皮が干からびた小ぶりの夏みかんが、机の上にある新品同然の参考書でできている山から転がり落ちた。散らかり放題の部屋の惨状が凄まじい。こんな部屋、夏実ちゃんが見たらどう思うか。彼女からもらったいつかの夏みかんがすっかり干からびているところからも、やはり見せられるわけがない。
せっかく野球ゲームを持って遊びに来た沖浦には悪いが、いくらゲームの中の野球で活躍しても満たされなかった。
「なぁ、俺は南海大学の野球部に誘われとる。お前もまだまだできるじゃろう。一緒に野球せんか?」
今は野球のことを考えたくなかった。高校野球は特別な存在で、それ以外に目を向けられない。大学野球は俺の居場所じゃないような気がする。どうせ太田のようなプロ注目選手が全国から集っているはずだ。俺の出番じゃない。
「そうじゃ、後輩たちの練習を手伝いながら俺も練習するけぇ、爽も来いや」
「いいわ、やめとく」
後輩の手伝いに行くと、また高校野球の世界に戻りたくなるから嫌だ。せっかく引退したことだし参考書を買ったは良いが、買っただけで満足してしまい、一度もページを開いていない。高校三年生の俺達にとっては、これからが受験勉強の正念場だ。でも、野球と同じくらい、勉強にも身が入らなかった。
そんな中で唯一打ち込めるもの。それは、葵の存在だった。その存在感が日に日に大きくなっている。それと反比例するように、夏実ちゃんの存在が現役時代の筋肉量と一緒にどんどん自分の中から抜け落ちていった。
受験勉強をしなければならないのは分かっている。だが彼女ができそうな男子高校生が目の前のチャンスを逃すわけがない。葵とのデートが脳裏に浮かんでは、粗い鼻息となって目の前の画面を曇らせる。
沖浦が野球ゲームの中で快勝し、俺の部屋を後にした。去り際に後輩への伝言はないかと聞かれたが、特にない、としか言えなかった。
週末、葵と駅前で集合して、到着時間の三〇分も前に改札口の前で待った。今日が勝負の日だと思うと居ても立っても居られない。早く葵に会いたい気持ちと、カウントダウンが始まってしまうのが怖い気持ちが交差して、会いたいけど会いたくなかった。そのまま映画を見に行き、見終わってから晩御飯を共にして少し散歩。電車に乗って葵の最寄り駅まで見送る。そのまま帰ろうとしたので、慌てて引き止めた。
「もうちょっと話さん? せっかくだし?」
「じゃあ、ちょっとだけね?」
すでに日が暮れて真っ暗になっている路地に、蛍光灯の光だけがぼんやりとあたりを照らしている。無音の世界に、二人のこすれるような足音だけが鳴り、湿ったぬるい空気が首元にじんわりと汗をかかせてくる。葵と隣り合わせでベンチに腰掛け、ひと息ついた。
失敗しないタイミング。
失敗しない台詞回し。
失敗しないためのこれまでの努力を、ここで一気に開放する。
「葵、俺らって、葵が最初に声かけてくれたんだよね」
「そだね。一年の応援練習だっけ。爽くんベンチ外だったもんね。なんか懐かしいね」
「最後の試合の後、最初に話しかけてくれたのも、葵だった。なんかあの時けっこう落ち込んでてさ、葵に救われたんだよね」
「それは良かった」
「なんか、一緒に困難を乗り越えてくれる存在なんだなって、思っちゃったんだよね」
「そっか」
「だからさ、俺の彼女になってほしい」
不思議と緊張しなかった。王道のタイミングで、王道のシチュエーションで、王道の台詞。考え抜かれたこの告白に、欠点はないはず。
葵はしばらく俺から視線を外し、なにやら考えている様子。確かに大事な話だし、軽い気持ちでOKの返事を出せないのだろう。ここで待つのが紳士の役目。沈黙の時間に、体の内側からくる独特の緊張感が溢れ出そうになる。
「あー、ごめんね」
「え?」
葵からの答えは、想定外のものだった。向こうからアプローチを掛けてきて、デートもして、告白も完璧で。一体どこに落ち度があったのだろう。
「え、だめ? デート、三回以上してるのに?」
緊張感が抜けた俺の、化けの皮がはがれていくのを実感する。
「デートじゃなくて、遊びに行っただけじゃん。ていうか別にあたし爽くんのこと、そういう感じで見てなかったよ?」
「え、だって慰めてくれてデートに誘ってきて勉強も一緒にして。それに、特別感って」
「ファンだけど、そういうのじゃなくて。しかも彼氏いるし」
彼氏おるんかい。なんだよ、思わせぶりかよ。だが、不思議と悲しみや悔しさはない。
「ねえ、あたしのどこが好き?」
「え、可愛くて、慰めてくれて、誘ってくれるから」
「それってあたしじゃなくてもよくない? あたしのこと、興味持ってる? 何を知ってる? てか、知ろうとしたことある?」
葵が畳み掛けるが、言葉に詰まるだけで何も答えられない。確かに、本当に葵に興味を持てているのかというと、違うかもしれない。
「あたしを誰かの代わりにしてない?」
真っ直ぐなのに、真顔を少しも崩さない葵に、なぜか夏実ちゃんの影が重なる。そんな目で見ないでほしい。直視できない。
「目が泳いでるよ。あたしが爽くんの目の前にいるの、当たり前じゃないよ」
真剣な眼差しで見つめられると、正論に直視できなくて、目をそらしたくなる。
「自分のことが見えてないと、相手のことも見えないよ」
「自分のこと、か」
現実を直視できなくて、逃げている自分。情けなくて、大嫌いだ。勝手に一人で舞い上がっていただけだったことを思い知らされ、恥ずかしくて背中につぅっと汗の球が伝っているのを感じる。
「キツイこと言ってごめんね」
そう言って公園を出る葵を最後まで目で追うことしかできず、俺はそのままベンチにへたり込んだ。葵は悪くないのに、謝らせてしまった。こんなはずじゃなかったのに。自分が見えていないせいで、誰も得をしない結果になってしまった。帰るまで自問自答してみたけど、言い訳しか帰ってこない自分しかいなかった。
それから連絡する勇気が出ず、葵のSNSも見ないようにした。葵は俺に恋愛なんてしないほうが良いっていうのを教えてくれる存在だったのだ。自分に自信なんて持てない。
ある時、太田からメッセージが届いた。
『調査書が届いた。お前も来たか?』
調査書とは球団から選手に送られてくるもので、球団からの無言の「ドラフト指名候補にしている」という意思の提示である。それを返送することで、選手からすれば「お世話になりたいです」という返事になる。
『来るわけ無いだろ。自慢かよ』
『違う。すぐプロ入りしたほうが良いか、大学経由にするか、迷ってる』
『贅沢な悩みだな。その調査書の名前を俺の名前に変えて返送しといてくれ』
悪い冗談だが、素直におめでとうと言えるほどの心の余裕はなかった。
なぜ三者面談はせっかくの夏休みの間に行われるのか。二重でしんどい。練習する後輩たちを横目に校舎に入ると、金属バットとボールが衝突する心地よいあの響きは一気にシャットアウトされた。道路を走る車の音も工事現場で狂ったように暴れる音も、何も聞こえない。ただ自分の母親のヒールが早足でコツコツと足音を立てるのが聞こえるだけだ。
空調のない廊下は暑さでぼやっとした生ぬるい感じが気持ち悪く、教室に入ると今度は空調が効きすぎていて頭が痛くなった。頭痛は二人からの説教でさらにひどくなった。
結局怒られた。怒られるのが分かっていても、やはり本当に怒られるとキツい。正論が心をえぐりながら突き刺してくる。勉強をしないと間に合わない、目標がないと何も進まない、受験生がゴロゴロしている暇はない。全部正解だ。でも、気持ちが入らない。
受験勉強は高校野球みたいに熱くなれないし、大学は甲子園のような魅力的な場所だとは思えない。勉強したって、努力したってなんにもならない。もう何もかもがどうでも良い。野球にも負け、恋愛にも負け、次は受験にも負けそう。そうやって負け続けても、まぁいいか、で終わるような気がする。
家に帰ってきてからは、今度は親から説教され、参考書の問題集を進めることを条件に解放された。夏休みの宿題をしていない小学生みたいな扱いだが、自分が小学生じみたことしかしていないことも分かっている。
参考書は何が書いてあるのか理解不能。日本語なのに外国語を読んでいるような感覚になり、頭が痛くなる。そういえば夏実ちゃん、英語が苦手だったはず。なんで今そんなこと思い出すのだろう。
その時、着信が入った。しかもその相手は、夏実ちゃんだった。
「もしもし?」
「あ、爽くん? そうたいぶり! 元気?」
懐かしい声。あの負け試合以来、連絡を取れなかったから、随分久しぶりに感じる。
「うん、まぁ」
夏実ちゃんに格好悪いところを見られて落ち込んでいた、なんて言えず、はぐらかすように答えるしかなかった。
「この前の合宿で四国の独立リーグの球団と試合したの、覚えとる?」
「覚えとるけど」
あのホームラン打たれたやつね。そういえばいたな、あのガタイの良い大男。
「八月の終わりに、その四国リーグの合同トライアウトがあるがよ。爽くん出てみん?」
「トライアウト?」
「うん。涼にいが教えてくれたんやけど、今年は夏と冬の二回あって、八月と十二月なんよ。申請ならまだギリギリ間に合うし、爽くんなら受かるんじゃないかと思って!」
「いやいや……」
確かにあの負け試合のときの怪我はもう癒えているし、何もしていなかったから身体は軽い。でも、そもそも俺がそんな選手になれるようなビジョンが見えてこない。
「チャレンジしてみなはいやぁ。うちの施設、トレーニングにつこうていいけん!」
「でも……」
自信はない。今だってどうすれば夏実ちゃんを傷つけずに断れるかを考えている。
「四国リーグはまだまだ始まったばっかりで、これからなんよ。愛媛球団も爽くんの印象が強かったみたいで、そっから話が来とるがよ」
それは投球フォームが変わっているからだろうに。でも確かに今は高校生が大学野球やプロ野球を目指しても、独立リーグを目指すという選手は多くない。独立リーグはハングリーな選手が多いと聞くし、甲子園を目指していたときとはまた違ったワクワクがあるのかもしれない。
「じゃあ……考えてみるわ」
ふふふ、と電話越しに微笑んだのがわかって、なんだかドギマギする。そのまま電話を切って、ドキドキする鼓動を感じてしばらくじっとした。この感じは、甲子園を目指していたときと同じような胸の高鳴りか。それとも夏実ちゃんと久々に話した緊張か。どちらにしても、突然訪れた話に前のめりなことに、自分が一番驚いている。
さっきまで何をやっていたのかも瞬時に忘れた。これだ、という閃きがはっきりと見えるような感覚。大学でもプロでもなく、独立リーガーか。悪くないかもしれない。試しに受けるくらい、別に損じゃない。
この間まで葵のことで頭がいっぱいだった。慣れないことをして、勝手に落ち込んで、もやもやしていた。でも、その前はずっと野球のことだけ考えていたのだ。やっぱり俺にとっては野球が大事なのだ。おまけに受験勉強から逃げられるし、夏実ちゃんにも喜んでもらえる。新しい居場所ができたような気がする。そうと決まれば居ても立っても居られない。勢いよく玄関口から外の世界に飛び出した。
「あんた、どこ行くんね! 勉強は!」
「学校! 勉強はまたあとで!」
自転車にまたがりながら母親の声に素早く反応し、逃げるようにペダルを漕ぎ出した。
学校に到着してすぐ、進路指導の先生の元へと走った。もうすでにその日の三者面談を終えて書類の整理をしていた先生に突撃した。
「先生、僕、野球続けます」
さっきまで目標を見失っていた生徒からそんなことを言われて戸惑ったのだろう。ちょっと待て、と開いた別室を用意してくれて、そこでゆっくり話し合うことになった。
「ほんならどこの大学の野球部にするんか早速決めんとな」
野球で有名な大学で、俺が行けそうな大学を探して資料を探し出してきてはああでもない、こうでもない、とぶつぶつ言っている。
「いや、大学には行きませんよ」
「はぁ? じゃあどがいにするんな?」
先生の手が止まる。俺はその反応が可笑しくて笑いそうになりながら、今の本心をそのままぶつけた。
「来月の終わりにある四国リーグのトライアウトを受けます。俺、決めたんです。だから進路調査の紙、ください。今ここで、『独立リーグ』って書きます!」
「ああ、球団職員の応募でも見つけたんかいな」
「違う違う、選手としてです! 野球を続けるんです!」
戸惑いながらも進路調査の紙を渡してきた。それに目もくれず、渾身の感謝を述べてから、自称達筆な字で『独立リーグ』と書き、そのままその部屋を飛び出した。
次に行くのはグラウンド。さっきも話し合いの途中、金属バットがボールを捉える音が心地よく聞こえていた。太田も沖浦もそこにいるはずだ。中庭を抜けて滑車付きのネットの隙間からグラウンドに出ると、後輩たちが一斉に挨拶してきた。練習着姿の太田や沖浦が、砂埃が舞う中で俺の方に向き直した。小走りでその二人のもとに向かうと、ふたりともにこやかに俺を迎えてくれた。
「三者面談、終わったんか」
「うん、決まったよ。俺の進路」
「お! どこになったんや?」
沖浦が俺の顔を覗き込む。太田は余裕の表情で、どこになっても俺より上になることはないだろう、と高を括っているようにも見える。
「独立リーグのトライアウトを受けることにした」
「はぁ? なんで?」
「なんでも」
「大学はどうするんな?」
「行かん」
「今の時代、大学くらい出たほうがいいぞ。そう思って俺もプロに行くか大学にするか悩んでるんだ。現実見たほうが良いぞ」
先生と同じような反応の沖浦と、諭すような言い方の太田。たしかに最悪を想定して自分で逃げ道を作っておくことはできる。でも結局、大学野球は太田みたいな野球エリートによく似合うし、プロ野球なんて夢のまた夢。その点、独立リーグは俺にとって、予想していなかった全く新しい世界。しかも野球漬の毎日を送れるなら、勉強にもバイトにも追われる大学生活よりもよっぽど俺には合う。と思う。
「勢いだけで行くと後悔するで?」
「あの試合の後、何も考えられなくて勢いすらなかった。今は少なくとも勢いはある。考えすぎて機会を逃すより、行動あるのみだと思うんよ!」
「ほんと、お前はギリギリになって全く違う方向に行きたがるよな。投球フォームも、進路も。後悔、しないか?」
いつも近くで俺のことを見ていた太田にそう言われると、ドキッとする。確かに急に変更した投球フォームで未完成のまま公式戦に挑んで、失敗した。でも今度は、あの合宿所でみっちり練習して、準備万端でトライアウトに挑める。全体練習に参加しなくて良いぶん、改善点に集中して特訓できそうな気がする。
「せっかく一緒に大学野球できると思ったんじゃけどのう」
「悪かったな」
二人と話すと、なんだか内からやる気が湧いて出た。抑えきれない胸の鼓動をそのままに、二人の元を離れてそのままグラウンドを飛び出した。自転車に飛び乗り、土手道をぶっ飛ばす。目標に向かって突き進む、この高揚感を忘れていたのだ。
しばらく走ったところで夏実ちゃんに連絡していなかったことを思い出し、慌てて電話で報告。考えておくと言っておきながら、結局二時間もしないうちに連絡をとったことで驚かれたが、素直に喜んでもらえた。身体がすっと軽くなり、息が上がる。
夏実ちゃんが申請を代行してくれるそうだ。また、練習のためにあの愛媛の民宿に泊まらせてくれる。設備も使用可能で、代わりにグラウンドの管理人として試合があるときには各種手伝いをしてほしいとのこと。また、第一印象も大事だからトライアウトの当日は必ず制服持参とのこと。ここまで応援されて、頑張らないわけがない。
本当は後輩たちの世話をしながら一緒にグラウンドで練習をしても良かった。でも高校野球のことを断ち切るためには、いったん広島を離れないと。愛媛できっかけをくれた夏実ちゃんに、今度こそ格好良いところを見せたい。ペダルを漕ぐ力がさらに湧いてきた。
結局、帰ってからはじめて母親にこのことを報告した。
「俺、トライアウトを受けるよ!」
「トライアウト? なんの?」
「独立リーグの。野球を続けるんよ!」
「なんで? 大学はどうするんね?」
「なんでも! 大学は行かん! 野球だけを続ける!」
「アホかいね! そんな簡単に行けるわけなかろうが!」
「でも、今行かんと後悔する! やれるときにやっとくのがええんじゃろ!」
これは母親がついこの間言った言葉をそのまま引用した。それを知ってか知らずか、もうそれ以上は強く言い返してこなかった。
「もうしらん。勝手にしんさい。それが終わったら勉強しんさい」
夕飯を温め直す母親はため息をついて、特盛のカレーを差し出してきた。
次の日、母親とともに学校に呼ばれた。
昨日の一件で、もう一度、緊急の三者面談が開かれたのだ。一晩経つと、昨日のあの熱狂ぶりが嘘みたいに感じられ、自分でも不思議と冷静になっていた。昨日は勢いであそこまで言ってしまったが、今日改めて考えてみると、とんでもないことをしてしまった。隣を歩く母親は歩くごとにため息を漏らしているほどで、重苦しい空気は職員室に入ってからさらに重さを増した。
「何もわざわざ独立リーグに行かなくても、大学で野球部に入れば野球は続けられる。しかもプロを目指したり実業団に入りたければそのほうがむしろ近道でもある。なぜわざわざ四国まで行って独立リーグの球団に入りたいと思うのだね?」
正直、勢いであることに変わりはない。その他の理由は全て後付けした、ただの言い訳だ。でも、それを正直に言っても仕方がない。ただ、言い返すべき言葉も見つからない。
「ほら、特に理由もないのだろう。だったら今からでも大学進学を考えたらどうだ。別に無理な話じゃないんだ。風張くんなら別に選びさえしなければ大学には行けるんだから」
「そうよ、先生の言うことを聞いて、もう一度考え直しましょう、ね?」
言い返せなかった。正論を並べられると、何も言い返せない。確かに大学でも野球はできる。でも。でもでもでも。結局言い返せる言葉は見つからない。それは、自分の中でもやりたい理由が整理できていない証拠だ。
今なら申請を取り消せる。そう思って夏実ちゃんに電話をかけようと思ったが、どうしてもかけられなかった。電話越しに喜んでくれたあの声がフラッシュバックして、残念がる夏実ちゃんを想像したくない。あの最後の試合の終わりに見た夏実ちゃんのなんともいえない表情を、電話越しに想像したくない。
いわゆるプロ野球と違って給料は雲泥の差。しかも最終学歴は高卒に。今の時代、あまりにも不利な状況に陥りかねない。一時の勢いだけで、本当に今後の将来の方向性を決めてしまって良いのだろうか。最悪の事態を想定すれば、大学進学は一番無難だ。そんなの俺だって十分わかっている。
ただ、だからってこの気持ちをすんなり抑え込めるほど、俺は大人じゃない。いったん独立リーグに挑戦すると決めて、もう連絡だってしてある。それに対して夏実ちゃんが喜んでくれている。それだけでも良いのではないだろうか。
気付いたときには自転車を飛ばしていた。がむしゃらに漕いで、太ももに乳酸を溜め込んで。時間も場所も認識できないまま、ただひたすら前へと進み続けた。
と、そのとき。あまりの勢いに自転車自体が耐えきれなくなったのか、チェーンが外れて引っかかり、その勢いで身体が自転車から放り出された。幸い放り出された先は雑草のクッションの上だったが、転げ回って体中擦り傷だらけになった。
もういいや。こっそりトライアウトを受験して、それから考えよう。もう知らん。自暴自棄になって、河原で大の字になって目を閉じる。もうどうでもいい。思考停止。誰にも相談できないまま、モヤモヤを消そうと眠りにつこうとした瞬間、誰かに頬を叩かれた。
「おい、大丈夫か? 意識はあるか?」
聞き覚えのある声に、目をゆっくり開いて起き上がると、そこに居たのは太田だった。
「お前こんなところで何してんだよ」
「太田? いやお前こそ何してんだよ」
「いや、ランニング中。てか、血だらけだけど大丈夫か?」
「ああ、うん、まぁ」
はぁ、とため息をついたのは太田の方だった。俺の横に同じように寝そべり、しばらく二人でぼうっと川の方をぼんやり眺めていた。
「後悔、してんのか」
「しとるかもな」
「お前の悪いところが出たな」
「結局、俺は何をしたいんだろうな」
「俺の知ったことか。自分自身に聞いてみろ」
まぁ、そうだよな。
太田みたいに実力も知名度もあるわけじゃない俺が、トライアウトを受験しても意味ないだろう。普通の大学生になるべき人間なんだ。
「俺はお前のことがうらやましいけどな」
「はぁ? 俺こそお前がうらやましいわ。実力も知名度も上で、将来が約束されて。記事見たよ。完成された右腕、だっけ。そんなやつが俺のどこをうらやましく思えるんだよ」
それを聞いた太田は鼻で笑い、こう続けた。
「将来性だよ。未完成さだよ。俺がもし急に大学進学をやめて、それこそ独立リーグに行くって言ったらどうなる? それこそお前の周りよりももっと大勢の人が反対するだろうな。高卒でも十分にプロ入りできるような俺からすれば、大学進学だって疑問視されるんだ。つまり、もうすでに将来が約束されてしまっているって言うことだ」
「お前、それ自慢かよ」
「わかってねぇな。俺にとっちゃ、この先は失敗しないためにレールの上を忠実に進んでいく必要があんだよ。それが完成された右腕の正しい人生なんだろな。でもお前は違う。どん底のお前には、上しか無い。失敗を恐れる必要がない。成功しか考えなくてもいいんだ。失敗を考えなくていいなんて、本当に楽だろ。だから、俺はお前がうらやましい」
「やっぱ俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「やっぱお前バカだな」
そう言って太田は立ち上がった。お尻の砂や雑草の切れ端を叩いて、足首を回し直す。
「お前はバカ正直に生きろよ。それが良さだろ。直感的でいいんだよ、お前はさ。俺からエースナンバーを奪えたのは、その良さがあったからじゃないのか?」
太田はそう言って去っていった。最後の言葉は、正直刺さった。知的で、冷静で、自分を知り尽くしている太田と、自分のことを何も分かっていない、直感的な俺。でもそれを肯定的に見てくれていた太田の言葉は、先生や親の言うことよりも輝きを放っていた。迷う前に直感的に行動してみる。今の俺にはそれが一番なのかもしれない。
家に着いて壁際に自転車を立て掛け、玄関から家の中に入ると、両親が二人で話し込んでいるのが聞こえた。俺の話をしているのだろうと推察し、その部屋に直行した。
「ちょっとあんたどうしたの!」
母親が驚いた様子で聞いてきたのでチャリでコケたとだけ伝えた。
「先にシャワー浴びてきなさい」
父親から諭され風呂場に向かう。痛みを我慢しつつシャワーを浴びながら、なんて切り出そうかといろいろ考えた。答えが出ないまま、のぼせる前にさっさと切り上げた。
「お父さんからも、なんか言ってやってちょうだい」
腕を組んで下を向いている父親。俺はあぐらのまま父親の方を向き、言葉を待った。
「お前、野球続けたいそうだな。なんでだ?」
なんでだろう。野球をただ続けたい。ただそれだけしか考えたことがなかった。俺にとっての野球は、何事にも代えがたい存在で、なくなるなんて考えられないから、だから、続けたい。なんとなくうまくいえない気がする。
「なんでなんだ?」
「そりゃやってて楽しいからだし、やりがいがあるし、俺にとっての野球は無くてはならないものだし」
「じゃあ、大学でも野球を続けられるだろう。またなんで独立リーグなんだ。聞いたぞ、そんなに給料も高くないし、生活にも困りそうだな。大学に行くなら奨学金を借りればそんな苦労をしなくても済むし、今どき高卒と大卒じゃできる仕事に差があるぞ」
「……直感だよ」
「直感?」
「そう、直感。これじゃ、って思えたんよ。高校野球の、甲子園の存在を初めて知った時と同じ感覚なんよ。このために俺は存在しとるんじゃって。とにかくやってみたいって。ただそれだけじゃけど、それだけじゃないんかもしれんけど、それは今はわからんけど。でも、俺は俺を信じたい」
「よく考えたのか?」
「考えた。考えすぎて訳わからんなったけぇ、もう自分の直感に頼ろうと思った」
「将来の不安はないのか?」
「将来なんて今考えたところで確定できるもんじゃないけ。誰も未来のことはわからん。だったら俺は、今を生きるしか無いと思う。不安がないと言えば嘘になるけど、逆に不安だらけって言うわけじゃない。俺は高校野球に向けてきた思いと同じくらい前向きな思いを、ぶつける先を見つけられたと思っとる」
「母さんは、お前が思っている以上に心配してるぞ」
母親の方を向いたら、床を見て困ったように口角を上げていた。
「父さんは、お前がやりたいようにやるのをサポートしてやることしかできん。導いて、引っ張って、レールの上に乗せることは不可能だ。それは母さんだって同じだ。後ろから押してやることしかできん。でも、だからこそ、心配になるんだ。できるだけ安定して、無難な方向に進んでほしくなるんだ。それは理解できるな?」
「うん」
「うん。そのうえで、それを知った上でお前がどうしたいのか、自分で判断すれば良い。母さんは反対するだろう。それは誰よりもお前が心配だからだ。でも母さんだって、応援したくないわけじゃない。お前が頑張りたいからって入った野球部の活動を応援するために、弁当も飲み物も洗濯も全部やってくれていたんだ。もしかしたら、父さんよりも母さんのほうが強くお前のことを応援していたのかもしれない。だから、甲子園を目指すのと同じくらい、もしくはそれ以上に没頭し、熱中し、燃え尽きれるなら、独立リーグの道に進みなさい。もしその覚悟がないなら、今すぐ受験勉強をはじめなさい。いいね?」
母さんは今にも泣きそうな顔を隠そうとさらに下を向いている。俺のことを応援しているからこそ、反対することで俺自身の意志を固める手伝いをしてくれていたのかもしれない。そう思うと、父親の言葉が現実的な言葉としてのしかかってくる。甲子園以上の何かを、独立リーグで見つける。また右往左往しても良いから、とにかく前を向く。そして俺が望む形で野球をし続けられるように、納得して燃え尽きれるように、まずはトライアウトに挑戦する。決心がついた。
「わかった。やっぱりトライアウトを受ける。納得して燃え尽きれるように頑張る。だから母さん、明日もう一度一緒に学校に行ってほしい。俺の後ろから背中を押してほしい」
母親は黙って何度も頷いた。父親ははぁ、とため息をついた後、席を立った。
翌日母が、「今日は一言も喋らないから自分で説明しなさい」とだけ言ってきちんときれいな制服を用意してくれた。職員室にいた先生は俺と母親の顔を交互に見て、またか、とだけ言って、昨日の席に案内してくれた。
「それで、志望校は決まったのかね?」
「はい、独立リーグのトライアウトに挑戦します」
はぁ、とため息をつく先生。母親に目配せしたが、気づかれて目をそらされた。
「それは親御さんも同意なさっているのですね?」
コクリと頷く母親。本当に一言も喋らない気だ。
「なぜ大学進学じゃ駄目なのかね? なぜ独立リーグじゃなければならない?」
「直感です」
「直感で決めて後悔しないのかね? 後悔してからじゃ遅いぞ?」
「後悔しないかどうかは、トライアウトを受けてからじゃないとわかりません。わからないことを考え続けるよりも、僕は今を大切にしたいです。今を大切にするということは、自分の直感を信じて突き進むということです。トライアウトのお話を頂いたときに感じたあの感覚を、信じてみようと思います」
「それは、大学では体験できないことなのかね?」
「そうなのかどうかは、独立リーグを体験してみないとわかりません。ただ……」
「ただ?」
「挑戦しようとしている今の俺には、前しか見えていません」
終始納得行かない様子の先生だったが、それ以上問い詰めてくることもなかったので、暗黙の了解なのだろうと思う。
職員室を出て靴箱から校門に向かい、帰路につく。母親は終始自分の後ろについて来る形で、決して横並びすること無く、また前で先導することもなかった。
それはまるで、ここから先はすべてが自己責任だと言わんばかりに。
せっかく野球ゲームを持って遊びに来た沖浦には悪いが、いくらゲームの中の野球で活躍しても満たされなかった。
「なぁ、俺は南海大学の野球部に誘われとる。お前もまだまだできるじゃろう。一緒に野球せんか?」
今は野球のことを考えたくなかった。高校野球は特別な存在で、それ以外に目を向けられない。大学野球は俺の居場所じゃないような気がする。どうせ太田のようなプロ注目選手が全国から集っているはずだ。俺の出番じゃない。
「そうじゃ、後輩たちの練習を手伝いながら俺も練習するけぇ、爽も来いや」
「いいわ、やめとく」
後輩の手伝いに行くと、また高校野球の世界に戻りたくなるから嫌だ。せっかく引退したことだし参考書を買ったは良いが、買っただけで満足してしまい、一度もページを開いていない。高校三年生の俺達にとっては、これからが受験勉強の正念場だ。でも、野球と同じくらい、勉強にも身が入らなかった。
そんな中で唯一打ち込めるもの。それは、葵の存在だった。その存在感が日に日に大きくなっている。それと反比例するように、夏実ちゃんの存在が現役時代の筋肉量と一緒にどんどん自分の中から抜け落ちていった。
受験勉強をしなければならないのは分かっている。だが彼女ができそうな男子高校生が目の前のチャンスを逃すわけがない。葵とのデートが脳裏に浮かんでは、粗い鼻息となって目の前の画面を曇らせる。
沖浦が野球ゲームの中で快勝し、俺の部屋を後にした。去り際に後輩への伝言はないかと聞かれたが、特にない、としか言えなかった。
週末、葵と駅前で集合して、到着時間の三〇分も前に改札口の前で待った。今日が勝負の日だと思うと居ても立っても居られない。早く葵に会いたい気持ちと、カウントダウンが始まってしまうのが怖い気持ちが交差して、会いたいけど会いたくなかった。そのまま映画を見に行き、見終わってから晩御飯を共にして少し散歩。電車に乗って葵の最寄り駅まで見送る。そのまま帰ろうとしたので、慌てて引き止めた。
「もうちょっと話さん? せっかくだし?」
「じゃあ、ちょっとだけね?」
すでに日が暮れて真っ暗になっている路地に、蛍光灯の光だけがぼんやりとあたりを照らしている。無音の世界に、二人のこすれるような足音だけが鳴り、湿ったぬるい空気が首元にじんわりと汗をかかせてくる。葵と隣り合わせでベンチに腰掛け、ひと息ついた。
失敗しないタイミング。
失敗しない台詞回し。
失敗しないためのこれまでの努力を、ここで一気に開放する。
「葵、俺らって、葵が最初に声かけてくれたんだよね」
「そだね。一年の応援練習だっけ。爽くんベンチ外だったもんね。なんか懐かしいね」
「最後の試合の後、最初に話しかけてくれたのも、葵だった。なんかあの時けっこう落ち込んでてさ、葵に救われたんだよね」
「それは良かった」
「なんか、一緒に困難を乗り越えてくれる存在なんだなって、思っちゃったんだよね」
「そっか」
「だからさ、俺の彼女になってほしい」
不思議と緊張しなかった。王道のタイミングで、王道のシチュエーションで、王道の台詞。考え抜かれたこの告白に、欠点はないはず。
葵はしばらく俺から視線を外し、なにやら考えている様子。確かに大事な話だし、軽い気持ちでOKの返事を出せないのだろう。ここで待つのが紳士の役目。沈黙の時間に、体の内側からくる独特の緊張感が溢れ出そうになる。
「あー、ごめんね」
「え?」
葵からの答えは、想定外のものだった。向こうからアプローチを掛けてきて、デートもして、告白も完璧で。一体どこに落ち度があったのだろう。
「え、だめ? デート、三回以上してるのに?」
緊張感が抜けた俺の、化けの皮がはがれていくのを実感する。
「デートじゃなくて、遊びに行っただけじゃん。ていうか別にあたし爽くんのこと、そういう感じで見てなかったよ?」
「え、だって慰めてくれてデートに誘ってきて勉強も一緒にして。それに、特別感って」
「ファンだけど、そういうのじゃなくて。しかも彼氏いるし」
彼氏おるんかい。なんだよ、思わせぶりかよ。だが、不思議と悲しみや悔しさはない。
「ねえ、あたしのどこが好き?」
「え、可愛くて、慰めてくれて、誘ってくれるから」
「それってあたしじゃなくてもよくない? あたしのこと、興味持ってる? 何を知ってる? てか、知ろうとしたことある?」
葵が畳み掛けるが、言葉に詰まるだけで何も答えられない。確かに、本当に葵に興味を持てているのかというと、違うかもしれない。
「あたしを誰かの代わりにしてない?」
真っ直ぐなのに、真顔を少しも崩さない葵に、なぜか夏実ちゃんの影が重なる。そんな目で見ないでほしい。直視できない。
「目が泳いでるよ。あたしが爽くんの目の前にいるの、当たり前じゃないよ」
真剣な眼差しで見つめられると、正論に直視できなくて、目をそらしたくなる。
「自分のことが見えてないと、相手のことも見えないよ」
「自分のこと、か」
現実を直視できなくて、逃げている自分。情けなくて、大嫌いだ。勝手に一人で舞い上がっていただけだったことを思い知らされ、恥ずかしくて背中につぅっと汗の球が伝っているのを感じる。
「キツイこと言ってごめんね」
そう言って公園を出る葵を最後まで目で追うことしかできず、俺はそのままベンチにへたり込んだ。葵は悪くないのに、謝らせてしまった。こんなはずじゃなかったのに。自分が見えていないせいで、誰も得をしない結果になってしまった。帰るまで自問自答してみたけど、言い訳しか帰ってこない自分しかいなかった。
それから連絡する勇気が出ず、葵のSNSも見ないようにした。葵は俺に恋愛なんてしないほうが良いっていうのを教えてくれる存在だったのだ。自分に自信なんて持てない。
ある時、太田からメッセージが届いた。
『調査書が届いた。お前も来たか?』
調査書とは球団から選手に送られてくるもので、球団からの無言の「ドラフト指名候補にしている」という意思の提示である。それを返送することで、選手からすれば「お世話になりたいです」という返事になる。
『来るわけ無いだろ。自慢かよ』
『違う。すぐプロ入りしたほうが良いか、大学経由にするか、迷ってる』
『贅沢な悩みだな。その調査書の名前を俺の名前に変えて返送しといてくれ』
悪い冗談だが、素直におめでとうと言えるほどの心の余裕はなかった。
なぜ三者面談はせっかくの夏休みの間に行われるのか。二重でしんどい。練習する後輩たちを横目に校舎に入ると、金属バットとボールが衝突する心地よいあの響きは一気にシャットアウトされた。道路を走る車の音も工事現場で狂ったように暴れる音も、何も聞こえない。ただ自分の母親のヒールが早足でコツコツと足音を立てるのが聞こえるだけだ。
空調のない廊下は暑さでぼやっとした生ぬるい感じが気持ち悪く、教室に入ると今度は空調が効きすぎていて頭が痛くなった。頭痛は二人からの説教でさらにひどくなった。
結局怒られた。怒られるのが分かっていても、やはり本当に怒られるとキツい。正論が心をえぐりながら突き刺してくる。勉強をしないと間に合わない、目標がないと何も進まない、受験生がゴロゴロしている暇はない。全部正解だ。でも、気持ちが入らない。
受験勉強は高校野球みたいに熱くなれないし、大学は甲子園のような魅力的な場所だとは思えない。勉強したって、努力したってなんにもならない。もう何もかもがどうでも良い。野球にも負け、恋愛にも負け、次は受験にも負けそう。そうやって負け続けても、まぁいいか、で終わるような気がする。
家に帰ってきてからは、今度は親から説教され、参考書の問題集を進めることを条件に解放された。夏休みの宿題をしていない小学生みたいな扱いだが、自分が小学生じみたことしかしていないことも分かっている。
参考書は何が書いてあるのか理解不能。日本語なのに外国語を読んでいるような感覚になり、頭が痛くなる。そういえば夏実ちゃん、英語が苦手だったはず。なんで今そんなこと思い出すのだろう。
その時、着信が入った。しかもその相手は、夏実ちゃんだった。
「もしもし?」
「あ、爽くん? そうたいぶり! 元気?」
懐かしい声。あの負け試合以来、連絡を取れなかったから、随分久しぶりに感じる。
「うん、まぁ」
夏実ちゃんに格好悪いところを見られて落ち込んでいた、なんて言えず、はぐらかすように答えるしかなかった。
「この前の合宿で四国の独立リーグの球団と試合したの、覚えとる?」
「覚えとるけど」
あのホームラン打たれたやつね。そういえばいたな、あのガタイの良い大男。
「八月の終わりに、その四国リーグの合同トライアウトがあるがよ。爽くん出てみん?」
「トライアウト?」
「うん。涼にいが教えてくれたんやけど、今年は夏と冬の二回あって、八月と十二月なんよ。申請ならまだギリギリ間に合うし、爽くんなら受かるんじゃないかと思って!」
「いやいや……」
確かにあの負け試合のときの怪我はもう癒えているし、何もしていなかったから身体は軽い。でも、そもそも俺がそんな選手になれるようなビジョンが見えてこない。
「チャレンジしてみなはいやぁ。うちの施設、トレーニングにつこうていいけん!」
「でも……」
自信はない。今だってどうすれば夏実ちゃんを傷つけずに断れるかを考えている。
「四国リーグはまだまだ始まったばっかりで、これからなんよ。愛媛球団も爽くんの印象が強かったみたいで、そっから話が来とるがよ」
それは投球フォームが変わっているからだろうに。でも確かに今は高校生が大学野球やプロ野球を目指しても、独立リーグを目指すという選手は多くない。独立リーグはハングリーな選手が多いと聞くし、甲子園を目指していたときとはまた違ったワクワクがあるのかもしれない。
「じゃあ……考えてみるわ」
ふふふ、と電話越しに微笑んだのがわかって、なんだかドギマギする。そのまま電話を切って、ドキドキする鼓動を感じてしばらくじっとした。この感じは、甲子園を目指していたときと同じような胸の高鳴りか。それとも夏実ちゃんと久々に話した緊張か。どちらにしても、突然訪れた話に前のめりなことに、自分が一番驚いている。
さっきまで何をやっていたのかも瞬時に忘れた。これだ、という閃きがはっきりと見えるような感覚。大学でもプロでもなく、独立リーガーか。悪くないかもしれない。試しに受けるくらい、別に損じゃない。
この間まで葵のことで頭がいっぱいだった。慣れないことをして、勝手に落ち込んで、もやもやしていた。でも、その前はずっと野球のことだけ考えていたのだ。やっぱり俺にとっては野球が大事なのだ。おまけに受験勉強から逃げられるし、夏実ちゃんにも喜んでもらえる。新しい居場所ができたような気がする。そうと決まれば居ても立っても居られない。勢いよく玄関口から外の世界に飛び出した。
「あんた、どこ行くんね! 勉強は!」
「学校! 勉強はまたあとで!」
自転車にまたがりながら母親の声に素早く反応し、逃げるようにペダルを漕ぎ出した。
学校に到着してすぐ、進路指導の先生の元へと走った。もうすでにその日の三者面談を終えて書類の整理をしていた先生に突撃した。
「先生、僕、野球続けます」
さっきまで目標を見失っていた生徒からそんなことを言われて戸惑ったのだろう。ちょっと待て、と開いた別室を用意してくれて、そこでゆっくり話し合うことになった。
「ほんならどこの大学の野球部にするんか早速決めんとな」
野球で有名な大学で、俺が行けそうな大学を探して資料を探し出してきてはああでもない、こうでもない、とぶつぶつ言っている。
「いや、大学には行きませんよ」
「はぁ? じゃあどがいにするんな?」
先生の手が止まる。俺はその反応が可笑しくて笑いそうになりながら、今の本心をそのままぶつけた。
「来月の終わりにある四国リーグのトライアウトを受けます。俺、決めたんです。だから進路調査の紙、ください。今ここで、『独立リーグ』って書きます!」
「ああ、球団職員の応募でも見つけたんかいな」
「違う違う、選手としてです! 野球を続けるんです!」
戸惑いながらも進路調査の紙を渡してきた。それに目もくれず、渾身の感謝を述べてから、自称達筆な字で『独立リーグ』と書き、そのままその部屋を飛び出した。
次に行くのはグラウンド。さっきも話し合いの途中、金属バットがボールを捉える音が心地よく聞こえていた。太田も沖浦もそこにいるはずだ。中庭を抜けて滑車付きのネットの隙間からグラウンドに出ると、後輩たちが一斉に挨拶してきた。練習着姿の太田や沖浦が、砂埃が舞う中で俺の方に向き直した。小走りでその二人のもとに向かうと、ふたりともにこやかに俺を迎えてくれた。
「三者面談、終わったんか」
「うん、決まったよ。俺の進路」
「お! どこになったんや?」
沖浦が俺の顔を覗き込む。太田は余裕の表情で、どこになっても俺より上になることはないだろう、と高を括っているようにも見える。
「独立リーグのトライアウトを受けることにした」
「はぁ? なんで?」
「なんでも」
「大学はどうするんな?」
「行かん」
「今の時代、大学くらい出たほうがいいぞ。そう思って俺もプロに行くか大学にするか悩んでるんだ。現実見たほうが良いぞ」
先生と同じような反応の沖浦と、諭すような言い方の太田。たしかに最悪を想定して自分で逃げ道を作っておくことはできる。でも結局、大学野球は太田みたいな野球エリートによく似合うし、プロ野球なんて夢のまた夢。その点、独立リーグは俺にとって、予想していなかった全く新しい世界。しかも野球漬の毎日を送れるなら、勉強にもバイトにも追われる大学生活よりもよっぽど俺には合う。と思う。
「勢いだけで行くと後悔するで?」
「あの試合の後、何も考えられなくて勢いすらなかった。今は少なくとも勢いはある。考えすぎて機会を逃すより、行動あるのみだと思うんよ!」
「ほんと、お前はギリギリになって全く違う方向に行きたがるよな。投球フォームも、進路も。後悔、しないか?」
いつも近くで俺のことを見ていた太田にそう言われると、ドキッとする。確かに急に変更した投球フォームで未完成のまま公式戦に挑んで、失敗した。でも今度は、あの合宿所でみっちり練習して、準備万端でトライアウトに挑める。全体練習に参加しなくて良いぶん、改善点に集中して特訓できそうな気がする。
「せっかく一緒に大学野球できると思ったんじゃけどのう」
「悪かったな」
二人と話すと、なんだか内からやる気が湧いて出た。抑えきれない胸の鼓動をそのままに、二人の元を離れてそのままグラウンドを飛び出した。自転車に飛び乗り、土手道をぶっ飛ばす。目標に向かって突き進む、この高揚感を忘れていたのだ。
しばらく走ったところで夏実ちゃんに連絡していなかったことを思い出し、慌てて電話で報告。考えておくと言っておきながら、結局二時間もしないうちに連絡をとったことで驚かれたが、素直に喜んでもらえた。身体がすっと軽くなり、息が上がる。
夏実ちゃんが申請を代行してくれるそうだ。また、練習のためにあの愛媛の民宿に泊まらせてくれる。設備も使用可能で、代わりにグラウンドの管理人として試合があるときには各種手伝いをしてほしいとのこと。また、第一印象も大事だからトライアウトの当日は必ず制服持参とのこと。ここまで応援されて、頑張らないわけがない。
本当は後輩たちの世話をしながら一緒にグラウンドで練習をしても良かった。でも高校野球のことを断ち切るためには、いったん広島を離れないと。愛媛できっかけをくれた夏実ちゃんに、今度こそ格好良いところを見せたい。ペダルを漕ぐ力がさらに湧いてきた。
結局、帰ってからはじめて母親にこのことを報告した。
「俺、トライアウトを受けるよ!」
「トライアウト? なんの?」
「独立リーグの。野球を続けるんよ!」
「なんで? 大学はどうするんね?」
「なんでも! 大学は行かん! 野球だけを続ける!」
「アホかいね! そんな簡単に行けるわけなかろうが!」
「でも、今行かんと後悔する! やれるときにやっとくのがええんじゃろ!」
これは母親がついこの間言った言葉をそのまま引用した。それを知ってか知らずか、もうそれ以上は強く言い返してこなかった。
「もうしらん。勝手にしんさい。それが終わったら勉強しんさい」
夕飯を温め直す母親はため息をついて、特盛のカレーを差し出してきた。
次の日、母親とともに学校に呼ばれた。
昨日の一件で、もう一度、緊急の三者面談が開かれたのだ。一晩経つと、昨日のあの熱狂ぶりが嘘みたいに感じられ、自分でも不思議と冷静になっていた。昨日は勢いであそこまで言ってしまったが、今日改めて考えてみると、とんでもないことをしてしまった。隣を歩く母親は歩くごとにため息を漏らしているほどで、重苦しい空気は職員室に入ってからさらに重さを増した。
「何もわざわざ独立リーグに行かなくても、大学で野球部に入れば野球は続けられる。しかもプロを目指したり実業団に入りたければそのほうがむしろ近道でもある。なぜわざわざ四国まで行って独立リーグの球団に入りたいと思うのだね?」
正直、勢いであることに変わりはない。その他の理由は全て後付けした、ただの言い訳だ。でも、それを正直に言っても仕方がない。ただ、言い返すべき言葉も見つからない。
「ほら、特に理由もないのだろう。だったら今からでも大学進学を考えたらどうだ。別に無理な話じゃないんだ。風張くんなら別に選びさえしなければ大学には行けるんだから」
「そうよ、先生の言うことを聞いて、もう一度考え直しましょう、ね?」
言い返せなかった。正論を並べられると、何も言い返せない。確かに大学でも野球はできる。でも。でもでもでも。結局言い返せる言葉は見つからない。それは、自分の中でもやりたい理由が整理できていない証拠だ。
今なら申請を取り消せる。そう思って夏実ちゃんに電話をかけようと思ったが、どうしてもかけられなかった。電話越しに喜んでくれたあの声がフラッシュバックして、残念がる夏実ちゃんを想像したくない。あの最後の試合の終わりに見た夏実ちゃんのなんともいえない表情を、電話越しに想像したくない。
いわゆるプロ野球と違って給料は雲泥の差。しかも最終学歴は高卒に。今の時代、あまりにも不利な状況に陥りかねない。一時の勢いだけで、本当に今後の将来の方向性を決めてしまって良いのだろうか。最悪の事態を想定すれば、大学進学は一番無難だ。そんなの俺だって十分わかっている。
ただ、だからってこの気持ちをすんなり抑え込めるほど、俺は大人じゃない。いったん独立リーグに挑戦すると決めて、もう連絡だってしてある。それに対して夏実ちゃんが喜んでくれている。それだけでも良いのではないだろうか。
気付いたときには自転車を飛ばしていた。がむしゃらに漕いで、太ももに乳酸を溜め込んで。時間も場所も認識できないまま、ただひたすら前へと進み続けた。
と、そのとき。あまりの勢いに自転車自体が耐えきれなくなったのか、チェーンが外れて引っかかり、その勢いで身体が自転車から放り出された。幸い放り出された先は雑草のクッションの上だったが、転げ回って体中擦り傷だらけになった。
もういいや。こっそりトライアウトを受験して、それから考えよう。もう知らん。自暴自棄になって、河原で大の字になって目を閉じる。もうどうでもいい。思考停止。誰にも相談できないまま、モヤモヤを消そうと眠りにつこうとした瞬間、誰かに頬を叩かれた。
「おい、大丈夫か? 意識はあるか?」
聞き覚えのある声に、目をゆっくり開いて起き上がると、そこに居たのは太田だった。
「お前こんなところで何してんだよ」
「太田? いやお前こそ何してんだよ」
「いや、ランニング中。てか、血だらけだけど大丈夫か?」
「ああ、うん、まぁ」
はぁ、とため息をついたのは太田の方だった。俺の横に同じように寝そべり、しばらく二人でぼうっと川の方をぼんやり眺めていた。
「後悔、してんのか」
「しとるかもな」
「お前の悪いところが出たな」
「結局、俺は何をしたいんだろうな」
「俺の知ったことか。自分自身に聞いてみろ」
まぁ、そうだよな。
太田みたいに実力も知名度もあるわけじゃない俺が、トライアウトを受験しても意味ないだろう。普通の大学生になるべき人間なんだ。
「俺はお前のことがうらやましいけどな」
「はぁ? 俺こそお前がうらやましいわ。実力も知名度も上で、将来が約束されて。記事見たよ。完成された右腕、だっけ。そんなやつが俺のどこをうらやましく思えるんだよ」
それを聞いた太田は鼻で笑い、こう続けた。
「将来性だよ。未完成さだよ。俺がもし急に大学進学をやめて、それこそ独立リーグに行くって言ったらどうなる? それこそお前の周りよりももっと大勢の人が反対するだろうな。高卒でも十分にプロ入りできるような俺からすれば、大学進学だって疑問視されるんだ。つまり、もうすでに将来が約束されてしまっているって言うことだ」
「お前、それ自慢かよ」
「わかってねぇな。俺にとっちゃ、この先は失敗しないためにレールの上を忠実に進んでいく必要があんだよ。それが完成された右腕の正しい人生なんだろな。でもお前は違う。どん底のお前には、上しか無い。失敗を恐れる必要がない。成功しか考えなくてもいいんだ。失敗を考えなくていいなんて、本当に楽だろ。だから、俺はお前がうらやましい」
「やっぱ俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「やっぱお前バカだな」
そう言って太田は立ち上がった。お尻の砂や雑草の切れ端を叩いて、足首を回し直す。
「お前はバカ正直に生きろよ。それが良さだろ。直感的でいいんだよ、お前はさ。俺からエースナンバーを奪えたのは、その良さがあったからじゃないのか?」
太田はそう言って去っていった。最後の言葉は、正直刺さった。知的で、冷静で、自分を知り尽くしている太田と、自分のことを何も分かっていない、直感的な俺。でもそれを肯定的に見てくれていた太田の言葉は、先生や親の言うことよりも輝きを放っていた。迷う前に直感的に行動してみる。今の俺にはそれが一番なのかもしれない。
家に着いて壁際に自転車を立て掛け、玄関から家の中に入ると、両親が二人で話し込んでいるのが聞こえた。俺の話をしているのだろうと推察し、その部屋に直行した。
「ちょっとあんたどうしたの!」
母親が驚いた様子で聞いてきたのでチャリでコケたとだけ伝えた。
「先にシャワー浴びてきなさい」
父親から諭され風呂場に向かう。痛みを我慢しつつシャワーを浴びながら、なんて切り出そうかといろいろ考えた。答えが出ないまま、のぼせる前にさっさと切り上げた。
「お父さんからも、なんか言ってやってちょうだい」
腕を組んで下を向いている父親。俺はあぐらのまま父親の方を向き、言葉を待った。
「お前、野球続けたいそうだな。なんでだ?」
なんでだろう。野球をただ続けたい。ただそれだけしか考えたことがなかった。俺にとっての野球は、何事にも代えがたい存在で、なくなるなんて考えられないから、だから、続けたい。なんとなくうまくいえない気がする。
「なんでなんだ?」
「そりゃやってて楽しいからだし、やりがいがあるし、俺にとっての野球は無くてはならないものだし」
「じゃあ、大学でも野球を続けられるだろう。またなんで独立リーグなんだ。聞いたぞ、そんなに給料も高くないし、生活にも困りそうだな。大学に行くなら奨学金を借りればそんな苦労をしなくても済むし、今どき高卒と大卒じゃできる仕事に差があるぞ」
「……直感だよ」
「直感?」
「そう、直感。これじゃ、って思えたんよ。高校野球の、甲子園の存在を初めて知った時と同じ感覚なんよ。このために俺は存在しとるんじゃって。とにかくやってみたいって。ただそれだけじゃけど、それだけじゃないんかもしれんけど、それは今はわからんけど。でも、俺は俺を信じたい」
「よく考えたのか?」
「考えた。考えすぎて訳わからんなったけぇ、もう自分の直感に頼ろうと思った」
「将来の不安はないのか?」
「将来なんて今考えたところで確定できるもんじゃないけ。誰も未来のことはわからん。だったら俺は、今を生きるしか無いと思う。不安がないと言えば嘘になるけど、逆に不安だらけって言うわけじゃない。俺は高校野球に向けてきた思いと同じくらい前向きな思いを、ぶつける先を見つけられたと思っとる」
「母さんは、お前が思っている以上に心配してるぞ」
母親の方を向いたら、床を見て困ったように口角を上げていた。
「父さんは、お前がやりたいようにやるのをサポートしてやることしかできん。導いて、引っ張って、レールの上に乗せることは不可能だ。それは母さんだって同じだ。後ろから押してやることしかできん。でも、だからこそ、心配になるんだ。できるだけ安定して、無難な方向に進んでほしくなるんだ。それは理解できるな?」
「うん」
「うん。そのうえで、それを知った上でお前がどうしたいのか、自分で判断すれば良い。母さんは反対するだろう。それは誰よりもお前が心配だからだ。でも母さんだって、応援したくないわけじゃない。お前が頑張りたいからって入った野球部の活動を応援するために、弁当も飲み物も洗濯も全部やってくれていたんだ。もしかしたら、父さんよりも母さんのほうが強くお前のことを応援していたのかもしれない。だから、甲子園を目指すのと同じくらい、もしくはそれ以上に没頭し、熱中し、燃え尽きれるなら、独立リーグの道に進みなさい。もしその覚悟がないなら、今すぐ受験勉強をはじめなさい。いいね?」
母さんは今にも泣きそうな顔を隠そうとさらに下を向いている。俺のことを応援しているからこそ、反対することで俺自身の意志を固める手伝いをしてくれていたのかもしれない。そう思うと、父親の言葉が現実的な言葉としてのしかかってくる。甲子園以上の何かを、独立リーグで見つける。また右往左往しても良いから、とにかく前を向く。そして俺が望む形で野球をし続けられるように、納得して燃え尽きれるように、まずはトライアウトに挑戦する。決心がついた。
「わかった。やっぱりトライアウトを受ける。納得して燃え尽きれるように頑張る。だから母さん、明日もう一度一緒に学校に行ってほしい。俺の後ろから背中を押してほしい」
母親は黙って何度も頷いた。父親ははぁ、とため息をついた後、席を立った。
翌日母が、「今日は一言も喋らないから自分で説明しなさい」とだけ言ってきちんときれいな制服を用意してくれた。職員室にいた先生は俺と母親の顔を交互に見て、またか、とだけ言って、昨日の席に案内してくれた。
「それで、志望校は決まったのかね?」
「はい、独立リーグのトライアウトに挑戦します」
はぁ、とため息をつく先生。母親に目配せしたが、気づかれて目をそらされた。
「それは親御さんも同意なさっているのですね?」
コクリと頷く母親。本当に一言も喋らない気だ。
「なぜ大学進学じゃ駄目なのかね? なぜ独立リーグじゃなければならない?」
「直感です」
「直感で決めて後悔しないのかね? 後悔してからじゃ遅いぞ?」
「後悔しないかどうかは、トライアウトを受けてからじゃないとわかりません。わからないことを考え続けるよりも、僕は今を大切にしたいです。今を大切にするということは、自分の直感を信じて突き進むということです。トライアウトのお話を頂いたときに感じたあの感覚を、信じてみようと思います」
「それは、大学では体験できないことなのかね?」
「そうなのかどうかは、独立リーグを体験してみないとわかりません。ただ……」
「ただ?」
「挑戦しようとしている今の俺には、前しか見えていません」
終始納得行かない様子の先生だったが、それ以上問い詰めてくることもなかったので、暗黙の了解なのだろうと思う。
職員室を出て靴箱から校門に向かい、帰路につく。母親は終始自分の後ろについて来る形で、決して横並びすること無く、また前で先導することもなかった。
それはまるで、ここから先はすべてが自己責任だと言わんばかりに。