だだっ広い黒土のこの球場に除湿機を置けたら、世界中の水不足を解消できる気がするほど、湿気がまとわりついてくる。今から風呂に入りなおしても一瞬で元通りだろう。
蒸し風呂状態の中、三チーム全員でバックネット裏のテントに集合して、練習試合の説明が始まった。最初はなんと高校生ではなく、愛媛の独立リーグの球団との練習試合だった。その後、広島水産と伊予大八幡浜の試合。最後に伊予大八幡浜と愛媛球団の試合の運営をする変則ダブルヘッダー。この練習試合を終えてそれぞれの弱点を見つけ、そこを今週みっちり強化。その後もう一度練習試合をして成果を出すということらしい。
「初戦の先発は風張。二戦目は太田が先発な」
「まさか! なにかの間違いだろ?」
監督からの伝言を伝える主将の沖浦に、太田が噛みつく。実力を考えれば当然だ。プロ注目の太田には独立リーグの球団との対戦のほうが合うだろうし、同じ高校生相手には俺のような平凡な投手のほうが実力が均衡していると思う。
「よぉ分からんけど、そういうことじゃけ。それぞれちゃんと準備しとき」
絶対におかしい、なにか裏がある、とブツブツ言いながら舌打ちして去っていく太田。気にすんな、と俺の肩を叩いて野手陣とミーティングを続ける沖浦。バッテリーを組む後輩の捕手は、ため息をついて、切り替えていきましょう、と励ましてくれたが、本音かどうかも怪しい。
不安な気持ちのまま試合に臨むと、自ずと結果もついてこなかった。イップス症状が出て大乱調。相手は独立リーガーと言ってもプロ野球選手。試合は大差をつけられ、最後の対戦では大きな打球を打たれた。
およそ百二十メートルの旅路を悠々と飛んでいく白球は、やがてみかん畑をがさがさと鳴らした。呆然と立ちすくむしか無い俺に対してか、今年最初の蝉が鳴いていた。そこで降板となった。
降板後、ブルペンに入って投げ込んだ。腕はここで、脚はここ。ひとつひとつの動作を丁寧に確認しながら投げていく。何度も何度も、しっかり意識して反復していく。それでもコントロールは定まらないし、要らない力は入るしで練習にならない。でも、練習しないと夏の大会に間に合わない。
「ちょっと休みましょう」
吹き出した汗をシャツの袖で拭き、肩を軽く回した。だいぶ形にはなっているが、まだまだバラバラ。体全体のバランス感覚と強さを兼ね備えていないと逆に体を壊す、まさに諸刃の剣。だけどもう、これを完成させることしか自分に残された道はない。
そこにあのセーラー服の女の子が、伊予大八幡浜のマネージャーさんとクーラーボックスを持ってきた。二人は仲良さそうに話しながら、重たそうに運んでいる。
「あの、これ愛媛オレンジウェーブさんからの差し入れです」
「ありがとうございます。いただきます」
後ろの方で、コーチが大きなクーラーボックスを受け取ったのが聞こえた。
「クーラーボックス、どちらにお返しすれば良いかな?」
「あ、私に言っていただければ大丈夫です。うちのなので」
「そうかそうか。お名前、お伺いしても?」
「モチダナツミです。夏みかんの夏に、木の実の実で、夏実です」
「夏の実で夏実か。まさにここにぴったりなお名前だね、覚えとこう。ありがとう」
へぇ、夏実、っていうんだ。セーラー服のあの子に、確かによく似合う名前だ。
あの民宿の開かずの扉といい、夏実さんといい。まるで図られたように次々と既視感が襲ってくる。彼女の去り際、少しだけ目があった。そのまま微笑んで、まるで昨日の夏みかんの香りのように、いつのまにかほのかに消え去っていた。
食事に集中しようとした瞬間、遠くに座るガタイの良い大男に目が行った。たしか今日の試合で最後に大きなホームランを打たれた選手だ。夏実さんに何かを頼んでは、ものすごい勢いで絡んでいる。あそこまでぐいぐい行けるだろうかと思うほどにフランクだ。
「ほら、お前も早くしないと先越されるぞ」
耳元で沖浦が不意に囁いてきてドキッとした。
「ビックリしたぁ。なんなん」
「お前の気持ちはよぉ分かっとる。大丈夫、俺は君の味方じゃけの」
わざとらしく肩をたたいて同情してくる沖浦。なんだその表情は。やめてくれ。
「別に何もないけぇ」
「ほんまかいのぉ」
大声でゲラゲラ笑う沖浦。そういうんじゃない。多分。
出会ったあの日から確かに目線の中に入ってくる。ふとした瞬間に思い浮かびやすいというか、そういう存在ではある。けど。
食事も終わって、みんなが風呂に向かう中、Tシャツ半パンでランニングシューズに履き替えた。帰りに自販機でお茶でも買おうかと思い、小銭を数枚ユニフォームのポケットに入れておく。外の空気はやはり澄んでいるが、昼間の熱気は完全に無くなったわけではない。一度出始めたらシャワーを浴びるまで留まることがない汗を拭って、民宿を出た。
曲がり角を左に曲がり、ちょうどみかん畑の裏側くらいまで来た時、ほとんど使われていないだろうと思われる階段を見つけた。段々畑に対応するように伸びている階段。トレーニングがてら、一段ずつ素早く昇っていく。思っていたより一段が低く、歩数の割になかなか進まない。それでもなんとか昇りつめ、荒々しく呼吸をするために肩幅くらい足を広げ、膝に手を付く。
こめかみから滝汗が溢れ出し、頬から顎を伝って地面に落ちていく。遠くの外灯が、微かに足元を照らしている。からっからになっていた地面が汗を吸収するスピードは申し分なく、もっと欲しいとばかりにすぐに渇いていった。
そこをさらに左に曲がり、木々の間を抜け、小川を越えると、しばらくの間くねくね道が続いた。左手に宇和海を望みながら、心地よい潮風を感じる。水平線の一番向こう側まではもう見えない。真っ暗な海に、灯台の光だけがまっすぐに差していた。
民宿までの帰り道で自販機を見つけられなかった。しかたなく諦めかけていたのだが、普通に民宿の目の前に置かれていて絶句。迷わずスポーツ飲料のボタンを押し、腰を下ろして飲み物を取る。腰を上げた途端、誰かの何かと接触してしまった。
「あ、すんません」
「あ、いえいえ」
聞き覚えのある可愛らしい声。振り向くとそこには日焼けした赤茶色の前髪をピンで止めた夏実さんが立っていた。セーラー服姿と違い、ジャージ姿の彼女は、それはそれでよく似合っている。なんとなく惹かれるようで、なぜか懐かしく感じられる彼女。
「あ、どうも」
彼女が手を前で組みながらお辞儀をしてきた。心なしか頬が赤いような気がする。
「どうも」
軽く会釈をしながらも、ついつい彼女を目で追ってしまう。背丈は俺よりも少し低い。自動販売機の真っ白い電気に照らされた手足は、軽く日焼けしている。
「あの、この前はごめんなさい。まさか人おるとは思わんくって」
「あっ、別に大丈夫、うん」
とっさに答えたせいで敬語ではなかったが、良かっただろうか。普段、野球部で先輩らしく振舞っているとどうもこの口調が直らない。次からはきちんと敬語にならなくては。
「いつも浴槽に入れとくように頼まれとって。ほら、みかんの皮の力で疲れも取れるし、お肌つやつやになるけん」
嬉しそうに一生懸命話す彼女。無邪気で健気で元気で、幼く見える。あまりに一生懸命だからだろうか、さっきから完全に敬語ではなくなっている。俺も彼女に合わせてタメ語にした方がいいだろうか。
「それで、あの時は、もう誰もおらんがかなって思って、次の日のみかん袋を窓から放り込んどったがよ。でもなんか当たったような音がしたけん、びっくりしたが」
「俺もびっくりしたわぁ。ここみかん多すぎて雨漏りじゃなくてみかん漏りしとんじゃないんかって思ったわ」
みかん漏りって。自分でも意図していなかったとっさの一言に、彼女がふふっと笑ってくれて肩の力が抜けた。
「あそこ、うちにとっては窓がちょっと高いけん、収穫のときに使う脚立を使って投げ入れとったが。ほやけど、びっくりして後ろに倒れそうになったけんね」
「危なっかしいのう」
ぼそぼそっと中途半端に返事したせいで次の話題が出てこない。でも、まだまだ話し足りないので、近くの大きな岩に一緒に腰掛けた。こうやって女の子と一緒に二人でいるなんて初めてで、何をしていいのかもわからない。まだ会って二日目で、聞くことなんてたくさんあるはずなのに、どうしてだろう。
「あ、えっと、夏実さん、でしたよね。俺、風張爽って言います。えっと、広島の広島水産高校で。野球部です」
緊張してるのバレバレだ。野球部ですって。だからここにいるんだろうが。
「えっ、嘘っ」
自己紹介をした瞬間、夏実さんが固まってしまった。何かおかしい事を言ってしまっただろうか。握ったままの両手の拳の内側に、嫌な湿り気を感じる。
「あの、幼稚園くらいまでこっちおらんかったですか?」
「なんか、小学校入るときに広島に引っ越したみたいだけど……」
「やっぱり? 爽くんよな?」
夏実さんの目が驚きと共に見開く。吸引力にやられそうになる。
「いや顔がなんとなく似とるけん、もしかしたらって。うちの事覚えとる?」
「えっ、どこかで前に会ったことあったっけ……」
「嘘やっ! 幼稚園のとき毎日遊んどったが! 幼馴染! 夏実! 一緒に幼稚園通っとったがよ! 涼にいとかも一緒に遊んだりしとったが! ほら、いっつもうち端っこ歩くのが好きやけん、いっつも爽くんが危ないよって手ぇ繋いでくれとったりしとったが」
そんなこと言われても。身を乗り出して、キラキラした瞳で見つめてきた。顔が近すぎて、条件反射的に顔をどうしてもそらせてしまう。
「そうじゃったっけ……ちょっとやっぱ、覚えとらんわぁ」
「嘘やん! えー、でも、うん、まぁ、そぉながぁ。ちょっと残念」
しょんぼりして残念そうな夏実さん。徐々に消えていく笑顔にごめんね、と小さく言って元通りちょこんと座り直し、あの近距離の状態を終わらせた。
「爽くん、小さい頃、涼にいとキャッチボールしとったの覚えとらん? 三人で遊んどった幼馴染なんよ」
「ごめん、覚えとらんのんよねぇ」
「そっか……広島水産の白い制服、水兵さんみたいやなぁって話しとったこともあったんよ」
「今じゃコスプレみたいって言われるけどね。袖のボタン、錨の形だし」
「コスプレ?」
そう言って夏実さんは笑ってくれた。うちの制服のことも知ってるんだ。笑った時に出るえくぼがやっぱり可愛らしい。夏実さんが笑うと嬉しくなる。
「まぁ俺のはボロだけどね。ひとつボタン取れちゃってるし。デザイン的に引っかかりやすいんよね。じゃけどっかで引っ掛けちゃってなくしたんかもしれんわ」
軽く笑ってそう言うと、つられて夏実さんもふふ、と笑ってくれた。
「そっか。あ、じゃあ、そろそろ行くね。頑張って!」
去っていく夏実さんの笑顔が外灯のオレンジ色と合わさって、ほんのり優美に見えた。
ポカリの風呂からそのまま上がってきたような、ベタベタまとわりつく汗を拭うと、飲み物はいつの間にか空っぽになっていた。
朝起きると、休みたくなるほど真っ暗な雨だった。
一応レインコートを着て、数人と一緒に昨日の夜のコースを走り抜けた。昨晩のあの階段に差し掛かったが、今日はパス。雨で濡れていて滑りそう。というわけで、ちょうど遠回りになるが大回りで帰ることにする。
道の途中に、不思議な光景を目にして、思わず足が止まった。
泊まっている民宿の、グラウンドとは反対側の、深緑の木々が生い茂っている方の壁。二階か三階の高さに、扉が真ん中にぽつんと浮かんでいるように見える。焦げ茶色のふちに収まっている、同じ色の片開き扉には、誰も持つことが出来ないノブまでついている。
なんであんなところに。あんなところに扉があっても誰も入れない。それに建物の中からもどこへもいけない。扉を開ければ真っ逆さまだ。まさか自殺用の扉じゃなかろうか。木が鬱蒼と生い茂っていて薄暗く、ざあざあ降りの雨がよりいっそう怪しさを引き立てている。そう思うと奇妙で気持ち悪くて近寄りがたい。
ホラー映画にぴったりな暗い雰囲気をかき消そうと、思わず真反対の明るい画面を想像してみる。もしかしたら秘密のどこかへつながるかもしれない。なんてメルヘン。なんてファンタジー。いや、無理があるか。大人しく今度夏実さんに聞いてみよう。
その扉を横目に、水たまりを避けてそこを離れた。雨に濡れたユニフォームで雨なのか汗なのか分からない何かを拭う。後輩はもうへとへとになっているが、俺だけもう一周してくることにした。下半身強化トレーニングのせいで腿はいつもの何倍も重たく張っている。さらに雨に濡れて重たくなったユニフォームが貼り付いている。良い練習にはなりそうだが、明日が心配になってきた。
小雨で墨汁が滲んだような山道に、橙色の水玉模様が浮いている。
夏実さんもこんな野球部ばかりに囲まれていると良い意味で浮いている。だからこそあのガタイの良い大男が近づいていったとしてもおかしくない。ただ、やはりなぜかそこに悔しさのようなそうでないような感覚が生まれてくる。沖浦も急かしてくるし、他のチームメイトも何か様子がおかしい。せっかく野球に集中できる環境なのに、考えるのは夏実さんのことばかり。これは幸せなのだろうか、不幸せなのだろうか。
霧雨の先にバス停があった。そこに一人、傘を刺して誰かが立っている。半透明のクラゲみたいな水色の傘。よく見ると、それは夏実さんだった。傘を差しているのに前髪が少し濡れている。
「あ、爽くん!」
気づいて呼んでくれたのがなんだか嬉しくなって手を振り返すと、向こうももっと大きく振り返してくれた。少しなら喋っても大丈夫だろう。そう思って、近づいてみる。
「今練習中やろ? こっち来て大丈夫?」
「うん、まぁ。秘密な」
なんとなくはぐらかしつつ、夏実さんの横に立ってみる。昨日は暗かったし座っていたからそうでもないと思っていたが、意外と背丈に差がある。ちょうど俺の肩に目線が来ているから、夏実さんの首が疲れないか気になる。
送電線から雨粒が垂れ落ちていくのを二人で眺めつつ、ぎこちないが少し話をした。夏実さんは俺があんまり昔のことを覚えていないのを知っているからか、今日はその話題を出してこなかった。だから俺も、なんとなく聞かないほうがいいと思って昔のことは伏せておいた。他愛もない世間話。でも時折笑ってくれるのが嬉しかった。
ずっとバスなんか来ずに永遠に雨が降ればいいのに。そんなことを思っていたら、その途端にバスが来て夏実さんを連れ去っていった。勝手に取り残された気分になって、その場を早足で逃げ去った。
帰ったは良いが、やはり夏実さんと話していたのはバレていた。帰った途端に沖浦を始めとした広島水産のチームメイトが数人のグループになって囃し立ててきた。しかも、伊予大八幡浜の選手達もノリを合わせてくる始末。恥ずかしくてたまらない。
「お疲れ様です! 風張先輩って、狙っとるんすか?」
「いつからっすか?」
「どこがいいんすか?」
うるさいうるさいうるさい。そんな事聞いてどうする気だ。どこがいいんですかだなんて失礼な奴だ。その中のひとりが不意にそっと耳元で教えてくれた。
「風張さん、持田は辞めといたほうが良いっす」
その言い方は気になる。何かマイナス面でもあるのだろうか。確かにちょっとミステリアスだけど、なにか秘密があるのだろうか。少しのことでも、なんでも気になる。
「アイツ、彼氏作りたがらんことで有名ですからね。自分から新しい友達とか作ろうとしないし。噂ですけど、昔付き合っていた元カレがひどい人で、でもその人に依存しているとか。でも、その人しか見えなくなっちゃったとか。他の男はどんなイケメンでも関係なくフッてるっていう。だから、あんまりオススメできないっていうか」
「ウソつけぇ、本当は君が狙っとるんじゃろ?」
一瞬だけワッと場が湧いた。そうは言っても、そういう一面があるのは初耳だ。その昔想っていた人って誰のことなのだろう。聞きたいけれど、今日みたいに昔のことをあえて話題に出さず、自分を出さないままだったとしたら、いつまでも聞けない。もうすぐ合宿が終わるから時間もないし、悩ましい。その事ばかりが頭の中を駆け巡って、あまり寝付けなかった。
合宿終了まで残り二日。今日は朝から晴れている。昨日の雨で湿気が高く蒸し暑い。明日はまた変則ダブルヘッダーを闘って、合宿終了。時間がすぎるのは本当に早い。
あとひと月もすれば県大会の抽選、そして最後の夏の大会。最後の悪あがきをするには今しかない。今のうちに体をいじめぬいて、六月の後半からは調整に入る。このひと月が明暗を分けると信じている。
だがそれよりも、明日が最後かと思うと、やっぱり夏実さんの事を思い出してしまう。もしこのまま何も起きなければ、夏実さんとはそれまでだ。きっともう会うこともないだろう。それで良いのだろうか。
夏実さん、持田夏実さん。可愛い名前。綺麗、清楚、元気、明るい、笑顔、えくぼ。ありとあらゆる夏実さんの要素が心のなかに敷き詰められて、重みで胸を圧迫していく。疲れているから夕飯は食べられるが、飲み込めない。飲み込んでしまうと夏実さんが中から押し出されていくような気がして、なんだかもったいない気がした。
合宿最終日のマウンドで、筋肉痛を忘れて振りかぶる。
三球三振でスタートした試合は四回を終わった時点で七奪三振。速球が冴え渡り、打者のバットは次々と空を切っていった。今日は調子が良い。調子さえ良ければ結果はついてくる。あとはその調子をどう繰り返せるかだ。
午後二時過ぎからの伊予大八幡浜との試合では登板機会がなく、自主練習で階段ダッシュをすることにした。その途中、不意に外の風景に目をやると、夏実さんを見かけた。この前見つけた怪しげな扉の方を物思いに耽るように見つめている。なにか思い入れでもあるのだろうか。と、そこに愛媛球団の、あのガタイの良い大男が夏実さんに話しかけに近づいているのが見えた。
何を話しているのだろう。大男は自信満々に話しているが、夏実さんには響いていないようで、それよりも扉の方に意識が行っているように見える。あの二人の距離感がやけに近いのに、どうも何かがずれているような違和感があって嫌な予感がする。もしかして伊予大八幡浜の選手が教えてくれた夏実さんの元カレって……。なんか変なことに巻き込まれそうだし、見なかったことにしょう。
息を整えてもう一度階段ダッシュを済ませ、戻って来たときには、もうそこに二人の姿はなかった。
階段ダッシュが終わり、タオルでシャドーピッチングをしようと球場を離れて民宿の庭側に向かったところで声をかけられた。振り向いたところで氷のようなものが首に当たった。セーラー服の夏実さんが白い歯を出して悪い顔をしている。
「お疲れ様! どう、おっとろしいてや? 爽くん、昔から絶対これに引っかかるなぁ」
やってやったと悪い顔で喜ぶ夏実さん。昔から周りが見えていないと言われることは多かったが、小さい頃からそうだったんだ。夏実さんがいることへの驚きと飲み物の冷たさで、まだ心臓の鼓動は誤作動して暴走したままである。
「さっきまで夏期講習でな、試合見られんかって。どうだったん?」
「バッチリ抑えたよ」
顔の前でおお、と小さく拍手してくれた。この瞬間があと少しで終わりになるのかと思うと寂しくなって、気付いたときには自分の連絡先のQRコードを差し出していた。
「あ、あの、よかったら連絡先……今日帰らんといけんし、せっかくじゃけ……」
なんだか告白しているみたいな緊張感が漂って、タオルに手汗が染み込んでいく。唐突だったが大丈夫だっただろうか。迷惑じゃなかろうか。言った後から後悔とそれに対応するような言い訳が次々に頭の中で戦っている。
「ええよ、爽くんなら」
爽くんなら。氷のように冷たい飲み物がないのに、心臓は再び忙しく鳴り始めた。今ならもしかして、付き合えるかもしれない。出会ったばかりだけど、俺の中で夏実さんがどんどん大きくなるのが分かる。連絡先を交換するだけでここまで意識できるなんて。
でも、夏実さんはどうだろう。伊予大八幡浜の選手から聞いた噂が引っかかり始めた。誰とも付き合わない、その気がない、そしてどうせ付き合っても遠距離になってしまう。スタンプを送る裏では、交換できる嬉しさと未来への不安が同時に居座っていた。
「あ、そうや。うちとキャッチボールしよ。そうたいぶりやけん」
「そうたい……」
「あ、そうたいぶりは、久しぶりってことな」
みかん畑の中にある球場での試合が終わったのか、部員がぞろぞろと帰ってくる足音が聞こえてきた。夏実さんに目で合図し、気付かれないようにこっそりもぬけの殻となった球場に向かう。グラウンド整備もしっかりされているので、できるだけ黒土の部分は歩かないように、雑草の生えている部分で二手に分かれた。
「爽くんは全力投球禁止ね」
夏実さんはそう言うと、黒土をまったく気にせず数歩後ろへ下がった。球場の周りは相変わらず夏みかんの香りがなんとなく漂っていて、鼻を軽くくすぐっている。家の前の道路は、遠くの方に蜃気楼が見えるくらいまっすぐに伸びている。その周りには見渡す限りみかん畑で、独特の世界観を持っている。
「いくよ!」
夕空を背に、ソフトボールのような塊が緩やかに飛んできた。白球をイメージしていたのに、グローブの中身を確認すると、それは小ぶりの夏みかんだった。
「え、みかん?」
「小さい頃はボール代わりにしとったがよ。覚えとらんが?」
「ごめん、覚えとらんわ」
笑ってごまかすと、残念そうに髪を耳にかけ直したのが見えたから、ちょっと悪いことしたかと気まずくなった。みかんをどの角度から眺めても、解決策は見えてこない。
「ばっちこい!」
その空気を変えるひと言に救われた。バッターじゃないんだけどねって、ツッコみたい気持ちを抑えて夏実さんを見るが、わかりやすいほど内股で腰を引いているのが笑える。
「じゃ、いくよ」
バスケットボールをゴールにいれるくらいの山なりのスローボール。本当は投げるのが怖かった。イップスだから、変なところに投げてしまうかもしれない。目の前でそんな失態を見せてしまうのは恥だ。手首だけで投げるように、恐る恐るそっとボールを空中に押し出す。夏実さんは右往左往しながら右手のグローブをピンと夕空に向かって伸ばした。
あたふたしながらも、一応グローブの中にボールが入っていった。まずはひと安心。
「ホンマに俺とキャッチボールした事あるん? 持田、さん」
さっきより少し速く投げ返してみる。それでもバスケットボールのシュートのようであることに間違いはない。本当は下の名前で呼びたいけど、失礼になったらいけないし。
「なんか苗字で言われると違和感あるわ。昔みたいに、夏実ちゃんって呼んでえや」
さん付けよりも、一段近くなれた気がして、なんだか嬉しい。でも急で恥ずかしい。
「えっ? いいの?」
「ええけん!」
柔らかそうな髪を耳にかけ直して、にっこりと笑っている。鼓動がどんどん速くなる。出そうとしても、上手く声が出せない。話題をそらそうにも、頭の中は真っ白だ。
「うちに向かって、呼んでみ?」
わざとらしく耳の横に手を添えて俺のひとことを待つ夏実ちゃんに、焦って勢い任せでぶつけるしかなかった。
「夏実! ……ちゃん」
それは瞬間だった。一瞬で弾けた。みかんの房の果実の小さなつぶが胸の奥の方で弾けたよみたい。そして熱い。暑いのではない。熱いのだ。顔の周りしか神経が通っていないような、そんな気持ち。
しかし次の瞬間、ふと我に返ると、ざわざわした声に気づいた。あたりを見渡すと、みかん畑の端の方にある民宿の二階や三階の窓から、チームメイトが何人もこちらを覗き込んでいた。
急に恥ずかしくなって、目の前にいる夏実ちゃんに集中することにした。
「へへっ。だんだん!」
「だんだん?」
「ありがとうっていう意味!」
夏実ちゃんは手を後に回して、肩をすぼめて恥ずかしげにしている。日焼けした黒土から立ち上る蒸気で、汗が体の内側から噴き出してくる。その火照った体に向かって、南風が吹いてくる。熱い体をほどよく冷やし、家の方へ吹き抜けていく。
夏実ちゃんの制服のスカーフがそれに乗って優しくなびいていた。
蒸し風呂状態の中、三チーム全員でバックネット裏のテントに集合して、練習試合の説明が始まった。最初はなんと高校生ではなく、愛媛の独立リーグの球団との練習試合だった。その後、広島水産と伊予大八幡浜の試合。最後に伊予大八幡浜と愛媛球団の試合の運営をする変則ダブルヘッダー。この練習試合を終えてそれぞれの弱点を見つけ、そこを今週みっちり強化。その後もう一度練習試合をして成果を出すということらしい。
「初戦の先発は風張。二戦目は太田が先発な」
「まさか! なにかの間違いだろ?」
監督からの伝言を伝える主将の沖浦に、太田が噛みつく。実力を考えれば当然だ。プロ注目の太田には独立リーグの球団との対戦のほうが合うだろうし、同じ高校生相手には俺のような平凡な投手のほうが実力が均衡していると思う。
「よぉ分からんけど、そういうことじゃけ。それぞれちゃんと準備しとき」
絶対におかしい、なにか裏がある、とブツブツ言いながら舌打ちして去っていく太田。気にすんな、と俺の肩を叩いて野手陣とミーティングを続ける沖浦。バッテリーを組む後輩の捕手は、ため息をついて、切り替えていきましょう、と励ましてくれたが、本音かどうかも怪しい。
不安な気持ちのまま試合に臨むと、自ずと結果もついてこなかった。イップス症状が出て大乱調。相手は独立リーガーと言ってもプロ野球選手。試合は大差をつけられ、最後の対戦では大きな打球を打たれた。
およそ百二十メートルの旅路を悠々と飛んでいく白球は、やがてみかん畑をがさがさと鳴らした。呆然と立ちすくむしか無い俺に対してか、今年最初の蝉が鳴いていた。そこで降板となった。
降板後、ブルペンに入って投げ込んだ。腕はここで、脚はここ。ひとつひとつの動作を丁寧に確認しながら投げていく。何度も何度も、しっかり意識して反復していく。それでもコントロールは定まらないし、要らない力は入るしで練習にならない。でも、練習しないと夏の大会に間に合わない。
「ちょっと休みましょう」
吹き出した汗をシャツの袖で拭き、肩を軽く回した。だいぶ形にはなっているが、まだまだバラバラ。体全体のバランス感覚と強さを兼ね備えていないと逆に体を壊す、まさに諸刃の剣。だけどもう、これを完成させることしか自分に残された道はない。
そこにあのセーラー服の女の子が、伊予大八幡浜のマネージャーさんとクーラーボックスを持ってきた。二人は仲良さそうに話しながら、重たそうに運んでいる。
「あの、これ愛媛オレンジウェーブさんからの差し入れです」
「ありがとうございます。いただきます」
後ろの方で、コーチが大きなクーラーボックスを受け取ったのが聞こえた。
「クーラーボックス、どちらにお返しすれば良いかな?」
「あ、私に言っていただければ大丈夫です。うちのなので」
「そうかそうか。お名前、お伺いしても?」
「モチダナツミです。夏みかんの夏に、木の実の実で、夏実です」
「夏の実で夏実か。まさにここにぴったりなお名前だね、覚えとこう。ありがとう」
へぇ、夏実、っていうんだ。セーラー服のあの子に、確かによく似合う名前だ。
あの民宿の開かずの扉といい、夏実さんといい。まるで図られたように次々と既視感が襲ってくる。彼女の去り際、少しだけ目があった。そのまま微笑んで、まるで昨日の夏みかんの香りのように、いつのまにかほのかに消え去っていた。
食事に集中しようとした瞬間、遠くに座るガタイの良い大男に目が行った。たしか今日の試合で最後に大きなホームランを打たれた選手だ。夏実さんに何かを頼んでは、ものすごい勢いで絡んでいる。あそこまでぐいぐい行けるだろうかと思うほどにフランクだ。
「ほら、お前も早くしないと先越されるぞ」
耳元で沖浦が不意に囁いてきてドキッとした。
「ビックリしたぁ。なんなん」
「お前の気持ちはよぉ分かっとる。大丈夫、俺は君の味方じゃけの」
わざとらしく肩をたたいて同情してくる沖浦。なんだその表情は。やめてくれ。
「別に何もないけぇ」
「ほんまかいのぉ」
大声でゲラゲラ笑う沖浦。そういうんじゃない。多分。
出会ったあの日から確かに目線の中に入ってくる。ふとした瞬間に思い浮かびやすいというか、そういう存在ではある。けど。
食事も終わって、みんなが風呂に向かう中、Tシャツ半パンでランニングシューズに履き替えた。帰りに自販機でお茶でも買おうかと思い、小銭を数枚ユニフォームのポケットに入れておく。外の空気はやはり澄んでいるが、昼間の熱気は完全に無くなったわけではない。一度出始めたらシャワーを浴びるまで留まることがない汗を拭って、民宿を出た。
曲がり角を左に曲がり、ちょうどみかん畑の裏側くらいまで来た時、ほとんど使われていないだろうと思われる階段を見つけた。段々畑に対応するように伸びている階段。トレーニングがてら、一段ずつ素早く昇っていく。思っていたより一段が低く、歩数の割になかなか進まない。それでもなんとか昇りつめ、荒々しく呼吸をするために肩幅くらい足を広げ、膝に手を付く。
こめかみから滝汗が溢れ出し、頬から顎を伝って地面に落ちていく。遠くの外灯が、微かに足元を照らしている。からっからになっていた地面が汗を吸収するスピードは申し分なく、もっと欲しいとばかりにすぐに渇いていった。
そこをさらに左に曲がり、木々の間を抜け、小川を越えると、しばらくの間くねくね道が続いた。左手に宇和海を望みながら、心地よい潮風を感じる。水平線の一番向こう側まではもう見えない。真っ暗な海に、灯台の光だけがまっすぐに差していた。
民宿までの帰り道で自販機を見つけられなかった。しかたなく諦めかけていたのだが、普通に民宿の目の前に置かれていて絶句。迷わずスポーツ飲料のボタンを押し、腰を下ろして飲み物を取る。腰を上げた途端、誰かの何かと接触してしまった。
「あ、すんません」
「あ、いえいえ」
聞き覚えのある可愛らしい声。振り向くとそこには日焼けした赤茶色の前髪をピンで止めた夏実さんが立っていた。セーラー服姿と違い、ジャージ姿の彼女は、それはそれでよく似合っている。なんとなく惹かれるようで、なぜか懐かしく感じられる彼女。
「あ、どうも」
彼女が手を前で組みながらお辞儀をしてきた。心なしか頬が赤いような気がする。
「どうも」
軽く会釈をしながらも、ついつい彼女を目で追ってしまう。背丈は俺よりも少し低い。自動販売機の真っ白い電気に照らされた手足は、軽く日焼けしている。
「あの、この前はごめんなさい。まさか人おるとは思わんくって」
「あっ、別に大丈夫、うん」
とっさに答えたせいで敬語ではなかったが、良かっただろうか。普段、野球部で先輩らしく振舞っているとどうもこの口調が直らない。次からはきちんと敬語にならなくては。
「いつも浴槽に入れとくように頼まれとって。ほら、みかんの皮の力で疲れも取れるし、お肌つやつやになるけん」
嬉しそうに一生懸命話す彼女。無邪気で健気で元気で、幼く見える。あまりに一生懸命だからだろうか、さっきから完全に敬語ではなくなっている。俺も彼女に合わせてタメ語にした方がいいだろうか。
「それで、あの時は、もう誰もおらんがかなって思って、次の日のみかん袋を窓から放り込んどったがよ。でもなんか当たったような音がしたけん、びっくりしたが」
「俺もびっくりしたわぁ。ここみかん多すぎて雨漏りじゃなくてみかん漏りしとんじゃないんかって思ったわ」
みかん漏りって。自分でも意図していなかったとっさの一言に、彼女がふふっと笑ってくれて肩の力が抜けた。
「あそこ、うちにとっては窓がちょっと高いけん、収穫のときに使う脚立を使って投げ入れとったが。ほやけど、びっくりして後ろに倒れそうになったけんね」
「危なっかしいのう」
ぼそぼそっと中途半端に返事したせいで次の話題が出てこない。でも、まだまだ話し足りないので、近くの大きな岩に一緒に腰掛けた。こうやって女の子と一緒に二人でいるなんて初めてで、何をしていいのかもわからない。まだ会って二日目で、聞くことなんてたくさんあるはずなのに、どうしてだろう。
「あ、えっと、夏実さん、でしたよね。俺、風張爽って言います。えっと、広島の広島水産高校で。野球部です」
緊張してるのバレバレだ。野球部ですって。だからここにいるんだろうが。
「えっ、嘘っ」
自己紹介をした瞬間、夏実さんが固まってしまった。何かおかしい事を言ってしまっただろうか。握ったままの両手の拳の内側に、嫌な湿り気を感じる。
「あの、幼稚園くらいまでこっちおらんかったですか?」
「なんか、小学校入るときに広島に引っ越したみたいだけど……」
「やっぱり? 爽くんよな?」
夏実さんの目が驚きと共に見開く。吸引力にやられそうになる。
「いや顔がなんとなく似とるけん、もしかしたらって。うちの事覚えとる?」
「えっ、どこかで前に会ったことあったっけ……」
「嘘やっ! 幼稚園のとき毎日遊んどったが! 幼馴染! 夏実! 一緒に幼稚園通っとったがよ! 涼にいとかも一緒に遊んだりしとったが! ほら、いっつもうち端っこ歩くのが好きやけん、いっつも爽くんが危ないよって手ぇ繋いでくれとったりしとったが」
そんなこと言われても。身を乗り出して、キラキラした瞳で見つめてきた。顔が近すぎて、条件反射的に顔をどうしてもそらせてしまう。
「そうじゃったっけ……ちょっとやっぱ、覚えとらんわぁ」
「嘘やん! えー、でも、うん、まぁ、そぉながぁ。ちょっと残念」
しょんぼりして残念そうな夏実さん。徐々に消えていく笑顔にごめんね、と小さく言って元通りちょこんと座り直し、あの近距離の状態を終わらせた。
「爽くん、小さい頃、涼にいとキャッチボールしとったの覚えとらん? 三人で遊んどった幼馴染なんよ」
「ごめん、覚えとらんのんよねぇ」
「そっか……広島水産の白い制服、水兵さんみたいやなぁって話しとったこともあったんよ」
「今じゃコスプレみたいって言われるけどね。袖のボタン、錨の形だし」
「コスプレ?」
そう言って夏実さんは笑ってくれた。うちの制服のことも知ってるんだ。笑った時に出るえくぼがやっぱり可愛らしい。夏実さんが笑うと嬉しくなる。
「まぁ俺のはボロだけどね。ひとつボタン取れちゃってるし。デザイン的に引っかかりやすいんよね。じゃけどっかで引っ掛けちゃってなくしたんかもしれんわ」
軽く笑ってそう言うと、つられて夏実さんもふふ、と笑ってくれた。
「そっか。あ、じゃあ、そろそろ行くね。頑張って!」
去っていく夏実さんの笑顔が外灯のオレンジ色と合わさって、ほんのり優美に見えた。
ポカリの風呂からそのまま上がってきたような、ベタベタまとわりつく汗を拭うと、飲み物はいつの間にか空っぽになっていた。
朝起きると、休みたくなるほど真っ暗な雨だった。
一応レインコートを着て、数人と一緒に昨日の夜のコースを走り抜けた。昨晩のあの階段に差し掛かったが、今日はパス。雨で濡れていて滑りそう。というわけで、ちょうど遠回りになるが大回りで帰ることにする。
道の途中に、不思議な光景を目にして、思わず足が止まった。
泊まっている民宿の、グラウンドとは反対側の、深緑の木々が生い茂っている方の壁。二階か三階の高さに、扉が真ん中にぽつんと浮かんでいるように見える。焦げ茶色のふちに収まっている、同じ色の片開き扉には、誰も持つことが出来ないノブまでついている。
なんであんなところに。あんなところに扉があっても誰も入れない。それに建物の中からもどこへもいけない。扉を開ければ真っ逆さまだ。まさか自殺用の扉じゃなかろうか。木が鬱蒼と生い茂っていて薄暗く、ざあざあ降りの雨がよりいっそう怪しさを引き立てている。そう思うと奇妙で気持ち悪くて近寄りがたい。
ホラー映画にぴったりな暗い雰囲気をかき消そうと、思わず真反対の明るい画面を想像してみる。もしかしたら秘密のどこかへつながるかもしれない。なんてメルヘン。なんてファンタジー。いや、無理があるか。大人しく今度夏実さんに聞いてみよう。
その扉を横目に、水たまりを避けてそこを離れた。雨に濡れたユニフォームで雨なのか汗なのか分からない何かを拭う。後輩はもうへとへとになっているが、俺だけもう一周してくることにした。下半身強化トレーニングのせいで腿はいつもの何倍も重たく張っている。さらに雨に濡れて重たくなったユニフォームが貼り付いている。良い練習にはなりそうだが、明日が心配になってきた。
小雨で墨汁が滲んだような山道に、橙色の水玉模様が浮いている。
夏実さんもこんな野球部ばかりに囲まれていると良い意味で浮いている。だからこそあのガタイの良い大男が近づいていったとしてもおかしくない。ただ、やはりなぜかそこに悔しさのようなそうでないような感覚が生まれてくる。沖浦も急かしてくるし、他のチームメイトも何か様子がおかしい。せっかく野球に集中できる環境なのに、考えるのは夏実さんのことばかり。これは幸せなのだろうか、不幸せなのだろうか。
霧雨の先にバス停があった。そこに一人、傘を刺して誰かが立っている。半透明のクラゲみたいな水色の傘。よく見ると、それは夏実さんだった。傘を差しているのに前髪が少し濡れている。
「あ、爽くん!」
気づいて呼んでくれたのがなんだか嬉しくなって手を振り返すと、向こうももっと大きく振り返してくれた。少しなら喋っても大丈夫だろう。そう思って、近づいてみる。
「今練習中やろ? こっち来て大丈夫?」
「うん、まぁ。秘密な」
なんとなくはぐらかしつつ、夏実さんの横に立ってみる。昨日は暗かったし座っていたからそうでもないと思っていたが、意外と背丈に差がある。ちょうど俺の肩に目線が来ているから、夏実さんの首が疲れないか気になる。
送電線から雨粒が垂れ落ちていくのを二人で眺めつつ、ぎこちないが少し話をした。夏実さんは俺があんまり昔のことを覚えていないのを知っているからか、今日はその話題を出してこなかった。だから俺も、なんとなく聞かないほうがいいと思って昔のことは伏せておいた。他愛もない世間話。でも時折笑ってくれるのが嬉しかった。
ずっとバスなんか来ずに永遠に雨が降ればいいのに。そんなことを思っていたら、その途端にバスが来て夏実さんを連れ去っていった。勝手に取り残された気分になって、その場を早足で逃げ去った。
帰ったは良いが、やはり夏実さんと話していたのはバレていた。帰った途端に沖浦を始めとした広島水産のチームメイトが数人のグループになって囃し立ててきた。しかも、伊予大八幡浜の選手達もノリを合わせてくる始末。恥ずかしくてたまらない。
「お疲れ様です! 風張先輩って、狙っとるんすか?」
「いつからっすか?」
「どこがいいんすか?」
うるさいうるさいうるさい。そんな事聞いてどうする気だ。どこがいいんですかだなんて失礼な奴だ。その中のひとりが不意にそっと耳元で教えてくれた。
「風張さん、持田は辞めといたほうが良いっす」
その言い方は気になる。何かマイナス面でもあるのだろうか。確かにちょっとミステリアスだけど、なにか秘密があるのだろうか。少しのことでも、なんでも気になる。
「アイツ、彼氏作りたがらんことで有名ですからね。自分から新しい友達とか作ろうとしないし。噂ですけど、昔付き合っていた元カレがひどい人で、でもその人に依存しているとか。でも、その人しか見えなくなっちゃったとか。他の男はどんなイケメンでも関係なくフッてるっていう。だから、あんまりオススメできないっていうか」
「ウソつけぇ、本当は君が狙っとるんじゃろ?」
一瞬だけワッと場が湧いた。そうは言っても、そういう一面があるのは初耳だ。その昔想っていた人って誰のことなのだろう。聞きたいけれど、今日みたいに昔のことをあえて話題に出さず、自分を出さないままだったとしたら、いつまでも聞けない。もうすぐ合宿が終わるから時間もないし、悩ましい。その事ばかりが頭の中を駆け巡って、あまり寝付けなかった。
合宿終了まで残り二日。今日は朝から晴れている。昨日の雨で湿気が高く蒸し暑い。明日はまた変則ダブルヘッダーを闘って、合宿終了。時間がすぎるのは本当に早い。
あとひと月もすれば県大会の抽選、そして最後の夏の大会。最後の悪あがきをするには今しかない。今のうちに体をいじめぬいて、六月の後半からは調整に入る。このひと月が明暗を分けると信じている。
だがそれよりも、明日が最後かと思うと、やっぱり夏実さんの事を思い出してしまう。もしこのまま何も起きなければ、夏実さんとはそれまでだ。きっともう会うこともないだろう。それで良いのだろうか。
夏実さん、持田夏実さん。可愛い名前。綺麗、清楚、元気、明るい、笑顔、えくぼ。ありとあらゆる夏実さんの要素が心のなかに敷き詰められて、重みで胸を圧迫していく。疲れているから夕飯は食べられるが、飲み込めない。飲み込んでしまうと夏実さんが中から押し出されていくような気がして、なんだかもったいない気がした。
合宿最終日のマウンドで、筋肉痛を忘れて振りかぶる。
三球三振でスタートした試合は四回を終わった時点で七奪三振。速球が冴え渡り、打者のバットは次々と空を切っていった。今日は調子が良い。調子さえ良ければ結果はついてくる。あとはその調子をどう繰り返せるかだ。
午後二時過ぎからの伊予大八幡浜との試合では登板機会がなく、自主練習で階段ダッシュをすることにした。その途中、不意に外の風景に目をやると、夏実さんを見かけた。この前見つけた怪しげな扉の方を物思いに耽るように見つめている。なにか思い入れでもあるのだろうか。と、そこに愛媛球団の、あのガタイの良い大男が夏実さんに話しかけに近づいているのが見えた。
何を話しているのだろう。大男は自信満々に話しているが、夏実さんには響いていないようで、それよりも扉の方に意識が行っているように見える。あの二人の距離感がやけに近いのに、どうも何かがずれているような違和感があって嫌な予感がする。もしかして伊予大八幡浜の選手が教えてくれた夏実さんの元カレって……。なんか変なことに巻き込まれそうだし、見なかったことにしょう。
息を整えてもう一度階段ダッシュを済ませ、戻って来たときには、もうそこに二人の姿はなかった。
階段ダッシュが終わり、タオルでシャドーピッチングをしようと球場を離れて民宿の庭側に向かったところで声をかけられた。振り向いたところで氷のようなものが首に当たった。セーラー服の夏実さんが白い歯を出して悪い顔をしている。
「お疲れ様! どう、おっとろしいてや? 爽くん、昔から絶対これに引っかかるなぁ」
やってやったと悪い顔で喜ぶ夏実さん。昔から周りが見えていないと言われることは多かったが、小さい頃からそうだったんだ。夏実さんがいることへの驚きと飲み物の冷たさで、まだ心臓の鼓動は誤作動して暴走したままである。
「さっきまで夏期講習でな、試合見られんかって。どうだったん?」
「バッチリ抑えたよ」
顔の前でおお、と小さく拍手してくれた。この瞬間があと少しで終わりになるのかと思うと寂しくなって、気付いたときには自分の連絡先のQRコードを差し出していた。
「あ、あの、よかったら連絡先……今日帰らんといけんし、せっかくじゃけ……」
なんだか告白しているみたいな緊張感が漂って、タオルに手汗が染み込んでいく。唐突だったが大丈夫だっただろうか。迷惑じゃなかろうか。言った後から後悔とそれに対応するような言い訳が次々に頭の中で戦っている。
「ええよ、爽くんなら」
爽くんなら。氷のように冷たい飲み物がないのに、心臓は再び忙しく鳴り始めた。今ならもしかして、付き合えるかもしれない。出会ったばかりだけど、俺の中で夏実さんがどんどん大きくなるのが分かる。連絡先を交換するだけでここまで意識できるなんて。
でも、夏実さんはどうだろう。伊予大八幡浜の選手から聞いた噂が引っかかり始めた。誰とも付き合わない、その気がない、そしてどうせ付き合っても遠距離になってしまう。スタンプを送る裏では、交換できる嬉しさと未来への不安が同時に居座っていた。
「あ、そうや。うちとキャッチボールしよ。そうたいぶりやけん」
「そうたい……」
「あ、そうたいぶりは、久しぶりってことな」
みかん畑の中にある球場での試合が終わったのか、部員がぞろぞろと帰ってくる足音が聞こえてきた。夏実さんに目で合図し、気付かれないようにこっそりもぬけの殻となった球場に向かう。グラウンド整備もしっかりされているので、できるだけ黒土の部分は歩かないように、雑草の生えている部分で二手に分かれた。
「爽くんは全力投球禁止ね」
夏実さんはそう言うと、黒土をまったく気にせず数歩後ろへ下がった。球場の周りは相変わらず夏みかんの香りがなんとなく漂っていて、鼻を軽くくすぐっている。家の前の道路は、遠くの方に蜃気楼が見えるくらいまっすぐに伸びている。その周りには見渡す限りみかん畑で、独特の世界観を持っている。
「いくよ!」
夕空を背に、ソフトボールのような塊が緩やかに飛んできた。白球をイメージしていたのに、グローブの中身を確認すると、それは小ぶりの夏みかんだった。
「え、みかん?」
「小さい頃はボール代わりにしとったがよ。覚えとらんが?」
「ごめん、覚えとらんわ」
笑ってごまかすと、残念そうに髪を耳にかけ直したのが見えたから、ちょっと悪いことしたかと気まずくなった。みかんをどの角度から眺めても、解決策は見えてこない。
「ばっちこい!」
その空気を変えるひと言に救われた。バッターじゃないんだけどねって、ツッコみたい気持ちを抑えて夏実さんを見るが、わかりやすいほど内股で腰を引いているのが笑える。
「じゃ、いくよ」
バスケットボールをゴールにいれるくらいの山なりのスローボール。本当は投げるのが怖かった。イップスだから、変なところに投げてしまうかもしれない。目の前でそんな失態を見せてしまうのは恥だ。手首だけで投げるように、恐る恐るそっとボールを空中に押し出す。夏実さんは右往左往しながら右手のグローブをピンと夕空に向かって伸ばした。
あたふたしながらも、一応グローブの中にボールが入っていった。まずはひと安心。
「ホンマに俺とキャッチボールした事あるん? 持田、さん」
さっきより少し速く投げ返してみる。それでもバスケットボールのシュートのようであることに間違いはない。本当は下の名前で呼びたいけど、失礼になったらいけないし。
「なんか苗字で言われると違和感あるわ。昔みたいに、夏実ちゃんって呼んでえや」
さん付けよりも、一段近くなれた気がして、なんだか嬉しい。でも急で恥ずかしい。
「えっ? いいの?」
「ええけん!」
柔らかそうな髪を耳にかけ直して、にっこりと笑っている。鼓動がどんどん速くなる。出そうとしても、上手く声が出せない。話題をそらそうにも、頭の中は真っ白だ。
「うちに向かって、呼んでみ?」
わざとらしく耳の横に手を添えて俺のひとことを待つ夏実ちゃんに、焦って勢い任せでぶつけるしかなかった。
「夏実! ……ちゃん」
それは瞬間だった。一瞬で弾けた。みかんの房の果実の小さなつぶが胸の奥の方で弾けたよみたい。そして熱い。暑いのではない。熱いのだ。顔の周りしか神経が通っていないような、そんな気持ち。
しかし次の瞬間、ふと我に返ると、ざわざわした声に気づいた。あたりを見渡すと、みかん畑の端の方にある民宿の二階や三階の窓から、チームメイトが何人もこちらを覗き込んでいた。
急に恥ずかしくなって、目の前にいる夏実ちゃんに集中することにした。
「へへっ。だんだん!」
「だんだん?」
「ありがとうっていう意味!」
夏実ちゃんは手を後に回して、肩をすぼめて恥ずかしげにしている。日焼けした黒土から立ち上る蒸気で、汗が体の内側から噴き出してくる。その火照った体に向かって、南風が吹いてくる。熱い体をほどよく冷やし、家の方へ吹き抜けていく。
夏実ちゃんの制服のスカーフがそれに乗って優しくなびいていた。