ナイター設備のない、みかん畑のグラウンドでは、日没とともに練習が終わる。

 グラウンド整備の最中、選手たちが一斉に挨拶する声が聞こえ、ぱっと振り返ると、スーツ姿の誰かが立っていた。誰だろうと近づいてみると、ガタイの良い涼にいだった。

「珍しいですね。こんな時間に、しかもスーツで」

「まぁちょっとな。民宿に用事があって今日も泊まらせてもらうが。明日の朝、暇なら、俺とキャッチボールせんか?」

「え、あ、はい。お願いします」

 涼にいが民宿に用事があってわざわざスーツ姿で来るなんて。違和感しか無いし、あまり良い予感はしない。

 次の朝、夏実ちゃんの家の前をみかんでいっぱいになったトラックが通り過ぎ、夏風がみかんの香りを運んできた。雲の合間から夏らしい日差しが何本もの白線となって降り注いでいる。

 民宿の引き戸を開ける音の中から、チームカラーのオレンジ色のトレーニングウェアを着た涼にいが出てきた。脇には外野用の黒いグローブのほかに、キャッチャーミットも持っている。軽いキャッチボールをイメージしていたのに、やけに本気モードだ。遅れて夏実ちゃんも出てきた。縁側に腰掛けて、朝から会話が弾んでいる二人が気になる。

 黒土がこびりついた練習用ボールが、日差しを反射して光沢を放っている。涼にいと向き合い、軽くボールを交わせながら徐々に距離を離していく。肩も温まって来た頃、今度は徐々に距離を縮めていった。

 使い込んである黒い外野用グローブと比較して、キャッチャーミットは新しく見える。キャッチャーミットを左手になじませた後、緩いボールが返って来た。同時に、涼にいが腰を下ろす。夏実ちゃんはその後ろに立ち、審判のまねをしている。ミットを俺に向かって構えてきた。上等だ。夏実ちゃんに良いところを見せると共に、愛媛オレンジウェーブ入りに少しでも近づくために、一丁見せてやるか。

 大きめの投手用グローブにボールをおさめ、入道雲に向かって大きく振りかぶる。ミットを背に体全体をひねり、うねりを生む。体の中から絞り込むように徐々に力を指先に持って行き、アスファルトにどっしりと足をつく。右腕と連動させながら大きく左腕で弧を描き、グローブを脇で潰す。胸をいっぱいに張って耳の上から投げおろし、指先で力強くスナップさせる。ボールが指先を離れた瞬間、反動で右足が高く上がり、地面に着いたころにはボールは涼にいのミットの中だった。

 もう右股関節に痛みはない。一球目ではあるが、ボールには勢いと伸びがある。吹き出した汗をシャツの袖で拭き、肩を軽く回した。

 どんどん投げ込んでいく。後ろにいる夏実ちゃんはストライクでもボールでもお構いなしに嬉しそう。時にはプロ野球の審判が三振のときにするポーズの真似事までやって笑っていた。毎回変わるポーズを見るのが楽しくて、つい調子に乗ってしまう。それを三十分ほど繰り返したところで、涼にいが立ち上がった。

「よし、このぐらいにしとこう。実は昼からチーム練習があるがよ」

「ありがとうございました」

「こちらこそ。良い球きとったよ」 

 汗をぬぐい、Tシャツの首元を持ってパタパタと空気を逃がす。生温かい空気が顎の方から外へ逃げ、真っ赤に日焼けした首元を冷やしていく。下を向くにも横を向くにもチリチリとした痛みが付いてきて、仕方なく首を曲げるのは諦めた。どす黒い入道雲の間からは、はっきりと太陽が顔をのぞかせた。

「ただ……」

 一瞬、間が空いた。

 蝉しぐれが耳の奥まで届き、やがて次の言葉でそれが消えた。

「その投球フォームはプロでは通用せん。やめたほうがええ」

 真顔ではっきりと言われてしまい、汗が一筋、すっと滴った。

「球はええ。勢いも伸びもあって、何より雰囲気がある。やけんど、無理に体全体を使おうとしとるように見える。言葉を変えれば、身体を使いすぎとる。それも、意識して使っとる。逆に言えば、無意識でその動作は絶対にできんはず。違うか?」

 反論できなかった。確かに無意識で急にトルネード投法してみろと言われたら、できない。でもそれは何度も練習して身体に染み付かせれば良いだけ。一体何が問題なのか。

「無意識にできない動作を無理に続けとると、必ず怪我をする。夏実から聞いたが、最後の夏の大会も怪我で不本意な投球しかできんかったらしいの。その怪我は投球フォームが原因だったんじゃろ。しかも、トルネードはランナーが出たら機能せん。爽が毎試合完全試合するなら関係ない話やけど、現実的じゃないやろ。プロはトーナメント制の高校野球と違ってコンスタントに毎週成績を残さんといけん。今のままじゃ、それは無理な話や」

 正にぐうの音も出ない正論。反論の余地はない。夏実ちゃんは男二人の真剣な対話に入りきれないようで、こっそり縁側に座り直している。ここまで来て、トライアウトまであと三週間というところで、現実を突きつけられた。

「ま、少しずつフォーム調整していこう。それか、これからは全部セットポジションから投球してもええ。あの勢いと伸びがあれば、多少球威は落ちても勝負できる。あの頃みたいに、俺が師匠になって指導したげらい」

 たしかに欠点はあるけど自分らしい個性だと思ってやってきたトルネード投法。実際、ランナーがいないトルネードのときとランナーがいるセットポジションのときとでは球威が変わる。だからこそ最後の大会でも打たれている。あの場面が思い起こされて、身体が萎縮してしまう。そのせいでまたイップスが発症しそうで、不安は募るばかりだ。

「なぁ夏実、良かったら爽と一緒に練習見にこんか?」

「良いん? 行く行く!」

 さっきまで真っすぐ一直線に俺を見ていた嬉しそうな瞳はもうない。いつの間にか同じような視線を涼にいに向けている。

「なぁ、爽くんも行くやろ?」

 ついでに行くくらいなら、一人で残っている方がずっといい。もうこれ以上くっつく場面を見たくない。

「いや、俺はいいわ。見させてもらいんさい」

 軽く口を曲げた夏実ちゃんを、涼にいは優しい微笑みで自分の車に促した。今ならまだ間に合ったのに、「やっぱり行くな」の一言が言えなかった。エンジンをかける音がみかん畑に轟く。

「爽、またな」

 脇にグローブを挟んだまま一礼したせいで、ボールがこぼれてしまった。それを拾い上げ、泥をぬぐった時には、車は狭い山道を進んでいた。車は排気ガスのせいかどす黒く見え、曇りがかった空がやけに暗く見えた。
 みかんの香りが慰めるように俺を包み込んだ。



 昼食後、広い部屋に戻って畳に寝転がり、扇風機のぬるい風に当たり続けた。

 ニュースの天気予報が壁一枚向こう側から微かに聞こえてくる。大きな仏壇の横に小さな蚊遣豚が置いてあり、線香の煙が薄く伸びている。渇いた線香の匂いが鼻をときどき刺しながら、隣の部屋へと流れて行った。

 午後は雨か。不意にびしょ濡れの少女が頭に浮かぶ。夏実ちゃんは大丈夫だろうか。濡れて、風邪をひかないだろうか。熱を出さないだろうか。悪い想像がどんどん浮かんでくる。肝心な場面で働かない脳は、こういう時ばかり元気になる。涼にいが傘をさして、その中に夏実ちゃんを入れ、相合傘で車にエスコート。雨宿りにピンク色のネオンが光る建物に連れて行くが、車内なので逃げられない。でも、実はまんざらでもない感じだったりして。

 そこで俺は勘付いてしまった。夏実ちゃんは前々から大胆だとは思っていたが、それがどうしてなのかはわからなかった。違和感でしかなかった。でも、違う。いくら幼馴染だとしても、大胆すぎる。きっと涼にいともっと親しくなるために、俺で練習していたのだろう。俺は遊ばれていたのだ。多分。今まで密かに感じていた悪い予感がどんどん繋がっていく。

 所詮スカウトにも注目されないような投手が、野球で飯を食っていけるはず無い。ましてやこの期に及んで投球フォームの見直しをしないとプロは難しいと現役の選手に言われてしまった。勢いがあるときはどんどん前に進めるのに、それが途切れると一歩も進めなくなる。頭を掻きむしると爪が刺さってひりひりしたが、何も解決しなかった。

 生ぬるく埃臭い匂いと共に、雨が降ってきた。渇いた道路はやがてそれを吸いきれなくなり、時間を追うごとに濃くなっていく。薄暗い部屋の中で、スマホの画面だけが眩いほどに光っている。俺はごろんとうつ伏せになり、左手で頬杖をついた。

 まぶたがだるい。雨の日はどうしてこんなに気が乗らないのだろうか。雨粒と一緒に、変な圧力まで降りてくるのだろうか。頬杖の左手からするりと顔を滑らせる。畳に頬から落ち、耳でいぐさを感じ取る。窓についた水滴がサンに落ちていく――。


 目が覚めると、腕がしびれていた。知らない間に眠っていた。目をこすり、体を起こして頬に手をやると、畳の模様がそのまま浮かんでいた。頭の中を風が通り抜ける。 

 風鈴の冷たい音が、流れるように耳を心地よく刺激した。畳の上にゆっくりと座り、薄暗い部屋の中で、まばゆく光るスマホをチェックする。新着メッセージなし。

 それからどのくらいの時間がたっただろうか。蝉は昼間に鳴けなかった分、振り絞るように鳴いている。蚊遣豚と目があった瞬間、左足にかゆみを感じた。知らない間に蚊にかまれたのだろう。思わず爪でひっかくと、かく前よりも赤くなり、少し大きくなった。

 夏の終わりが少しずつ近づいている。そんな気がした。


 雨上がりの夕暮れは紫色。遠くの方に霞む紅く染まった雲が、どんどん紫に侵食されていく。紅い雲が紫に完全に侵食されようとしていた正にその時。

「ただいま」

 左側からゆっくりと足音が聞こえてきた。いつものように透き通った声。夏実ちゃんは唇の端を微かに上にあげ、笑いかけてくる。朝に見た時とは違い、白いノースリーブのブラウスにポケットが多そうな深緑の長めの膝丈ズボン。ブラウスの横から、透明のビニールのようなものが微妙に顔をのぞかせている。

「おかえり」

 無事に帰ってきたことに安堵しつつ辺りをチェックする。涼にいの車は見当たらない。ということは、帰りは一人だったのか、それとも近くまで送ってもらったのか。

「良い練習はできた?」

「全然よ。さっきまで雨降っとったし」

 ちょうどよく雨が降ってくれたから、その他の理由を見つけずに済んだ。

「そっか。一緒に見に来ればよかったのに。今日は室内練習場で練習しとったけん、いろいろ参考になったかもしれんがよ」

 と、その時、悪いタイミングで着信が入った。

「ごめん、ちょっと、電話。あ、もしもし?」
 相手は沖浦だった。

「もしもし? デート中だった?」

 急いでボリュームを下げる。

「バカ! そんなんじゃないわ!」

「そうよな、トライアウトまであと三週間ないけの。今は練習の虫になっとらんと」

 そっちのほうも中途半端だなんて言えない。

「で、なんなん」

「いやいやいや、冷たいのう。明日そっち行くけえ。太田と。練習手伝っちゃるけ、覚悟しときんさいや。あ、太田も変わる?」

 電話の先で何度か押し問答が続いたが、結局沖浦から変わることはなかった。明日いきなり来るなんて。しかも太田も一緒って。沖浦なりの激励のつもりだろうか。さっきは悪いタイミングで連絡をよこしたと思ったが、やっぱり絶妙なタイミングだったみたいだ。

「まぁ、そういうことじゃけ。あと、一泊二日じゃけ、泊めてね。ほいじゃね」

 一方的に電話を切られ、ほっと息をつく。夏実ちゃんが嬉しそうに寄ってきた。

「誰やった?」

「沖浦と、多分太田も。あ、広島水産のチームメイトね。覚えとらん、よね」

「キャプテンとピッチャーの人やろ? そのくらいは覚えとるがよ」

 なんでも覚えていない俺と同じように覚えてないって言わせようと思ったのに。夏実ちゃんはなんでも覚えているみたい。

「その二人が、明日来るって。練習手伝ってくれるらしいけど、一泊したいらしくて。急で悪いけ俺の泊まらせてもらっとる部屋か廊下に雑魚寝してもらうわ」

 口を隠して笑った夏実ちゃんは、やっぱりどこか嬉しそう。

「ええ友達を持ったね。心強いコーチがまた増えた」

 また、は余計だ。無意識だろうがいつも涼にいの影がちらつく。涼にいに言われた投球フォームの調整、いや、改造、というか変更か。それについてもあの二人に相談してみても良いかもしれない。無謀な挑戦かもしれないけど、やってみるだけやってみるか、と思えそうな気がした。

 夏実ちゃんのことは、いったん隅に追いやって。 


 見慣れたカンカン帽のリボンがホームから改札に吹き抜ける風でチラチラ揺れている。

 俺が来たときに陣取っていたときと同じ位置で沖浦と太田の到着を一緒に待っている。夏実ちゃんに付かず離れずの位置をキープしつつ、俺が来たときのことを思い出す。

 あのとき、涼にいはどんな気持ちだったのだろう。俺が来ることで邪魔者が来やがったと思ったのだろうか。そもそも涼にいは夏実ちゃんのことをどう思っているのだろう。夏実ちゃんのことはいったん置いておいて野球に集中するつもりだったのに、やっぱり考えてしまう。

 二人が改札から出てきた。沖浦と目が合い、嬉しそうに近づいてきた。

「久しぶりじゃのう。うん、ちゃんと日焼けしとるけ、まずは合格。あ、沖浦っていいます。こっちは太田。あの……民宿の次期女将さんで間違いないですよね」

「はい、持田夏実といいます。こちらは練習生兼グラウンド管理人の風張爽くんです」

「いや、俺の紹介はいらんじゃろ」

「いやいやいや、夏実ちゃん、ノリが良いのう」

 気安く夏実ちゃんなんて呼ぶんじゃない。

 ケラケラ笑う沖浦に、口を隠してふふ、と笑う夏実ちゃん。それに、鼻で笑う太田。まずは和やかな雰囲気になってくれて安心した。

 とりあえず四人で腹ごしらえに駅を出て左手にあるお店に入り、夏実ちゃんが席につく前に注文。スピーディに出てきたそれは、八幡浜名物のちゃんぽん。あっさりした醤油ベースのちゃんぽんが運動前の腹ごしらえにはちょうどよいサイズだった。この前は八幡浜を全然堪能できんかった、と沖浦が特に喜んでくれた。そんな沖浦に一生懸命八幡浜の魅力を伝えようとする女将見習いとしての夏実ちゃんが、見ていてとても微笑ましかった。

 八幡浜駅から民宿までバスで移動し、早速着替えてグラウンドに出た。昨日の雨の影響で地面は多少ゆるいものの、水はけは悪くない。このまま天気が良いままでいてくれれば夕方には通常通りのコンディションで練習ができそうだ。

 三人で三角キャッチボールから。きっちり広島水産の練習用ユニフォームを着ている沖浦と、ジャージ姿の太田。沖浦の方は懐かしいし、太田の方はいつも練習着だっただけに逆に新鮮。こっちに来ることを決意したあの日以来の再会だから、三人とも中途半端に坊主が伸びている。

 キャッチボールの後はマウンドを使わせてもらい、沖浦が捕球、太田が後ろからピッチングを見てくれることに。バックネット裏にちょこんと座る夏実ちゃんともたまに目が合い、そのたびに呼吸を整える必要があった。

 セットポジションで左肩を沖浦に向ける。自分の最も無意識で投げられる、キャッチボールのお手本のようなフォームで投げてみる。確かに投げていて楽だし、バッターがいないからというのもあるがイップス気味にもならない。ただ、良いボールかと言われれば、そうでもない。いつもの勢いのあるボールを知っている以上、何度投げ込んでも満足できるようなボールを投げられない。

「ラスト三な」

 三球いずれも変化球。こっちはまず問題なさそうだ。肩肘の負担もトルネードの時と変わらない。足腰の負担は確実にセットポジションのほうが少ないが、投球練習が終わってもなんだかふわふわ浮いているようだった。

「お前、まだ股関節が痛むのか?」

 最初から最後まで無言で俺の投球を見るだけだった太田が、急に話しかけてきた。

「いや、別に」
「じゃあなんでセットなんだ?」
「いや……」

 言うか言うまいか迷ったが、せっかくなので全てぶちまけてみた。現役独立リーガーがトルネード投法の弱点を指摘して、言い返せなかったこと。トライアウトに受かるため、そしてその先にコンスタントに成績を残すにはセットポジションで投げたほうが良いと言われたこと。受かるために変化球やコントロールをまず最優先で磨こうとしていること。それを全部聞いた上で、太田は腕を組んで少し考えた後、一言つぶやいた。

「サイテーだな」

 辛辣だった。あの頃の太田そのままだ。ドキッとする。

「確かにトルネードは身体への負担が大きいとは思う。それに、一度背中を見せて、目線を切ってから投げるから、コントロールもつきにくい。ある程度のまっすぐと変化球があればある程度は普通に抑えられそうな気もする。ただ、本当にそれでいいのか? トルネードはお前の個性なんだろ。現に俺から背番号を奪えるくらい、抑え込んだんだろ。トルネードだったから、お前はここまで来られたんじゃないのか?」

「確かにそうかもしれんけど、俺は失敗したくないんよ。結果がすべての世界じゃけ、その結果をどう残せるかしか無いんよ。ある程度安定させんと……」

 はぁ、とため息をつく太田。

「やっぱバカだなお前。失敗しないためにこっちに来たのか、それとも成功するためにこっちに来たのか。もう一回よく考えろ。お前の良さは馬鹿正直なところと、無駄に突き進める集中力だ。最後まで突き進めよ、お前の道を」

 ハッとした。成功するためにこっちに来たのに、いつの間にか失敗しないための行動になっていた。

「でもランナーが出たらセットで投げんにゃいけん。それはどうすればいいん?」

「下半身の動きだけ変えりゃええじゃろうが。セットの時とトルネードのとき、全然違うんよ。じゃけ勢いがつかんのよ。下半身だけトルネードと同じ使い方にして背中見せんかったらええだけじゃろうが」

 沖浦が寄ってきて珍しく的確なアドバイスをしてくれた。無意識で動けるセットポジションと、意識しないとできないトルネードの間の動き。たしかに良さそう。

「なるほど、それで調整してみることにするわ。それで課題は一個クリアしたようなもんじゃ。あとはそれをいかに無意識でできるようになるか、じゃね」

「あと、お前自分のグローブ見てみろ。ぺちゃんこだよな。しっかり握れてる証拠だ。体の回転を縦回転に導くのは、その左手の仕事だ。だから、左手に意識を向けるんだ」

 太田からのアドバイスも、理論的で為になる。横で競うようにブルペンで投げていた頃から観察されていたからこそできる、太田ならではの的確なアドバイスだと思う。

「お前がダメだったら二枚看板の俺の価値も下がるんだよ」

 最後の余計な一言に苦笑いして、そこから猛特訓が始まった。ナイター設備のないみかん畑のグラウンドで、ボールが見えなくなるまでフォームチェックと投球練習は続いた。何度も反復していると、自分の中でリズムが生まれ始めた。反復するごとに、意識の深層に潜り込み、自動化が進んでいく。休憩するのも忘れて二時間ほどずっと反復した後、頃合いを見計らってマウンドに登った。

 何も考えない。無の境地。ボールが勝手に離れていく。すっぽ抜けたわけではない。きちんと指先までしっかり無意識のうちにコントロールされた筋肉の連動が綺麗なバックスピンを生む。

「調子ええなぁ。じゃあそろそろラスト、無意識でワインドアップのトルネードしてみ」

 沖浦がそう言ってミットをど真ん中に構える。太田が右打席に入り、バットを構える仕草をする。俺はそれに応えるように、無意識でワインドアップから投球までの一連の動作を身体に委ねた。気付いたときには破裂音とともに沖浦のミットにぴったりとボールが収まり、目の前で沖浦が苦悶の表情で寝転んだ。

「これで本当に完成したな」

 右打席内で沖浦の方を見ることなく、太田がまっすぐ俺に向かってそう言った。
 形は決まった。あとはこの感覚を、トライアウトまで忘れないこと。そのために、毎日フォームの反復を怠らないこと。二人の道標が、俺を成功への道のりに戻してくれた。

「お前、今、自分自身のこと、好きだろ」

 太田から急にそんな事を言われたが、なんて答えたらいいのか分からない。自分のことを好きかどうかなんて、考えてなかった。

「確かに。どんどん良い顔して投げるようになったなぁ」

「そうか? 全然気づいてなかった」

 俺の長所は、一つのことに対する集中力。だけどそれは、視野を狭くしてしまうデメリットもある。それを気づかせてくれたのは、やっぱり仲間の存在だった。

「もっと自分に正直にならないとな。せめて自分がどんな気分でどんな顔してるのかくらい自覚してないと、その良い顔は続かんぞ」

「確かに。俺もキャプテンに任命されてからキャプテンらしい顔になったもんなぁ」

「沖浦うるさい。あのな、良い顔してるやつっていうのは、自分のことをちゃんと認めてるやつだけなんだ。お前無意識でそれができるし、なんなら周りの奴らの顔をみんな良い顔に変える力があるんだ。この夏だってそうだっただろ?」

 夏の大会前の紅白戦、俺の周りには確かに良い顔をした奴しかいなかった。それは俺自身が良い顔をしていたからだったのか。

「俺にないものを、お前は持ってる。それを感じたから俺は背番号を譲りたいって思わされたんだ。ただ、お前は自分でそれをコントロールできていない。自分を知っていくたびに、自分を認めて、好きになれるようになる」

 確かにそうかも知れない。自覚して、自分を認めないと、自信にならない。そういうことだったのだ。

「俺はイップスとは無縁だからよく分からんが、技術的なイップスと精神的なイップスがあるわけではなくて複合的なものだと思う。下手とか心が弱いとかじゃなくて、単純に自分の現状を素直に受け入れられていないから出る一種の反射的な行動なんじゃないかと思う。過去の感覚を無理やり思い出そうとせずに、素直に現状を受け入れて、上手く付き合って、そういうのが大事なんだと思うぞ」

 太田、そこまで俺のために考えてくれているなんて。俺より俺のことを理解してくれているみたいで、嬉しい反面、自分自身で何もできていないことを痛感した。

「少しずつ、な。小さな成功を重ねていけば、きっと変われる」

「ありがと。さすが太田、頼りになる」

「こういう話は沖浦が自分で気付いてみんなに話せてないといけなかっただろうけどな」

「急にこっち来た! 悪かったなぁもう」

 三人で良い顔を確認し合って、練習はお開きになった。
 

 夏実ちゃんとともに二人を八幡浜駅まで送る道中、神社の周りが騒がしかった。

「今晩、家の近くの神社でお祭りがあるんよ」

「嘘お! 夏実ちゃんの浴衣姿見たかったぁ。爽、お前絶対写真撮れよ?」

「お前彼女いるだろ。バラすぞ」

 太田の冷静なツッコミが冴え、俺も夏実ちゃんも表情が緩んだ。バスの乗客は俺ら四人だけ。貸切状態で話が弾む。

「あ、この前宮島に彼女と行ったんじゃけど、鹿にお弁当全部食べられちゃって。夏実ちゃん、宮島とか行ったことある?」

「いや、まだ無くて」

「だって。爽、お前連れてったらええが」

「うん、まあ、いつか、良いチャンスがあれば良いかなって言う感じっぽいよね」

「キレ悪ぅ。たまに投げとるカーブくらいキレ悪ぅ。そんなんじゃけ彼女できんのんよ」

「ほっとけ」

 たまに投げるカーブで太田が笑ったのもムカつく。

「え、ピッチャーって一番モテるがやろ。爽くん彼女おったことないん?」

 夏実ちゃんにそんなこと聞かれるなんて思ってなくて、心の準備が出来ていない。

「ノーコメントで」

 格好悪いから、無いとは言いたくなかった。

「夏実ちゃん、コイツ、夏の大会が終わってからファンクラブまで出来とったんよ。でも自分からは行けれん性格じゃけえ自然消滅させとって。あれがピークだったのにのう」

「え、ファンクラブ? 爽くんの? へぇ。そうながぁ」

 ニヤリとする夏実ちゃんのこの反応。不意に俺のことはファンとしての好きだったという葵のことを思い出す。夏実ちゃんは俺のことはどんな存在だと思っているのだろう。ただの幼馴染で、ただのファンだとしたら、どうしよう。

「沖浦、もうそのへんにしといてやれ」

 最後に手助けしてくれたのがクスクス笑う太田だったのが、なんとも情けなかった。

 駅に到着しバスを降りて、夏実ちゃんがお手洗いに行っている間、待ってましたと言わんばかりに沖浦がニヤニヤしだした。

「お前、夏実ちゃんの方は大丈夫なんか?」

「大丈夫って、何がや」

「なんか二人まだビミョーな距離感があって。そんなん心配になるじゃろうが」

 いやお前のせいだろ。太田も鼻で笑っている。

 太田が言ってくれたようなことは、恋愛にも当てはまるのだろうか。当てはまるよな。自分のことが好きじゃないと、人のことを好きになれない。って、よく聞くし。

 お手洗いから帰ってきた夏実ちゃんに目で合図する沖浦を、さっさと改札に通そうとする太田。そんな二人を見送って、また夏実ちゃんと二人きりになった。沖浦も見逃さなかったビミョーな距離感をどうすべきか。

 野球でひとまず方向性が固まった今、次はやはり、夏実ちゃんと向き合わないと。