正式に太田と背番号を交換した。念願のエースナンバーを目の前にして改めて重みを感じる。憧れであり象徴であるその背番号を、俺が背負うことになってしまった。監督、チームメイト、親。みんな期待を背負わなければならない。本当にこれで良かったのか急に不安に襲われたが、チームのみんなが喜んでくれて少し救われた。
早速家に帰って親に報告。試合用ユニフォームに縫い付けてもらう間、夏実ちゃんにもメッセージで報告した。
『久しぶり! 背番号もらったよ』
背番号が見えるように写真を撮って、送信。
『おめでとう! さすが爽くん!』
待っていたとしか考えられないほどのスピードで返信が来たことに若干戸惑う。
『そっちはどう? なんか変わったことあった?』
『うーん、英検二級落ちたくらい?』
『受験するだけ偉いよ』
『でもこれでまた女将が遠のいたって怒られちゃってさ。外国人ほとんど来たことないのにさ。英語なんていらないよー現状維持でいいじゃんー』
方言のイメージが強かったぶん、文章になると方言がなくなるのが新鮮だ。どう続ければ良いのか迷っていると、今度は沖浦からメッセージが届いた。空気の読めないやつだ。
『今週末に組み合わせ抽選会が市内で行われます。また追って連絡します』
いよいよ抽選会か。初戦はどこと当たるだろう。今年もノーシードで一回戦から勝ち上がっていかなければならない。
それより気になるのは股関節の方だ。一応帰りがけに整骨院に行ってみたところ、股関節のインピンジメントではないかと言われた。さらに、太ももの筋肉の蓄積疲労もしくは筋肉への極度のストレスで足が上がらなくなってしまったのではないかとも言われた。どう考えてもオーバーワーク、それも未完成なトルネード投法での多投が原因だ。まさか自分の最終兵器で、自らの身体を静かに破壊してしまっていたとは。とりあえず早く治るように、電気治療とアイシングをしてもらった。
明日の練習で痛みが出て、もしそれが周りにバレた場合、エースナンバーを剥奪されそうで怖い。初戦まではなんとか隠し通して、そのうちに回復してくれれば良いのだが。
できたよ、と嬉しそうに縫い付けたユニフォームを見せつけてくる母親。少し黄ばんだ一番を見ていると、嬉しさと不安と恐怖と期待が入り混じった、むず痒くて不思議な感覚に陥った。
地方大会初戦を迎えたが、万全ではなかった。あとはアドレナリンでどれだけ痛みを忘れられるかだ。
初回から快調に飛ばした。直球が冴え、打たれる気がまるでしない。味方打線が五回までに点を積み重ねてくれれば、コールドゲームという結末も容易に想像できる。
ポパイ・ザ・セーラーマンの演奏に包まれながらはじまった打線は一回から打順が一周した。三回までに六点先取。高校野球では五回までに十点差が付けばその時点でコールド成立。あと四点を五回までに奪えば、股関節へのダメージは最小限で済む。好調を保てているし、このままバレずに投げ抜きたい。
四回も危なげない投球が続く中、五回に相手の四番に投げ込んだカーブを上手く拾われた。その打球はバットの真芯を捉え、ものすごい勢いで俺の方に向かってくる。咄嗟に左手にはめたグローブでそれを払おうとしたが一歩間に合わず、打球は俺の左足首に衝突した。よろける身体を支えようとして右足で踏ん張った、その瞬間。腰が抜けるような感覚で、右の股関節の周辺やお尻まで電気が走ったように、強い痛みが駆け抜けた。
終わったと思った。打球の行方を見る余裕はなく、ただマウンド上で悶えることしかできなかった。目の前に落ちている自分の青いチーム帽子のHとSの重なったマークを目でなぞるように見て気分を逸らせようとした。だが、我慢できなくて目をつぶった。
次第に多くのスパイクが駆け寄ってくる音が聞こえてきた。体を起こされた俺がゆっくり目を開くと、マウンド上にチームメイトが集まってくれて、交代を告げられた。情けなくて帽子で顔を隠すと、申し訳無さから息苦しくなった。
チームメイトに抱えられてベンチ裏に下がり、応急処置で氷を当てられしばらく横になっていると、大きな歓声が聞こえてきた。最後には広島水産の校歌が流れてきて、コールド勝ちしたのだと知ってひと安心。だが、それ以上に勝利の瞬間に立ち会えなかったのが残念で、どうしようもなく居心地が悪かった。
次の対戦相手は、監督からその日のミーティングで発表された。
二回戦の相手は、広島実業。去年の広島大会優勝校。胸の奥の方からのため息が鼻に抜けていった。この大事な戦いに、おそらく参加することは難しい。エースナンバーを背負う者として申し訳ない。
「心配するな、風張。最後までお前は俺の引き立て役。一回戦まででお役御免だ。ここからは俺がチームを全国制覇に導く。圧倒的な力でな。だからお前は早く怪我を治して、一刻も早く良いバッピになれるように調整しとけよな」
太田らしい、嫌味たっぷりの慰めに一応苦笑いで返すが、言葉は続かない。身体の元気がないと、心にも活力が湧かないらしい。エースナンバーをつけながらお茶くみやバット引きをしなきゃいけないなんて。そう思うと憂鬱だった。
純白の長ランを着た応援団長と、水兵服の応援団員。一面純白の応援団と応援旗。チア部の青と白のボンボンが踊る。試合前のノックのボール拾いをしながら、広島水産側の応援席を見て、緊張感が高まってきた。今日は全校応援。背番号があるのにスパイクを履いていない姿を全校生徒に見られるのは、居心地が悪かった。
気合十分の太田は春のセンバツに出場したメンバーに怯むことなく、自信満々に投げ込んでいく。初回は両者とも無得点。
一点狙いなのは向こうも同じようだ。まさかのスクイズで先制された。意表を突かれた太田だったが、そこで崩れずなんとか一点で凌いだ。
このまま一点差ゲームになるかと思いきや、試合はとんでもない方向に転んでいった。四回、すでに打順は一巡している中、太田が突然掴まった。連打連打で一気に三点を失った。これが選抜準優勝チームの実力か。
「風張、準備しろ」
「え?」
コーチャーズボックスに行こうとしていた俺だったが、不意に背後から監督に呼び止められた。監督とその周りにいる数人のチームメイトが俺にまっすぐ視線を向けてくる。
「太田は完全に飲み込まれた。あいつは認めないだろうが、タイミングがあっているのは明白だ。相手打線のタイミングをずらせるのは、多彩な変化球のあるエース級のピッチャーか、お前のように投げ方に癖があるやつだけだ。トルネードでタイミングを崩せ」
「でも……」
怪我をしているから抑えられる自信はない。それに、イップスだって克服したわけじゃない。そう言って抵抗しようとしたが、口にできなかった。チーム全員が俺を見ている。控え投手として背番号を付けている後輩は、自分の準備をせず、俺のスパイク入れを両手に持って俺の方に差し出している。
それを見た瞬間、ハッとした。何のためのエースナンバーなのか。何のためにベンチ入りさせてもらえているのか。それは、チームのピンチを救うため。そして、三年生として最後の夏に、望みを少しでもつなぐため。急いでスパイクに履き替え、簡単な準備体操を済ませた後、キャッチボールをするためにブルペンへと向かった。
正直、不安しかない。一応痛み止めも飲んで、念の為テーピングまでしたが、痛みは全くのゼロではない。しかも手先で力加減して投球するとイップスが発動しやすい。全力も手加減もできない状況で、力のある選手たちと対峙しなければならないのだ。
ただ、このまま何もできずに夏を終えるのはあまりにも歯痒い。応援席からの声援を背中に感じながら、急いで準備を進めた。
四回の攻撃も無得点に終わり、いよいよマウンドへ。何もかも準備不足のままマウンドに向かうと、また広島水産側から拍手が送られ、無理やり後押しされた。
投球練習の最初の一球で嫌な予感がした。バッターが入っていないのに、無意識のうちにボールを握る親指が人差し指方向に逃げる。初球はすっぽ抜けてバックネットの方へ。二球目は引っ掛けてベンチの方へ。明らかにイップス症状全開で苦笑いするしかない。相手ベンチも味方ベンチも怖くて目を向けられない。
最初の打者がバッターボックスに入ってきたが、ストライクゾーンに投げ込むイメージができない。頭の中は失敗のイメージや雑念でいっぱい。肩や肘の力を抜こうとするも、体が言うことを聞かない。深呼吸を何度も繰り返し、なんとか平常心を取り戻そうとするが無駄だった。初球は吸い込まれるように打者の背中へ。申し訳無さから帽子をとると、眉間に一筋の冷や汗が流れた。
一か八か、トルネードによって相手のリズムを崩す作戦。しかし、先頭打者に出塁されては、そのトルネードを封印してセットポジションで投げるしかない。不安も汗も拭いきれない。しっかりボールを握ろうとするが、無意識のうちにそれを拒否してしっくりこない。しかし周りはいつまでも待ってくれない。俺が投げないと始まらない。でも、投げるのが怖い。案の定、次の打者には長打を打たれた。
俺のボールを受けてくれる捕手も、なんだか機嫌が悪そうに見えてくる。申し訳ない。ただそう思いながら、できる限りの投球をしていくしかない。
また死球、次は暴投、そしてホームラン。アウトを全く取れずドツボにはまっていく。
「もうランナーはいない。思い切ってトルネードで投げ込める。大丈夫。俺が代打で出て十点取り返すから」
味方がタイムを取ってくれたが、伝令で何を言われてもほとんど耳に入ってこない。点差が十点に開いていることも、このときに知はじめて知った。全校応援で、全生徒の目の前でコールド負け。それはさすがに恥ずかしいから避けたかった。
ワンナウトも取れずいきなりの四失点だったが、トルネードができるようになったことで事態は一変した。相手打者が死球を恐れて微妙に打席の立ち位置を外側にずらしたり、スイングもどこかぎこちなくなっている。そこに勝手に指に引っかかってしまう、イップスを利用した直球が右打者の外角に決まってまぐれの見逃し三振。まずワンナウト。
だがここで、やはり身体に限界が来た。痛む股関節に意識が向かう度に、ボールへの集中力が途切れていく。一球ごとに、痛みがピークに達するような錯覚さえ覚える。声援に耳を傾ける余裕なんて無い。ボールにかける指に最後の力を振り絞る。バットの先っぽに当たるフラフラとしたフライでツーアウト。
集中力も続かない中で迎えた最後の打者。もうどうにでもなれ、と投げやりになりながら、自分の悲鳴を無視して投げきった。最後は相手打者の中途半端なスイングで空振り三振。絶不調の中でイップスと怪我というデメリット同士が重なり、本調子ではないがなんとか三つのアウトを取ることができた。
不本意だった。これが最後の夏の、最後の一球にしたくなかった。もっと、悔いのない一球を投げ込んで、スッキリと現役を引退したかった。
マウンドを離れた瞬間、広島水産の応援席からも、一般の応援席からも拍手が送られたことに気づいた。それはまさに判官贔屓を絵に書いたような光景であり、情けなさや申し訳無さが増すばかりだった。
裏の攻撃はすでに風前の灯。思い出づくりにと監督が控え選手を三人代打で送りこむ。スタンドから聞こえてくる、今にも泣き出しそうに切羽詰まったエル・クンバンチェロ。その演奏に背中を押されながら、先程伝令に来た後輩が最後の代打に送られた。泣いているのか何度も顔を袖で拭ってファウルボールで粘るが、最後の一球は高々と上がる内野フライ。相手の選手がしっかりキャッチして試合終了。全校応援された注目の一戦は、まさかのコールドゲームで幕を下ろした。
終わった。終わってしまった。
長い夏休みが始まってしまう。
試合後、悔し涙は出なかった。
最後の夏が終わった。怪我をして、イップスを克服できず、全校の恥晒しとなって野球部を引退。ここまで情けない終わり方をするとは、想像していなかった。追い打ちをかけるように、最悪の光景を目にしてしまった。
球場を去る際、まだ球場の周りに残ってくれた広島水産側の応援団に挨拶をした。その中にこっそりと、あの夏実ちゃんの姿があった。日除けのためにタオルを頭にかけて、両手で水筒を持っている。ただ、久しぶりの再会に素直に喜べなかった。笑うでもなく、泣くでもなく、気まずさと残念さが混じったようななんとも言えない表情で、俺の方をじっと見つめる夏実ちゃんを直視することができない。
この瞬間だけは、夏実ちゃんから視線を向けられたくなかった。格好悪い俺を見られてしまっていたことを実感していたから。恥ずかしくて仕方がない。
バスに乗り込むときに振り返ろうとは一瞬も思わなかったし、今回ばかりはバスの中でメッセージを飛ばすこともなかった。
もしも最初からトルネードにせず、一般的な投げ方をしていたら、イップスは克服できたのだろうか。怪我もせず、チームの勝敗も変わってきただろうか。順当に太田がエースになり、俺が投げなかったら、チームはもっと上に行けたのかもしれない。
イップス克服のためにトルネード投法に挑戦し始めたが、それが失敗の始まりだったのかもしれない。学校に到着し、最後のミーティング中に泣き崩れる沖浦を見ていると、自分がもっと嫌いになった。
これまで部活一筋だったせいで、クラスメイトと過ごす時間はほとんどなかった。
あの判官贔屓めいた球場の雰囲気そのままに野球部員は校内で一目置かれる存在となっていた。ミーハーな野球部ファンも現れ、光原さんからは俺のファンクラブまでできたと知らされた。
「風張くん、すごかったね。てか葵でいいよ。うちも爽くんって呼ぶ。そのほうが特別感あるじゃん?」
「了解。じゃあ葵で」
特別な関係になれるのかもしれないと思い、心が揺れた。まずはジリジリと嫌われないところから外堀を徐々に埋めていきたい。もう、失敗なんかしたくないから。
俺と葵のメッセージのやり取りは途切れることがなかった。放課後に一緒にテスト勉強をして、デザートを食べに行って、カラオケに行って、葵のSNS用の写真を撮ってあげて。俺もついでにアカウントを開設して、普通の高校生に慣れ始めた。葵は笑ってくれたし、俺を慰めてくれる。他愛もない普通の高校生としての青春を示してくれる。これが本来あるべき高校生らしい姿だったのかもしれない。
誰かさんみたいに俺を哀れな奴だといわんばかりの視線で見てこない。そんな、近くで明るく接してくれる葵が、徐々に俺の中で大きな存在になり始めていた。
早速家に帰って親に報告。試合用ユニフォームに縫い付けてもらう間、夏実ちゃんにもメッセージで報告した。
『久しぶり! 背番号もらったよ』
背番号が見えるように写真を撮って、送信。
『おめでとう! さすが爽くん!』
待っていたとしか考えられないほどのスピードで返信が来たことに若干戸惑う。
『そっちはどう? なんか変わったことあった?』
『うーん、英検二級落ちたくらい?』
『受験するだけ偉いよ』
『でもこれでまた女将が遠のいたって怒られちゃってさ。外国人ほとんど来たことないのにさ。英語なんていらないよー現状維持でいいじゃんー』
方言のイメージが強かったぶん、文章になると方言がなくなるのが新鮮だ。どう続ければ良いのか迷っていると、今度は沖浦からメッセージが届いた。空気の読めないやつだ。
『今週末に組み合わせ抽選会が市内で行われます。また追って連絡します』
いよいよ抽選会か。初戦はどこと当たるだろう。今年もノーシードで一回戦から勝ち上がっていかなければならない。
それより気になるのは股関節の方だ。一応帰りがけに整骨院に行ってみたところ、股関節のインピンジメントではないかと言われた。さらに、太ももの筋肉の蓄積疲労もしくは筋肉への極度のストレスで足が上がらなくなってしまったのではないかとも言われた。どう考えてもオーバーワーク、それも未完成なトルネード投法での多投が原因だ。まさか自分の最終兵器で、自らの身体を静かに破壊してしまっていたとは。とりあえず早く治るように、電気治療とアイシングをしてもらった。
明日の練習で痛みが出て、もしそれが周りにバレた場合、エースナンバーを剥奪されそうで怖い。初戦まではなんとか隠し通して、そのうちに回復してくれれば良いのだが。
できたよ、と嬉しそうに縫い付けたユニフォームを見せつけてくる母親。少し黄ばんだ一番を見ていると、嬉しさと不安と恐怖と期待が入り混じった、むず痒くて不思議な感覚に陥った。
地方大会初戦を迎えたが、万全ではなかった。あとはアドレナリンでどれだけ痛みを忘れられるかだ。
初回から快調に飛ばした。直球が冴え、打たれる気がまるでしない。味方打線が五回までに点を積み重ねてくれれば、コールドゲームという結末も容易に想像できる。
ポパイ・ザ・セーラーマンの演奏に包まれながらはじまった打線は一回から打順が一周した。三回までに六点先取。高校野球では五回までに十点差が付けばその時点でコールド成立。あと四点を五回までに奪えば、股関節へのダメージは最小限で済む。好調を保てているし、このままバレずに投げ抜きたい。
四回も危なげない投球が続く中、五回に相手の四番に投げ込んだカーブを上手く拾われた。その打球はバットの真芯を捉え、ものすごい勢いで俺の方に向かってくる。咄嗟に左手にはめたグローブでそれを払おうとしたが一歩間に合わず、打球は俺の左足首に衝突した。よろける身体を支えようとして右足で踏ん張った、その瞬間。腰が抜けるような感覚で、右の股関節の周辺やお尻まで電気が走ったように、強い痛みが駆け抜けた。
終わったと思った。打球の行方を見る余裕はなく、ただマウンド上で悶えることしかできなかった。目の前に落ちている自分の青いチーム帽子のHとSの重なったマークを目でなぞるように見て気分を逸らせようとした。だが、我慢できなくて目をつぶった。
次第に多くのスパイクが駆け寄ってくる音が聞こえてきた。体を起こされた俺がゆっくり目を開くと、マウンド上にチームメイトが集まってくれて、交代を告げられた。情けなくて帽子で顔を隠すと、申し訳無さから息苦しくなった。
チームメイトに抱えられてベンチ裏に下がり、応急処置で氷を当てられしばらく横になっていると、大きな歓声が聞こえてきた。最後には広島水産の校歌が流れてきて、コールド勝ちしたのだと知ってひと安心。だが、それ以上に勝利の瞬間に立ち会えなかったのが残念で、どうしようもなく居心地が悪かった。
次の対戦相手は、監督からその日のミーティングで発表された。
二回戦の相手は、広島実業。去年の広島大会優勝校。胸の奥の方からのため息が鼻に抜けていった。この大事な戦いに、おそらく参加することは難しい。エースナンバーを背負う者として申し訳ない。
「心配するな、風張。最後までお前は俺の引き立て役。一回戦まででお役御免だ。ここからは俺がチームを全国制覇に導く。圧倒的な力でな。だからお前は早く怪我を治して、一刻も早く良いバッピになれるように調整しとけよな」
太田らしい、嫌味たっぷりの慰めに一応苦笑いで返すが、言葉は続かない。身体の元気がないと、心にも活力が湧かないらしい。エースナンバーをつけながらお茶くみやバット引きをしなきゃいけないなんて。そう思うと憂鬱だった。
純白の長ランを着た応援団長と、水兵服の応援団員。一面純白の応援団と応援旗。チア部の青と白のボンボンが踊る。試合前のノックのボール拾いをしながら、広島水産側の応援席を見て、緊張感が高まってきた。今日は全校応援。背番号があるのにスパイクを履いていない姿を全校生徒に見られるのは、居心地が悪かった。
気合十分の太田は春のセンバツに出場したメンバーに怯むことなく、自信満々に投げ込んでいく。初回は両者とも無得点。
一点狙いなのは向こうも同じようだ。まさかのスクイズで先制された。意表を突かれた太田だったが、そこで崩れずなんとか一点で凌いだ。
このまま一点差ゲームになるかと思いきや、試合はとんでもない方向に転んでいった。四回、すでに打順は一巡している中、太田が突然掴まった。連打連打で一気に三点を失った。これが選抜準優勝チームの実力か。
「風張、準備しろ」
「え?」
コーチャーズボックスに行こうとしていた俺だったが、不意に背後から監督に呼び止められた。監督とその周りにいる数人のチームメイトが俺にまっすぐ視線を向けてくる。
「太田は完全に飲み込まれた。あいつは認めないだろうが、タイミングがあっているのは明白だ。相手打線のタイミングをずらせるのは、多彩な変化球のあるエース級のピッチャーか、お前のように投げ方に癖があるやつだけだ。トルネードでタイミングを崩せ」
「でも……」
怪我をしているから抑えられる自信はない。それに、イップスだって克服したわけじゃない。そう言って抵抗しようとしたが、口にできなかった。チーム全員が俺を見ている。控え投手として背番号を付けている後輩は、自分の準備をせず、俺のスパイク入れを両手に持って俺の方に差し出している。
それを見た瞬間、ハッとした。何のためのエースナンバーなのか。何のためにベンチ入りさせてもらえているのか。それは、チームのピンチを救うため。そして、三年生として最後の夏に、望みを少しでもつなぐため。急いでスパイクに履き替え、簡単な準備体操を済ませた後、キャッチボールをするためにブルペンへと向かった。
正直、不安しかない。一応痛み止めも飲んで、念の為テーピングまでしたが、痛みは全くのゼロではない。しかも手先で力加減して投球するとイップスが発動しやすい。全力も手加減もできない状況で、力のある選手たちと対峙しなければならないのだ。
ただ、このまま何もできずに夏を終えるのはあまりにも歯痒い。応援席からの声援を背中に感じながら、急いで準備を進めた。
四回の攻撃も無得点に終わり、いよいよマウンドへ。何もかも準備不足のままマウンドに向かうと、また広島水産側から拍手が送られ、無理やり後押しされた。
投球練習の最初の一球で嫌な予感がした。バッターが入っていないのに、無意識のうちにボールを握る親指が人差し指方向に逃げる。初球はすっぽ抜けてバックネットの方へ。二球目は引っ掛けてベンチの方へ。明らかにイップス症状全開で苦笑いするしかない。相手ベンチも味方ベンチも怖くて目を向けられない。
最初の打者がバッターボックスに入ってきたが、ストライクゾーンに投げ込むイメージができない。頭の中は失敗のイメージや雑念でいっぱい。肩や肘の力を抜こうとするも、体が言うことを聞かない。深呼吸を何度も繰り返し、なんとか平常心を取り戻そうとするが無駄だった。初球は吸い込まれるように打者の背中へ。申し訳無さから帽子をとると、眉間に一筋の冷や汗が流れた。
一か八か、トルネードによって相手のリズムを崩す作戦。しかし、先頭打者に出塁されては、そのトルネードを封印してセットポジションで投げるしかない。不安も汗も拭いきれない。しっかりボールを握ろうとするが、無意識のうちにそれを拒否してしっくりこない。しかし周りはいつまでも待ってくれない。俺が投げないと始まらない。でも、投げるのが怖い。案の定、次の打者には長打を打たれた。
俺のボールを受けてくれる捕手も、なんだか機嫌が悪そうに見えてくる。申し訳ない。ただそう思いながら、できる限りの投球をしていくしかない。
また死球、次は暴投、そしてホームラン。アウトを全く取れずドツボにはまっていく。
「もうランナーはいない。思い切ってトルネードで投げ込める。大丈夫。俺が代打で出て十点取り返すから」
味方がタイムを取ってくれたが、伝令で何を言われてもほとんど耳に入ってこない。点差が十点に開いていることも、このときに知はじめて知った。全校応援で、全生徒の目の前でコールド負け。それはさすがに恥ずかしいから避けたかった。
ワンナウトも取れずいきなりの四失点だったが、トルネードができるようになったことで事態は一変した。相手打者が死球を恐れて微妙に打席の立ち位置を外側にずらしたり、スイングもどこかぎこちなくなっている。そこに勝手に指に引っかかってしまう、イップスを利用した直球が右打者の外角に決まってまぐれの見逃し三振。まずワンナウト。
だがここで、やはり身体に限界が来た。痛む股関節に意識が向かう度に、ボールへの集中力が途切れていく。一球ごとに、痛みがピークに達するような錯覚さえ覚える。声援に耳を傾ける余裕なんて無い。ボールにかける指に最後の力を振り絞る。バットの先っぽに当たるフラフラとしたフライでツーアウト。
集中力も続かない中で迎えた最後の打者。もうどうにでもなれ、と投げやりになりながら、自分の悲鳴を無視して投げきった。最後は相手打者の中途半端なスイングで空振り三振。絶不調の中でイップスと怪我というデメリット同士が重なり、本調子ではないがなんとか三つのアウトを取ることができた。
不本意だった。これが最後の夏の、最後の一球にしたくなかった。もっと、悔いのない一球を投げ込んで、スッキリと現役を引退したかった。
マウンドを離れた瞬間、広島水産の応援席からも、一般の応援席からも拍手が送られたことに気づいた。それはまさに判官贔屓を絵に書いたような光景であり、情けなさや申し訳無さが増すばかりだった。
裏の攻撃はすでに風前の灯。思い出づくりにと監督が控え選手を三人代打で送りこむ。スタンドから聞こえてくる、今にも泣き出しそうに切羽詰まったエル・クンバンチェロ。その演奏に背中を押されながら、先程伝令に来た後輩が最後の代打に送られた。泣いているのか何度も顔を袖で拭ってファウルボールで粘るが、最後の一球は高々と上がる内野フライ。相手の選手がしっかりキャッチして試合終了。全校応援された注目の一戦は、まさかのコールドゲームで幕を下ろした。
終わった。終わってしまった。
長い夏休みが始まってしまう。
試合後、悔し涙は出なかった。
最後の夏が終わった。怪我をして、イップスを克服できず、全校の恥晒しとなって野球部を引退。ここまで情けない終わり方をするとは、想像していなかった。追い打ちをかけるように、最悪の光景を目にしてしまった。
球場を去る際、まだ球場の周りに残ってくれた広島水産側の応援団に挨拶をした。その中にこっそりと、あの夏実ちゃんの姿があった。日除けのためにタオルを頭にかけて、両手で水筒を持っている。ただ、久しぶりの再会に素直に喜べなかった。笑うでもなく、泣くでもなく、気まずさと残念さが混じったようななんとも言えない表情で、俺の方をじっと見つめる夏実ちゃんを直視することができない。
この瞬間だけは、夏実ちゃんから視線を向けられたくなかった。格好悪い俺を見られてしまっていたことを実感していたから。恥ずかしくて仕方がない。
バスに乗り込むときに振り返ろうとは一瞬も思わなかったし、今回ばかりはバスの中でメッセージを飛ばすこともなかった。
もしも最初からトルネードにせず、一般的な投げ方をしていたら、イップスは克服できたのだろうか。怪我もせず、チームの勝敗も変わってきただろうか。順当に太田がエースになり、俺が投げなかったら、チームはもっと上に行けたのかもしれない。
イップス克服のためにトルネード投法に挑戦し始めたが、それが失敗の始まりだったのかもしれない。学校に到着し、最後のミーティング中に泣き崩れる沖浦を見ていると、自分がもっと嫌いになった。
これまで部活一筋だったせいで、クラスメイトと過ごす時間はほとんどなかった。
あの判官贔屓めいた球場の雰囲気そのままに野球部員は校内で一目置かれる存在となっていた。ミーハーな野球部ファンも現れ、光原さんからは俺のファンクラブまでできたと知らされた。
「風張くん、すごかったね。てか葵でいいよ。うちも爽くんって呼ぶ。そのほうが特別感あるじゃん?」
「了解。じゃあ葵で」
特別な関係になれるのかもしれないと思い、心が揺れた。まずはジリジリと嫌われないところから外堀を徐々に埋めていきたい。もう、失敗なんかしたくないから。
俺と葵のメッセージのやり取りは途切れることがなかった。放課後に一緒にテスト勉強をして、デザートを食べに行って、カラオケに行って、葵のSNS用の写真を撮ってあげて。俺もついでにアカウントを開設して、普通の高校生に慣れ始めた。葵は笑ってくれたし、俺を慰めてくれる。他愛もない普通の高校生としての青春を示してくれる。これが本来あるべき高校生らしい姿だったのかもしれない。
誰かさんみたいに俺を哀れな奴だといわんばかりの視線で見てこない。そんな、近くで明るく接してくれる葵が、徐々に俺の中で大きな存在になり始めていた。