段々畑の階段の上を、下駄の乾いた音がコツコツと心地よく鳴っていく。

 苔の生えた神社の鳥居をくぐると、どこにこんなにいたのかと言いたくなるほど、小学生くらいの少女たちが浴衣で走り回っている。ソースの酸っぱい香りとすれ違い、ポテトの香ばしい匂いと混ざって喉が渇いていく。空が徐々にみかん色に染まる中、パッと一斉にぼんぼりの明かりが灯された。質素な境内の中で出店の非日常感が一際目立っている。サンダルで無防備の足を踏まれないか心配になりながら、隣の浴衣姿の夏実ちゃんを横目でチラ見した。

 制服や私服とはまた違う独特の凛々しさに、なんだか近づきがたくて、いつもより常に半人分、無駄に空間が空いている。狛犬や綿あめの袋に描かれたいろいろなキャラクターとは目が合うのに、夏実ちゃんとは一切目を合わせられない。ただそのシャープな横顔のラインを二度見三度見するだけだった。

 近づきたいけど、近づきたくない。そんな気分。近づいて拒否されるのは嫌だが、折角のチャンスなので人混みに紛れて手をつなぎたい。でも、両手でしっかりと巾着袋を持っている夏実ちゃんの手を強引に掴めるほど傲慢で非常識な男だとは思われたくない。

 先へ先へと歩いていく夏実ちゃんの汗ばむうなじ。体中から煙るように湧いて出る汗がTシャツを身体に貼り付ける。いか焼きの一番小さいのを二人分買って、屋台の裏の石段に座って休憩。巾着袋から財布を取り出すのを窮屈そうにしていたので、思わず口から言葉が溢れてしまった。

「女の子って小さいかばんとか、そういう巾着袋とか持つけどさ、中に何が入っとん?」

「そんな大したもん入っとらんよ。スマホと財布と飴ちゃんぐらい」

「飴ちゃん?」

「そ。小さい頃からかばんには必ず忍ばせとるんよ。覚えとらん?」

 そう聞く夏実ちゃんの、期待と不安が入り混じったような、どこか儚げな笑顔。小さな巾着袋から小さなドロップの缶の顔をちらっとのぞかせる。そろそろひとつくらい覚えているものがあっても良いのかもしれないが、答えはやっぱりひとつだけ。

「ごめん、覚えとらん」

「そっか。飴ちゃんも覚えとらんかったか」

 鈴虫の鳴き声が目立ってきた。遠くの方で盆踊りが始まって、太鼓を叩く音がみぞおちに響いてくる。もう何度夏実ちゃんのこの寂しそうな横顔を眺めてきたか。本人は平然としているつもりだろうが、それを隠しきれていないのがバレバレだ。

「爽くん」

 不意に自分の名前を呼ばれて、血の気が引いた。

「ん?」

「あのさ、ちょっと、相談したいことがあって」

「なんでも聞くよ。夏実ちゃんの為になれるなら、なんでも」

 そんな大袈裟な、と微笑んでくれた夏実ちゃんはやっぱり寂しそうで、心配になる。人の役に立ちたい願望が強くて人のために動いているような夏実ちゃんが、かしこまって俺に相談するなんて珍しい。ここで優しくして俺の存在感を高めればゆくゆくは俺にだってチャンスがあるのではないか。そんな下心を必死に押し隠し、紳士に振る舞おうと姿勢を正してみる。

「この前、涼にい来とったが? たまにちょくちょく来とるがよ。何の用事なんか分からんかったけん気にせんようにしとったけど、さっき浴衣に着替えるとき偶然見ちゃって」

「何を?」

「補助金の申請資料。これは八幡浜全体やけど、みかん農家の後継ぎがおらんとか、漁業の後継ぎがおらんとか、どんどん寂れていっとるのが現実で。それもあって、うちの民宿もみかん畑も、けっこう苦しいみたいで」

「でも、それが涼にいと何の関係があるん?」

「うちな、次期女将さんになるんやっていろいろ勉強とかしてきて、この浴衣も自分でちゃんと着付たんよね。女将さんになるってことは、旦那さんがおって、はじめて女将さんが成り立つが?」

「詳しくないけ、わからんけど、今の時代、別にそうとも限らんのんじゃないん? 別にそんな堅い事考えんでもええじゃろ。いろいろ方法あると思うけど」

「こんな田舎じゃけ、古い慣習に従うのが当たり前っていうか。うち一人娘やけん、どうしても跡継ぎを見つけてこないと、ってことみたいで」

「涼にいが、そこに?」

 コクン、と頷く夏実ちゃん。

 まさか、涼にいが夏実ちゃんの旦那さんに?
 しかも夏実ちゃん抜きで、夏実ちゃんのご両親も公認?

 無茶苦茶な話だ。夏実ちゃん本人の意思で選んだ相手ならともかく、夏実ちゃん本人抜きで話が進むなんて。それは大きな悩みだ。子供みたいに大博打の告白をしようとしていた自分自身が馬鹿みたいに小さく思えてくる。

「いやいやいや、考えすぎじゃろ。さすがにそんなの無茶苦茶じゃけ。今の時代に合っとらんよ。第一、もし涼にいがそういうことになったら、野球はどうするんね。そんな民宿経営と野球選手の二刀流は無理じゃろ」

「それがね、涼にい、シーズンオフにはうちの民宿でバイトしてもろうとるけん、勝手がわかっとるんじゃないかって。あとね、多分、涼にいそろそろ引退が近いがよ。この前、車に乗せてもらったとき、コーチの打診をもらっとるって言う話を聞いたがよ。コーチの打診があるってことは、そういうことてや」

「でも、夏実ちゃん的には絶対イヤなんじゃろ?」

 嫌だと言ってくれ。頼む。

「まあでも、うちが黙って従っとけば、親孝行にもなるがやろうし。みんなの役に立てて大好きな場所が守られるんなら、しょうがないんかな、なんて。でもそういうの、なんか違うかもっていうか、まだまだ自分自身全然納得してないっていうか」

 なんでそんなに慣習や伝統を重んじるのか、理解できなかった。過去に強いこだわりがあるのは薄々感じていたけど、それにしてもあんまりだ。

 だけど同時に、夏実ちゃんも周りの期待に応えるために自分自身を追い込んでしまっているのは俺と同じだと気付いた。周りの期待に応えようとして、本当の自分を見失いそうになっていた自分の姿が、夏実ちゃんの中に鏡のように映し出されているように思えた。
 そして、ハッとした。相手と自分は鏡の関係性なのだ。自分は相手で、相手は自分。これまで葵や太田から学んだ自分との向き合い方が、心の中で整理されていく。だったら、夏実ちゃんにも伝えないと。

「なぁ、夏実ちゃんは、自分のこと、好きか?」

「好きやと思う?」

「いや……」

「うち、自分のこと大嫌いや」

 人の役に立つことを大事にしすぎているのか、それとも涼にいと一緒になることをマイナスと捉えていないのか。どちらにしても、遠くの海の方に視線を向ける夏実ちゃんの横顔はやっぱり寂しそうだ。

「それ、本気で言っとる?」

 黙り込む夏実ちゃん。祭りの喧騒が徐々に耳を突いてくる。

「自分のことを知らんけ、そう思っちゃうんじゃないん?」

 これは前に葵に言われたことの二番煎じ。だけど、あの言葉から自分との関わりが始まったから、夏実ちゃんにも言いたくなった。

「そんなことない……と思っとるけど」

「素直に自分自身と自問自答してみてくれん? バカ正直に、周りなんか関係なく、何が好きで何が嫌いか、考えてみてくれん?」

 これは太田から学んだこと。背番号のときも、進路を決めるときも、投球フォームを固めるときも、背中を押してくれたのは太田の言葉だった。

「俺、自分のことしか考えられんけ、もっと周りも見られるように視野を広げんといけんなって、夏実ちゃんの話を聞いて思った。夏実ちゃんは逆で、周りのことばっかりで自分を見ようとしてないんじゃないかと思う。夏実ちゃんには、もっと自分を大事にしてもらいたい。自分と向き合うことから逃げてほしくない。すっきりした良い顔してて欲しい」

「そんなに自分勝手になれるなんて、うらやましいわ」

 自分勝手、か。確かにそう聞こえてもおかしくない。余計に傷つけてしまったかもしれない。自分自身のことしか考えていなかった俺と、家のことまで考えている夏実ちゃんじゃ、背負っているものが違いすぎる。やっぱり言うべきじゃなかったかもしれない。

「ごめん、確かに、そうかもしれんわ」

「なんか、ごめん。飲み物買ってくるけん。待っとって」

 気まずいのか小走りで縁日の人混みの中に消えていく夏実ちゃん。もう二度と振り返ってくれないような気がして、心の奥底がずっしり重たくなった。

 鈴虫の鳴き声もコンプレッサーの轟音も、重たい鼓動をかき消すことは出来なかった。



 鳥居を出て民宿まで帰る道でも、半人分空けたままの距離感は変わらない。むしろ、よりいっそう距離感は遠ざかった気がする。

「なぁ、肝試し、しよっか」

 空気を変えようと思ったのだろうか。浴衣姿の夏実ちゃんが暗闇の中で不気味にそんな事を言うものだから、周りのみかん畑が急にどこかの樹海に見えてきた。

 夏実ちゃんが指差す先は、バス停のある道のずっと奥。海とは反対側の鬱蒼と生い茂る森の方。正直、そういうのは苦手なので避けたいが、夏実ちゃんに弱虫だと思われるのも格好がつかない。返答に困っている間、変な間ができてしまい、待ちきれなかったのか夏実ちゃんは俺が応える前に再度口を開いた。

「やっぱやめた。帰ろっか」

 それから一言も発しないままお互い部屋に戻り、ようやく気が抜けた。普段ならストレッチして階段ダッシュをする時間。だが、今日はどうも心が身体を動かしてくれないようで、縁側でぼうっとすることにした。

 襖を開けて虫の鳴くひんやりとした縁側に座ると、胸元に薄く広がっている汗が妙に浮いているような気がした。足をそっと伸ばし、そこに置いてある下駄に足の裏を乗せる。これまたひんやりしていて気持ちがいい。後に左手をつき、右手で団扇をあおいだ。

 台所から持ってきた夏みかんを隣に置く。皮にツヤがあり、色が濃い。ヘタが付いている、重量感のある夏みかん。雨上がりの土の匂いが心地よく、夏を感じさせない涼しさが漂っている。隣にある夏みかんを手にとって皮をむこうとした、その時だった。

「花火とか、どう?」

 帰ってきてもまだ浴衣姿でいる夏実ちゃんが、わざわざ外から縁側まで回って出てきていた。その手には巾着袋ではなく手持ち花火セット。せっかく誘ってくれているのだからやろうかな。もうどこか吹っ切れてしまった。夏実ちゃんとあわよくば一緒になりたい気持ちが、このひと夏の恋を良い思い出にしたい気持ちに変わっていく。

 それに、これで野球に純粋に打ち込める。いったんそう思ってしまったが、これはなんだか夏実ちゃんの存在が邪魔だともとれる気がしたので、頭の中で削除しようとした。

 体中のありとあらゆる力が抜けたように、縁側に倒れこむように座る夏実ちゃん。髪を耳にかけ直しながら、嬉しそうに花火セットの封を開けている。

 子供っぽい表情と妙に色っぽい横顔がミスマッチだけど美しくて、切ない気持ちになった。でもこんなに美しい恋の終わりなら、このままでも十分良い思い出になりそうだ。

 縁側の下から銀色の錆びたバケツを取りだす夏実ちゃん。ところどころへこんでいて、木製の取っ手は色あせている。

「井戸が向こうにあるけん、一緒に水、入れに行こう?」

 首をかしげて聞いてきた夏実ちゃんの浴衣の裾がひらひらと揺れた。

 夜風が涼しい。夏実ちゃんに先導されて家の裏に回る。平たい岩を並べただけの灰色の道の上を歩いていくとみかん畑の方に通じており、その手前にひっそりと井戸があった。夏の夜と言うだけあって、石造りで恐い雰囲気の井戸を想像していたが、実態はそうではなかった。竹で作った囲いの上に木の板でふたをし、深緑の井戸ポンプが乗っかっているだけだった。囲いの下の方では苔が競うように生えている。

 夏実ちゃんはバケツを持って構えるようにしゃがみこんだ。ハンドルを両手で握り、勢いよく体重を乗せる。金属と金属がすれる音がしはじめ、ジャブッと勢いよく筒の中から水が出てきた。バケツにいったん入りながらもしぶきをあげて飛び出し、地面を濡らしていく。それと同時に夏実ちゃんの浴衣にも飛び散り、反射的に片目をつぶったりしている。

「わ、冷た」

 ピクッと動く夏実ちゃんは笑顔で子供っぽい。そういう仕草を見ていると、分かっていても心が奪われていきそうだ。夏実ちゃんは筒から出る水を直接手ですくい不敵な笑みを浮かべると、悪戯な顔つきで、俺に向かってすくった水を飛ばしてきた。

「ひょっ、冷たっ!」

 情けない声を上げてしまい、背筋に電気が這った。それを見て夏実ちゃんは大きく口を開けて笑っている。つられて俺も、照れ笑いが出た。

 バケツに入った水がいっぱいになると、夏実ちゃんは勢いよく両手でバケツを持ちあげた。両腕を下に伸ばし、足を開いて歩き出す。ドスンと音がするくらい勢いよくその場にバケツを置くと、衝撃で中の水が揺れ、少しこぼれた。水は少しずつ流れて行き、辺りの小さな雑草を潤している。夏実ちゃんは履いている下駄が浸水しないように流れと逆の方向に軽く逃げた。肩をすぼめ左手で髪を耳にかけ直す仕草にため息が出る。俺はバケツを片手で軽々と持ち上げると、来た道を戻った。

 縁側の前で花火の袋を挟んで隣にしゃがみこんでいる夏実ちゃんは、風で消えないように火を大事そうに見つめている。いろいろな感情がこみ上げてきそうで、それを無理やり抑え込む。

 準備が整うと、夏実ちゃんは早速両手に花火を持ち、暗いキャンパスに模様を描いた。純粋にはしゃぐ姿が子供っぽくて微笑ましい。這い回るねずみ花火で逃げまどい、噴射ものに喜ぶ。そんな夏実ちゃんは笑顔が絶えなかった。

 神社の境内で見せた寂しげな表情はどこへやら。俺みたいに無理やり忘れようとしているのだろうか。そう考えると、なんだかあどけない笑顔もどこか儚げに見えてくる。

 虫の声が響き渡る。風もほとんど吹いていない。いつしかロウソクを挟んで俺も夏実ちゃんも黙りこみ、しんみりした雰囲気になってきた。話しかけたいのになぜか話しかけられず、手持ち花火の先っぽをじっと見つめていた。

 ふとポケットに手を突っ込んだその時、ポケットの中身に気付きそれを取り出した。

 それは、後で食べようと残しておいた大きめのごつごつ肌の夏みかん。どうせだし、夏実ちゃんと半分ずつ分けようか。

 持っていた花火の炎が消え、バケツに突っ込んで消火を確認すると、夏みかんのヘタのところに爪を突き刺した。その瞬間に爽やかなシトラスフレーバーと共に細かい粒子が飛び散り、鼻や口に吹きかかってきた。柑橘系のほのかな刺激が目をもう一度覚まさせたと思うと、気付いた時には指先はべとべとになっていた。それでも力強く剥き続け、半分ほど剥き終えたときに、中の房をつぶさないように真っ二つに割った。

「これ、食べる?」

 夏実ちゃんの目の前に半分だけの夏みかんを差し出す。それを見た途端に夏実ちゃんの目の色は変わり、一気に元の笑顔を取り戻した。

「食べる食べる! だんだんね」

 黄色い光が消えるのを待ち、バケツに突っ込んでから両手を出してきたので、そこに半分の夏みかんを置いた。美味しそうに食べる夏実ちゃんの表情を確認してから、俺もひと房口に運ぶ。口にした途端、果汁が溢れ出した。酸っぱい中に甘みもあり、食べやすい。

「うちの夏みかんはね、太陽の直射光、海からの反射光、それから、段々畑の石垣の輻射熱の陽を浴びとるけん特別美味しいがよ」

 最近広島で食べていた夏みかんはどれも酸っぱかったのに、愛媛に来てからはどれも甘く感じる。なにか秘訣があるのかも。

 残りは夏の風物詩、線香花火のみ。俺は不意に恒例のあれを思いついた。

「なぁ、夏実ちゃん」

「ん?」

 口の周りに夏みかんの果汁が付いているのだろうか、唇を軽く舐めながら俺の方を向く夏実ちゃん。その綺麗な瞳は、とろけるように垂れているように見えた。頬も心なしか赤く染まっているようにも思える。

「線香花火で勝負しようや。どっちの線香花火が最後まで残るか勝負な!」

「ええよっ」

 顎を軽く前へ突き出すようにして見せ、得意げな表情をする夏実ちゃん。縁側から勢いよく湿った土の方へ移っていった。俺も同じように移り、立ててあるロウソクの近くにしゃがみこむ。

「もちろん罰ゲームありよなぁ? こういう勝負事には罰ゲームがないといけんがちや」」

 夏実ちゃんが浴衣の裾を下から滑らかに撫でながらしゃがみこみ、唇を口の中に隠すようにしながら笑いかけてきた。

「じゃあ、『ひとつだけなんでも言う事聞く』ってのは?」

「……ええよ」

「じゃあいくよ。せぇのっ――」

 二人で同時に細い線香花火をロウソクに近づける。柄の先のむき出しに付着している黒色火薬がロウソクから出る火柱の中に入った。風は弱まっていて、無事に線香花火は弾け出した。火薬の匂いが鼻をくすぐる。中央の小さな火の玉が、小さいちょうちんみたい。その周りのサンゴのような糸状の光が弱々しく、独特の風情を感じる。パチパチと鳴っている線香花火の勢いが弱まっては持ち直し、そうなるごとに自分の鼓動を感じる。

 もしこの戦いに勝ったら何を命令しよう。この際、大胆にいこうか。でもそれで嫌われたらどうしよう。じゃあ、ちょっとした事にしようか。でもそれは面白みに欠けるよな。

 心の中で葛藤の風船がどんどん膨らんでいく。それでも線香花火の方は互いに徐々に弱くなっていっている。葛藤の風船が心臓を圧迫する。線香花火はとうとうサンゴのような糸状の光を失い、残すはちょうちんのような小さい膨らみのみとなった。

 夏実ちゃんも緊張した面持ちで小さい光の膨らみをじっとみつめている。辺りにはもはや音が無い。唯一、体の中で心臓がもがくように拍動しているだけだ。辺りで自由に鳴いているはずのカエルや夜の虫たちでさえ黙り込んでいる。線香花火の光は、今にも消えてしまいそうだ。お互いの弱々しい光に視線が集中する。と、その時だった。

「あっ」

 視線を降り注いでいた小さなちょうちんは線香花火の黒い先端から手を放した。それは一瞬で地面に落ち、湿った土に吸収されていった。葛藤の風船は一瞬で割れた。小さなちょうちんと一緒に夏まで落としたような、そんな気さえした。

「よっし! うちの勝ちやね!」

 遅れて夏実ちゃんのちょうちんも地面に吸い込まれていった。とても嬉しそうな表情をする夏実ちゃんの、その綺麗な顔をいっぱいに使った、無邪気な笑顔。今年の夏は、本当に良い経験ができた。ひと夏の思い出が、終末を迎えたような気がした。線香花火のおかげで、きちんとひと夏の恋を卒業できるような気がした。

 さっきまで集中していた分、今回の溜め息は大きかった。そのまま立ち上がり、肩を回す。だいぶ長い時間しゃがんでいたような気がする。さて、罰ゲームだ。いったい何をされるのだろうか。普段の野球部の悪ノリと比べれば大したことないと思うが。

「なぁ」

 下駄が土を刺す音と共に夏実ちゃんの声が聞こえ、その方向に向いた。夏実ちゃんはその場にすっと立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。一定の間隔を維持すると、肩をすぼめながら後で腕を組むおなじみのポーズをとった。

「ん?」

 もの寂しさと多少の不安が不思議な調和を生みだし、俺を苦しめる。何の罰ゲームを受けるのだろう。変に目を合わせてくれない夏実ちゃんはどこか怪しい。心臓の鼓動の仕方がさっきまでとはまた違うような気がする。

「今、うちと爽くんだけよな?」

 俯き気味に俺をちらちらと見ながらぼそぼそとそう言う夏実ちゃん。確かに今は二人だけだ。一応首を伸ばして辺りを確認したが、人影は見当たらなかった。

「うん。誰もおらんけど」

「なら、罰ゲームいくけん、ちょっと目ぇ閉じて?」

「えっ?」

 目線を少し横に向けながら髪を耳にかけ直す夏実ちゃん。罰ゲームで目を閉じるというのはどういうことなのだろうか。まさか目を閉じている隙に逃げて、片付けをすべて俺にやらせるつもりか。それならまだ可愛い方だが。

「ええけん。閉じて」

 一面の黒。夏実ちゃんの残像が少し浮かんでいるが、何も見えない。寂しさと不安の調和に満たされていた心の中は、もう不安だけになっていた。目を閉じているだけなのに、手や足や口までも硬直している。それを脱しようと思い、鼻から息を吸い口から吐こうとした、その瞬間だった。

 息を止めたら、時間も止まった。

 熱い空気とともに、何かが口にぶつかった。それが何なのか分からなかったが、とにかく柔らかかった。その瞬間、唇に優しいぬくもりを感じた。宙を浮いているような感覚とはこの事なのだろうか。足や手の先っぽのほうから徐々に感覚を失っていく。

 次の瞬間には全部の神経が顔に集まっていた。熱い。唇が熱い。顔が熱い。いつかと同じように、みかんの房の果実の小さなつぶの一つ一つが胸の奥の方で弾けたようだった。そして、時間は止まったようだった。

 初めて会ったあの時以来だろう。止まった時間とは対称的に、鼓動はどんどん早くなっていく。初めての味は、爽やかなものだった。さっき夏みかんを食べたせいか、柑橘系の香りが顔を覆う。やがて温もりが離れていくと同時に、夜の夏風が小さく揺れてどこかへ行った。離れてもなお、この鼓動は鳴りやまない。

「目、開けてもええよ」

 その声を聞いた瞬間、顔に集まっていた神経は体をめぐってそれぞれの位置に戻った。それでも、熱くなった顔は元には戻らない。

「何したん?」

 分かっていたが、確認のため。というか、その単語を聞きたかった。どんな表情をすればいいのか分からず、とりあえず真顔で聞いてみる。空気がシーンと静まっている。真っ赤な顔の夏実ちゃんがためらいつつ口を開いた。

「……ごめん」
「えっ?」
「ごめん!」
「あっ、ちょっ」

 次の瞬間、流れるように、逃げるように、どこかへ走って行ってしまった。終わりかけの蚊取り線香の煙が花火の火薬の匂いと混じって、目に染みる。足は固まって動けなかった。唇を舌の先で確認すると、まだ微かに柑橘系の味がした。

 初めての味は、やっぱりちょっと酸っぱかった。



 ゼラチンで固められたようなおだやかな海に、今日も青空が映し出されている。

 そんなに強度を上げていたら海が蒸発して全部塩になってしまわないか心配になるほど太陽光に重みを感じる。汗でべったり貼り付いたTシャツをはがして、上半身をあらわにすれば、剣山のような日差しが背中に直接当たる。だが、これも光合成だと思ってパワーをもらっているつもりで、コンクリートの上に仁王立ちした。

 八幡浜唯一の離島、八幡浜大島にある誰もいない旧海水浴場まで夏実ちゃんとサイクリングをしに来たが、いつの間にか海面スレスレのコンクリートロードで走り込んでいた。 

「休憩しよ。日焼けするてや」

 海を横切るように真っすぐ伸びている三王島と地大島を結ぶ路。そこに腰掛けながら、足湯のように水の中に漬けてバタ足している夏実ちゃんが、呆れたように声をかけてくれた。まるで昨日のあれがなかったかのように、何事もなく。そのわざと記憶を消したような完璧な立ち振舞いに、自分がパラレルワールドにでもいるような錯覚を覚える。

 昨日の晩、全く眠れず夏実ちゃんへの告白を想像していた俺が馬鹿みたいに思える。いつも葵の影がちらついて、どうしてもそこには積極的になれないでいる。だから、ある意味夏実ちゃんの完璧な立ち振舞いに助けられている部分はあるのかもしれない。

 信号もコンビニもない。エメラルド色の海と、空にも同化する対岸の島々。全然ひんやりしないコンクリートに手を付きひと休み。夏実ちゃんと一緒に足だけ海につけて、水の抵抗に抗いながらゆらゆら揺らす。昨日のことをぼそっと聞いてみようとも思ったけど、やっぱりやめた。

 夏の午後の波音に、チャリの鈴の音が溶け込んでいく。サイクリングロードになっているこのまっすぐなコンクリートの上で、自転車のシルエットといつものカンカン帽の影がすれ違う。

 夏実ちゃんは隣で大きなペットボトルを両手で抱えて、多めに買っておいたスポーツドリンクを飲み干そうとしている。カンカン帽が落ちそうなほど首を後ろに倒すと、シュッとした顎のラインに雫が伝う。青い空、蒼い海、葵……じゃなくて夏実ちゃん。何もないただのコンクリートの白さが、また良いアクセントになっている。なんだこれ、広告ポスターかよ。

 こんなに映える夏実ちゃんがビーチサンダル二足分の微妙な距離間で座っている。それなのに五十数センチの距離も詰められず変に目線をそらしている俺。何やってんだろう。

 八月ももう後半に差し掛かっており、練習もラストスパート。トライアウトまであと二週間を切ってしまい、定期的な身体の休息よりも、どうしても練習やトレーニングを優先してしまう。また夏の大会前みたいに怪我をしてしまったら元も子もない。しかしそれよりもどんどんレベルアップして確実に合格したい気持ちが勝り、じっとしていられない。逆に休むと不安になってしまう。

「爽くん、最近練習し過ぎやない? たまには息抜きせんと怪我するよ?」

「そうかなぁ」

 縁側に片足をかけて脚を鍛えている最中、背中側から夏実ちゃんの声が聞こえてきた。振り返ってしまうと動作を止めなければならないので、そのままの姿勢で背中を向けたまま返事をした。

 でも本音を言えば、夏実ちゃんの顔を正面からしっかりと見る余裕がなかった。顔を合わせたらあの夜を思い出してしまいそうで。正対したときも鼻やおでこなど微妙に目線をずらすことで、無意識に目を合わさないようにしてしまう。

「一緒に出かける? 今日坊っちゃんスタジアムでオレンジウェーブの試合あるし!」

「でも練習が」

「今しかないのに」

 ブルガリアンスクワットの足を入れ替えている間に夏実ちゃんがなにかぼそっとつぶやいた気がするが、振り向くことはしない。気づかないふりをして、その場をしのぐ。

「後悔せんようにせんとね」

 太ももに来る強烈な刺激に耐えつつ、一気にパワーを解放する。この姿を見てもまだ誘ってくるとすれば、それはもはや妨害だ。

「完璧主義やねぇ。後悔は逆にしたほうがええがよ? 後悔したけん、うちは爽くんのことを覚えとったし、今があると思うけど」

 夏実ちゃんの後悔はさておき、そうは言われても今は後悔しないように毎日を過ごさないと、本当に後悔してしまいそう。夏実ちゃんが一番応援してくれているのは分かっているから文句はないけど、しばらく放っておいてほしいのが本音。

 でも結局、最後は夏実ちゃんの粘り勝ち。その代わりしっかり筋トレして、へとへとになってから行くことにした。


 サンダルにカンカン帽のいつものスタイルの夏実ちゃんと八幡浜駅から予讃線の鈍行に乗りこむ。今日は前回とは違うルートでのんびり行くことになった。

 しばらく乗っていると、山道から海の目の前に出た。車窓から見える伊予灘に、電線が波打つように伸びている。水平線で真っ二つに割れた海と空がどこまでも続いている。海の青さのほうが色濃く、青空は淡くほんわりしている。海沿いの線路の周りの雑草は背が低く、一面の青の世界がどこまでも広がっていた。

 そこからずっと海沿いに走ると、夏実ちゃんは「次で降りちゃおうか」と突然言い出した。電車が停車するとすぐさま立ち上がり、俺の手を引いて光の射す方へ降りていく。

 徐々に開けてくる視界の先には、真っ青な伊予灘と晴れ渡った空。ちょうど水平線の先で空と海が分かれているのが見えた。この景色どこかで見たことがある。下灘駅だ。午後一番の暖かい風が、夏実ちゃんのカンカン帽を撫でるように流れていく。

 青空を固めたゼリーのような透き通った水面に、陽の光が波紋を揺らしている。身体がうずいてムズムズする。動きたくて仕方がない。このままベンチで逆腕立て伏せでもしてやろうかと思うほど、暇を持て余している。じっと海の方に向けている視線を動かさない夏実ちゃん。バレないように、座った形のままこっそり腕で身体を持ち上げるトレーニングをしようとした、その瞬間。

「駆け落ちでもしちゃおうか」

 かけおち?

 駆け落ちなんて、いきなり聞き慣れない単語を言われて反応に困る。涼にいのこともあるし、嘘には聞こえないがリアリティもない。もし直接的な意味なら、ここが告白のチャンスなのかもしれないのだが、なんだかそうとも思えない。

 遮るものはなにもない、二人以外に誰もいない駅のホームで、海と空が広がっている絶景スポット。今はただ夏実ちゃんの凛とした横顔をチラ見しながら、告白のタイミングをうかがうことしか出来ない。いや、厳密にはタイミングなんて存在しない。ただ言いたいときに伝えればそれで良いだけだ。なのに、やっぱり踏み出せない。

 野球をしているときの俺を見てファンとして好きだと葵に言われてしまったことを思い出す。トライアウトの応援で愛媛に誘ってくれた夏実ちゃんがそれと重なって、恋愛として好きになってくれるのか不安になった。

「爽くんのなかなか開かないタイムカプセルはいつ開くのやら」

「なんだそれ」

「なんでもない」

 結局また言い出せなかった。最高のタイミングが過ぎ去ってしまい、ただぼんやりと雲が流れていくのを眺める中で、会話のきっかけすら思い浮かんでこない。

「やっぱ帰ろっか」

「え? 野球はいいの?」

「いいのいいの。あれは爽くんを休ませるための嘘よ」

 嘘か本当かはわからない。

 ただ、どこか寂しげで距離を感じる横顔に、それ以上追求しようとは思わなかった。



 どこか遠くから蜩の鳴き声が聞こえ始めた。もう夏も終わりに近づいている。

 次の電車がいつ来るのか待ちながらも、ずっとこのまま来なくてもいいのにと思えてきた。遠くの波音と蜩の鳴き声以外に音を感じない。海の香りはほのかに漂うがどこか遠慮気味で、ただTシャツの中で胸元から湧いた汗がツーッとおへその辺りに伝うだけ。今が一体何時なのかもわからず、徐々に風景と一体化していくようだった。

「なんか夏の終わりって感じがするな」

 日が暮れはじめる頃に蜩の鳴き声を聴くとどこか儚くなるのは、風景のせいでもあり、夏実ちゃんの微妙な表情のせいでもある。

「もうお盆やもん。夏休みも残りちょっとやなぁ。学校いつから?」

「トライアウトの二日後か三日後になるかな」

「じゃぁ、トライアウトの次の日には広島に帰るん?」

「終わったらそのまま帰るわ。ちょうど松山でトライアウトがあるけ、終わってすぐフェリーに乗って帰れるけ」

「そぉなが。あとちょっとやね。さびしいね」

 海の方を向く夏実ちゃんの横顔の凛とした顎のラインに、頬杖をつくための握りこぶしが重なった。徐々に陽が傾いていく。夏実ちゃんの寂しそうな作り笑顔がオレンジ色の空とやけにマッチしていて、優美にも見えるし、儚げにも見えた。

 日が暮れてオレンジ色でさえも深い青に覆われ始めた頃、八幡浜駅に到着した。夏実ちゃんはやっぱり車窓から海を眺めるばかりだった。せっかく向かい合って座っているのにひと言も会話することが出来ないまま電車を降り、民宿近くのバス停までバスで戻った。辺りは暗くなっており、バスが行ってからはスマホの光で足元を照らしながら戻った。

「近道しよ?」

 照らした先にはみかん畑の石垣。階段はおろか、獣道さえもない。ただそこには、アーチ状になっているみかんの樹々によって天然のトンネルが作られていた。幅は狭く、小さい子供ならギリギリ頭が当たるか当らないかくらいの高さだ。

「体が大きい爽くんにはちょっときついかもしれんね」

 うん。きつい。だが、これも良い練習になると思って進んでいく。体が俺よりひと回り小さい夏実ちゃんは先にどんどん進んでいく。苦酸っぱいような香りが充満していて、鼻のまわりが少しもどかしい。ときどきみかんの葉っぱが俺の腕をひっかく。

 スタート地点こそ狭かったものの、後の道は比較的進みやすかった。急斜面は意外ときつかったが、そこは気合で何とか乗り越えた。樹々の隙間から日没前最後の夕日がときどき差し込み、薄暗さの中にノスタルジーを感じる。小さい頃に通ったことがあるんだろうな、と思いながら、爽やかな香りが漂う天然のトンネルを潜り抜ける。

 整備が行きとどいていない細い道を二人で並んで歩いていく。いつかのあの神社がある方向だと気付いたときに、ここが民宿の裏側で、さっきの道は本当に近道だったのだと悟った。その瞬間、またあの不思議な光景が飛び込んできた。

 二階の高さの壁に埋まっているような、立派な扉。別にそう特別でもない単なる扉が、壁の中に埋め込まれている。鬱蒼と生い茂る深緑の木々の間にぽっかり空いた空間から、飲み込まれている途中のような扉が見える。

 前に見たときは雨が降っていたから怪しさ倍増だったが、こうしてみると夜はさらに怖い。その光景に違和感を感じるのは、やはりその扉まで行く通路がないというところだ。前に遭遇した時は、自殺専用の扉かなとか、考えていたっけ。いや、もしかしたら泥棒専用の出入口なのかも。そんなわけないか。

「ああいうのを、純粋扉って言うんよ」

「純粋扉?」

「うん。どこにも通さん、ただの扉。ただそこにあるだけの扉。扉が純粋に扉としておれとるんよね。それが純粋扉」

 確かにそう言われると純粋だ。何も通すことなく扉だけが埋まっているように見える。どこにも通じていないため、実用性は皆無。扉が扉としての役割を無視して、純粋に、あたかも自分の意思で、存在しているようにも見える。

「あの扉があるっていうことは、そこに繋がる何かがあったっていうことなんかな?」

「この民宿、うちが生まれる前からある建物やけん、そこまではわからん。けど、そうなんかもね。涼にいだったらなんか知っとるかもしれんけど、どうかねぇ」

 あの扉はどこに繋がるのだろう。というか、本当にどこかに繋がりたいのだろうか。どこかに繋がったら、純粋扉は純粋扉じゃなくなっちゃうわけで。

「あの扉が開くときって、あるんかね」

「あの扉は、もしかしたら開かんけん意味があるがよ」

「どういうこと?」

「扉を開くって言うと、なんか新しいことにチャレンジしたりとか、新しい出会いがあったりとか、そういうイメージがあるやん。うちな、そんな新しいことにどんどんチャレンジするタイプじゃないがよ。どっちかっていうと思い出とか、記憶とか、そういうのを大切にしたいがよ。うちにとっては扉が開かんけん、うちでいられるっていうか」

 刺されたような気分になる。ずんと重たくのしかかる、思い出や記憶という単語。夏実ちゃんが大切にしていることを全否定しているような俺の存在が申し訳ないし気まずい。

「うちの民宿、もうだめかもしれん」

「え?」

「この前、涼にいとの話し合いがまたあったみたいで。上手くまとまらんかったみたい。やっぱり野球一本でいくんかもね。そうなったら、もう手放さんとどうしようもないね」

 まるで上手くまとまってほしかったような言い方に、昼間の発言と矛盾しているようで一瞬引っかかった。夏実ちゃんも気持ちの整理がついていないのかもしれない。

「じゃあ、夏実ちゃんの女将さんになるっていう夢は?」

「もしかしたら誰かがここを買い取ってくれるかもしれんし、そしたらそのまま働かせてもらうかもね。でも、手放したらこの古い建物は取り壊されるのかも。純粋扉は純粋扉のまま、開くことはないがよ。さっき開かんけん意味があるって言ったけど、実はモヤモヤしとって。開かずの扉やけど、せっかくなら最後に扉が開いたら、うちも次のステップに進めるんかね。ちょっと期待してしまう自分もおるが」

 未来がどうなるのかはわからないが、せめてあの扉を開けてみたい。そして夏実ちゃんを喜ばせたい。過去にこだわって大事にする夏実ちゃんを、俺が次のステップに導いてあげたい。過去に向かうベクトルを、少しでも俺と同じように未来に向かうベクトルにすることが出来たなら。お互いのこの微妙な距離感がもう少し縮まっていくかもしれない。

 虫の鳴く静かな夜に、静かに佇む純粋扉。夏実ちゃんの話が本当だとしたら、この夏が扉を開くラストチャンスになるだろう。その鍵は、やはり俺との過去にあるのだろうか。

「あ、そうや。あっち見とん!」

 夏実ちゃんが急に指差した方向には、綺麗な宇和海が広がっている。月光と漁船の灯りに優しく照らされている静かな宇和海からは、耳をすませばときどき潮騒が聞こえてくるような気がする。その瞬間、その先の水平線から爆発音が聞こえた。胸にずしんと響く重い音。打ち上げ花火だ。

「毎年八月十五日は八幡浜の花火大会が開かれるんよ」

 耳に髪を掛け直しつつ目線を花火の方に向ける夏実ちゃん。同じように俺も花火を楽しむために体の方向を変えた。水平線まで続く宇和海。その先には大きな虹色の明かりが海を幻想的に装飾している。

 水面に映る花火が万華鏡のような効果を生み、またその波紋で何重にも重なって揺れている。その光景を見ている夏実ちゃんの目に、顔に、光が届いて映し出され、端正な顔立ちにアクセントを加えている。綺麗だ。花火も、夏実ちゃんも。ため息が出るほどに。

「ここ、うちの秘密の絶景スポットなんよ。ほやけん、わざと会場には行かんかったが」

 嬉しそうに話す夏実ちゃんを、抱きしめたいと思った。愛おしいと思った。花火が消えるたびに、夏実ちゃんの目から光が消えているように見えてきて離したくないと思った。鼓動が速くなり、首元から汗が垂れそうだ。

 夏実ちゃんはずっと花火の方を見て、目をキラキラさせながらつぶやいている。そんな夏実ちゃんが急に嬉しそうに俺の方をむいてきた。

「実は爽くんもいっぺんだけここに来た事あるがよ。覚えとらんが?」

 どこか懐かしい気はするが、正直覚えていない。

 こんな風景、忘れるはずないのに、完璧に忘れている。こんなに綺麗で美しくて愛おしい光景が、新しい記憶にどんどん上書きされて、埋もれて、やがて消えていく。硬くて脆い、記憶の透明なガラスのコップが、申し訳ない気持ちで一杯になるような感覚。

「ごめん、覚えとらん」

「昔のこと、やっぱり全然覚えとらんのやね」

 さっきまでとは違う、悲しげな表情。枝垂柳のような花火が、夏実ちゃんの頬に涙のように光を這わせている。拭ったとしても拭いきれない花火からの光を、どうすることもできずにいる。

「幼馴染のはずやのに、全然馴染んどらんけん、実質ただの知り合いやね」

「なんか、ごめん」

「ううん、また新しく覚えちくれたらええよ。二人だけの秘密の場所やけんな」

 肌に写る緑の花火の明かりが、今度は夏実ちゃんを暗く見せた。また儚い顔。嘘でも覚えていると言った方が良かったのだろうか。一瞬視線を足元に逸らせた夏実ちゃんを見て後悔した。

「うちな、ほんまはちょっとホッとしとるんよ」

「なにが?」

「女将さんになるっていう、うちの夢やけど、でもこれって小さい頃からそれを押し付けられとるような気もしとって。たまに思うんよね、ホンマにこれでええんかなって」

 親からの期待を無意識のうちに刷り込まれてたっていうこともあるのだろう。そういえば太田もこの前そんな話をしてくれた気がする。

「やけん、それせんでよおなると思うと、気持ちは楽になるがよ。……寂しいけどね」

 天真爛漫に見える夏実ちゃんだが、実は目に見えないプレッシャーに苦しんで、ネガティブになっているのだろう。そんな事を考える必要がない俺は、実はすごく幸せなのかもしれない。それにも気付いていない、幸せ者の俺が、夏実ちゃんに刺さる言葉を見つけられるわけがなかった。

 過去を辿りながら、未来を気にして自分を押し殺す夏実ちゃんは、結局どっちつかずで夜の闇の中でもがいている。いつか純粋扉を開ける時が来れば、夏実ちゃんにとっての夜明けが訪れるのかもしれない。

 そしてそれは、俺にとっての夜明けでもあるはず。今は水平線がわからないほど暗くても、夜空と海面の境目がわかる明るさになれば、きっと夜明けはもうすぐそこだ。

 草を踏みわけ、どんどん進んでいく夏実ちゃんは今、どんな気持ちでいるのだろうか。まだまだ見えてこない深いところにいる本当の夏実ちゃんを俺に見透かされないように、全くこっちを振り返ろうともしない。短い獣道を過ぎると、やがて石でできた階段が目の前に現れた。

「この階段を降りきって、右に行けばすぐに家に着くけん」

 階段は意外と急で、ところどころに生えている苔が古さを物語っている。ゆっくりと、一段一段、大事に降りていく。夜空は幾千もの星で埋め尽くされている。あと四、五段を残し、もう少しだと思った、その時だった。

 俺の右腕を引く夏実ちゃんの小さな手が、するりと抜けて行った。

「えっ?」

 そのほんの数秒後、夏実ちゃんが一瞬視界から消えた。反射的に左手を出すが、さすがに届かない。気付いたときには足を滑らせて、道路の白線の上で、よろけながら立ちあがっていた。駆け足で降りて、夏実ちゃんが起き上がるのを手伝う。

「大丈夫か?」

「いった。まぁ大丈夫だと思うけど」

 口を閉じたまま歯を食いしばる夏実ちゃんの膝からは血がにじみ出てきた。辺りが暗いせいもあり、その血液はどこか黒々しい。

「いやいや、血が出とるが!」

「うん、それよりこれ……」

 右足に履いていた方のサンダルの紐がちぎれていた。

「あー、これはもうあれやね。おんぶやね」

 心配もそうだが、肌に触れるチャンスだと思ってしまう自分を静かに押し殺す。

「大丈夫。心配せんで。こうすれば、バランスが良いけん。それに、白線の上は冷たくて気持ちええんよ。ほら、平均台に乗っとるみたいやろ?」

 夏実ちゃんがサンダルを脱いで、無邪気でお転婆に白線の上を歩いて行く。片足を上げておどけて見せてくる。膝は痛そうなのに、全くその素振りを見せてこない。強がらなくていいのに。

 夏実ちゃんは白線の上を、俺は車道側を歩いた。こんな時間に車は通らないだろうが、一応形だけでも夏実ちゃんを守ろうとすることで、少しでも好感度を上げたかった。いちいち打算的な自分を見透かされないように注意しながら歩き続ける。でも心から心配していないみたいで、なんだか自分自身に対して違和感を覚える。

 民宿の正面玄関が見え始めたころ、縁側で誰かが誰かと西瓜を頬張っているのが見え、ちょっと安心した。痛そうな顔を真っ赤にして脂汗をかいた夏実ちゃんが、逆歯笛でシーと吸い込んでいる。急いで手当しないと。縁側まで着くと、家の中から夏実ちゃんのお母さんがこちらに向かってきた。

「二人共おかえりなさい。もう夏実、爽くん疲れとるじゃろうに、何させとるが!」

「いえ、全然。それより夏実ちゃんが怪我したみたいで。すみません」

 驚いた表情で夏実ちゃんを見るお母さん。夏実ちゃんは強がって平静を装っているが、脂汗は誤魔化せていない。すると、見覚えのあるがっちりした筋肉質の男が顔を出した。涼にいだ。

「俺が中まで運びますよ」

 涼にいの目がやけに優しい。やっぱり普通の幼馴染のようには見えない。夏実ちゃんの瞳も、溶けるような眼差しに変わっているように見える。顔がさっきよりも思いのほか赤く染まったような気がする。涼にいが夏実ちゃんをいきなりお姫様抱っこした。夏実ちゃんは抵抗もないままじっとしている。当てつけかよ。

「たくましいわ。さすが涼くん。じゃあごめんね。中に連れていくの手伝ってくれる?」

 涼にいと夏実ちゃんをくっつけたいのだろうか。襖がゆっくりと閉まり、静かな庭に残された俺は、まっすぐ部屋に戻るしかなかった。

 部屋の扉を閉めながら、ひとつ溜め息をつく。まるで蝉の抜け殻のように空っぽになった心は、何をしても満たされない。満たされないまま純粋扉にそっと閉じ込めて、二度と開かないように鍵を捨ててしまいたい気分だった。


 就寝中暑かったのか、まるで隣で寝ている透明人間の為にあるのかと思わせるほど掛け布団が移動している。畳の上に転がっている枕の下の携帯を取り出す。午前六時二十分。縁側から見る陽はすでに上がっているが、雲が分厚く、せっかく明るいのに湿気があって身体が重たい。

 涼にいが夏実ちゃんを連れて家の中に入ってから、もやもやが止まらない。すっきりしてから練習に入りたくて外に出て走ると、昨日のあの純粋扉の前で夏実ちゃんと涼にいの姿を発見した。何を話しているかは分からないが、二人が仲良くしているところに割って入る気にもなれない。遠回りになるが、見つからないように来た道を戻った。

 今日は一人で集中して練習しよう。そのために涼にいが帰るまで大人しくしておこう。あわよくば夏実ちゃんも今だけはどこかに誘うのを遠慮してもらえれば。

 野球道具を持ってみかん畑のグラウンドに出ると、カラカラに干からびたグラウンド内に砂埃が舞っていた。

 マウンドからネットに向かって投球練習。スパイクで掘られる穴がどんどん深くなっていく。投球フォームを確認しながら丁寧に投げていると、いつものように夏実ちゃんがグラウンドに現れた。

「爽くんおはよう」

「おはよう、夏実ちゃん。足どう? 大丈夫?」

「うん、まだちょっと痛いし気になるけど、歩けるのは歩けるよ」

「まあ、無理せんといてな」

 ジャージ姿の夏実ちゃんの横には涼にい。俺といるときよりも距離が明らかに近い。軽く挨拶して自分の世界に入り直す。まるで個人的な感情をかき消すためだけに、一球に集中して投球練習を再開した。鋭いボールがネットを突き抜けんばかりに突進していく。

「爽、受けちゃろうか」

「いや、いいです」

「じゃあ、打席に入っちゃろうか」

 涼にいが気を使ってくれたのか、練習の手伝いをしようとしてくるが気分が乗らない。

「せっかくなら対戦したら? そのほうが練習になるがよ」

 涼にいの横で、涼にいの背中を押す夏実ちゃんを目に入れたくなかった。確かに対戦のほうが練習にはなるけど、俺以外の人を応援している夏実ちゃんを今は見たくない。だから何度か押し問答したものの、最終的には結局二人のありがた迷惑が勝って、俺と涼にいが対戦することになった。

 いったんマウンドに登ってしまえば余計なこととはおさらばできる。プレートの砂を払い、掘れてしまっている穴を、歩幅を合わせてもう一度掘り直す。この前涼にいに言われた無意識をもう一度心のなかで意識し直す。無意識を意識すると言うと矛盾しているようだが、考えすぎてしまう俺にとってはそのイメージがちょうど良く当てはまっていた。走り込みやトレーニングでバランス能力は向上したし、自分では万全だと自負している。

 左打席に入る涼にいとも、バックネット裏で見ている夏実ちゃんとも目を合わせず、ネットに集中する。大きく振りかぶって、ケツをネットに向ける。グローブで身体の回転を作り出し、一気に前に持ってきた右半身から縦回転でボールを放出。そのイメージを頭の中に思い浮かべ、無意識のうちに身体全体を流れに任せる。気付けばボールがネットを揺らし、支えになっている土台が勢いで少し浮いていた。

「確かにレベルアップはしとるみたいやな。セットポジションじゃないみたいやけど」

 バットを構え直す涼にいの雰囲気が変わった。身体に一本の芯が出来たような安定感。本気モードって感じか。ならばこちらも全力で。少し力を入れてみた。が、少し指先に引っかかったようで、ネットの土台に直撃した。ふうっと一息ついて、右腕の力を抜く。無意識で流れに任せる。ネットに集中し、始動。気付いたときにはボールがネットを揺らして……いなかった。木製バットの心地よい打球音がみかん畑の間を貫いていく。右中間への綺麗なライナー性の打球。その完璧な当たりに、自信が一気に打ち崩された。

「体全体で向かってくる勢いは、すごいもんがある。さすが俺が教えただけあるわ。小さい頃の爽に体を大きく使って投げえゆうて教えたんは俺てや」

 トルネードに行き着いたのは自分のアイディアだと思っていたが、その元になっていたのは実は小さい頃の教えだった。しかもそれを教えてくれたのは涼にいだった。だから高三になってからトルネードの練習をし始めてもすんなり身体に溶け込めたのか。

「だとしたら、なんでトルネードを認めてもらえないんですか。涼にいが教えてくれたのなら、なぜ反対するんですか」

「俺は身体全体で投げえとは言うたが、トルネードにしろとは言うとらんはずや。それに合理的じゃない。一時の輝きのために、後の人生棒に振らんでもえかろう。小さい頃の爽が俺のアドバイスを聞いて体を大きく使えるようになった。ここまでは合理的な結果や」

「だったら……」

「ほやけど、その先はレベルに合った変化をしていかんといけん。未来のために体の負担を考えても、今のために実力を発揮することを考えても、トルネードである必要性を、俺は感じない」

 出た、正論。涼にいの正論に、反論の余地はない。確かに合理的だ。でも、腑に落ちない。合理的で効率的で結果も出たのに、腑に落ちないのは、個人的な感情のせいか、それとも。何も言えないマウンド上の俺に、打席で余裕の表情をしている涼にいがさらに追い打ちをかけてくる。

「お前はまだ自分自身と対決しとる。やけ相手がおると勝てんが。しかも相手を意識すると力が入って本来の実力を発揮できん。ほやけん、打席に誰もおらんほうが、周りに誰もおらんほうが自分の実力を発揮できる。違うか?」

 これもそのとおりだった。実際、余計なことを考えていると身体に無駄な力が入って途端に上手くいかなくなる。イップスがその典型的な例だ。

「もっともっと、打者を意識した練習をせんと、再来週の本番に間に合わんぞ。そういう意味では……」

 嫌な間が開き、悪い予感がする。涼にいは一度夏実ちゃんの方をちらっと確認して、すぐに俺と正対した。

「夏実の存在が、お前を邪魔しとるんじゃないんか?」

 瞬間、場の空気が凍った。バックネット裏の夏実ちゃんの表情は、気まずいので見ようとも思えなかった。

「夏実から聞いた。この夏、色んな所に連れて行って、思い出を掘り返しとったみたいやな。楽しいのは良いことやし、せっかくこっちに来たんならそれも構わん。ほやけど爽、お前は何しにこっちに来たんや? ほんまに合格する気があるんか?」

 痛いところを突かれた。自分の中ではしっかり練習してきたつもりだったし、確かにレベルアップはしているようだ。しかしトライアウトを受けられるまでには至れていない。それが夏実ちゃんと遊びすぎたせいなのだとしたら、やはり距離をとったほうが良いのだろうか。

「……応援じゃなくて、邪魔になっとったんやね」

「いや、そんな」

 そんなことない、と最後まで言い切るべきだったが、言えなかった。心の奥底には、多少そんな事を考えてしまっている自分がいたから。邪魔とは思わないけど、一人の時間が欲しかったのは事実。

「邪魔してごめんね」

 上がらない口角。瞬きしながら安心できる目線の位置を探している。こんな夏実ちゃんの表情は見たくなかった。さすがにちょっと言い過ぎだ。でも、そう注意できなかった俺も同罪だ。今にも泣きそうな夏実ちゃん。無理やり作ったギクシャクした笑顔で「じゃ、がんばって」と言い残して昨日痛めた足をかばうようにグラウンドから離れていく。

「まっ」
「やめて!」

 待って、と言おうとしたのに遮られた。涼にいは何も言わず、俺と夏実ちゃんの間で様子を見ているだけ。

「もうバイバイって言いたくないから、来ないで」

 夏実ちゃんは申し訳無さそうに眉毛を下げて、充血する目を隠しながら無理やり笑ってそう言った。どんよりとした背後の雲がどんどん分厚くなっている。追いかけるべきだとは思うが、もう罪悪感から上手く身体が動いてくれなかった。

 夏実ちゃんはグラウンドから去り、早足でどこかへ行ってしまった。その背中はよりいっそう華奢に見えて、灰色に染まっていた。練習は続けたが、抜け殻のように気持ちがドン底まで落ちて、無表情で棒球を投げるだけだった。

 小雨がだんだん強くなり、いったん中断してベンチで雨宿りすることになった。土のグラウンドに何本も筋が通い、水たまりに収まりきらない雨水がベンチ前の排水口まで泥を運んできている。グローブやスパイクについた泥を雑巾で拭いながら、涼にいも俺も、話す言葉を探していた。

「爽、お前、夏実のこと好きだろ」

 ようやく沈黙を破ったのは涼にいだった。遠くのほうで雷が鳴り、地響きがした。

「はい」

 隠しても無駄だなと思った。そしてきっと涼にいも、同じだと思った。

「でも、自分の器じゃ抱えきれないって思ってるだろ」

「はい」

 思い出せない過去を無理やり思い出させようとしていることは明白だった。それが日に日に重荷になっていたが、それに気付こうとせず、自分自身を騙そうとしていた。練習したいときに練習できないのを、夏実ちゃんのせいにしてしまっていた。だが同時に、そんなことを思ってしまう酷くて醜い自分を、認めたくない気持ちが強くなっている。

「なんでだろうな。俺なら受け止めきれるのにな。夏実のこと」

 実際そうなのだろうと思う。夏実ちゃんの過去への異常な執着は、きっと涼にいと一緒になれば解決できるものなのだろう。生活面だって、親からの期待だって、すべてを解決できるのだろう。ただしそれは、夏実ちゃんの気持ちを無視すれば、だ。

「ちょっと信じられないだろうが、聞いてくれるか?」

「はい」

「五月の練習試合、あれ俺が球団に頼んでセッティングしてもらったが。独立リーグは地域密着型じゃないとファンの獲得が難しいけん、地域おこしの一環で、地元の高校生との交流戦を、って言うてな。良いグラウンドは知っとるけん、そこでやってくれって」

 つまりこの、みかん畑のグラウンドか。まさかあの合宿が、涼にいが企画したものだとは思わなかった。

「で、絶対に呼んでほしいチームがあるってお願いしたが。それが俺の母校、広島水産高校。俺な、爽の幼馴染でもあるが、直属の先輩でもあるがよ」

 そんな繋がりがあったとは。あの白い学生服は誰かのお下がりだって聞いていたけど、もしかして、涼にいからのお下がりなのだろうか。

「なんで呼んでほしかったのか。それはな、爽。お前と対戦したかったが。そしてそれを夏実に見せて、夏実の気持ちを前に進ませたかったがよ」

 信じられない。愛媛で合宿したのも、練習試合で涼にいと対戦したのも、夏実ちゃんとの再会も、全て涼にいの計画だったなんて。

「俺は計画通り合宿と練習試合を開催することができて、夏実の前で爽からホームランを打つこともできた。夏実を爽と出会わせて、夏実の気持ちをあえて過去に戻した上で爽に勝利した。なのに、夏実は俺の方には振り向いてくれんかった。頑なに拒否したが。俺のことは幼馴染のお兄ちゃんとしか見られんて。やっぱりまだ過去におるがよ、夏実は」

 涼にいなりに、過去に囚われている夏実ちゃんを救おうとしていた、ということか。そしてそれは、涼にい自身のためでもあったということなのだろう。

「爽の夏の大会に夏実を連れて行ったのも俺てや。まぁそれは夏実が連れてってほしいってお願いされたのもあるけど。爽はもう広島に戻ったんやけ、忘れようって話したのに、ずっと爽のことを気にしとった。ほやけん今度は、夏実にトライアウトが開催されることを教えて、もう一回、爽にこっちに来てもらった。どこかでしっかり爽と話し合って、どうにか夏実を過去から解放させたかった。ほやけど爽を見とったら、俺が爽のことを倒して、もう二度と愛媛には帰ってこんって、夏実に印象付けんと駄目やって思うた」

 合宿だけでなく、トライアウトに関しても、涼にいが裏で手を引いていたとは。俺の人生最大の挑戦でありターニングポイントを、そんな風に利用していたなんて。だんだん怒りがこみ上げてきた。確かに涼にいからはここまで打たれてばかりだ。でも、トルネード投法が完成してイップスさえ治って調子が良ければ、十分抑えることができると思う。

「俺は別にお前のことが憎いわけじゃない。嫌いでもない。でも、悪いが今のお前には、夏実を任せられん。爽、お前は幼馴染として邪魔がよ。夏実が言うとったが。うちら三人の幼馴染って。冗談じゃない。もし爽がおらんかったら、俺と夏実だけで幼馴染やった。夏実も過去にとらわれずに、普通に前を向いて、普通に俺と一緒になっとったと思う。お前を夏実の記憶から消したい。そのためなら何でもできる」

 夏実ちゃんが守りたかった三人の幼馴染の状態。それを涼にいは俺を排除することで二人の関係にしたかった。そして俺は、そもそも幼馴染だったことを忘れていた。だから夏実ちゃん、あんなにいろいろ思い出させようとしていたのか。涼にいとの二人の幼馴染状態に引っ張られないように、俺に少しでも思い出させて、三人の幼馴染状態を死守したかったのだろう。

「この民宿が危ないの、夏実から聞いたやろ? 補助金の書類、わざと夏実に見つかるように置いといたが。許嫁になれるように、夏実のお母さんとも仲良くして、民宿の手伝いもようやった。全部、夏実のこれからの未来のためや。爽、お前にこれだけのことができるか? 夏実を前に進められるのはお前じゃない、俺てや」

 夏実ちゃんのためを思い、文字通り人生をかけている涼にい。そんな涼にいよりも、俺は本当に夏実ちゃんを大切にできるだろうか。自分にとって都合の良い時だけ手伝ってもらって応援してもらって、必要がなくなったら無碍に扱って。確かに涼にいもやりすぎだとは思うが、それを指摘できるような資格はないのかもしれない。

 冷たく笑う涼にいに、底しれぬ恐怖を感じた。この人の思いの重さには勝てない。言葉を失ったまま、ベンチから立ち上がれなかった。

「俺を越えんと、夏実は本当の意味で振り向いてくれんぞ」

 無理だ。三人の幼馴染の関係を重視する夏実ちゃんに対して、涼にいの思いを越えたうえで恋愛関係として発展させるなんて、絶対に無理だ。今までの夏実ちゃんの言動が、単に幼馴染として仲良くしてくれていただけだったのに、安易に夏実ちゃんとの関係性を進めようとするべきではなかったのだ。独りよがりで、甘かったのだ。

「なぁ爽、純粋扉って知っとるか?」

「それも、夏実ちゃんから聞きました」

「純粋扉は、俺が閉めたんや。鍵も、俺がもう海に捨てた」

「そんな、なんでそんなこと……」

 愕然とした。まさか純粋扉まで涼にいのせいだったなんて。しかも鍵はすでに海の底。だったらもう永遠に、純粋扉は純粋扉のまま、二度と開くことはないということなのか。

「夏実から爽のことを忘れさせるためでもあり、爽から夏実のことを忘れさせるためでもある。三人の幼馴染の関係をなかったことにするには、それが一番手っ取り早いけん」

「じゃあ、扉はもう二度と……」

 開くことはない。

「開けたいんか?」

「もちろんですよ! 夏実ちゃんが前を向くためにも、俺が開けてあげないと。でも、鍵がないんじゃ、もう無理なのか……」

「ま、俺ならもう一度あの扉を開けることができるけどな」

「え?」

「もし俺に勝つことがあったら、そのときに教えてやろう」

「じゃあ、いつ戦いますか? 今から対戦しましょうよ! 絶対に勝ってみせますよ」

「……今日はもうこのへんにしとこうか」

 大雨が止むのを待つのは諦め、風が目視できるほどの土砂降りの中で解散した。涼にいの車のエンジン音が遠くにかすかに消えていくのを確認してから、ようやく立つことができた。雨か汗か分からないが、爪が食い込むほど握りつぶしていた手のひらを解くと、そこにも水たまりができていた。