この夏、野球も人間関係も、どちらも全力で向き合えたことに充実感があった。イップスに悩まされ、自分を見失いかけた日々。そこから抜け出せたのは、夏実ちゃんとの再会と、仲間たちの支えがあったからだ。かつて重荷だった思い出も、今は大切な財産に思える。全てを受け止め、そこから一歩を踏み出す勇気。それが、自分と向き合い、自分を好きになるということなのだと気付かされた。野球と向き合い、自分とも向き合えた。あとは、夏実ちゃんと扉を開けて、きちんと向き合うだけだ。

 帰りの特急電車で流れゆく景色の中に新たな一歩を踏み出す希望を探していると、向かいに座る夏実ちゃんが目を覚ました。誰も起きていないことを確認して、俺に目で合図した。

「爽くん、なんで広島に帰らんかったが?」

「純粋扉。どうしても。一緒に開けたいんよ。夏実ちゃんと。昔を思い出す手がかりになる気もするし、純粋扉が純粋扉のままじゃったら、なんも前に進めん気がするけ。開けば過去と未来がつながる気がするんよ。じゃけ、俺は夏実ちゃんと、一緒に開けたいんよ」

 静かな車両の中では、自然と声のボリュームが落ちる。話しながら気がついた。過去と未来をつなげる扉。それがきっとあの純粋扉なのだ。

「そういうこと? まぁ、一緒に開けれたら良いけどね、純粋扉」

 諦め半分に笑う夏実ちゃんだけど、ほんの少しだけ口元が嬉しそうにしているのを、俺は見逃さなかった。夏実ちゃんとの新たなスタートは、純粋扉を開いたその時から始めたい。だからこそ、純粋扉を純粋扉のままにせず、開けてしまいたい。扉が開かないことを望んでいたはずの夏実ちゃんが、今は少しだけ前向きになってくれている。それが嬉しくて、俄然やる気が湧いてきた。

 あの純粋扉が開かないのは、単に鍵がないからだ。年季も入っているから力づくでも開くのかもしれない。だが、それをしてしまうと勢い余ってそのまま落下してしまうかもしれないから、それは出来ない。涼にいが言っていたヒントが今着ているこの制服。どう繋がるのか、いまいちピンとこない。

 考えているうちに列車は八幡浜駅に到着した。夏実ちゃんと夏実ちゃんのお母さんと一緒にタクシーに乗り、民宿を目指す。

 車内でふと、夏実ちゃんから言われた一言を思い出した。下灘駅のホームで、浜風に吹かれてカンカン帽をかぶり直す夏実ちゃんの、ぼそっと出た一言。

――爽くんのなかなか開かないタイムカプセルはいつ開くのやら。

 そうか。タイムカプセルだ。前に一緒にボールを探してくれた時に、タイムカプセルのことを話していた。夏実ちゃんが俺と一緒に埋めたらしいそのタイムカプセルの中に、大事な鍵の代わりになる何かが入っているのかもしれない。あの段々になっているみかん畑のどこかに、それが眠っているのかもしれない。

 じゃあ、どの樹の下に埋まっているのか。大事な箱なのだから、意味のある場所にあるはずだ。でもそこからがわからない。どこがその大事な樹なのか、見分けがつかない。

「夏実ちゃん、みかんの樹って、新しいのと古いのって見分けつくん?」

「いやぁ、それはちょっと。なんで?」

「前に話してくれたじゃろ、あのみかん畑のどこかにタイムカプセル一緒に埋めたって。新しいのと古いのが見分けがつくんなら、十何年くらい前の樹がどれなんかが分かれば、見つけられるんじゃないかと思って」

「でも樹の見分けはつかんなぁ」

「まだまだ女将修行が足りんがちや。みかんのヘタ見たらわかるてや」
 
 夏実ちゃんのお母さんが、ポッとヒントを出してくれた。

「ヘタ?」

「そうてや。みかんのヘタは水分の量によって大きさが変わるけん、そこ見たらええ。若い樹は余分な水分が多いけんヘタが大きいし、長いこと実をつけとる樹は適度な水分でヘタが小さいけん。ヘタを見たらその実がなっとった樹は若いかどうかわかるはずてや」

 なるほど。さすがは女将。そのみかんがどこの樹から収穫したのかがわかれば、小さい頃に夏実ちゃんと一緒に植えたはずの樹の場所がわかるはずだ。

 タクシーを出てすぐにガラガラと引き戸を開いて玄関先に荷物と白ランを投げ捨て、夏実ちゃんの腕を掴んで引っ張った。建物の側面に回り、段々畑に向かって一直線に突き進む。道端に置いてある黄色や赤のプラスチックの籠の中にある夏みかんをひとつひとつ手にとり、ヘタの大きさを確認していく。

「ヘタ、確認して! 大きいのがあったら、教えて!」

「わかった!」

 ヘタを見れば、若いかどうかがわかる。若い樹が分かれば、その下を掘り起こす。そこにタイムカプセルがあるかもしれない。グラウンドを囲むようにして緑々しく伸びているみかんの木々。エリアごとに籠が分けられているので、エリアごとの籠の中身を比較すればその違いが分かってくる。

 一生懸命探すうちに、太陽は午前中と比べてもどんどん力強さを増し、半袖のカッターシャツが汗で透けてしまった。下に野球のアンダーシャツを着ていて良かった。夏実ちゃんもカンカン帽で隠れているが、短いおさげの隙間から、耳裏のうなじまで一本の汗の筋ができている。一瞬見惚れるが、いかんいかんと生唾を飲み込み、作業に戻る。

 夏実ちゃん曰く俺と一緒に植えてからは新しい苗木を植えていないらしい。一番ヘタが大きな夏みかんがゴロゴロ入っている籠のそばの段をメインに、掘り起こしてみる。

 しかしなかなか見つからない。さすがにそううまくは行かないものだ。太陽は未だに高い位置にいるが、昼下がりはとうに過ぎ、だんだん陽も傾きはじめている。

「やっぱり見つからんねぇ。見つからんほうがええってことなんかね」

「そんなことないって! 絶対見つけんと! わざわざ帰ってきた甲斐がないけぇ」

 どうせなら、日が沈む前に見つけたい。夏実ちゃんと一緒に、脳裏に浮かぶあの光景が一致していることを確認したい。長い間もやもやしていた感情を一気に発散するために。そしてなんとしても今日中に、夏実ちゃんに伝えなければならないことを伝えないと。明日の夕方はもう八幡浜には居ない。今日がラストチャンスなのだ。

「これ! もしかして!」

 夏実ちゃんが一番奥の、階段のすぐ横にある背の低い夏みかんの樹の下に、飴の缶が埋めてあるのを見つけた。

 まだ空は焼けはじめていない。間に合う。途端に緊張感に見舞われた。午前中のアドレナリンまみれの緊張感とは違う、ドキドキする胸の高鳴り。間に合うのは嬉しいが、間に合ってしまうということは、覚悟を決めないといけないということだ。分かってはいるけど、それ自体に緊張してしまう。

 タイムカプセルは本当に存在した。自分の推理が正しかったことにも興奮するし、嬉しそうな夏実ちゃんを見ると、別の意味でも興奮した。

 夏実ちゃんと一緒にその缶を開けると、中にはなんと、広島水産の校章の入った、金属に見えるボタンが一つ。正直、拍子抜けだった。

「ボタン? これ、爽くんの制服の?」

「ああ、確かひとつだけ違うボタンがついとって……あ、これが元々のボタンだったんじゃね。ヒントってこれ、まんまじゃんか……」

「鍵じゃ、なかったね」

 一気に体の力が抜けた。さっきまで肌を焼いていた太陽が、今では空を焼きはじめている。宇宙まで突き抜けるような青空に、薄桃色のグラデーションがにじみ始めている。

 結局、純粋扉は開かずの扉。開かないことに意味があると夏実ちゃんが言ってきたことを思い出し、なんだかそれもそうなのかもしれないと感じてきた。無意味なことはしないで合理的にする。ここまでこれだけ自分勝手に突き進んできたのだから、ここらでとうとうその勢いも尽きてしまったのかも。

 その時、夏実ちゃんが急に何かを思い出したように俺からボタンを取った。

「思い出した! 涼にい、これを使ってあの扉を開けとったちや」

「それ、ほんまか!」

「うん、涼にい、ピッキングが得意やけん」

 そういえば、涼にいがたくましくなったのって、冷蔵庫のものを勝手に食べてしまうからだって。それを見かねて鍵をかけても、得意のピッキングで突破してしまうって。八幡浜駅で涼にいを紹介されたときに、夏実ちゃんがそう言っていたのを思い出した。

「ここ見とん?」

 夏実ちゃんは手のひらの上にさっきのボタンを乗せて、それを裏返した。裏ボタンのデザインが海軍士官学校時代からの名残からか錨マークのようなデザインになっている。しかも、金属だと思っていた錨の先の方はメッキが剥げて白いプラスチックが顕になっている。これは、この裏ボタンで何かをほじくっていた証拠に当たるのではないか。そしてそのなにかとは、扉の鍵穴か。涼にいが言っていたヒントって、このことだったのだ。

「でもこれ、ホンマにできるんかね? うちは、あんまりこういうの得意じゃないけん」

 困った表情で俺に目で訴えかける夏実ちゃんの手を、左手で包み込んだ。

「大丈夫。先に進もう、一緒に」

 夏実ちゃんに笑顔が戻った。

 そこからは考える暇はなかった。俺も夏実ちゃんも、扉を開けたい気持ちは同じだ。急いで段々畑の中を走り、階段を降りてまたくねくね道を行く。宿の裏に回って純粋扉の位置を確認し、玄関から勢いよく入って長い廊下を突き抜ける。軋む床板に気を留めること無く、漆塗りの急な階段を四足歩行で登っていく。

 大広間を横切り、トイレまで向かう手前。開かずの扉に、今日は寂しそうな夏実ちゃんはいない。今の夏実ちゃんは、振り返った俺の背後で、息を切らして困ったように笑っている。

 扉を開ければ、純粋扉は純粋扉としての性格を失う。

 それはつまり、純粋扉だった過去を捨てて、本来の扉として未来を切り開くということだ。誰よりも過去にとらわれてきた夏実ちゃんを、俺が未来へ導くのだ。

 その夏実ちゃんが俺の前に出て、開かずの扉のドアノブに手をかけた。木造の廊下に、かすかに夕日の筋が何本も差し込んできている。一気に開けようとした、その瞬間。

「待って」

 夏実ちゃんが目を閉じて手を止めた。

「やっぱちょっと、怖くない? やっぱ、純粋扉は開かんけん意味があるがよ。変わらない良さみたいなものがあって、思い出は思い出のまま、綺麗なまんまでおってもいいと思うんよ」

「大丈夫。思い出は思い出。ちゃんと過去として精算して、今を生きなきゃ」

「そう、だよ、ね。うん。爽くんもなんか思い出してくれるかもしれんしね」

「よし、じゃあ抑えとくから、回してくれる?」

 覚悟を決めた夏実ちゃんは錨の先を鍵穴に差し込み、奥に入れながら少しだけ回した。すると、カチッと音がして解錠された。もうすぐだ、と思ったが、扉は軋んでなかなか開かない。

「もうちょいなんじゃけどなぁ」

「一緒に押してみよ! せーの!」


 あっ。


 夏実ちゃんが勢いよく扉に体重を預ける。その勢いに負けて、扉が一気に開き、開かなかったはずの扉から夕日の筋が漏れ出してきた。

 咄嗟に左手を差し出して、落ちかけている夏実ちゃんを引き戻そうとしていた。まだ余力が残っていてよかった。もう一段階力を入れ直すと、今度はこちらに向かって倒れかかってきて、危うく抱きしめるところだった。

 ふと違和感を覚えて、自分の左手を見た。自分の手が小学生くらい小さい。そして、夏実ちゃんによく似た少女が目の前で笑っている。これは現実ではない。これは、過去の記憶だ。間違いない、純粋扉を開けることによって、その時のことを少し思い出せたのだ。

「危なかったぁ。びっくりしたわぁ」

「ごめん! でも、やっぱ爽くんあの時のまんまやなぁ」

「あの時って、夏実ちゃんがいっつも俺に聞いてくる、小さい頃の?」

「そうてや。一緒に野球見に行った時はぐれそうになって、引っ張ってはぐれんようにしてくれたが? あの時やっぱり爽くんがおる、って実感したが。今もデジャヴみたい。小さい頃から引っ張る時は絶対左手なんが爽くんの癖。爽くんは左手の力が強いもんね。右手はボール投げるけんって絶対使わんのは、今も変わらんのやろね」

 涼にいへのラストボールの時に見えた光景がまた思い起こされる。昔から左手のほうが引っ張る動作に慣れていた。だからあの土壇場でグローブをはめた左手がうまく機能したのだ。夏実ちゃんの言葉通り、過去の記憶がイップス改善に繋がっていたのだ。

 夏実ちゃんは俺の方を見るでもなく景色を眺めるでもなく、この景色と一体になっていた。昼の真っ白な入道雲は少しずつみかんジュースに浸したような橙に染まっていく。雲と雲の間から覗く太陽は宇和海の水面に赤白く反射し、波間を揺れながらキラキラと照らしている。どこか儚い懐かしさで、心躍るというより、じんわり落ち着く。

 ツクツクボウシの鳴き声が徐々に迫ってくるように耳の奥まで響いてくる。それがぱっと止んだかと思うと、フラッシュに焚かれて場面が切り替わったような錯覚を生じた。

 気付くと隣に小さな子供が脚をぶらつかせながら座っていた。「えっ?」と思ったときにはまたフラッシュが焚かれて目の前が眩しくなり、次に目を開けたときには、そこに夏実ちゃんの横顔があった。その凛とした横顔と夕陽がマッチして、思わず息を呑んだ。まただ。この景色も、見たことがある。

 扉の枠から溢れ出る夕陽の先に広がるどこまでも続くようなみかんの段々畑。小さな漁師町の先には海。昼間に溜め込んだ温もりが鏡面のように静かな水平線の上でゆらゆら揺らめき、藍色の水面に蛍のような煌きを放っている。

 間違いない。いつも頭に思い浮かぶあの光景。純粋扉で夏みかんを食べている、あの光景だ。
 生暖かい風に覆われていたあの夏の記憶が蘇った。

「爽くん、純粋扉の枠、見てみ」

 錆びたような木目の古い木枠には、鉛筆で彫られている線がびっしり。そして「そ」と「な」と「り」の文字が所狭しと並んでいる。「り」だけはうんと高い位置にあって、「そ」と「な」は同じくらいの高さで競り合っているように見える。

「うちと爽くんと涼にい、いっつもここで身長を掘っとったが。でも涼にいが広島の高校に行って、後を追うように爽くんまで引っ越して、いつの間にかこの扉が開かんようになって。涼にいは戻ってきた。やけど、爽くんのことはなんにも分からんかった。扉が開かんっていうことは、もう爽くんに会えんっていう暗示なんやないかなぁと思うて。爽くんがうちのために開けてくれたのは、うちにとっては大きな意味があるがよ。ホンマよ」

「いや、まぁ、別に。俺も気になっとったし」

「爽くんが野球に猪突猛進って感じなの、うらやましかった。よいよまっすぐで、なんかそれこそ青春って感じでさ。やけん、うちも爽くんみたいに猪突猛進でいたかった。子供の頃からずっと爽くんを見とったが。覚えとらんよね」

「何にも覚えてなくて、ほんと、ごめん」

「ううん。でもそれも本当は羨ましかった。覚えてないってことは、それ以上に楽しいことや嬉しいことがたくさんあって、どんどん上書きできるくらい経験豊富ってことやろ。その分、爽くんはどんどん前に進んでって。うちは全然前に進めとらんなって。うちも、爽くんみたいに昔のことを全部忘れるくらい前に進みたかった。でも、できんかった」

 汗で湿った前髪を突き刺すように両手で顔を抑えて泣く華奢な肩を抱きしめたかったけど、そこまでする勇気は出なかった。なんだかその行為が卑しくあざといようで、歯を食いしばるくらいしか感情を表現できなかった。

「そうや、小さい頃のアルバム、見つかったんよ。持ってくるけん待っとって」

 そう言って顔を半分隠しながら、夏実ちゃんは廊下から急いで階段を降りていった。確かに前に一度、アルバムを見たいと言ったが、今はどうでも良いだろうに。

 しばらく経っても夏実ちゃんは帰ってこなかった。きっと泣いているのを見せたくないからしばらく俺と離れたかったのだろう。今はただ、夕凪を行き交う連絡船のかすかな汽笛に耳を傾けることしかできそうにない。

「ただいま」

 そう言って青いワンピースのお腹に抱えた古いアルバムを差し出してきた笑顔の夏実ちゃん。その顔は、だいぶ落ち着いているとはいえ目の周りが赤くなっていた。その様子をできるだけ見ないように、せっかくだからとそれを受け取り、写真の方に視線を移した。

 そこにはダボダボのユニフォームを着た少年と、満面の笑みを浮かべる少女と、少女の頭に手を乗せる背の高い少年が写っていた。紛れもなく、三人の幼馴染。夏実ちゃんがずっと求めている関係性。場所はおそらく民宿の前の道路。背景の瓦の立派な屋根にはオレンジ色の夕日が降り注いでいる。次の写真には、ダボダボのユニフォームを着た少年が背の高いキャッチャー相手に至近距離で投球し始めそうな写真。キャッチャーの後ろで万歳している手だけ写っているのは少女の影か。

「子供の頃から変わっとらんよね」

 それは転けそうなほどバランスの悪いトルネード投法の少年だった。変わっていないのではない。小学校・中学校・高校と、指導を受けていく中で、徐々にトルネードではなくなっていき、この姿を忘れていただけだった。むしろ偶然にもイップスになって投球フォームを模索していたことが本来の形を思い出すきっかけになっていた。結果的にこっちに来てそれが完成したのだ。

 そして次の一枚によって、脳裏で記憶と視覚が完全にリンクした。

「爽くんって、なんか夏みかんみたいやなぁ」

 夕日に照らされている幼い夏実ちゃんの赤いほっぺが軽く上がっているが、目は笑っていない。濡れておでこに張り付いている前髪から滴り落ちてくる汗を拭いつつ、無理やり眉毛で笑っているフリをしてくれている。

 汽笛が耳をかすめる。夕日に反射されているせいか、それともみかん畑が広がっているせいか、そこから見える海はオレンジ色にきらめいていた。宙ぶらりんの足元を怖がりながら、遠くの景色をずっと眺める。ときどきみかんを口に入れながら夏実ちゃんをちらっと見て、目が合うとニコッとしてくれる夏実ちゃんの笑顔が大好きだった。

 まるで額縁のような扉の木枠。その奥に広がる夏の夕焼けの絵の中に、少年と少女がみかん片手に吸い込まれるように入り込んでいる。そんな写真。はっきりと思い出した。俺と夏実ちゃんは幼馴染で、その写真を撮ったのは涼にい。いつもみかん畑の先に見えていた夕日がフラッシュとともに消えるのは、カメラのシャッターのせいだったのだ。

 扉の木枠に書いてある線を指でなぞるたびに、あの頃の記憶が溢れ出てきた。そこで気付いた。純粋扉こそが本当のタイムカプセルだったということを。

「俺のだけ身長がここで止まっている……ということは、ここで引っ越したんだな」

「そう。ここで最後に身長を測って、また来年測りに来てねって約束して。涼にいが約束の証拠写真って言ってこの写真を撮ったんよね」

「よぉ覚えとるなぁ」

「そりゃあだって大切な思い出やもん。それに忘れられん失敗も重なっとるけん」

「忘れられん、失敗?」

 少し俯き気味に唇を締める夏実ちゃんに、恐る恐る問いかけると、橙色の太陽の方を向き、ゆっくりと口を開いた。

「うちな、爽くんのお見送りに間に合わんかったんよ。バス停までみんなでお見送りに来とったけど、どうしてもこの写真を渡したくて。でも爽くんから離れたくなくて。一回家に走って戻って、帰ってきたらもう爽くん出発しとった。なんか、あんなに仲良しだったのに、待ってくれとらんかったんやなって。無意識のうちに悪い方にばっかり考えとった。やけん、爽くんとまた会えてホッとしたが。また会ってくれるんやって。嬉しかったけど、またいつ会えんくなるか、怖かった」

 夕日に照らされている夏実ちゃんの目がいつもより潤んで見える。眉間にしわが寄り、だんだん鼻が赤くなっていく。

「あ、そうや。さっき長い間待たせてしまったとき、ちょうど下で呼び止められとったんよ。民宿の話で。涼にいから正式にお断りが来たって。でも……」

 そこで夏実ちゃんの口が止まってしまった。丁寧に言葉を選んでいるのだろうか、口は動いているが声は出ていない。そんなに言いたくないのか、もしくは言いにくいのか。目線を細かく動かしては、もじもじとしていたり肩をすぼめていたりするのが不思議でたまらなかった。

「だよな。民宿はこのまま……」

 夏実ちゃんは唇を隠しつつ困ったような表情をしながら、流し目で俺の方を向いた。その顔がみるみるうちに赤く染まっていったのは、きっと夕日のせいではないだろう。

「いや、この前爽くん言ってくれたが。別に今の時代、女将だけでも良いんじゃないかって。たしかにそうやって思った。うちはうちなりに、次期女将を目指してみる。みかん畑のグラウンドを活かして、爽くんには広告塔になってもらって。不安やけど、色々考えてみる」

 ぎこちない笑顔。目が笑っていない。むしろ困っているような表情。珍しく前向きでチャレンジングだからなのか、不安を隠そうとする、そんな笑顔だ。

「そっか。なんか、それなら良いけど」

「なんか、新商品とかコラボとかでなんとかするって。まだしばらく子供でいさせてくれるみたい。今は普通の民宿やけど、うちだけじゃのうて、八幡浜全体でみかん狩りとか、みかんジュース以外の新しい商品開発とかで盛り上げようって。それこそ球場があるけ、オレンジウェーブの練習試合でも使えるし。涼にいが球団の人と話しとったが。ここの施設を使ったことがある野球選手とかに寄付を頼んでもええし、クラウドファンディングとかもあるけん。ほやけん、それは心配せんで。大丈夫そうやけん」

 一気にまくしたてる夏実ちゃんは、やっぱり様子がおかしい。前向きで楽しい話題なのに、なんでそんなに動揺しているのだろう。嫌な予感がする。

「あのさ」

 胸の鼓動がバレてしまいそうなほど大きくなりだし、変な緊張感が辺りを覆う。きっと俺の顔面もつられて赤くなっているだろう。喉仏に大きな唾液の塊が通過する。そんな俺に向かって言った夏実ちゃんのひと言が見当違いすぎて、体中の血の気が失せて、固まってしまった。

「告白、されちゃった」

「……え?」

 夕焼けの濃いオレンジ色が夏実ちゃんの横顔を優しく照らしている。

 夏のそれとは思えないほど涼しげな風が緩やかに流れて、二人のほうに向かってくる。だが何を考えたのか、近づけば近づくほどに鋭くなり、二人の間を強く通り抜けた。真っ赤になっている夏実ちゃんとは対照的に、俺の体は氷をそのまま飲み込んだように冷やされていった。さっきまでのは一体何だったのだろう。何もかも訳分からなくなり、力が抜けると同時に柱にもたれかかった。

「爽くんが探してくれた前の日。ドライブのときにね。初めてってわけじゃないけど、今までずっと誰に告白されても断ってきとるけん、久しぶりっていうか。涼にいからも何回もアプローチ受け取ったけど、正式にかしこまって告白されたのは初めてで」

 でも、それは夏実ちゃんが思うよりずっと深い愛情だって言うことを俺は知っている。そしてそれがこの夏、夏実ちゃんの背後から俺と夏実ちゃんを制御しようとしていたことも、俺は知っている。知っているけど、秘密にすべきかどうかを迷っている。

「さっきタイムカプセル見つけて、鍵になっとった制服のボタン見つけたとき、思い出したが。涼にいね、うちが爽くんのお見送りに間に合わんで毎日泣いとったって。ほやけん爽くんのことできるだけ忘れさせられるようにって、この扉を開けれんようにしたって。涼にいにとって、うちは放っておけん存在やったがって。教えてくれたが。うちのことを想ってくれる、優しい人なんよ、涼にい」

 あの引っ越しが、三人の幼馴染のターニングポイントだった。夏実ちゃんにとっては過去に囚われ始める出来事だったし、俺自身はショックが大きすぎたのか、当時の記憶を喪失しているし。涼にいにとっては夏実ちゃんから俺のことを忘れさせる壮大な計画の始まりになったし。この扉を純粋扉にした犯人は、涼にいだった。でもそれは、夏実ちゃんへの優しさの表現だった。

「別に泊まったときも何もないがよ。幼馴染やけん、お互いの家に行くのはそんなに抵抗ないし。ほら、爽くんが来てくれた日も、涼にい平気でうちに泊まったやん。涼にい、別にそんな悪い人じゃないけん」

 確かに、本来の幼馴染なら、そういうこともあるのかもしれない。ただ、好意を持っているとなると別の話だ。涼にいと夏実ちゃんの二人がくっつくところなんて、これまで飽きるほど頭の中を駆け巡っている。

「でも、断った。涼にいとは、これからも良い友達として、幼馴染としてよろしくって、伝えたがよ。そしたら、分かったって。これからもお前らのお兄ちゃんやけん、なんかあったら言ってって。跡継ぎがどうのって話も、もうなくなったけん、忘れようかなって」

 またいつものように小さく微笑んでみせる。一度冷やされた心と体がもう一度燃え上がるように熱くなり、喉仏の方からまた汗がにじみ出てきた。まるで息を吹き返したかのような感覚が体中を満たす。内から湧き出る喜びの濁流に、思わず表情が緩くなっていくのが自分でも分かる。抗えず頭の中が真っ白になって、濁流が過ぎて最後に残ったのは告白の二文字だった。

「あ、あのさっ」
「ん?」

 さぁ、ここしかないぞ、俺。もうきっとチャンスはないぞ。内なる声に、拳を握り締める。言葉にするために口の形を作ろうとするが、顔が細かく震えてしまって上手く作れない。考えれば考えるほど固まってしまう。

「じ、実は……俺、実は……あの、じゃけ、あれよ」

 冷や汗が額から一筋、また一筋と流れていく。のどに詰まってしまいそうなほどの大きな唾をうまく飲み込めない。困っている夏実ちゃんをじっと見つめながら、もう一度言い直そうとする。でも、言えない。悪い結果しか想像できない。

「爽くんって、純粋扉みたいやなぁ」

「え? なんで?」

「なんとなく。不思議っていうか」

 不思議なのは明らかに夏実ちゃんのほうだ。これまでの行動にはちゃんとした理由があったにしても、少々やりすぎだろう。それに扉が開いてからの夏実ちゃんはどこか様子が変だ。今までのが演技だったのか、それとも今この瞬間が演技なのか。

「だったら、夏実ちゃんは夏みかんみたいじゃ。瑞々しくて爽やかなのに、どこか分厚い皮に隠れてるって言うか。まだなんか隠しとる気がする」

「……ほうかねぇ」

 やっぱり何かを隠している。まさかまた涼にいのことだろうか。今日の勝負の後の微妙な表情は、涼にいへの思いを含んでいるようにも見えたし。その涼にいの思いを断ったことに、罪悪感を感じて、後悔しているのだろうか。だとしたらやっぱり……。

 この場から逃げ出したくなり、扉の外に足を投げ出して座る夏実ちゃんに背を向け、廊下に向かって座り直した。背を向けるというのは敗北の印。俺は自分自身にまた負けようとしている。

 いや、だめだ。こんな自分のままでは、だめだ。

 夏実ちゃんが待っている。俺からのその言葉を、いつも待っていたのだ。本当は全部気付いていた。夏実ちゃんも同じ気持ちのはずだ。だから、言ってしまえば良いだけだ。言いたいことを、ただ素直に口に出せば良いだけなのだ。

 だとしたら、本当のラスボスは涼にいではない。誰々がこう言っていたからとか、いつも人のせいにしてしまう、自分自身こそが本当のラスボスだったのだ。

 気付いたら、あとは行動あるのみ。本当の敵は、涼にいでも誰でもない。俺自身だ。夏実ちゃんへの思いを伝えられない臆病な自分。夏実ちゃんを思うほどに、その思いの重さに押しつぶされそうになる。息苦しさに胸が張り裂けそうだ。だが、夏実ちゃんを思う気持ちはもう隠しきれない。体中を駆け巡る情動が、今にも皮膚を突き破りそうだ。言葉にしなければ。溢れ出す想いを、回りくどい言葉で飾り立てる必要はない。ありのままを、ストレートに。伝われ、この思い。

「ああもう、いい! 好きなんよ! 俺は、夏実ちゃんのことが好きじゃ!」

 俺の中の扉が一枚開いて、柔らかくて心地よい風が舞い込んできた。涼にいも葵も関係ない。全部自分の悪さが出ていただけ。肩をすくめて目を見開く夏実ちゃんを、あえて直視し続ける。最後の夏のあの試合後の夏実ちゃんの表情を思い出す。なんとも言えない表情で俺を直視していたのと同じように、どうにもできない気まずさを紛らわせるための開き直りだ。

 いったん固まった夏実ちゃんから目線をそらして、もう一度。今度は目線を離さない。

「夏実ちゃんと五月に会ってから、ずっと忘れられんかった。途中、心が折れそうになって他の人に気持ちが移りそうになったこともあった。でも、それは本物の好きじゃなかった。この人と一緒におりたい、この人のためになりたい、この人が俺のことを好きになってくれたらいいのにって。それが本物の好きってやつで、それが夏実ちゃんなんじゃ」

 一気に言葉にして、酸欠状態になる。顔が熱くなって、膝は震えて、手汗が滴り落ちるくらい握って。でも、これで最後だと思って、全部吐き出したから、スッキリした。

 夏実ちゃんに好かれたいのは、心の奥深くにある、認めてほしい、誰かに好かれているという安心感がほしいという欲求だった。いつも他の人と自分を比べて、自分を主人公にさせられない現状を、本当は打破したかったのに、気付かないふりをしていた。それが自分自身で出来ないことを、他人のせいにしてきた。それを打破するためには、夏実ちゃんが振り向いてくれるくらいの自分を作り上げること。自分自身を好きでいられる、自分を主人公にできる、自分を認めて自分を好きになる事が大事だったのだ。

 夏実ちゃんは髪を手ぐしで直して姿勢を整え、いったん下を向いて息を整えてから、笑って答えてくれた。

「ええよ、爽くんなら」

 一分の間が空いた。ツクツクボウシの鳴き声が耳をつつく。

「うちが好きなんは、爽くんしかおらんけん」

 夕日に染まる夏みかんのように顔を赤らめた夏実ちゃんが、俺をまっすぐに見つめている。対する俺はただただ純粋扉のように硬直するしかない。体が言う事を聞かない。頭はフリーズし、血の気が一気に引いていく。

 告白して、お返しに告白された。その事実だけが体中を駆け巡るが、本質的な意味を理解するのには少々時間がかかった。

 情動が聞こえる。

 身体の内側から響いてくる、勢いのある情動が確かに聞こえる。心拍がやけにはっきりと聞こえ、その波がうねりとなって胸のあたりをえぐってくる。口の内側から唾液がじんわり滲んできて、大きな生唾のひと塊を無理やり飲み込んだ。

「もう隠しきれんなぁ」

 それは作られた夏実ちゃんが素のままの姿に戻った瞬間だったのだろう、まるで夏みかんの分厚い皮から出てくるようで。

「今までなんかあるごとに隣におったのも、できるだけ笑顔でおったのも、お祭りの日のあれも。爽くんが好きやけん、一緒におりたいけん、今まで誰から言い寄られても、いつか爽くんとまた会えると思って、断ってきたが。そんなのあるわけ無いって思っとったけど、ホンマに本物の爽くんと再会できて。どうしても、うちのこと思い出してほしかったが。うちのこと好きになって欲しかったが」

「うん。多分、分かってた。分かってたけど、信じられなかった」

「一生懸命ボール投げとる今の爽くんは格好ええんよ。一緒に遊んどる時の爽くんも好きやけど、やっぱり野球しとる爽くんが一番好きがよ。けど、ちょっとで良いけん、うちのことももっと興味持ってもらいたかった。野球に嫉妬しとったね。あほじゃね」

 いつか葵に言われた事が、上書きされていく。ファンとしてのそれではない。素直に受け取ったら、こんなに楽なのだと今さらになってようやく気付いた。

「前に、うち自分のこと嫌いやって言ったとき、言い返してくれたよね。それから自分でもなんか頭に残っとって。自分と向き合えば、自分のことはもちろん、爽くんのことをもっと好きになれた。こんなに一途に爽くんのことだけ考えるうちって、逆にすごくないかって。他の人はこんなにできんって。自分を認められるようになった。今は、爽くんにちゃんと向かって言えた自分が大好きや」

 照れくさくてたまらない。夏実ちゃんからはもらってばかりだと思っていた。でも、知らない間に夏実ちゃんの役に立てていたのだと分かって嬉しさがこみ上げた。

「爽くんが来てくれて、また一緒にいてくれた。でも、またお別れの日が近づくって気付いて焦っとったんよ。また会えんくなるかもしれんって思うと、ホンマにさびしかった。さっき松山で電車を待っとる時間、さびしかったけど我慢して、隠しとったが。うちにとっての爽くんは、そういう存在なんよ」

 言葉のひとつひとつが、俺の全力投球よりもずっしりと重く、すっと心のど真ん中を突いてくるようで、なによりも純粋だった。だからこそ、その一生懸命さがみぞおちのあたりをぐっと掴んで離さない。

「ほやけん、怖いんよ。今までは爽くんに振り向いてもらうことだけ考えとったけど、これからどうなるんかわからんくて。爽くんに甘えてばっかりになるかもしれん。それでも爽くんはうちのそばにおってくれる? うちの弱い部分も、全部受け止めてくれる?」

「おるよ。大丈夫。俺も、ちゃんと受け止められんでごめん。なんか、素直になるのが怖かったんよね。俺も、夏実ちゃんも。じゃない?」

「ほうやね。うちも、素直になれんでごめん」

 お互いに肩の力が抜け、呼吸が低くなってきた。また夏実ちゃんの横に座り直し、一緒に扉の先の夕暮れの景色に目を向けた。おだやかなみかんの段々畑の先にある、キラキラ輝く水平線。足を投げ出してブラブラしたら、廊下の板が軋んでドキッとした。

「でも、もし五月の遠征がなかったら、こんなことにはならんかったと思うと、なんか不思議な感じじゃなあ」

「そうてや。爽くんとまた会えるなんて夢にも思うとらんかったがよ。合宿の最後にキャッチボールしたの覚えとるが? あの時みんな見とる前でわざとキャッチボールに誘ったんよ。意識してくれるじゃろうかって思うて」

「あったあった。まんまと引っかかったわ。あの時からよね。下の名前で呼び始めたの」

「うん。嬉しかった。爽くんが背番号一番をもらったときも連絡してくれて、もう慌てて大会の日程チェックしたがよ。一回戦から観に行っとったけんね。うちのこと見つけてくれるかなって思ってわざわざ制服で行ったのに、あの時は全然目が合わんかったよね。爽くんにとっての高校最後の試合でやっと見つけてくれたけど、なんて声をかけたら良いんか分からんで。なんか、微妙な感じやったよね」

 夏実ちゃんから、どんどん言葉が溢れてくる。それはまるで毒を吐き出したみたいで、いつかのどくだみ茶を思い出して、ちょっと笑えた。

「あったね。ダッサいところを見せちゃって、嫌われたかと思った」

「全然そんなことないがよ。怪我しとったもんね。しんどいのに一生懸命で、格好良かった。ほやけ、トライアウトのこともホンマはもっと早く知っとったんじゃけど、怪我のこともあったし、なんかタイミング分からんで。けっこうギリギリになったがよ」

「でも、あれが本当に大きかった。人生変えてくれた。本当に助かった」

 この夏を濃いものにしてくれたのは間違いなく夏実ちゃんのおかげ。とも言えるし、夏実ちゃんのせい、でもある。もしもトライアウトのことを知らなければ、今頃まだあの参考書の山を枕にゴロゴロしていただろう。野球を諦めきれずに後輩たちの手伝いに行き、次のステージに進む太田や沖浦たちを恨んでいたかもしれない。

 だけど、それもこれも、涼にいが計画したことだっていうのは、秘密。あえて言わないのもアリなのかもしれない。何でもかんでも話すのが正解というわけでもないだろうし。

「いやいや、そんな大げさな。でも来てくれるって決まった時から、あれもしたい、これもしたいっていろいろ考えすぎちゃってた。毎日着る服だって、小さい頃に好きだった服と似とる服だったらあの頃のこと思い出してくれるかな、とか思って選んどったし」

「まじか。そこまで」

「そうてや。でも、涼にいにいつか言われたように、邪魔しちゃってたことも、自分では分かっとった。爽くんのためを思ってやっていたつもりが、どこかで爽くんを困らせたんじゃないかっていう罪悪感がずっと胸の奥にあった。でもそれ以上に前のめりになっちゃって。昔のことを思い出してくれたら、うちのことを身近に感じてくれるんじゃないかって。うちのこともっと知ってほしい、覚えていてほしいって、自分勝手な気持ちが募るばかりで。昔のことを思い出すと爽くんのイップスも改善できるって、それを言い訳にして爽くんに無理強いしてた。自分のこだわりばっかり押し付けちゃってた。ごめん」

「いやいや、いいんよ。あれはあれで、色んな所に連れてってくれて、楽しかったし。でもこんなに振り回されるとは思わんかった」

「ホンマいろいろあったね」

 アハハと笑う夏実ちゃんの笑顔はもう濁ってはいなかった。やっぱり素のままの自然な感じが好きだ。何も余計なことを考えず、シンプルな気持ちになれる。

「いや、でも夏実ちゃんについて、あれこれ噂されとったの知っとる?」

「噂? なにそれ」

「なんか元カレがひどい人だったとか、依存しとるとか、じゃけ誰から告白されても付き合わんとか、いろいろ噂があって」

「なんそれ! デタラメばっかりやん」

「そんなのばっかり耳に入ってくるわ、涼にいの存在もあるわ、どんだけ焦ったか」

「こっちこそ。全然思い出してくれんけん、焦ったわぁ。おんなじだったんよね。お互いに頭でっかちで考えすぎとったんやね」

 汗ばんだうなじを拭って後ろに手をついた夏実ちゃんの青いワンピースのポケットの中から、ヘタのない夏みかんがこぼれ出た。さっきタイムカプセルを探した時のだ。二人でお互いを見合って笑うと、ほのかにみかんの皮のスンとした香りが漂ってきた。

 分厚い皮をお皿代わりに、その上にひと房乗せていく。滑らせるように差し出してくれた夏実ちゃんは耳に髪をかけ直して、ひと房ずつ口に運んでいく。それを確認して俺もひと口。口の中に入れた途端、果汁が溢れ出した。噛むごとに房の中がプチプチと弾けていく。爽やかな味は苦味がなく、夏みかん特有の酸っぱさも程よい。

「うちのみかん、食べ飽きとらん?」

「飽きんわ、こんな甘いの。普通のみかんは投げたら甘くなるって言うけど、夏みかんはポケットに入れとったら甘くなるんかの?」

「そんなことせんでも、うちは爽くんと食べとったら甘く感じるがよ」

 確かに、甘味を強く感じるのは、夏実ちゃんと一緒にいるからなのかもしれない。声を聞き終わるとほぼ同時に夏実ちゃんの頭が俺の肩にそっと乗った。いつだったかバスの中でこうなることを妄想していた頃の自分が懐かしい。重たく感じない。汗をかいた後頭部から香る、シャンプーに混ざった靄のような色気のある香りに、反射的に唾を飲み込む。

「俺さ、この夏ひと皮むけて、夏みかんみたいに中身のある人間になれたかね?」

「爽くんはなぁ、これからやない? これからうちらのチームで頑張ってもらわんと。ひと皮むけたんは腕や鼻先のほうやない?」

 ひと皮むけたのは腕や鼻先のほう、か。その言葉を飲み込む前に、夏実ちゃんの細い指先で鼻を小突かれた。そうだった。一度は諦めた野球の道をもう一度踏みしめるために、その地面に大きな爪痕を残すために、これから頑張らなくてはいけない。不安な要素も多いが、俺には応援してくれる夏実ちゃんが付いている。

「爽くん、また肩に力入っとる。完璧主義やね。純粋扉みたい」

「また?」

「そうてや。完璧主義は怖がりなんよ。自分の世界を壊したくないけん扉を閉めるが。純粋扉は無用の長物やけど、それが良さなんよ。意味なんて人によってそれぞれよ。爽くんの周りには、爽くんが気付かんかったことを代わりに思い出してくれる人がおるやん。うちもそう。ほやけん、きっと大丈夫。この扉がそう教えてくれたけん」

 確かにそうだ。結局周りに支えられて、関わり合いの中で自分との向き合い方がだんだん分かってきた。夏実ちゃんにとっての涼にいも、そうだった。いや、これからもそうに違いないだろう。俺も夏実ちゃんも、最初から周りを信じて頼れば良かったのかもしれない。これは後悔ではなく、振り返り。過去の自分を認めたうえで、事実をそのまま飲み込んでいるだけ。ネガティブな気持ちを二酸化炭素と一緒に吐き出して、ポジティブな部分を空気中から取り入れる。

「なぁ、うちはどう? 成長したかね?」

「ずっと夏みかんみたいに分厚い皮に包まれたまんまじゃったけど、今はその皮も剥けたんかもね」

 そう思ったのは、夏みかんの皮をむくように、少しずつ自分の殻を破っていく感覚が自分でもあったから。相手は自分の鏡なんだと改めて感じる。

「ほんま? 良かった」

 今度は肩に顔を埋めてきた。心臓がまた活発に動き出し、緊張してしまう。それを紛らわせようと、優しく包んでいた柔らかくて小さな手を、握ってみた。

「引っ越しで幼馴染と離れ離れになったのが、俺たちにとって大きなショックだったんじゃね。考えないように扉を閉めて、いつの間にか勝手に悪い方向に記憶を書き換えて、自分を見失って。その反面、猪突猛進って感じで行けたんだろうけど、勢い任せでさ。自分は自分のことを嫌いなのに、夏実ちゃんから好きになってもらおうとしとった」

「そっか」

「夏実ちゃんも、過去を癒せずにずっと小さい頃のまま大きくなっちゃったんだろうね。無意識のうちに自分のことを責めて自分を抑えて塞ぎ込んで、昔に戻るにはどうすれば良いか、それだけに執着して。本当は寂しかっただけだけど、誰にも本音をいえんかったんだろうね」

「そうやね。実はうちの方が昔のまんまやった。あの頃のうちに言ってあげんとね」

「なんて?」

「安心して。悪いのは夏実じゃないよ。って。自分の一番の味方は、自分だよって」

 納得した。過去を癒やして、まっすぐ未来を見つめるように前を向く夏実ちゃん。結局は夏実ちゃん自身が自分で気づいて自分で解決することだった。涼にいの重たい想いも、俺の勢い任せも、夏実ちゃんの過去からの囚われを解放するきっかけではあったかもしれないが、鍵ではなかったのだ。

 純粋扉を開けた瞬間、これまでの自分を縛り付けていた何かから解き放たれたような感覚があった。扉の向こうに広がる夕焼けを眺めながら、胸の奥に溜まっていた重たいものが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。喜びと安堵に包まれながら、自由になった今の自分を噛みしめる。ようやく自分を許せた気がした。今の自分を、過去の自分を、全てを受け入れられる。

「過去は変えられる。自分の認識次第でね」

「ほうやね、爽」

「ん?」

 今、呼び捨てされたよな? さすがに今までくん付けされていた分不自然ではあるが、どこか声が暖かかった。温もりがあった。俺の方に顔を埋めていた夏実ちゃんは、ハムスターのようにひょこっと顔をあげ、甘えるように髪を耳にかけ直した。

「ちょっと、夏実って呼んでみてくれん?」

「え?」

「えぇけん」

「……夏実」

 今までが嘘みたいにこうして寄り添って、手をつないで、お互いの温かさを感じて。いつまでもこうしていたい。今度は俺から夏実ちゃん、いや、夏実に向かって頭を傾けた。

「へへっ……だんだん」

 短い夏の終わりを告げる、静かな潮風。長いようで短く、なにより濃かったこの夏。たくさんのことを学んだ夏だった。イップスと本気で向き合い、仲間の支えを得て、自分自身としっかり対話することの大切さを学んだ。誰かを好きになることの尊さを学んだ。夏実との出会いに導かれ、充実した日々は、かけがえのない宝物になった。

 山も海も、二人の邪魔をしないように配慮してくれているように二人の間に不思議なゾーンができている。夕方の柔らかい日差しが波間に反射している。その輝きの中の遥か遠くに、一隻の連絡船を見つけた。

「これからさびしくなるね」

 そろそろ出ないと、最後の連絡船に間に合わない。そう思ったら、急に名残惜しくて寂しくなってきた。あの頃の夏実も、きっとこんな気持ちだったのだろう。

「さびしくないよ」

「え?」

 予想外の返答に、思わず夏実の方を向くと、スッキリと凛々しい爽やかな微笑みが、包み込んでくれるように待ってくれていた。
「これからも一緒におってくれるって信じれるけん、全然さびしくないよ」

 まっすぐ未来を見つめるように前を向く夏実の言葉に納得した。忘れられない、忘れたくない、夏の思い出を胸に刻んで、次の季節への原動力にしよう。何も言わなくても繋がっている気がしたから、それ以上の言葉は何もいらなかった。

 汽笛の音が聞こえたような気がする。もう夏が終わろうとしている。指先はもう逃げない。故意の微かな温もりを、じんわり感じ取る。夏みかんの爽やかな香りのする潮風に乗って、夏実の前髪が優しく揺れている。

 頑なに開くのをためらっていた純粋扉が開き、みかんの皮は剥かれた。その中にいた本当の自分と出会い、同時にかけがえのない相手を再認識した。俺も夏実も、純粋扉のようで、夏みかんのようでもある。

 純粋扉で夏みかん。

 二人を包む夕凪の静かな夕暮れに、最後の南風が吹いた。
                                       了