んでいる。でも、途方がなさすぎて探そうとも思えない。夏実ちゃんも、純粋扉の鍵も、どんどん遠ざかる。
大通りに出てバス停の方向へと向かう。右手にはみかんの段々畑、左手には果てしなく続く水平線。それを遮る堤防の、ほんの少しの影に収まるように、肩をすくめて歩いた。
五〇キロ制限の標識を越え、カーブミラーに映るみかん畑を確認すると、その先に水色のベンチと時刻表が佇んでいた。
終点の八幡浜駅まで爆睡していた。
結局集中力が途切れてしまい、民宿とは逆方向の、八幡浜駅方面のバスに乗ってしまった。なんでこんなことに。でも駅前でようやく食料にありつけ、パン屋で買ったあの塩パンを頬張ると、ちょっと気持ちが落ち着いた。
やっぱり探しに行こう。もうここまで来てしまったし、今から帰ってもこのまま探しても対して変わらないだろう。だったら何よりも夏実ちゃんの安否のほうが気になる。
駅の改札に向かおうと思って歩を進めていたのだが、八幡浜駅の改札口に掲げてある愛媛球団の応援ボードに目が留まった。本日の予定欄には大きく『移動日』の文字が。つまり今日は試合がないということだ。ということは、夏実ちゃんは試合を見に行ってない。松山まで行こうとしていただけに、これは大きな時間の短縮に繋がる。
しかし同時に、もうほとんど探すべき箇所が思いつかないということに気付いた。あとひとつあるとすれば、それはこの前一緒に行った下灘駅。急いで下灘駅に行ける松山行きの予讃線に乗り込み、席について息を整えているとき、あの日のひと言が不意に蘇った。
『駆け落ちしちゃおうか』
本当はあのときに告白して、はっきりさせておけば良かった。一番応援してくれている夏実ちゃんが、俺のことを考えていろいろなところに連れて行ってくれて、気分転換させてくれた。そんな存在をぞんざいに扱って、傷つけてしまった。三人の幼馴染でいたいのに涼にいから二人の関係を迫られて、だからこそ、そんな単語が突発的に出てきたのかもしれない。涼にいの存在は関係ないはずなのに、勝手な悪い想像で萎縮してしまい、被害妄想で一歩を踏み出せなかった。素直に正面から関わるべきだった。
窓枠いっぱいに広がる青空と海。あの日と同じ光景だが目の前には誰も座っていない。あの日の横顔と同じように外を眺めても何も発見はない。あるのは真っ青な海と空だけ。
夏実ちゃんは俺といるとき、何を見ていたのだろう。何を感じていたのだろう。駅に到着してそこに降りても、やはり誰もいなかった。
腰掛けまでたどり着き、後ろにもたれかかるように座った。全身の力を抜き、まっすぐ一点に海辺を見つめる。淋しそうに鳴く蝉々に聞き耳を立てていると夏の終わりをしみじみと感じる。汗が視界をふさぎ、背中を濡らし、腿の裏に溜まっていく。
反対方向の電車が来るまでしばらく待っていた。その間、この夏の夏実ちゃんとの思い出に思いを馳せていることくらいしか出来なかった。
夏実ちゃんと出会って、応援してもらいながら練習したグラウンド。初めてまともに話したバス停。一緒に行った海や球場。神社のお祭りに行ったあの夜。告白できなかったこの駅。生ぬるい風が吹いて、その思い出から夏実ちゃんの姿を消していく。
誰もいないグラウンド。誰もいないバス停。誰もいない海。誰もいない神社。誰もいない廃駅。結局、どこに行っても夏実ちゃんの姿は見つけられなかった。
もう一生会えないのかもしれないとさえ考え始めた頃にようやく電車が来て、帰路につくことにした。もう探せる場所は他にない。本当に縁があるのなら、運命があるのなら、きっとどこかで探し出せるはず。でも探し出せなかったということは、そうじゃないということなのだろう。
八幡浜まで戻って、そこからおなじみのバスで民宿まで戻る。昼下がりの静まり返った駅前のバス停に、蝉の鳴き声だけが延々と響いている。さっきの塩パン以外はまだ何も食べていないため、空腹で頭が回らない。それをなんとかこらえつつバスを待っていると、いつも一緒に乗った車体が荒々しいエンジン音と共に近づいてきた。
バス停を発ち、海が見える山道を進み始めた。うつりゆく田舎の風景を横目に、くすんでいる窓に頭を寄せる。いつの間にか夕焼けになりかけている空に照らされて風景がセピア調に見える。それは窓越しに見ているせいではなく気持ちの問題なのかもしれない。空腹でさらに増したセンチメンタルな気分が、ぽっかり空いた穴をほじくり返してくる。
やがて見慣れた風景にたどり着いた。数時間前に訪れたバス停が遠くのほうに見え、左腕を伸ばして呼び鈴を押す。なんとも間抜けに聞こえるバスの呼び鈴。こもったアナウンス。ひと夏を過ごした、感傷的な景色。
どこまでも続くような地平線は、いつもよりもさらに遠く感じる。夕暮れが近づいているのに、まだ陽炎が揺らめいているのが確認できる。その陽炎はよく見ると夏実ちゃんの華奢な背中のようで、心なしか元気がないような気がする。
またあの幻か。どうせ近づいても消えてしまうだろう。疲れか何かのせいで幻想が見えているのだろう。体だけでなく心の疲れが幻想を見せていたのだ。その正体は陽炎や蜃気楼の類。そういうものだろう、きっと。
心の中でそう呟くと、最後だけでも夏実ちゃんの幻に近づきたくて、歩を進めた。今まで逃げ水のように離れていた夏実ちゃんの幻。最後くらい、近づかせてくれ。そして、思い切り抱き締めさせてくれ。最後くらい、いや最後だからこそ。
夏実ちゃんの幻はやがて道路脇の古びた岩の階段を上って行った。ここは確か夏実ちゃんが足を怪我してしまった場所。あの時の場面を頭に思い浮かべながらフラフラと拙い足取りでついていく。
ここで異変に気付いた。陽炎や蜃気楼は、長く平たい場所にできるはずだ。俺の今までの経験からしてそうなるはずだ。しかし夏実ちゃんの幻は今、階段をゆっくりと上っている。しかも、それはよく晴れた日にできるはず。徐々に日が沈みつつある中、そんな幻が見えるはずがない。それに、いくら近づいても一向に消えそうもない。
ということはまさか、本物?
そのまさかだった。民宿の正面玄関の方に歩いていくそれは紛れもなく夏実ちゃんの背中。鮮やかな青いノースリーブワンピースにおなじみのカンカン帽が映えている。まだ帰っていなかったのだ。ということは、今から純粋扉の方に向かって歩いていくはず。
考え過ぎて先に進めないなら、考えなければ先に進める。
世の中そんなに簡単じゃないけど、今日は特に頭より体が先に動いている気がする。
民宿の中に入っていく夏実ちゃんを確認して、残りの体力を全部使って追いかけた。館内の奥の方、大広間に続く階段を登っていくのがかすかに見えて、後を追う。
初めてのときにトイレの位置を教えてもらったのを思い出してまた懐かしくなる。しばらく真っすぐ進んで、トイレがある方向に曲がった先に、ようやくお目当ての純粋扉にたどり着いた。
「やっとみつけた」
「爽くん」
ドアを背に、猫背になって足を抱えているブルーのワンピース。カンカン帽で隠していた顔をのぞかせたときに久しぶりに目が合った。目の前にいる夏実ちゃんという存在が、今までのどんな場面よりも目に焼きつく。思わずその場で廊下にゴロンと寝転がって、その場から動けなくなった。本当は勢い余ったことにして抱きつきたかった。でもこんな汗だくで汚くて臭いのを、夏実ちゃんに近づけたくもなかった。
「つかれたあ!」
球場でボールを呼ぶときみたいに思いっきり吐き出すと、やっとスッキリした。窓から夕日が差し込む。オレンジ色というよりも、橙色という漢字表記の方がよく似合うほど濃い色に覆い尽くされている。
「どこ行っとったん? 全部探したんよ」
「え、探してくれたが? うちのこと?」
夏実ちゃんは嬉しそうにいつもの無邪気な笑顔に変わっていた。それはそれで嬉しかったけど今欲しいのはその反応じゃない。これだけ心配したのに、温度差がありすぎて違和感がある。
「実はあのあと、もうパニックになって。気づいたら下のバス停で雨宿りしとって。涼にいが車で拾ってくれて。なんかビックリさせちゃって。そのまま昨日のことわざわざ謝ってくれて。ちょっと言い過ぎたって。その後は、またドライブに連れてってもらって。その……昨日はそのまま涼にいの家に泊めてもらっちゃって」
「ああ、そう……」
そこまでは予想できていなかった。家に泊まった。涼にいの。それだけで十分インパクトが強い。俺がこんなに体力も気力も使って一日中夏実ちゃんのことを探していたのに。そっか、そういう感じか。
「練習の邪魔になっちゃいけんけ、うちがおらんほうがいいけ、今帰ってきたとこ」
「そっかそっか。そんなもんか。邪魔なんかじゃないよ。夏実ちゃんと行ったところ、心配だったけ全部探し回ってきた。なんかあったらどうしようって。それこそ俺のせいでああなったようなもんじゃけ、責任を感じとった。でも、どこにもおらんけ、もう会えんのんじゃないかって心配になって。しんどかった。疲れた。でも、おってくれて安心した。すっごい安心したんよ。でもいざ見つかったら、なんかいつも通りで普通で、拍子抜けしたわ。まずは心配かけてごめんとかそういう感じじゃないん? なんでそんな感じなん」
窒息しそうだ。酸素が足りない。責めているわけじゃないけど、そう聞こえてしまっているかもしれない。ついエスカレートして語気が強くなってしまった。いったん冷静にならないと。
「ごめん」
「いや、俺も言い過ぎたわ。ごめん。あと昨日のことも、言い返せんでごめん。野球のことばっかりになって、夏実ちゃんがおるのが当たり前になっとった」
「ううん、実際、うちもしつこかったんやと思う。ごめんなさい」
気まずい。しばらく間が空いた後、空腹が思い出したように押し寄せて腹が鳴った。それに対して気まずそうな夏実ちゃんだったが、連続して腹が鳴ってしまって、思わずお互いに吹き出した。こんな些細なことでも笑ってくれる夏実ちゃんの存在が、当たり前なんかじゃないのだと、やっと気づけた。
「爽くん、この扉、どこに繋がっとるか分かる?」
うん、わかるよ。ここは最初に来たときにトイレだと勘違いした、あの開かずの扉だ。そしてそれはつまり。
「どこにも繋がっていない?」
「正解。これ、あの純粋扉なんよ。ここに鍵穴はあるけど、鍵はどこにあるんかうちにもわからんけ、もう一生開くことはないんやろうね。ここも、爽くんとの思い出の場所なんよ。鍵のありか、爽くんはもう……」
「……知らない」
嘘。実は知っているけど。昨日、涼にいから聞いた。鍵はもう海の底だ。でも涼にいならこの扉を開けられる。ただ、俺はこの扉を開けられない。涼にいには勝てない。昨日の涼にいの話がフラッシュバックする。全部涼にいの手の内にあるような気がして恐ろしくなる。
涼にいが昨日話してくれたことは夏実ちゃんにはまだ伝わっていないようだ。全ての流れを知らないのは夏実ちゃんだけ。下手なことは言えない。昔のことは何も思い出せないが、今現在起きていることの裏側は全部知っている。頭が変になりそうだ。
「なんにも覚えてないよね。うちのことを覚えてないってことは、うちとの思い出は何一つ残っとらんもんね」
優しい口調だが、どこか鼻につく。結局、夏実ちゃんは過去にこだわってばかりで、俺のことを子供扱いしているように思える。大事なことはなかなか言い出せないのに、いったん口が滑ると、もう止められない。
「じゃあ夏実ちゃんは全部覚えとるん? ひとつも忘れとるものがないってことなん?」
「そんなことないけど」
「なんでそこまで過去にこだわるん? なんで未来志向になれんのん? なんでいつまでも夏実ちゃんの中の俺は小さい頃の俺なん? 子供扱いされとるみたいでしんどいわ」
「しょうがないやん!」
夏実ちゃんの悲痛の声に思わず冷静さを取り戻す。ついついヒートアップしてしまい、せっかくの仲直りの雰囲気が台無しだ。
「みんな勝手にどんどん大人になっていって。爽くんは自分で一生懸命頑張って夢の野球選手が目の前に見えとって。涼にいは勝手に民宿の後継ぎ候補になったりして。周りはみんなどんどん大人になっていく。どんどん先に進んでいく。うちだけ取り残されて、みんなみたいに夢を追いかけられそうになくて、なんか距離を感じるがよ!」
俺や涼にいからすれば夏実ちゃんこそ前に進みたがらないように見える。だが、夏実ちゃんからすれば俺や涼にいが随分先に進んでしまって、距離を感じるということか。
「家におっても落ち着かんけ、爽くんに昔のことを思い出させてあげるって理由をつけて連れ出したがよ。爽くんと一緒におる時だけは、昔の、何も考えんでよかった、あの頃の自分自身でおれる感じがするんよ。役に立てたら嬉しいんよ。ほやけん、共通の話題がほしいがよ。それはうちにとっては小さい頃の思い出話しか無いがよ。ほやけん、それにこだわるのはしょうがないが!」
こんなに攻撃的な夏実ちゃんは、初めてだ。相当溜め込んでいたのだろう。決壊したダムのように、止めどなく流れ出る本心。いつの間にか本心を隠してしまって、いつも我慢し続けていたのだろう。だから、今ではなく過去を大事に大事に守って、簡単に言えば現実逃避していたわけだ。
「ねぇ」
夏実ちゃんのかすれた声が耳に触れる。何も言えず、ただ歩を進めるのを止めた。
「爽くんは今、自分自身のこと、好き?」
こんな空気にしてしまった自分は、どう考えても大嫌いだ。俺から言い出したことなのに、自分のことが好きだとはっきり言えなかった。ということは、本当は自分自身でも納得していなかったのかもしれない。上辺だけ受け取って、自分を知って自分を好きになるという本当の意味は、全然受け止めきれていないのかもしれない。
「ごめん」
好き、とも嫌い、とも答えられなくて、はぐらかした。あえて振り返らなかった。振り返ることは過去に引っ張られるような気がしたから。いや、本心では夏実ちゃんを真正面から見る勇気がなかっただけだ。こんなふうに逃げてしまう自分は、やっぱり嫌いだ。
その晩、みかんの湯船に浸かりながら考えた。こんな良い環境を用意してもらって、俺の方が過保護だったのかもしれない。大人になっていく自分に酔っていたのだろうか。
でも、俺だって本心ではまだ子供でいたい。ていうかまだまだ子供だ。たまたま独立リーグのトライアウトがあったけど、俺だって受験から逃げて現実逃避したようなものだ。
でもそれ以上に、目の前にあるものに挑戦してみたいし、導いてくれたのは他でもない夏実ちゃんだ。新しい可能性をくれたのも夏実ちゃんだし、過去に引っ張ろうとするのも同じ夏実ちゃん。矛盾しているようで、結局は俺の役に立とうと考えてくれていたのに。
さっきの問は、もしかしたらそれは俺への問いかけではなくて、夏実ちゃん自身への問いかけでもあるのかもしれない。ということは、多分夏実ちゃんは、まだ夏実ちゃん自身を好きでいられていないのだ。
そう考えると胸が締め付けられる思いだった。
過去をひとつひとつ掘り起こす夏実ちゃんと、それを飛び越えて先に先に行こうとする俺。夏実ちゃんが言うように、先に行こうとし過ぎていたのかもしれない。もっとペースを落として、夏実ちゃんの歩幅に合わせないといけなかったのかもしれない。
ひと夏の恋にしないためにどうするか。それは、はやる気持ちを抑えて、夏実ちゃんと同じ歩幅でいること。そのためには、少しでも過去の自分がどうだったのかを思い出さないと。そして過去の自分を引き出す鍵は、やっぱり純粋扉を開けることだ。それが次のステージに行く何かのきっかけになるはずだ。ということは、涼にいを越える存在にならないといけない。ラスボスは涼にいってことか。そしてそれはきっと、独立リーグ入りを果たしてから実現するはずだ。
トライアウトまであと一週間、心が決まった。