県大会決勝戦で盛り上がる七月末の広島を背に、密かにフェリーに乗り込んだ。
目的地は愛媛の松山観光港。太田や沖浦からは広島で一緒に後輩の練習を見ながら自分の練習をすればいいじゃないかと言われたが、ちゃんと断った。自分の練習よりも後輩の練習の手伝いのほうがメインになってしまうと思ったから。そうなるとどうしても引退していることを痛感して、怠ける理由にしてしまうから。現役にこだわる今の自分自身と矛盾してしまう。だからこそ、今度は自分自身だけに集中できる環境で練習したかった。
予讃線で八幡浜駅へ。合宿以来の景色はどこか懐かしくも、少し違って見えた。八幡浜で待ってくれている夏実ちゃんを思うと、期待のほうが少し多い。くねくね山道を行く乗用車を横目に颯爽と走り抜ける特急宇和海の車内からは、みかんの段々畑が見えてきた。
列車が八幡浜駅に到着してホームに降り立ち改札を抜けると、見覚えのある人影を見つけた。麦わらのカンカン帽子の綺麗な顔立ちは、俺を見つけた瞬間に笑顔になった。
日焼けして赤みがかった焦げ茶色のロングだったはずの髪は、肩の高さで二つに結ばれて、明らかに短くなっている。見覚えのある古いアニメのキャラクターが描かれた白のTシャツによく合う、青空のように澄んだ水色のキュロットパンツ。華奢な腕をぶんぶん回すように手を振り、俺を呼ぶ夏実ちゃんは、子供みたいで可愛らしい。
「お疲れ様。そうたいぶりやね」
「あ、うん、まあね」
実際に会ってしまうと、どうも普段どおりの言葉が出てこない。いらないところで格好をつけるように変な返事をしてしまう。
「爽、そうたいぶりやなぁ。大きくなったなぁ」
さっきから夏実ちゃんの横で俺を見ているガッチリした大男が、なぜか馴れ馴れしい。というか、どこかで見たことがある気がする。ガタイの良い大男が、夏実ちゃんと一緒に愛媛にいる。この人、もしかして。
「俺の事、覚えとるか?」
五月の合宿の最初の練習試合で、俺からホームランを打ったあの選手。壁にある奇妙な扉の前で夏実ちゃんと話すガタイの良い大男。想像の中の夏実ちゃんの酷く醜い元カレ。三人が同一人物として、目の前のクシャッとした笑顔と重なった。
「ああ、あの合宿のときの! 俺からホームランを打った!」
そうそう、と応えるガタイの良い大男に、夏実ちゃんがフォローを入れる。
「そっかそっか。試合したもんね。そっか、そっちの印象のほうが強いんやね。こちら涼にい。爽くんと、うちと、涼にいは三人でいつも遊んどったがよ。つまり、涼にいも爽くんの幼馴染。てか爽くんに野球教えたの、涼にいよ」
「爽、ホンマに全部忘れとるんじゃのう」
確かに小さい頃、誰かに教えてもらってキャッチボールをしたことがあるのは覚えているが、それがまさかこの人だったとは。
「今は違うけど、実家はうちの近くなんよ。やけ、今日は運転手してもらったんよ」
「どうも、運転手です。あの頃みたいに、涼にいでええよ」
「涼にいも、前はもうちょっとかっこよかったけん、モテモテやったんよね。県外の高校で甲子園行けそうやったけど行けれんで、大学は野球推薦で東京行って。そっからあんなにぶくぶく太りだすとは。うちに来ても冷蔵庫を漁るからお母さんが冷蔵庫に鍵かけて、それを得意のピッキングで開けてまで貪り食って。そりゃここまで大きくなるよね」
「ま、過去形てや。あと、太ったんじゃなくて、たくましくなった、の間違いやけんな」
「はいはい」
なんか妙に夏実ちゃんと距離が近くて鼻につく。本当にただの幼馴染なのだろうか。
八幡浜駅のロータリーに止めてある大男こと涼にいの車に乗り込み、民宿に向かう。助手席にちょこんと座り、ルームミラー越しに話を振ってくれる気遣い上手な夏実ちゃんに癒やされながら、山道を進んでいく。その間、涼にいが夏実ちゃんの方をチラチラ見ていたのが妙に気になった。いろいろ気にして冷房の温度を細かく設定しようとしているのも見えて、なんだか鼻についた。
みかん畑の間にぽっかり空いた、見覚えのあるだだっ広いグラウンドまで到着した。ここで一ヶ月間みっちり練習して、夏の終りのトライアウトに向けて準備を進めていく。まるでもう一度甲子園を目指せるかのような高揚感に、手汗がにじむ。
夏実ちゃんが仕込んでくれていた例のみかん風呂に入らせてもらい、スッキリしてからは歓迎の大宴会。宴会は夜まで続き、酒が入って盛り上がる大人たちとは対称的に、俺と夏実ちゃんはだんだん飽きて居づらくなってきた。
「確かに。部屋が多いから鍵の管理が大変ですよねぇ。なんか考えんとですよね。なあ、夏実もそう思うやろ」
急に泥酔した涼にいが夏実ちゃんに絡んできた。夏実ちゃんは優しくたしなめて、少し振り返り、困ったように口角を上げた。なんだか二人がただならぬ関係性に見えてきて、よく分からないけど腹が立つ。
ゴロンと熊のように寝転がった涼にいを見ている夏実ちゃん。やれやれと言いながら、まるで大男の母親か何かのように振る舞っている。醜くて酷い元カレの噂と涼にいの存在が勝手に頭の中で合致してくる。涼にいに毛布をかけてため息をついた夏実ちゃんが、急に俺の左手首を引っ張った。
「なぁ、こっち来て」
襖を開けて、キシキシ言う縁側を引きずられるように歩いていく。玄関でスニーカーのかかとを踏みつぶし、飛び出したところで、夏草に隠れる虫たちの鳴き声に包まれた。その音以外に何も聞こえない、静かな夏の夜。耳をすませば丘の先にある宇和海から波音が聞こえてきそうな気もする。
「ここでちょっと座って待っとって」
そこは民宿の入口とは違う、夏実ちゃんが生活している側の裏口。貫禄がある上がり框と敷き台は段差が高めで、座るのにちょうど良い。
そわそわしながら待っていると、夏実ちゃんがコップと黄色の細い瓶を持って現れた。
「ごめんごめん、待たせちゃって」
「さすが愛媛。みかんジュース?」
「うん。これな、去年高校の実習で、みんなで開発したがよ。実は、うちのみかんを使ってくれとるが。ちょっとした記事にもなったんよ。他にも八幡浜は特にみかんジュースって種類がいっぱいあってな、道の駅とかでいっぱい売っとるが。でもこれは特別なんよ。うちが育てるの手伝っとるけん、全然違うが」
笑いながら綺麗に正座し、とぷとぷ、と芳しい黄色をコップに注いでくれた。
「はい、どうぞ。ウェルカムドリンク。うちがお手伝いばっかりさせられて、せっかく爽くんが来てくれたのに全然話せんかったね。改めまして、よくぞお越しくださいました」
乾杯。昼間、カンカン帽に隠されて潰されていた茶色がかったショートヘアがふんわりと垂れて、それを耳にかけ直した時に目が合った。この破壊力はちょっと、完敗。
「ありがと。これすごいわ、さっぱりスッキリしとって高そうな味じゃ」
「いぃえのことよ。あ、どういたしましてって意味な。なんか、みかん畑と民宿だけじゃ今の時代けっこうキツイみたいで。みかんを作るだけじゃなくて、いろいろ加工したものも扱わんといけんで。やけん、同級生みんなでいろいろ実験とかして開発して、去年の文化祭で販売したがよ。即完売したけんね。それで、うちで正式に商品化して、泊まってくださった方に向けてお土産として販売したり道の駅で売ったりしとるが。あ、もちろんこれは無料やけん、安心して」
嬉しそうに話す夏実ちゃんの話を聞きながら、みかんジュースがどんどん進んだ。同じ高校生がこういう商品を作れるなんて、すごいな。
「うちな、この建物も、みかん畑も、グラウンドも、全部セットで大好きなんよ。ほやけん、ここのためになることなら、なんでもしたいが」
「そっか。さすが次期女将さん」
「ほうやろ。爽くんをここに呼んだんも、ちゃんと理由があるがよ。爽くんにはぜひ受かってもろうて、ここの施設を使った選手が独立リーグ入りしました、って言えたら良いなって思うて。田舎やけ野球しようっていう子どもが減ってきとるし、爽くんの力で四国の野球人口増やしてもろうて、地域貢献してもらおっかな!」
「そこまではあれかもしれんけど、でも、良いかもなぁ。夢があるわ」
「ほやろ。やけん、いつかスポンサー契約さしてな。うちの民宿のロゴマーク、一番目立つところにデッカく入れてもらうけん」
「さすが次期女将。したたかじゃねぇ」
「まぁねぇ」
えくぼがくっきりと深く刻まれている夏実ちゃんの笑顔は、やっぱり格別に可愛い。広島にいた時からずっと頭の中に浮かんでいたのは、この笑顔だ。
「爽くんがトライアウトに参加するって聞いて、この辺りのみんな喜んどるんよ。ここ最近、あの農家さんがやめたとか、そんな話題ばっかりやったけん。涼にいのときもそうやったけど、みんな若い人が頑張るのが好きやけんねぇ」
あまり実感はわかないが、すでに自分だけのチャレンジでは無いのだということか。期待してもらえるのは良いけど、あまりそれが大きいと、背負いきれるか不安だ。
「あ、そうや。小さい頃のアルバム、どっかにあるかもしれんって探したんやけど、どこにしまったか忘れちゃって。また今度見せるなっ」
なんか前より子供ぽくなっている気がする。髪型や服装のイメージが強いのだろうか。無邪気なのは可愛らしいので、別に良いけど。
次の朝、起床してすぐ縁側に出た。靄が視界を遮って、山間のみかんの段々畑も、丘の先の海も、目を凝らしても見えないほどだった。身体を起こそうかとストレッチを始めた途端、後ろから襖が開く音がした。
「なんだ、起きとるん。寝起きドッキリしようかと思うたのに」
「おはよ。でもその格好はすでにドッキリ大成功かもね」
寝起きの俺とは違い、夏実ちゃんはバッチリ化粧して、それでいてハーフパンツにオレンジ色のユニフォームを合わせている。手にはメガホン、首には双眼鏡。リュックは大きめ。明らかに野球女子という出で立ち。
「へへへ、今日な、ちょうど野球あるんよ。見に行かん? うちな、自分で言うんもなんやけど、愛媛の熱狂的なファンで、ファンクラブの招待試合のチケット、使おうかなって思って。ちょうど二枚やし」
「言ってくれたら出かける準備したのに」
「ええの。そんなんドッキリにもサプライズにもならんが。じゃ、はよ準備してな」
「えっ、すぐに行くん?」
「当たり前やん! さぁほら!」
夏実ちゃんに強引に俺の手首を引っ張られながら、洗面台へ連れていかされた。なんだか昔、同じような境遇に出会ったような気がする。いわゆるデジャヴみたいな。半分寝ながら顔を洗い、歯を磨き、準備完了。後は、着替えるだけ。
「心配せんでもえぇよ。ちゃんと後、向いとくけん。ちっちゃい頃はいっつもこうやったやん」
そうだ、思い出した。寝ぼけていたから全然意識していなかったが、俺と夏実ちゃんは幼馴染同士だった。
着替え終わると、また強引に玄関先まで連れて行かされた。履きつぶしたスニーカーを軽く履き、かかとを無理やり押し込む。俺が履き終わるのと同時に、夏実ちゃんがクリアなサンダルを履いて、二人で外に出た。靄が徐々に晴れて、爽やかな柑橘系の匂いと、小鳥のさえずりが俺を出迎えていた。
一回こっちに振り返った夏実ちゃんは、両手で空を押し上げて、ノビをした。ユニフォームの下に隠れていた小さいおへそが一瞬見えて、即座に目線を下に移した。
一段下のみかん畑の横を通り、二人でバス停を目指す。バス停までの数分間、お互いに何も喋らなかった。遠くの方で川が流れる音が聞こえるほど、まだ辺りは静まり返っている。道端の夏草は朝露を浴びて、陽の光に照らされて澄んだ空気を吸い込ませてくれた。
先の見えない国道に逃げ水が姿を現しては消え、それを繰り返す内に、小さなバス停が見えてきた。そこに着く頃にはへとへとになっていた。
錆びているバス停の看板の影に収まるように、二人で一緒にしゃがみ込む。
「あっつぅ。休憩所でも作ってくれてたら良かったのにな」
「ほんまよね。あ、バス来たみたい」
ステップを上がり、一番後ろの緑色をした長い座席を二人占めした。乗客は俺と夏実ちゃんを含めて四人。多い方らしい。山を下り、古い街並みをぬける。早朝から張り切ったせいか、八幡浜駅に着く頃には、隣に座っている夏実ちゃんはすっかり夢の中にいた。
肩にもたれかかってくればいいのに。それか、膝に頭を乗せて横になればいいのに。ときどきピクッと動く唇に唾を飲み込むが、体は金縛りにあったように固まってしまう。
車内放送で八幡浜駅に着いた事を知り、揺らして起こした。一回眉間にしわを寄せ、細くなっていた目を無理やりに広げて、またノビをした。左手の人差し指で目をこすって立ち上がり、バスを降りていく夏実ちゃんに着いて行く。本当は男がリードしなきゃいけないのに。夏実ちゃんに引っ張られてばかり。
「まだ時間に余裕あるけど、何か食べる?」
「あぁうん、ほうやねえ。何が良いかな」
「近くにオススメのパン屋さんがあるけん、行ってみる?」
そう言って連れてこられたパン屋は徒歩二十分強。夏実ちゃんの元気の良さと体力には感服する。シャッター通りを抜け、住宅街の中にその店はあった。地元から愛されているパン屋さんという風貌だが、意外にも全国区の有名なパン屋さんだそう。店内を包み込むバターの甘い香り。店内は有名なパンを求める観光客で埋め尽くされている。
「八幡浜といえば塩パンやけんね。売り切れとらんかったね。セーフ」
手にしたパンは、白い小さな紙袋に入れられて手渡された。来た道を戻りながら夏実ちゃんと一緒に頬張る。塩気で倍増された小麦とバターの濃い香りが頭の中を駆け巡る。
「なんこれ、うまっ!」
「ほぉやろ。暑いけん、塩分の補給には一番ええがよ。うちもひと口」
そう言っていきなり歯型も気にせず美味しそうに咥えてきた。いきなりでびっくりするとともに、頭の中で整理がつかずに焦る。ドキッとはするけど。
「あ、なんか飲む?」
近くの自動販売機で買ったジュースを手にしてニッコリ笑う夏実ちゃん。天真爛漫な笑顔にほっこりしつつ、でもやっぱりその近すぎる距離感が気になる。何考えているのか分からなくて、ちょっと不安になる。警戒心はまだまだ溶けそうにない。
八幡浜駅まで戻って切符を買い、重低音と共に発車を待っている特急列車に乗り込む。車窓の小さなテーブルを挟んで、向かい合って座る。
レールの継ぎ目を車輪が通るジョイント音が、徐々に加速していく。カンカン帽を脱いで柔らかそうな髪を耳にかけ直し、頬杖をついて外を眺める夏実ちゃん。その横顔が可愛く、ついついシャープな顎のラインに目を奪われてしまう。
電車を降りてそのまま目線を上に移すと、銀色の立派な野球場がどすんと待ち構えていた。夏実ちゃんに先導されながら、白い階段を降りていく。手を後ろに組みながら、ときどき振り向く夏実ちゃん。その度に微笑んでくれて、あざとさにやられそうになる。
球場前の大きな階段から球場に入ると、鮮やかな芝生と濃い黒土以外は、全てが色あせた青で統一されていた。内野席を覆うように設置されている屋根は、まるで波のようにうねっていて、躍動感がある。
夏実ちゃんに引っ張られるようにして、一塁側のオレンジの集団に混ざって座った。見慣れた野球場の景色だが、塁間の距離感がやけに遠く感じる。
「怪我、治った? どのくらい悪いん?」
ドキッとした。ケガのことは一言も教えていないはずなのに。
「知っとったんじゃね」
「なんかゴールデンウィークに来たときと、夏の大会で見たとき、全然様子が違ってて。身体がしんどそうやなって、すぐ分かったがよ。大変な怪我やったらどうしようって、怖くなった。うちがそこまでってことは、爽くんはもっとしんどいはず。ほやけん、あんときは何も声をかけてあげられんかったが。爽くんと目があったとき、わざとでも笑ってあげれたらどうかなって思ったんやけど、なんかそれも嘘っぽくてやめちゃった」
双眼鏡でマウンドの方向を見ながら話す夏実ちゃんに、あの日の姿が重なって見えた。誰よりも俺に一点集中で応援してくれていたのは夏実ちゃんだったのかもしれない。
「まだ全快ってわけじゃないけど、トライアウトには間に合わせるから」
「うん、期待しとるけんね」
応えたいと思った。その双眼鏡の先に、他でもない俺がいられるように。
でも、言い出せなかった。イップスだってことを。
頬に何か冷たいものが触れた。と言うより押し付けられた。反射神経が敏感に反応し、少し宙に浮いた気がした。
「へへへっ、驚きすぎやろ。なに怖い顔しとるが」
声がした方向にすぐ振り返ると、夏実ちゃんが立っていた。両手に水色をしたラムネの瓶を持っていて、どうやら片方を俺の頬に付けて来たらしい。日差しの強さのせいか、歯を見せて笑うその表情は輝いて見えた。
手際良く飲み口にピンク色の栓を置いて、勢いよく叩く。その瞬間、ぶしゃわぁと炭酸が溢れ出した。溢れてくる泡を口で受け、一滴もこぼさずに飲み始める。
瓶の中のビー玉がカラカラと転がる。口の中でチクチクと小さく刺激する炭酸を一気に飲み込むと、ほのかに爽やかなフレーバーが後から香った。
「あっ! 代打、涼にいや!」
グラウンドに目を向けると、機能の酔っぱらいが嘘みたいに真剣な雰囲気の涼にいがいた。さあ、どんな打撃を見せてくれるのかと思った、その瞬間。
徐々に歓声が大きくなっていく。打球はぐんぐん伸びて、フェンスに直撃した。太鼓の音頭とトランペット。合宿で打たれた大きな放物線を思い起こされて、投げてもないのに悔しくなった。
「凄い凄い! さすが涼にい!」
二塁ベース上でガッツポーズする涼にい。それを見ながら飛び上がりそうなほど喜んでいる夏実ちゃんと、なんだか素直に喜べない俺。現役独立リーガーで、夏実ちゃんと色んな意味で距離が近い涼にい。対してこれから独立リーガーを目指す、ただの高校生の俺。別に勝負なんてしていないけど、負けたくない気持ちがどんどん大きくなる。
試合が終わるまで、ラムネをチビチビ飲みながら過ごした。最後、一気に飲み干す頃には、応援団もほとんど片付けが済んでいた。げふっ。空になったラムネの瓶越しに眺めた青空が澄んだ快晴なのが、逆に鼻についた。俺と一緒に野球を見に来たのに、目線は結局涼にいに向いている。それが癪だった。
「勝ってほしかったなぁ」
「よっぽどファンなんじゃね」
「へへっ。そりゃもう大好きやけんね」
その主語は涼にいなんだろうな、どうせ。だから高校生にはいくら告白されても断り続けているのだろう。
「爽くんは、今日どうだった?」
「ん? まぁ、俺が入ってなんとかせんとなっ、て思った」
「そりゃあ頼もしいなぁ。期待しとるけんなっ」
気を遣って肩をポンポンと叩いてくる夏実ちゃんに、つい口が滑った。
「でも俺、イップスなんよね」
「イップス?」
「そう。投球イップス。うまく投げられんのんよ。バッターがおると、手が縮こまったりして、思ったとおりに投げられんのんよね。じゃけ投球フォームを変えたりしてどうにか誤魔化してきたんじゃけど、そのせいか分からんけど怪我もしたしさ。なんかうまくいかんなぁって。怪我は全然問題なさそうなんじゃけど、イップスの方はちょっと、わからんのんよね。どうなるか」
怖くて夏実ちゃんの方は見られなかった。引いていたりしたらどうしよう。
「みんなの期待に応えたくてさ。気負っちゃってたんだろうね。突然投げ方が分からんなって。いろいろ考えすぎてごちゃごちゃになって。昔はそんなことなかったのにね」
「小さい頃、涼にいと一緒にキャッチボールしとった時は、自信満々で投げても投げても満足せんかったよね」
「でも、その頃どうやって投げとったんか、もう全然覚えとらんのんよね」
「そっか、じゃあ、あの頃のことを思い出したら、良い刺激になるんかもね。うちが手伝えることがあったら何でも言って! 役に立ちたいけん!」
勢いに押されてちょっと引いてしまった。駅構内は試合後だからというのもあって、来た時よりもざわついている。それと同じくらい、俺の心もざわついている。かも。
その時、一瞬で夏実ちゃんの姿が消えた。辺りを見渡すと、人混みに流されていくオレンジ色のユニフォームが見えた。何人もの体をかき分けたその先に夏実ちゃんの華奢な左腕がようやく見え、直感的にめいっぱい左手を伸ばす。
「危なぁ。はぐれるところだった」
「ごめんごめん。でもなんか、懐かしいわ、この感じ」
間一髪で夏実ちゃんの右腕を掴むことができて、ひと安心。お互いに笑って安堵の表情を浮かべたときに気づいた。手を繋ぎっぱなしだった。
「え、あ、ごめん」
互いに慌てて手を離して後ろで腕を組んだ。手汗、大丈夫だったかな。
八幡浜駅に到着するまで、流れる景色に無理やり意識を持っていく。できるだけ話さなくて良いように視線も逃す。でも気まずい。手に残る感触を早く消さないといけないという理性と、ずっと取っておきたいという本能が交錯して、どっちつかずになっている。
夏実ちゃんは、消したいのか、それとも消したくないのか、どっちなんだろう。
八月に入ると、沸騰するような蒸し暑さに諦めがついた。
もうトライアウトまで一ヶ月を切ってしまっている。
午前中なのにすでに炎天下の中、伊予大八幡浜と系列校の伊予大松山の練習試合が始まった。今日は審判としての手伝い。攻守交代時の水分補給だけが唯一の楽しみだ。
「審判さん、お疲れさまです」
顔を上げると、Tシャツにショートパンツを合わせたカンカン帽の夏実ちゃんが何かを差し出してくれていた。
「はい、どくだみ茶」
なんだその毒々しい名前のお茶。毒でダミって。でもそれを飲んで納得した。独特の風味に、だみ声になってしまいそうな一風変わったのどごし。でもなぜか時間が経つごとに胸元がスッキリとしてきた。毒出味(どくだみ)茶ということにしておこう。
両チームの選手が試合後のグラウンド整備をしている間、俺はみかん畑の中に入ってしまったボールを探しに球場外を一周した。
まずはバックネット裏から三塁側方面へ目線を下げてボールを探していると、夏実ちゃんも一緒に探してくれた。畑の外に生い茂っている雑草のエリアは見つけにくく目が疲れた。やがてきっちり区分けされたみかん畑のエリアに進んだ。ボールは畝と畝の間に落ちているか、みかんの木に引っかかっているかのどちらかで、比較的見つけやすかった。宝探しみたいに二人でボールを探し合うのが楽しくて、ついつい夢中になってしまう。
「なんか宝探しみたいで楽しいねえ」
「ほんまやなぁ。爽くん、小さい頃と何も変わらんねぇ。覚えとらんやろうけど、小さい頃にほんまにこのへんで宝探ししたことあるがよ」
「覚えとらんなぁ」
「あとな、タイムカプセルも埋めたんよ。どこに埋めたか覚えとらん?」
「覚えとらんなぁ」
「そうながぁ」
残念そうに夏実ちゃんの声のトーンが下がった。
「なんかの記念かなんかで、一緒に苗を埋めたんよ。その下に、大事なものを入れたタイムカプセルを埋めたところまでは覚えとるんやけど、どこに埋めたんか忘れてしもうて」
「なんか目印とか、無いん?」
「それが無いてや。小さい頃の台風かなんかで飛ばされたみたいで」
もうそうなると、この広いみかん畑の中で探すのは相当苦労するはずだ。残念だけど、それもまた良い思い出とするしか無いだろう。
きっちり全てのボールを回収する頃には、もう午後の練習が始まろうとしていた。急いで民宿に戻り、夏実ちゃんと一緒に用意された昼食をとって午後の練習に途中から参加させてもらった。途中、あの合宿時に同じ投手組で話したことがある後輩と談笑し、こっそり夏実ちゃんのことも聞いてみた。
「持田先輩、最近彼氏できたって噂が広まってるんですよ」
「いやいやいや……いやいやいや」
必死で冷静を装うが、なんと返したら良いのかわからない。
「いや、風張さんじゃないんすか?」
「は! いやいやいや!」
やはりここ最近の行動で勘違いされていたようだ。しかもけっこう噂が広まっているらしい。これは……正直嬉しかった。あわよくばそのまま雰囲気で付き合えたら。外堀を埋めれば夏実ちゃんだって断りにくいだろう。まずは夏実ちゃんの同級生から。そこから学校全体に噂が広まって、保護者の集まりでも議題に上がって、ご両親からもオススメされて、果ては許嫁か。――いかんいかん、やりすぎた。このまま否定も肯定もせず有耶無耶の曖昧な感じで濁すとしよう。
「え! 違うんすか?」
「さあね。ほら、サボってるように見えるだろ! 行こう!」
塁間走のタイムが、ちょっぴり早くなった気がした。
目的地は愛媛の松山観光港。太田や沖浦からは広島で一緒に後輩の練習を見ながら自分の練習をすればいいじゃないかと言われたが、ちゃんと断った。自分の練習よりも後輩の練習の手伝いのほうがメインになってしまうと思ったから。そうなるとどうしても引退していることを痛感して、怠ける理由にしてしまうから。現役にこだわる今の自分自身と矛盾してしまう。だからこそ、今度は自分自身だけに集中できる環境で練習したかった。
予讃線で八幡浜駅へ。合宿以来の景色はどこか懐かしくも、少し違って見えた。八幡浜で待ってくれている夏実ちゃんを思うと、期待のほうが少し多い。くねくね山道を行く乗用車を横目に颯爽と走り抜ける特急宇和海の車内からは、みかんの段々畑が見えてきた。
列車が八幡浜駅に到着してホームに降り立ち改札を抜けると、見覚えのある人影を見つけた。麦わらのカンカン帽子の綺麗な顔立ちは、俺を見つけた瞬間に笑顔になった。
日焼けして赤みがかった焦げ茶色のロングだったはずの髪は、肩の高さで二つに結ばれて、明らかに短くなっている。見覚えのある古いアニメのキャラクターが描かれた白のTシャツによく合う、青空のように澄んだ水色のキュロットパンツ。華奢な腕をぶんぶん回すように手を振り、俺を呼ぶ夏実ちゃんは、子供みたいで可愛らしい。
「お疲れ様。そうたいぶりやね」
「あ、うん、まあね」
実際に会ってしまうと、どうも普段どおりの言葉が出てこない。いらないところで格好をつけるように変な返事をしてしまう。
「爽、そうたいぶりやなぁ。大きくなったなぁ」
さっきから夏実ちゃんの横で俺を見ているガッチリした大男が、なぜか馴れ馴れしい。というか、どこかで見たことがある気がする。ガタイの良い大男が、夏実ちゃんと一緒に愛媛にいる。この人、もしかして。
「俺の事、覚えとるか?」
五月の合宿の最初の練習試合で、俺からホームランを打ったあの選手。壁にある奇妙な扉の前で夏実ちゃんと話すガタイの良い大男。想像の中の夏実ちゃんの酷く醜い元カレ。三人が同一人物として、目の前のクシャッとした笑顔と重なった。
「ああ、あの合宿のときの! 俺からホームランを打った!」
そうそう、と応えるガタイの良い大男に、夏実ちゃんがフォローを入れる。
「そっかそっか。試合したもんね。そっか、そっちの印象のほうが強いんやね。こちら涼にい。爽くんと、うちと、涼にいは三人でいつも遊んどったがよ。つまり、涼にいも爽くんの幼馴染。てか爽くんに野球教えたの、涼にいよ」
「爽、ホンマに全部忘れとるんじゃのう」
確かに小さい頃、誰かに教えてもらってキャッチボールをしたことがあるのは覚えているが、それがまさかこの人だったとは。
「今は違うけど、実家はうちの近くなんよ。やけ、今日は運転手してもらったんよ」
「どうも、運転手です。あの頃みたいに、涼にいでええよ」
「涼にいも、前はもうちょっとかっこよかったけん、モテモテやったんよね。県外の高校で甲子園行けそうやったけど行けれんで、大学は野球推薦で東京行って。そっからあんなにぶくぶく太りだすとは。うちに来ても冷蔵庫を漁るからお母さんが冷蔵庫に鍵かけて、それを得意のピッキングで開けてまで貪り食って。そりゃここまで大きくなるよね」
「ま、過去形てや。あと、太ったんじゃなくて、たくましくなった、の間違いやけんな」
「はいはい」
なんか妙に夏実ちゃんと距離が近くて鼻につく。本当にただの幼馴染なのだろうか。
八幡浜駅のロータリーに止めてある大男こと涼にいの車に乗り込み、民宿に向かう。助手席にちょこんと座り、ルームミラー越しに話を振ってくれる気遣い上手な夏実ちゃんに癒やされながら、山道を進んでいく。その間、涼にいが夏実ちゃんの方をチラチラ見ていたのが妙に気になった。いろいろ気にして冷房の温度を細かく設定しようとしているのも見えて、なんだか鼻についた。
みかん畑の間にぽっかり空いた、見覚えのあるだだっ広いグラウンドまで到着した。ここで一ヶ月間みっちり練習して、夏の終りのトライアウトに向けて準備を進めていく。まるでもう一度甲子園を目指せるかのような高揚感に、手汗がにじむ。
夏実ちゃんが仕込んでくれていた例のみかん風呂に入らせてもらい、スッキリしてからは歓迎の大宴会。宴会は夜まで続き、酒が入って盛り上がる大人たちとは対称的に、俺と夏実ちゃんはだんだん飽きて居づらくなってきた。
「確かに。部屋が多いから鍵の管理が大変ですよねぇ。なんか考えんとですよね。なあ、夏実もそう思うやろ」
急に泥酔した涼にいが夏実ちゃんに絡んできた。夏実ちゃんは優しくたしなめて、少し振り返り、困ったように口角を上げた。なんだか二人がただならぬ関係性に見えてきて、よく分からないけど腹が立つ。
ゴロンと熊のように寝転がった涼にいを見ている夏実ちゃん。やれやれと言いながら、まるで大男の母親か何かのように振る舞っている。醜くて酷い元カレの噂と涼にいの存在が勝手に頭の中で合致してくる。涼にいに毛布をかけてため息をついた夏実ちゃんが、急に俺の左手首を引っ張った。
「なぁ、こっち来て」
襖を開けて、キシキシ言う縁側を引きずられるように歩いていく。玄関でスニーカーのかかとを踏みつぶし、飛び出したところで、夏草に隠れる虫たちの鳴き声に包まれた。その音以外に何も聞こえない、静かな夏の夜。耳をすませば丘の先にある宇和海から波音が聞こえてきそうな気もする。
「ここでちょっと座って待っとって」
そこは民宿の入口とは違う、夏実ちゃんが生活している側の裏口。貫禄がある上がり框と敷き台は段差が高めで、座るのにちょうど良い。
そわそわしながら待っていると、夏実ちゃんがコップと黄色の細い瓶を持って現れた。
「ごめんごめん、待たせちゃって」
「さすが愛媛。みかんジュース?」
「うん。これな、去年高校の実習で、みんなで開発したがよ。実は、うちのみかんを使ってくれとるが。ちょっとした記事にもなったんよ。他にも八幡浜は特にみかんジュースって種類がいっぱいあってな、道の駅とかでいっぱい売っとるが。でもこれは特別なんよ。うちが育てるの手伝っとるけん、全然違うが」
笑いながら綺麗に正座し、とぷとぷ、と芳しい黄色をコップに注いでくれた。
「はい、どうぞ。ウェルカムドリンク。うちがお手伝いばっかりさせられて、せっかく爽くんが来てくれたのに全然話せんかったね。改めまして、よくぞお越しくださいました」
乾杯。昼間、カンカン帽に隠されて潰されていた茶色がかったショートヘアがふんわりと垂れて、それを耳にかけ直した時に目が合った。この破壊力はちょっと、完敗。
「ありがと。これすごいわ、さっぱりスッキリしとって高そうな味じゃ」
「いぃえのことよ。あ、どういたしましてって意味な。なんか、みかん畑と民宿だけじゃ今の時代けっこうキツイみたいで。みかんを作るだけじゃなくて、いろいろ加工したものも扱わんといけんで。やけん、同級生みんなでいろいろ実験とかして開発して、去年の文化祭で販売したがよ。即完売したけんね。それで、うちで正式に商品化して、泊まってくださった方に向けてお土産として販売したり道の駅で売ったりしとるが。あ、もちろんこれは無料やけん、安心して」
嬉しそうに話す夏実ちゃんの話を聞きながら、みかんジュースがどんどん進んだ。同じ高校生がこういう商品を作れるなんて、すごいな。
「うちな、この建物も、みかん畑も、グラウンドも、全部セットで大好きなんよ。ほやけん、ここのためになることなら、なんでもしたいが」
「そっか。さすが次期女将さん」
「ほうやろ。爽くんをここに呼んだんも、ちゃんと理由があるがよ。爽くんにはぜひ受かってもろうて、ここの施設を使った選手が独立リーグ入りしました、って言えたら良いなって思うて。田舎やけ野球しようっていう子どもが減ってきとるし、爽くんの力で四国の野球人口増やしてもろうて、地域貢献してもらおっかな!」
「そこまではあれかもしれんけど、でも、良いかもなぁ。夢があるわ」
「ほやろ。やけん、いつかスポンサー契約さしてな。うちの民宿のロゴマーク、一番目立つところにデッカく入れてもらうけん」
「さすが次期女将。したたかじゃねぇ」
「まぁねぇ」
えくぼがくっきりと深く刻まれている夏実ちゃんの笑顔は、やっぱり格別に可愛い。広島にいた時からずっと頭の中に浮かんでいたのは、この笑顔だ。
「爽くんがトライアウトに参加するって聞いて、この辺りのみんな喜んどるんよ。ここ最近、あの農家さんがやめたとか、そんな話題ばっかりやったけん。涼にいのときもそうやったけど、みんな若い人が頑張るのが好きやけんねぇ」
あまり実感はわかないが、すでに自分だけのチャレンジでは無いのだということか。期待してもらえるのは良いけど、あまりそれが大きいと、背負いきれるか不安だ。
「あ、そうや。小さい頃のアルバム、どっかにあるかもしれんって探したんやけど、どこにしまったか忘れちゃって。また今度見せるなっ」
なんか前より子供ぽくなっている気がする。髪型や服装のイメージが強いのだろうか。無邪気なのは可愛らしいので、別に良いけど。
次の朝、起床してすぐ縁側に出た。靄が視界を遮って、山間のみかんの段々畑も、丘の先の海も、目を凝らしても見えないほどだった。身体を起こそうかとストレッチを始めた途端、後ろから襖が開く音がした。
「なんだ、起きとるん。寝起きドッキリしようかと思うたのに」
「おはよ。でもその格好はすでにドッキリ大成功かもね」
寝起きの俺とは違い、夏実ちゃんはバッチリ化粧して、それでいてハーフパンツにオレンジ色のユニフォームを合わせている。手にはメガホン、首には双眼鏡。リュックは大きめ。明らかに野球女子という出で立ち。
「へへへ、今日な、ちょうど野球あるんよ。見に行かん? うちな、自分で言うんもなんやけど、愛媛の熱狂的なファンで、ファンクラブの招待試合のチケット、使おうかなって思って。ちょうど二枚やし」
「言ってくれたら出かける準備したのに」
「ええの。そんなんドッキリにもサプライズにもならんが。じゃ、はよ準備してな」
「えっ、すぐに行くん?」
「当たり前やん! さぁほら!」
夏実ちゃんに強引に俺の手首を引っ張られながら、洗面台へ連れていかされた。なんだか昔、同じような境遇に出会ったような気がする。いわゆるデジャヴみたいな。半分寝ながら顔を洗い、歯を磨き、準備完了。後は、着替えるだけ。
「心配せんでもえぇよ。ちゃんと後、向いとくけん。ちっちゃい頃はいっつもこうやったやん」
そうだ、思い出した。寝ぼけていたから全然意識していなかったが、俺と夏実ちゃんは幼馴染同士だった。
着替え終わると、また強引に玄関先まで連れて行かされた。履きつぶしたスニーカーを軽く履き、かかとを無理やり押し込む。俺が履き終わるのと同時に、夏実ちゃんがクリアなサンダルを履いて、二人で外に出た。靄が徐々に晴れて、爽やかな柑橘系の匂いと、小鳥のさえずりが俺を出迎えていた。
一回こっちに振り返った夏実ちゃんは、両手で空を押し上げて、ノビをした。ユニフォームの下に隠れていた小さいおへそが一瞬見えて、即座に目線を下に移した。
一段下のみかん畑の横を通り、二人でバス停を目指す。バス停までの数分間、お互いに何も喋らなかった。遠くの方で川が流れる音が聞こえるほど、まだ辺りは静まり返っている。道端の夏草は朝露を浴びて、陽の光に照らされて澄んだ空気を吸い込ませてくれた。
先の見えない国道に逃げ水が姿を現しては消え、それを繰り返す内に、小さなバス停が見えてきた。そこに着く頃にはへとへとになっていた。
錆びているバス停の看板の影に収まるように、二人で一緒にしゃがみ込む。
「あっつぅ。休憩所でも作ってくれてたら良かったのにな」
「ほんまよね。あ、バス来たみたい」
ステップを上がり、一番後ろの緑色をした長い座席を二人占めした。乗客は俺と夏実ちゃんを含めて四人。多い方らしい。山を下り、古い街並みをぬける。早朝から張り切ったせいか、八幡浜駅に着く頃には、隣に座っている夏実ちゃんはすっかり夢の中にいた。
肩にもたれかかってくればいいのに。それか、膝に頭を乗せて横になればいいのに。ときどきピクッと動く唇に唾を飲み込むが、体は金縛りにあったように固まってしまう。
車内放送で八幡浜駅に着いた事を知り、揺らして起こした。一回眉間にしわを寄せ、細くなっていた目を無理やりに広げて、またノビをした。左手の人差し指で目をこすって立ち上がり、バスを降りていく夏実ちゃんに着いて行く。本当は男がリードしなきゃいけないのに。夏実ちゃんに引っ張られてばかり。
「まだ時間に余裕あるけど、何か食べる?」
「あぁうん、ほうやねえ。何が良いかな」
「近くにオススメのパン屋さんがあるけん、行ってみる?」
そう言って連れてこられたパン屋は徒歩二十分強。夏実ちゃんの元気の良さと体力には感服する。シャッター通りを抜け、住宅街の中にその店はあった。地元から愛されているパン屋さんという風貌だが、意外にも全国区の有名なパン屋さんだそう。店内を包み込むバターの甘い香り。店内は有名なパンを求める観光客で埋め尽くされている。
「八幡浜といえば塩パンやけんね。売り切れとらんかったね。セーフ」
手にしたパンは、白い小さな紙袋に入れられて手渡された。来た道を戻りながら夏実ちゃんと一緒に頬張る。塩気で倍増された小麦とバターの濃い香りが頭の中を駆け巡る。
「なんこれ、うまっ!」
「ほぉやろ。暑いけん、塩分の補給には一番ええがよ。うちもひと口」
そう言っていきなり歯型も気にせず美味しそうに咥えてきた。いきなりでびっくりするとともに、頭の中で整理がつかずに焦る。ドキッとはするけど。
「あ、なんか飲む?」
近くの自動販売機で買ったジュースを手にしてニッコリ笑う夏実ちゃん。天真爛漫な笑顔にほっこりしつつ、でもやっぱりその近すぎる距離感が気になる。何考えているのか分からなくて、ちょっと不安になる。警戒心はまだまだ溶けそうにない。
八幡浜駅まで戻って切符を買い、重低音と共に発車を待っている特急列車に乗り込む。車窓の小さなテーブルを挟んで、向かい合って座る。
レールの継ぎ目を車輪が通るジョイント音が、徐々に加速していく。カンカン帽を脱いで柔らかそうな髪を耳にかけ直し、頬杖をついて外を眺める夏実ちゃん。その横顔が可愛く、ついついシャープな顎のラインに目を奪われてしまう。
電車を降りてそのまま目線を上に移すと、銀色の立派な野球場がどすんと待ち構えていた。夏実ちゃんに先導されながら、白い階段を降りていく。手を後ろに組みながら、ときどき振り向く夏実ちゃん。その度に微笑んでくれて、あざとさにやられそうになる。
球場前の大きな階段から球場に入ると、鮮やかな芝生と濃い黒土以外は、全てが色あせた青で統一されていた。内野席を覆うように設置されている屋根は、まるで波のようにうねっていて、躍動感がある。
夏実ちゃんに引っ張られるようにして、一塁側のオレンジの集団に混ざって座った。見慣れた野球場の景色だが、塁間の距離感がやけに遠く感じる。
「怪我、治った? どのくらい悪いん?」
ドキッとした。ケガのことは一言も教えていないはずなのに。
「知っとったんじゃね」
「なんかゴールデンウィークに来たときと、夏の大会で見たとき、全然様子が違ってて。身体がしんどそうやなって、すぐ分かったがよ。大変な怪我やったらどうしようって、怖くなった。うちがそこまでってことは、爽くんはもっとしんどいはず。ほやけん、あんときは何も声をかけてあげられんかったが。爽くんと目があったとき、わざとでも笑ってあげれたらどうかなって思ったんやけど、なんかそれも嘘っぽくてやめちゃった」
双眼鏡でマウンドの方向を見ながら話す夏実ちゃんに、あの日の姿が重なって見えた。誰よりも俺に一点集中で応援してくれていたのは夏実ちゃんだったのかもしれない。
「まだ全快ってわけじゃないけど、トライアウトには間に合わせるから」
「うん、期待しとるけんね」
応えたいと思った。その双眼鏡の先に、他でもない俺がいられるように。
でも、言い出せなかった。イップスだってことを。
頬に何か冷たいものが触れた。と言うより押し付けられた。反射神経が敏感に反応し、少し宙に浮いた気がした。
「へへへっ、驚きすぎやろ。なに怖い顔しとるが」
声がした方向にすぐ振り返ると、夏実ちゃんが立っていた。両手に水色をしたラムネの瓶を持っていて、どうやら片方を俺の頬に付けて来たらしい。日差しの強さのせいか、歯を見せて笑うその表情は輝いて見えた。
手際良く飲み口にピンク色の栓を置いて、勢いよく叩く。その瞬間、ぶしゃわぁと炭酸が溢れ出した。溢れてくる泡を口で受け、一滴もこぼさずに飲み始める。
瓶の中のビー玉がカラカラと転がる。口の中でチクチクと小さく刺激する炭酸を一気に飲み込むと、ほのかに爽やかなフレーバーが後から香った。
「あっ! 代打、涼にいや!」
グラウンドに目を向けると、機能の酔っぱらいが嘘みたいに真剣な雰囲気の涼にいがいた。さあ、どんな打撃を見せてくれるのかと思った、その瞬間。
徐々に歓声が大きくなっていく。打球はぐんぐん伸びて、フェンスに直撃した。太鼓の音頭とトランペット。合宿で打たれた大きな放物線を思い起こされて、投げてもないのに悔しくなった。
「凄い凄い! さすが涼にい!」
二塁ベース上でガッツポーズする涼にい。それを見ながら飛び上がりそうなほど喜んでいる夏実ちゃんと、なんだか素直に喜べない俺。現役独立リーガーで、夏実ちゃんと色んな意味で距離が近い涼にい。対してこれから独立リーガーを目指す、ただの高校生の俺。別に勝負なんてしていないけど、負けたくない気持ちがどんどん大きくなる。
試合が終わるまで、ラムネをチビチビ飲みながら過ごした。最後、一気に飲み干す頃には、応援団もほとんど片付けが済んでいた。げふっ。空になったラムネの瓶越しに眺めた青空が澄んだ快晴なのが、逆に鼻についた。俺と一緒に野球を見に来たのに、目線は結局涼にいに向いている。それが癪だった。
「勝ってほしかったなぁ」
「よっぽどファンなんじゃね」
「へへっ。そりゃもう大好きやけんね」
その主語は涼にいなんだろうな、どうせ。だから高校生にはいくら告白されても断り続けているのだろう。
「爽くんは、今日どうだった?」
「ん? まぁ、俺が入ってなんとかせんとなっ、て思った」
「そりゃあ頼もしいなぁ。期待しとるけんなっ」
気を遣って肩をポンポンと叩いてくる夏実ちゃんに、つい口が滑った。
「でも俺、イップスなんよね」
「イップス?」
「そう。投球イップス。うまく投げられんのんよ。バッターがおると、手が縮こまったりして、思ったとおりに投げられんのんよね。じゃけ投球フォームを変えたりしてどうにか誤魔化してきたんじゃけど、そのせいか分からんけど怪我もしたしさ。なんかうまくいかんなぁって。怪我は全然問題なさそうなんじゃけど、イップスの方はちょっと、わからんのんよね。どうなるか」
怖くて夏実ちゃんの方は見られなかった。引いていたりしたらどうしよう。
「みんなの期待に応えたくてさ。気負っちゃってたんだろうね。突然投げ方が分からんなって。いろいろ考えすぎてごちゃごちゃになって。昔はそんなことなかったのにね」
「小さい頃、涼にいと一緒にキャッチボールしとった時は、自信満々で投げても投げても満足せんかったよね」
「でも、その頃どうやって投げとったんか、もう全然覚えとらんのんよね」
「そっか、じゃあ、あの頃のことを思い出したら、良い刺激になるんかもね。うちが手伝えることがあったら何でも言って! 役に立ちたいけん!」
勢いに押されてちょっと引いてしまった。駅構内は試合後だからというのもあって、来た時よりもざわついている。それと同じくらい、俺の心もざわついている。かも。
その時、一瞬で夏実ちゃんの姿が消えた。辺りを見渡すと、人混みに流されていくオレンジ色のユニフォームが見えた。何人もの体をかき分けたその先に夏実ちゃんの華奢な左腕がようやく見え、直感的にめいっぱい左手を伸ばす。
「危なぁ。はぐれるところだった」
「ごめんごめん。でもなんか、懐かしいわ、この感じ」
間一髪で夏実ちゃんの右腕を掴むことができて、ひと安心。お互いに笑って安堵の表情を浮かべたときに気づいた。手を繋ぎっぱなしだった。
「え、あ、ごめん」
互いに慌てて手を離して後ろで腕を組んだ。手汗、大丈夫だったかな。
八幡浜駅に到着するまで、流れる景色に無理やり意識を持っていく。できるだけ話さなくて良いように視線も逃す。でも気まずい。手に残る感触を早く消さないといけないという理性と、ずっと取っておきたいという本能が交錯して、どっちつかずになっている。
夏実ちゃんは、消したいのか、それとも消したくないのか、どっちなんだろう。
八月に入ると、沸騰するような蒸し暑さに諦めがついた。
もうトライアウトまで一ヶ月を切ってしまっている。
午前中なのにすでに炎天下の中、伊予大八幡浜と系列校の伊予大松山の練習試合が始まった。今日は審判としての手伝い。攻守交代時の水分補給だけが唯一の楽しみだ。
「審判さん、お疲れさまです」
顔を上げると、Tシャツにショートパンツを合わせたカンカン帽の夏実ちゃんが何かを差し出してくれていた。
「はい、どくだみ茶」
なんだその毒々しい名前のお茶。毒でダミって。でもそれを飲んで納得した。独特の風味に、だみ声になってしまいそうな一風変わったのどごし。でもなぜか時間が経つごとに胸元がスッキリとしてきた。毒出味(どくだみ)茶ということにしておこう。
両チームの選手が試合後のグラウンド整備をしている間、俺はみかん畑の中に入ってしまったボールを探しに球場外を一周した。
まずはバックネット裏から三塁側方面へ目線を下げてボールを探していると、夏実ちゃんも一緒に探してくれた。畑の外に生い茂っている雑草のエリアは見つけにくく目が疲れた。やがてきっちり区分けされたみかん畑のエリアに進んだ。ボールは畝と畝の間に落ちているか、みかんの木に引っかかっているかのどちらかで、比較的見つけやすかった。宝探しみたいに二人でボールを探し合うのが楽しくて、ついつい夢中になってしまう。
「なんか宝探しみたいで楽しいねえ」
「ほんまやなぁ。爽くん、小さい頃と何も変わらんねぇ。覚えとらんやろうけど、小さい頃にほんまにこのへんで宝探ししたことあるがよ」
「覚えとらんなぁ」
「あとな、タイムカプセルも埋めたんよ。どこに埋めたか覚えとらん?」
「覚えとらんなぁ」
「そうながぁ」
残念そうに夏実ちゃんの声のトーンが下がった。
「なんかの記念かなんかで、一緒に苗を埋めたんよ。その下に、大事なものを入れたタイムカプセルを埋めたところまでは覚えとるんやけど、どこに埋めたんか忘れてしもうて」
「なんか目印とか、無いん?」
「それが無いてや。小さい頃の台風かなんかで飛ばされたみたいで」
もうそうなると、この広いみかん畑の中で探すのは相当苦労するはずだ。残念だけど、それもまた良い思い出とするしか無いだろう。
きっちり全てのボールを回収する頃には、もう午後の練習が始まろうとしていた。急いで民宿に戻り、夏実ちゃんと一緒に用意された昼食をとって午後の練習に途中から参加させてもらった。途中、あの合宿時に同じ投手組で話したことがある後輩と談笑し、こっそり夏実ちゃんのことも聞いてみた。
「持田先輩、最近彼氏できたって噂が広まってるんですよ」
「いやいやいや……いやいやいや」
必死で冷静を装うが、なんと返したら良いのかわからない。
「いや、風張さんじゃないんすか?」
「は! いやいやいや!」
やはりここ最近の行動で勘違いされていたようだ。しかもけっこう噂が広まっているらしい。これは……正直嬉しかった。あわよくばそのまま雰囲気で付き合えたら。外堀を埋めれば夏実ちゃんだって断りにくいだろう。まずは夏実ちゃんの同級生から。そこから学校全体に噂が広まって、保護者の集まりでも議題に上がって、ご両親からもオススメされて、果ては許嫁か。――いかんいかん、やりすぎた。このまま否定も肯定もせず有耶無耶の曖昧な感じで濁すとしよう。
「え! 違うんすか?」
「さあね。ほら、サボってるように見えるだろ! 行こう!」
塁間走のタイムが、ちょっぴり早くなった気がした。