帰りたくない気持ちが、夕焼けを余計に色濃く映している。

 あのキャッチボールのあと、記念にともらった小ぶりの夏みかんが、今も制服のポケットの中で存在感を大きくしている。みんなに見つかる前に隠そうと思ったのに、やはり目立つからかすぐに見つかった。囃し立てられ、沖浦達から告白しないのかと迫られた。太田はそういうのに興味などないと背中で語りながら、さっさとバスに乗り込んだ。

 俺も恥ずかしいし、でももう一生会えないかもしれないから言うだけ言うのはありかもしれない。とは思いつつも彼氏を作りたがらない人にいきなり突撃するのは無理。考えているうちに出発時間になってしまい、結局何も言わずにバスに乗り込んだ。告白失敗するよりはマシだと、自分に言い聞かせながら。

 いつ送ろうか迷っていたが、意を決して夏実ちゃんにメッセージを送ってみた。出発してからずっと考えていた文面。軽すぎるノリだと軽い男だと思われそうだし、かといって真面目すぎるのもどうかと思う。野球の事しか話題がないけど、それでも良いだろうか。もっと普通の高校生らしくしたいけど、何が普通かがわからない。

 結局送ったのは、当たり障りのない、なんてことない無機質な文章結局考えすぎてこんな風になってしまった。なんとかなるだろう、と変なところで勢いのまま送信したが、結局送ってから後悔し始めている。

 しばらくしてバスが瀬戸大橋から岡山県に上陸しようとする頃、夏実ちゃんから返事が帰ってきた。周りを見渡してみんな寝ていることを確認。誰にも見られないよう窓ガラスを背に、野球帽で隠しながらそっと文章を開いた。しばらく時間が空いたにしてはそっけなくて当たり障りのないメッセージだったが、そんなこと関係ないくらい嬉しかった。



 大会に向けてのラストスパートはさらに加速した。

 エースナンバーをつけるためのアピールができる最後のチャンス。大本命の太田も練習試合で鬼気迫る投球で相手を圧倒し続けている。背番号一をつけるのは太田か、それとも大逆転で俺か。練習中も競うように隣同士で投げ込みを行う俺ら二人に、話しかけてくる部員はいつの間にかいなくなっていた。

 もちろん夏実ちゃんの存在も、刺激というより癒しになっている。あの合宿以来、時たまメッセージを送ってくれて、今でもやりとりが続いている。元々英語が苦手なのに、中間テストの英語が難しくて全然出来なかったこと。この前の台風接近でみかんを守るためにカバーをかけるのが大変だったこと。最近新しい八幡浜ちゃんぽんの店がオープンしたから友達と食べに行ったけどビミョーだったこと。いろいろな夏実ちゃんの生活が垣間見えて、遠いのに近く感じる。

「鼻の下が伸びとるのう」

「やばっ、見んなや」

 沖浦がニヤニヤしながら覗き込んできたので、画面を閉じてさっさと食べて、自主練習に移った。

 走って、投げて、打って、また走る。へとへとになる助手役の後輩部員にかまいもせずに、暗闇の坂道を何度もダッシュし続けた。とにかく最後の悪あがきだとばかりに、やれることは何でもした。そのおかげか練習試合でも徐々に良い結果を出し始め、それと比例するように夕飯後の自主練習をともにする部員が増えていった。

 太田ともたまに夜のグラウンド上で目があうことがあった。でも、目があうとすぐにどこかへ行ってしまうので、太田がどこで何をしているのかはわからなかった。練習をしている姿は人に見せるものではない、ということなのだろう。だからこそ、太田を追い越すためには一瞬も気が抜けなかった。

 でも、妙な感じがした。

エースナンバー大本命の太田が、必死の形相でトレーニングに励んでいた。いつものような余裕がないのが逆に不気味で、何かを隠しているように思えた。

 夏の大会地方予選まであと少しの六月下旬。朝練終了後、急いで制服に着替えながら、今日も夕飯後に自主練習をしようと部室で話していた。そこに、沖浦が緊張した面持ちで入ってきた。

「練習後に背番号を渡すから、練習後は夕飯に行く前にバックネット裏に集合しろって」

 その言葉に一瞬、部室内の空気が固まる。いよいよか、と緊張感が漂い、仲良しな雰囲気の中にも一瞬だけ透明の壁ができる。その透明な壁をすり抜け、何事もなかったかのように部室をあとにする太田には、余裕を感じた。俺は思わず武者震いをしてしまった。

 その日の授業は集中できず、意識が完全にグラウンドの方を向いていた。

 もしも俺がエースナンバーを背負えたら。まずは夏実ちゃんに報告できる。太田とのエース争いに勝って、プロに注目される。ドラフト指名。年俸一億。悠々自適な生活。いかんいかん。飛躍しすぎ。こんなに時間の流れが遅く感じることは今までになかった。待てども待てども授業は終わらない。早く背番号を渡されたい。あわよくば一番が良い。焦れったくてたまらなかった。

 最後の締めのノックを終わらせると、監督は集合をかけて、バックネット裏の席に俺らを並んで座らせた。いよいよ、この時が来た。

「はい、一番から。太田」

 夕暮れ時の藤色の薄暗い影の中で、いきなり来た大一番。しかしそれはあっけなく終わった。やはりエースは太田か。一気に緊張の糸が解けてしまった。二番、木下。三番、松原。四番、池田。五番、滝川。俺の名前は十番目だった。

「はい十番、風張」

 受け取りに行こうとしたその瞬間。

「ちょっといいですか」

 表情ひとつ変えずにクールに立ち上がった太田。全員の視線が太田の方に向くが、全く動じない様子で話し始めた。

「俺の背番号、爽と交換させていただけませんか」

 ざわつくバックネット裏。監督は太田をじっと見つめたまま返事をしない。一番がエースナンバーで、高校野球で投手をしている人なら誰もが背負いたい番号だというのは誰でも分かる。その背番号を、わざわざ他の人に譲るなど、前代未聞の事態である。

「俺はこれまでこのチームのエースとしてやってきたと自負しています。エースである以上、結果が全てだと思い、誰にも負けない結果を残してこようとしてきました。実際、俺はほとんど負けてこなかったです。でも、ここ最近、正直本調子ではありません。もしも俺のせいで甲子園を逃したらと思うと、不安になっています」

 太田らしからぬ発言に、俺はもちろん、全員が動揺を隠せない。辺りが暗くなり互いの顔が見えにくくなっていても、監督は一切目をそらさず太田を一直線に見つめている。

「爽は最近、特に頑張っていると思います。あの合宿から人が変わったように練習の虫になり、朝は早くから、夜は遅くまで自主練習をしているようです。それだけじゃなくて、周りを巻き込んで、味方につけて、一緒に力をつけようとしています。エースの風格が、出てきた気がするんです。俺はそういうのが苦手で、だからこそ、圧倒的な力の差でエースとしてやってきて。でも、調子を崩してしまった俺がその番号をつけるのは、番号に失礼だと思うんです。ずっとエースとしてやってきたからこそ、エースナンバーは爽に譲りたいんです。監督、おねがいします」

 腕を組んだまま動かない監督。強い視線で返す太田。板挟みの俺は、座ったままどうすることもできない。あのプライドの高い太田が、一番大事にしている背番号を譲ってくれるなんて予想外だ。ここで背番号を譲ってもらえば、憧れの背番号が俺のものになる。

 でも、本当は監督から認められる形でエースナンバーを渡されたかった。認められないまま譲られる番号と、認められてもらえる番号にはやはり違いがある。もらうべきか、断るべきか。どちらにしても、納得できない答えだけが残りそうだ。

「わかった。では、風張、お前はそれで――」

「ただし、条件がある」

 監督の言葉を遮り、太田が俺の方を向いた。その真っ直ぐな視線に、思わず心臓を槍で貫かれたような緊張感が走った。

「俺は、エースナンバーはお前の方が似合っていると言ったが、実力でお前に負けているとは思っていない。エースナンバーを誰かに譲る以上、俺はその誰かに負けないと、自分自身の中で納得ができない」

 なるほど、自分の中でエースとしてはふさわしくないという理性とエースで有り続けたいという本能がぶつかっているわけだ。そして、今その狭間にいて、自己矛盾を引き起こしてしまっている。つまり、諦めの踏ん切りをつけたいわけか。

「そこで明日の紅白戦で、俺に投げ勝てば、俺はお前に負けたと認めてやり、背番号も渡す。俺が勝てば、この話は無しだ。一発勝負には勝運も大事な要素だ。お前に勝運があれば、俺との対決に勝つことは難しくないだろう」

 鼓動が早くなる。手に汗が滲み、思わず口角が上がりそうになる。そういうやり方ならば、モヤモヤせずに済む。スッキリと、はっきりと、背番号一番を受け取れる。

「わかった。絶対に倒してみせる」

 監督は何も言わず頷いたあと、十一番から背番号の発表を再開した。



 背番号を受け取ったということは、背番号を受け取れなかった仲間の分まで想いを背負うということだ。分厚い入道雲に押しつぶされそうな昼過ぎのグラウンド。せっせと紅白戦の準備をしているメンバー外の同級生たちを傍目に、ウォームアップに勤しんだ。

 今日は応援練習も兼ねており、吹奏楽部とチア部が試合に合わせて応援練習を行う。ダサいところは見せられない。いつもより余計に緊張するので、わざと帽子を深くかぶり、周りを見ないようにキャッチボールを始めた。なのに。

「風張くうん! いいとこ見せんさいねえ!」

 背後のネットから声をかけられて、思わず振り返ってしまった。目が合って、チア部らしい満面のスマイルをもろに受け取ってしまい、その攻撃力の高さにたじろいでしまう。チョロい自分が恥ずかしくなってくる。

「あ、光原さん。ありがと、がんばるよ!」

 一年生のときにベンチ入りできなかった俺は、初めて応援練習に参加した。そのとき一緒に応援練習したことでそこから挨拶を交わすようになったのが光原さん。三年生になってから同じクラスになり、そこそこ話せるようになった。ポニーテールを揺らして躍動する光原さんを意識しないように、それ以上は聞こえないふりをした。

 今日太田に投げ勝てば、納得した形で一番を受け取れる。アドレナリンが体中を駆け巡り、早く試合が始まらないかとワクワクしてくる。一方の太田は相変わらずクールに自分の世界に入り込んでいる。実力を発揮すれば絶対に大丈夫だというような余裕を感じる。

「爽、イップスのことは気にせんと、目の前に集中しろよ」

 同じチームになった沖浦が、ベンチ前で声をかけてくれた。

「分かっとる。紅白戦で相手は見知った仲間たちだし、小細工なんかしとる余裕ないし、全力投球あるのみよ」
「ほうか。なんか緊張しとるように見えるけどのう?」
「うっさい。緊張感は持たんと良い背番号は背負えんわ」
「肩に力入りすぎ。期待しとるで」

 沖浦に背中を押され、マウンドに登る。初回の第一球目から、全力でいった。というより、全力が出てしまった。自分でも歯止めがきかないくらいアドレナリンが出て、視界がどんどん狭くなっていく。誰にも打たれる気がしないどころか、誰も俺のボールを当てることができないような錯覚に陥る。

 実際、ボールは猪突猛進という表現が合うような一直線の軌道を描きながら、勝負どころではさらにギアが上がっている。自主練習でこれでもかと走った坂道を登るダッシュと同じような軌道でぐんぐん上昇していくようなストレート。結果、初回は三者連続三球三振。わずか九球でマウンドを降り、次の登板を待ち続けた。

 早く次の回のマウンドに上がりたくて仕方がない。またあの感覚を味わいたい。思考は常にポジティブで、何物にも代えがたい忘我の境地。あとはこの状態をどこまでキープできるか。それに尽きる。

 対する太田もいつもどおりの完成度の高いピッチング。球速はゾーンに入った俺よりも遥かに速く、変化球はキレキレで四隅に投げ分けるコントロールはビタビタ。アバウトに力で抑える俺とは対称的で、太田も本気だ。

 二回になっても三回になっても、まだ一球たりともバットとボールが当たる音がしてこない。ゾーン状態は尻上がりに継続し、全く身体に負担をかけず、完璧な投球を続けた。自分のレベルがワンステップ上がったのではないかと錯覚するほど、安心感と自信がみなぎっている。

 太田の方も三回まではパーフェクトピッチング。しかし、四回からは調子の悪さが徐々に滲み出してきた。

 試合が動いたのは七回だった。太田が先頭打者に珍しくデッドボールを当ててしまい、次の打者には送りバントを決められてワンアウト二塁のピンチ。ここで回ってきたのは今日ここまで二つ三振を奪われている俺。

 太田が平気でど真ん中に真っ直ぐを放り込んでくる。また空を切る俺のバット。次にスーッと入ってきた真っ直ぐを打つと、打球は右中間に飛んでいっていた。先制タイムリーツーベース。やっと先制できたと安堵する一方で、違和感に苛まれた。

 さっき打ったボールは、渾身のストレートではない。スピンの効いたストレートとは違う、回転軸のずれた平凡な真っ直ぐ。あんなボールを太田が投げてくるなんて信じられない。気に迷いがあるのだろうか。抑え込みたいという本能と、背番号を譲りたいという理性の間で、中途半端なボールとして具現化してしまったのか。

 もしもそれが太田の調子悪さを増長させる原因だとしたら。もしかしたら俺に対するある種の感情が、調子の悪さにつながってしまっているのだろうか。打った俺よりも信じられないというような表情の太田が、マウンド上で孤独に立ちすくんでいる。

 この機に乗じたいところではあったが、調子が悪いとはいえプロ注目の主力投手から二点目をもぎ取ることは容易くなかった。とはいえ先制したのは事実で、このあとも安心して投球できる。はずだった。

 安心してしまったのが悪かったのか、ぱったりとゾーン状態から抜け出してしまった。切れる寸前の蛍光灯のようにチカチカした微弱なアドレナリンに頼るのは、あまりにも心許ない。ここからが本当の実力勝負ということか。

 八回はなんとかこらえ、九回のマウンドに立つ頃にはもうヘトヘト。ストレートの勢いで押していた初回が遠い昔のことのように思える。二者連続で内野の間を抜けるヒットを打たれ、ノーアウトでピンチが訪れた。

 マウンド上に内野手が集まり、次々に鼓舞してくれたが、あまり何を言ってくれているのかわからない。ただ、今は少しでも時間を稼いでくれたほうがありがたい。膝に手を付き帽子のツバから滴り落ちる自分の汗をじっと見ながら息を整えていると、背中の上に誰かが乗ってきた。

「あと三人じゃ、あと三人でお前がエースじゃ!」

 沖浦だった。なんと外野手までマウンドに集まってきて、鼓舞してくれたのだ。今日はここまで調子が良かったせいか、自分の投球だけ気にして、仲間の存在をあまり意識していなかったかもしれない。

 心強い仲間を信頼しているからこそ安心して投球でき、その投球を信頼してくれるからこそエースだと認めてもらえる。今このマウンドに集まっている八人の仲間は、明らかに俺がエースになることを望んでいる。少しの時間稼ぎと大きな応援によって空元気が湧いてきた。

 二つの好守に恵まれ、最後のバッター、太田を迎えた。

 太田の表情は初回とちっとも変わらない。ただ、バットを握る手は震えるほどぎっちり圧がかかっている。最後の直接勝負だ。一球目、内角をえぐるストレートはストライク。もはやコントロールするような力は残っていない。たまたまボールがそこに行ってくれただけだ。二球目は外に外れるボール。完全に力んだ。ロジンバッグをまた塗り直し、捕手に背中を向ける。

 バックで声をかけてくれる仲間たちを目で一人ひとり確認し、バッターに向き直した。三球目、高めのストレートを打ち損じてくれて真後ろのファウル。危ない。芯で捉えられていたらサヨナラ負けだ。

 しかし追い込んだ。もう俺も太田もキャッチャーの西本も、審判も周りの仲間達も分かっている。ここで投げるのは渾身のストレート一択のみ。ロジンバッグをまた握ってからセットに入り、意を決して投げ込んだ。

 と、その時だった。トルネードでお尻を持ち上げ、捻った際に、軸足である右足の股関節に鈍い違和感を覚えた。バランスを崩し大きく一塁方向に倒れ込みながら、なんとか気力でリリース。指先から放たれるボールと、舞う白い粉。その白い粉を渦巻いてミットに向かって突進していく渾身のストレートに太田のバットが反応する。肩口から出てくるしなったバットがボールとぶつかろうとしたその瞬間、太田はバットを止めた。ど真ん中ストライクでゲームセット。太田の迷いは、俺のボールの速度に間に合わなかったようだ。

 勝った。エースナンバーを、俺が自分で勝ち取ったのだ。

 マウンドに集まる八人の仲間たち。もみくちゃになりながら俺と正対する太田の方を見ると、少し口角が上がっているように見えた。ホッとして歩き出そうとしたら、また右の股関節に鈍痛が走り、踏み出そうとした足がうまく上がらなかった。