決戦の日は曇り空。今の俺にぴったりな天気だ。

 あれから一週間、淡々と手伝ってくれる夏実ちゃんは付かず離れずの一定の距離感をキープしたまま、よそよそしく俺に接してくれていた。

 夏実ちゃんはトライアウト一次試験の日と夏期講習の日がかぶったらしく、応援には行けないと、また淡々と教えてくれた。こんな夏休みの終わりに夏期講習なんて、しかも一日だけどうしても行けないなんて、さすがに信じられない。多分いろいろ気にして、あえて会場に来ないのだろう。本当は来てほしかったけど、仕方ないか。

 夏実ちゃんと食べる最後の朝食。なのに終始無言で気まずい。玄関先で靴を履いてから脱帽し、ここまでお世話をしてくれた夏実ちゃんや夏実ちゃんのお母さん達に挨拶した。お別れは思ったより呆気ないものだった。最後に見た夏実ちゃんの表情は、最後の夏の大会の時に見た時と同じような、なんとも言えない濁った表情だった。

 電車が松山に近づくほど、車内は静かになっていった。緊張しないようにするほど緊張感が増していく。今までの練習は本当に意味があったのだろうか。独立リーグ入りという夢は本当に叶うのだろうか。じっとしている時間ほど悪い方向に考え事をしてしまう。思いが強いぶん、失敗するのが怖い。

 だけど、太田が教えてくれたように、失敗しないためにここにいるのではない。成功するためにいるのだ。つまり、前向きになれるかどうかだ。だから、自分次第でどうとでもなる。自信を持って、立ち向かうしかない。

 この一週間、トライアウトまでの残された時間を全て野球の練習につぎ込んだ。今日の一次試験を乗り越えて、明日の二次試験が終われば、俺はこの地を離れる。また必ず戻ってこよう。涼にいを越えて、純粋扉を開けて夏実ちゃんを過去から解放しなければ。

 電車を降りると、曇り空の松山坊っちゃんスタジアムが目の前に待ち構えていた。


 午前九時、いよいよトライアウトが始まった。参加者は全部で三百名超え。一次試験は五〇メートル走と遠投、そして野手のバッティング審査のためのバッティングピッチャーが課せられた。

 全審査が終わった時には午後三時を過ぎていた。体格の良い選手たちの中に混ざり、結果発表の瞬間を待つ。殺気立つグラウンドにカッターナイフの刃のような鋭い空気が流れている。しんと静まり返ったグラウンドに、マイクをポンポンと叩く凹んだ音が響いた。淡々と告げられる合格者の番号に、その場にいる誰もが黙り込んでいる。歓喜の声も悲痛の叫びもなにもない。ただ納得するだけだ。そして俺も、自分の番号が呼ばれた瞬間、喜ぶでもなく浮かれることもなく、ただ納得した。そもそも一次試験で喜んでいるようでは合格も出来ないだろうし、その次のステップもないだろう。

 一次試験合格者は合計三十四名。明日は数名と対戦する形で実技試験が行われる。もうここまで来たら誰が来ても同じだ。自分は自分のベストを尽くす。その中で自分と戦うのではなく、相手としっかり対戦する。それだけを誓って、球場を後にした。

 いつもだったら夏実ちゃんと一緒に八幡浜に戻って、電車の中でああだこうだと話していたことだろう。この夏来たばかりの頃に一緒にここで野球観戦をして、その帰りにはぐれそうになって、左手で手を繋いでしまって。ドキッとしたのが懐かしい。一次試験に合格した事くらいは連絡しても良いかと思ったが、もし返事がなかった時に後悔するだろうと思い、やっぱりやめた。

 次の日の朝。雲行きは怪しかったが、最終決戦に向けて早起きした。

 ホテルから出て球場に向かう途中、見知った顔が近づいてきた。沖浦と太田の二人組。わざわざ応援に来てくれたみたいだ。それに、その横には久しぶりに会う顔が。沖浦に隠れるように顔を出しているのは、葵だった。

「久しぶりだね、風張くん」

 名字で呼ばれるのが久しぶりすぎて、なんだか耳がくすぐったい。あの日以来、葵とは距離をとっていたつもりだが、こんなところで再会することになるとは。

「爽って、俺の彼女と仲良かったっけ?」

「え、彼女?」

 不思議そうに葵を指差す沖浦。葵の彼氏って、沖浦だったんだ。それを知った瞬間、すっと何かが身体の中から抜け出して、肩が軽くなった。太田は知らん顔してそっぽ向いている。そっか、なんだ、そうだったのか。

「風張くんとはクラスメイト。私、風張くんのファンだし」

それを聞いてモゴモゴしている沖浦。太田はため息をついて二人から距離を置いている。いつもの感じだな、となんだか気持ちが和らいだ。

 受付で参加者受付を済ませようとボールペンを右手に持った瞬間、聞き覚えのある声が聞こえた。その声に振り向くと、見慣れたカンカン帽と青いワンピース姿の夏実ちゃんがいた。

「夏実ちゃん。来てくれたんじゃ」

「爽くん。あの、なんというか、頑張ってね」

 ビミョーな距離感に、なんと言い返せば良いか分からず返事に困る。だから、結局出たのは素直な本音だった。

「夏実ちゃんがおらんと合格できんわ」

「やと思ったけん来たが」

 一緒に笑うと、なんともいえない安心感に包まれた。身体にエネルギーが満ちてくる。夏実ちゃんが原動力になってくれている。いてくれるだけでこんなにも違うのか。

「爽くん、これ」

 お世辞にも上手いとは言えない投げ方からぽーんとゆるく何かが投げられてきた。二人の間を隔てている微妙な距離感が軌道に合っていたのか、すっぽり胸元に収まるナイスボール。グローブをはめる暇もなく素手でキャッチすると、それはボールではなかった。

「夏みかん?」

 それは大きめのごつごつ肌。艷やかで重みがある。

「覚えとる? うちの夏みかんは、太陽の直射光、海からの反射光、だんだん畑の石垣の輻射熱の陽を浴びとるけん美味しいんよ」

「覚えとるけど」

「爽くんもうちの夏みかんと一緒よ。毎日グラウンドや海で陽の光を浴びて頑張ったんやけ、絶対大丈夫てや」

 この夏、一番俺のことを見てくれていたのは間違いなく夏実ちゃんだ。変に意識していてまだ完全にわだかまりを解消できてないけど、いつもの笑顔をようやく見ることが出来て少しホッとした。

 重苦しくどす黒い空中要塞のような雨雲の塊が流れていくと、対照的な青白い空が広がってきた。雲の影に隠れていたグラウンドに鮮やかさが戻り、参加者の集合が促された。


 殺伐とした空気を、指にかかった白球で切り裂いていく。

 捕手とキャッチボールを始め、徐々に距離を広げていく。全力で遠投すると、ボールは相手の頭上の遥か上まで舞い上がり金網に当たった。コントロールは悪いが、球の勢いは十分。天高く振りかぶる。無意識。無意識にならないと。思い切り腕を振ると、ボールは大きく逸れたものの、勢いは申し分なさそうだ。でも。

 なんかいつもと違う。

 ボールが手に吸い付き、指の引っ掛かりが妙に気になる。コントロールが定まらない。右打者の頭の方に抜けたときにはダミー人形の首がもげた場面がフラッシュバックした。

 見かねた捕手が何度も慰めて声をかけてくれた。でも結局それが逆に申し訳なくて、いつ呆れられるか想像しただけでも怖くなった。周りも俺の方をチラチラ見ているような気がして気が散る。何事もないように装って投球練習に戻るが、内心では俺のことをどう思ったかわからない。下手くそ、ノーコン、邪魔。悪い妄想がどんどん膨らんでいく。

 頭の中で必死にフォームを思い浮かべ、修正を試みるが、体が言うことを聞かない。典型的なイップス症状だ。こんなときに再発するなんて。右腕を緩めるために必死になって手首を振るが、まるで逆効果。親指は無意識のうちに横に逃げて、投げれば投げるほど感覚がずれていく。この場から離れたい。帰りたい。投手を辞めたい。高校野球を引退してすぐの、ダメだった頃の自分が急に戻ってきた。

 トルネードを一度諦めて、セットポジションで投球練習を続けてみる。せめてアピールになるように務めるには、こうするしか無い。涼にいだってセットポジションでも十分通用すると言っていたし、多分、恐らく、大丈夫、だろう。そう思うしか無い。最後の一球を投げた後、捕手がかけよって良い球だと励ましてくれた。でも、そんなわけないじゃないか、と素直に飲み込めなかった。

 対戦形式の二次試験が始まった。トライアウト参加者の一挙手一投足に拍手が起こり、今日だけはみんなが敵であり味方だった。ベンチに戻ってきた選手がどんな結果であっても晴れやかな表情を見せてくる。打てなかった。これで諦めがついた。打たれた。終わってホッとした。そんな声を聞くたびに、複雑な気持ちになる。トライアウトは挑戦でもあり、終着駅でもある。未来のためにがむしゃらになる場所であり、引退の背中を押してくれる場所でもある。残酷だが、希望でもある。普通の試合とは違う、不思議な空間だ。

 俺の番になった。捕手とグローブでタッチして、マウンドに向かう。ロジンバッグを握り、放す。白煙が足元を包み込む。セットポジションで構え、バッターボックスに打者が入ってくるのを待つ。

 最初の対戦結果は、キャッチャーフライ。

 次の元現役プロ野球選手の登場に、場内は湧き上がる。球場全体が相手を応援しているようで、まるで悪役になった気分だ。だが、ここで負けるわけには行かない。なんとか気迫と勢いだけで、三振に切って取れた。

 三人目は初球でピッチャーゴロに抑えた。これで三人共封じ込めた。しっかり三人共抑え込めたので、アピールとしては十分だろう。

 トライアウトで戦えるのはあと一人。あと一人を完全に抑えれば、俺の挑戦はそこで終わる。だからこそ、次の対戦は絶対に負けられない。

 電光掲示板の方を向き、一息ついた後セットポジションに入って打者を見やる。そこには意外な人物が立っていた。

 最後の対戦相手は、涼にいだった。



 まさかの人物の登場に、いったんタイムをかけた。

 現役の独立リーガーである涼にいが、どうしてトライアウトの場にいるのか。地元ファンのよりいっそう大きくなった声援が、涼にいの背中に吸い込まれている。その表情は真剣そのものだ。勝負モードであり、いつもの感じとはギャップが有る。

 俺を独立リーグ入りさせてから勝負すると思っていたのに、もう真剣勝負の場がやってくるとは。しかも涼にい推奨のセットポジションで勝負となると、余計に調子が狂う。

 この勝負、夏実ちゃんはどっちを応援するのだろうか。愛媛オレンジウェーブの熱狂的なファンである夏実ちゃんは、もしかしたら涼にいを応援しているかもしれない。でも、ここまで毎日のように一緒に練習を手伝ってくれて応援してくれた夏実ちゃんの声援は、俺には絶対に必要だ。

 捕手に肩を向ける。落ち着いて投げれば大丈夫。だといいけど。

 まず初球は大きな弧を描くカーブ。しかし直前に手元が震えて、上にすっぽ抜けてボール球に。涼にいは微動だにしない。明らかなボール球には反応する価値もない、というような冷たい無表情。やはり変化球はダメだ。思い切って真っ直ぐを投げ込まなければ。

 二球目、さっき高めに抜けたカーブが頭をよぎり、リリース時に一瞬力が入った。ホームベース手前で大きく跳ねる、捕手も捕れない程の大暴投。二球連続のボール球に、球場全体が白けたようなムードで、嫌な落ち着きがある。申し訳ない、情けない、隠れたい。球場のど真ん中の小高い丘で、孤独感を必死に堪えながら捕手の方を見るが、どうしても落ち着けなくて、一度捕手に背を向けた。

 もう一度電光掲示板の方に胸を向けると、入道雲が上へ上へと伸びているのが視界に入った。その天高く登っていく様子はまるで大きく振りかぶるワインドアップのよう。そしてとぐろを巻いて膨張していく様子はまるで渦巻くトルネード。

 目を閉じて、自分自身の内なる声に耳を傾ける。どうする? どうすればいい? 勝負に勝った後の自分を想像し、その時の自分自身を心のなかに描写する。もしも今の俺が勝負に勝った後の俺なら、今現在の自分に対して何というのか。俺ならこう言う。お前はもうすでに答えを知っている。直感を信じて突き進め、と。

 答えはやはり、トルネードに戻すこと。やっぱり自分らしくトルネードでいこう。これで駄目なら後悔しない。相手を意識しすぎるあまり、自分を見失っていた。相手への意識の前に、自分自身を保てていないと、勝負にならない。

 プレートから足を外して、捕手と正対した。ミットを構える捕手の顔が一瞬戸惑ったのが見えたような気がするが、直後、バシンとミットを叩いてど真ん中に構えてくれた。ミットが大きく見える。入道雲のように天高くグローブを掲げ、振りかぶった。

 ミットを背に体全体をひねり、うねりを生む。体の中から絞り込むように徐々に力を指先に持って行き、マウンドの黒土にどっしりと足をつく。右腕と連動させながら大きく左腕で弧を描き、グローブを脇で潰す。胸をいっぱいに張って耳の上から投げおろし、指先で力強くスナップさせる。ずっと続けてきた個性が、無意識で流れるように発動する。スピン量をさらに増した直球は明らかにど真ん中に構えられたミットに爆発音を轟かせた。

 やっぱりこの感覚のほうが投げやすい。投げていて気持ち良い。全く打たれる気がしない。好きな場所にいくらでも投げ込めるような、そんな感覚に、鼓動が早くなる。

 情動が聞こえる。テストで百点満点が取れそうな、あの自信に満ち溢れたときのような情動が鼓動となって身体を駆け巡る。本当にこのままで良いのか不安になるほどの成功に対する確信が形となって現れている。

 あと一球投げ込めば、それで終わる。歓声も何も聞こえない。バッターもキャッチャーも審判も誰も見えない空間で、一人、ゾーンに入り込んだ俺。その成功への確信と、それによる不安に苛まれながら投球準備に入った。涼にいを倒せる。涼にいを倒せば、きっと夏実ちゃんを振り向かせられる。

 捕手のサインを見やる。だが、何もサインを出さない。出しているのはミットだけ。それもいつもよりも大きく見える。どこに投げたって、どう投げたって絶対にそこに収まるという感覚。失敗なんて、ありえない。ボールを握り直して、また天高く振りかぶった。その瞬間、太田の言葉を思い出した。

 −−やっぱバカだなお前。失敗しないためにこっちに来たのか、それとも成功するためにこっちに来たのか。もう一回よく考えろ。

 俺は、失敗しないために野球をやってるんじゃない。成功するためにここにいるんだ。

 右の股関節に体重を載せて、くるっと回転し、肩越しに構えられているミットに一瞬だけ焦点を合わせる。次の瞬間には股関節にためた力を一気に開放し、倒れ込むようにしながら左手のグローブをぐっと握り込む。

 その時。不意に夏実ちゃんと一緒にここに野球観戦に来たときのことを思い出した。夏実ちゃんがはぐれそうになって必死に左手を伸ばして夏実ちゃんの手首を掴み、自分の方に引きつけたあの光景が脳を駆け巡る。夏実ちゃんを引き寄せた時の力強い引き込みは、このグローブの使い方につながっていた。夏実ちゃんが俺の懐に来てパワーをくれたような気がして、嬉しくなる。

 左手に意識が行くと、右手は無意識のうちに連動して、丁度良い力加減でボールをリリースできる。これぞ涼にいに教わった無意識の意識。そして、相手との対戦。俺以外に誰もいないゾーン空間に、涼にいが加わる。だがその姿には全く脅威を感じない。あの大男が、指先サイズに小さく見える。アドレナリンが幻覚でも見せているのだろうか、ゾーンの中において俺は無敵で、失敗の余地は一ミリもなかった。

 ――爽くんは今、自分自身のこと、好き?

 夏実ちゃん、今なら自信を持って言えるよ。

 良い顔で、野球に打ち込んで、全力で相手に向かっていく、そんな自分が一番好きだ。

 今に集中すると、今の自分を大切にできる。今の自分を大切にできると、安心して実力を発揮できる。自分を認めると、内側からエネルギーが溢れ出てくる。

 ボールは一直線にミットに吸い込まれていく。重力を無視して突進し続けるスピンの効いた伸びのあるストレート。それがバットもミットも何もかもを突き抜けるかのごとく、ただひたすらに真っすぐ進んでいく。そのまま、そのまま突き進め。涼にいのバットが振り出されるが、完全に振り遅れている。手も足も出ないうちに、一気にミットの中で爆発音を轟かせたラストボールは、純粋扉を貫きそうな魂のこもった豪速球だった。

 勝った。涼にいに勝った。完全に圧倒して勝利した。

 半分しか出せなかったバットを支えきれなくなった涼にいの腕がだらりと落ちたとき、ようやく涼にいと目があった。その表情は晴れやかで、長い旅の終わりを告げているようにも見えた。

 スッキリとした青空に、場内からの拍手が巻き起こる。スタンドに目をやる。ベンチに一番近い最前列で、葵と沖浦が俺に向かって叫びまくっていて、それを太田がたしなめていたのが笑えた。あんなに喜んでもらえるなんて、嬉しかった。太田と目が合い、同じタイミングで頷いた。ありがとう、太田のおかげだ。葵や沖浦の応援も、元気をもらえた。

 夏実ちゃんの姿も探した。三塁側にいる太田たちとは対象的に、一緒に野球観戦をした時と同じ、一塁側の内野席にいた。隣には夏実ちゃんのお母さんもいた。オレンジ色の応援団の中で、立ち上がってじっと俺の方を見てくれている。

 目が合って、顔の前で小さく手を振ってくれた。それは涼にいの恐らく最後の勇姿を見届けたことと、この夏俺と一緒に過ごしてきたことと。色んな感情が混ざりあった、悲しくて寂しくて、でも嬉しくて希望にあふれている、そんな複雑な、泣きそうな笑顔。それに対して帽子を脱いで掲げ、深く礼をした。

 ベンチに座ったとき、コンビを組んでくれた捕手からハイタッチされた。その時いつかの誰かみたいにミットを外して、嬉しそうにわざとらしく左手を見せびらかしてきた。

 その左手は、まるで大きな夏みかんのようにパンパンに腫れていた。
 


 トライアウトが終わった。

 観客席で荷物を整理していた時、ふと首元に急激な冷気を感じた。

「爽くん、おつかれ。これ熱中症予防ね」

「夏実ちゃん、ありがと。でも心臓に悪いわぁ」

 振り返ると、いつかみたいにいたずらっぽく歯を出して笑っている夏実ちゃんがいた。

「終わっちゃったね。トライアウト」

「終わったなぁ。なんか完全燃焼って感じ」

「お疲れ様やね。あとは球団から連絡が来るのを待つだけか。楽しみやね」

「それが緊張するんよなぁ。期限はあるけど、それまでいつ連絡が来るんかわからんし」

「でも爽くんなら絶対大丈夫てや。良い顔して投げとったし。今も、良い顔しとるよ。県大会のときとは全然表情が違う。自信がみなぎっとるって感じ?」

 確かに、県大会で敗退したときとは気持ちがまるで違う。自分を出せたし、結果もついてきたし。あのときは悔しさや後悔ばかりだったけど、今はぜんぜん違う。

「いやほんまに夏実ちゃんのおかげよ。夏実ちゃんがおらんかったら、今の俺はないけ」

「いっぱい練習したもんね」

 自然にニカッと笑う夏実ちゃんを見て、ホッとした。民宿のグラウンドで。庭先や外周で。八幡浜大島で。夏実ちゃんはいつでも一緒に支えてくれた。ほんのひと月の出来事なのに、濃すぎてすでに懐かしい。イップスに悩まされていた頃の自分は、まるで未熟な夏みかんのように酸っぱくて食べづらかった。でも今は太陽の光を浴びて、夏実ちゃんのおかげでちゃんと実になることができた。

 お昼時、マドンナスタジアムの周辺で昼食を取っているところに、背広姿の涼にいが手荷物を持ってやってきた。さっきまでグラウンド上で真剣勝負をしていたとは思えないおだやかな表情で、応援団に挨拶を交わしていく。

「ちょっと、いいか」

 涼にいはそう言って俺に手招きし、店の外に連れ出した。駐車場で停まっている涼にいの車へ一緒に向かうと、涼にいはバックドアを開けて申し訳程度の日陰を作ってくれた。

「にしても、暑そうな格好やな」

「涼にいこそ」

 ハンカチで額の汗を拭う涼にいが、やけに年上に見えた。

「その白ラン、懐かしいな」

「やっぱりこれ、涼にいのお下がりだったんですね」

「もっと言えば、俺の親父からずっと受け継がれとるもんや」

 それでこんなに黄ばんでいたり、ボタンが一つだけ違っていたりしたのか。

「俺は小学校の時から親父の部屋に飾られとったその白ランを着るのが目標やった。それを目指して野球に打ち込んどった。お前が小さい頃にうちに遊びに来た時、自慢したこともあったが」

 この白ランに無意識のうちに親近感を覚えていたのはそういうことだったのか。親子二代に渡って広島水産の野球部OBで、そのあと、俺が続いたということ。急にこの黄ばんだ白ランに歴史の重みを感じ、肩が凝ってくる。

「ある日親父の部屋からその制服がなくなっとってなぁ。爽が広島水産行くけん送ったって知ったときは驚いたが」

「僕も今、驚いています。やっぱりこの制服には秘密があった。力になってくれた」

「ほしたら、親父からの白ランのお下がりの次は、俺からのお下がりを着る番や」

 涼にいはトランクの中からデパートでもらえるようなしっかりとした紙袋を手渡してきた。恐る恐る中を開けると、オレンジ色の試合用ユニフォーム。綺麗に折り畳まれているが、ついさっきまで涼にいが使っていたものと同じ代物だった。

「いや、まだ正式に結果はもらっていませんし」

「ほうか、なら形として残る結果もくれてやろう」

 涼にいはおだやかに微笑んでクリアファイルに入れられた書類を一枚、手渡してきた。

「これって」

「そう。調査書。うちの球団のやつから託されたが。郵送のところもあるみたいやが、うちの球団は事前に用意しといて、めぼしい選手がおったらその場で渡すことにしとる。俺も何年も前にここで手渡しされて、入団したが。爽、お前もそういうことてや。しっかり記入して、送り返してくれ」

 ほんのひと月前に太田が数球団から調査書を送られて来ていたのを思い出した。あの時は確か、「俺の名前に書き換えて送り返しとけ」って冗談で言い返したような気がする。今、目の前に本当に自分の名前が印字された調査書が手元にある。なんだかまだ信じられず、浮足立っていることが自分でも分かる。

「でも、そしたら涼にいが着るぶんがなくなりますよ」

「実は、俺は選手を引退することになった」

「え? じゃあ、なんでさっきトライアウトに参加しとったんですか?」

 涼にいはひと息ついて、スッキリした顔で話し始めた。

「気持ちの整理のため、やな。最後の勝負として爽に打ち取られたら引退しようって決めたがよ。やけん、ちょっと無理言って打席を変わってもろた。この前大口叩いたけん、さっさと真剣勝負の場を設けたがよ。最後はホンマ手が出んで、悔しかったけどスッキリした。来年からは球団職員兼コーチとしてオレンジウェーブに残る。午後イチでその契約をしに行くために、こんな服着させられとるんよ。ま、お前を短期間であれだけのものに成長させたんやけん、コーチのほうが向いとるんかもしれんの」

 笑う涼にいは、諦めや悔しさの中に清々しさもあるような、そんな表情をしている。

 現役生活を共にした大事な思い出の試合用ユニフォームを手渡されたということは、それ相当の覚悟だということ。プロとしての自覚。応援してくれるみんなのこと。そして夏実ちゃんの件。全部ひっくるめて、涼にいの汗と涙を吸っているそのユニフォームがさらに重く感じた。

「あ、ちゃんと終わってすぐ洗って急いで乾燥機で乾かしとるけん、臭くはないてや」

 そういって運転席の方へ向かった涼にい。背広という名前がよく似合う、大きくてたくましい背中。俺はその背中に一礼し、もらったユニフォームを綺麗に袋に戻した。

「実は、この前の話には続きがあるが」

「全部涼にいの計画だったっていう、あれですよね。俺の存在が夏実ちゃんを過去に閉じ込めている原因だったっていう」

「そうてや。あれ聞いて、どう思った?」

「正直、ふざけんなって思いました。夏実ちゃんのためといいながら、俺のことを振り回して、利用されて。良い思いはしなかったです」

「ほうやな。俺が悪かった。あの時、自分の考えとったこと全部、爽に話したが。言いながら自分のこと、とんでもないやつやと思った。爽に話しとるのに、話しとることが全部自分に帰ってきて、あの後正直反省した。でもあれは、半分ほんまで、半分嘘みたいなもんなんや」

「どういうことですか?」

「実は、夏実と爽の邪魔をしたいと思いながらも、ほんまは気付いとった。夏実が過去に囚われて前を向けんのは爽が原因やけん、ほんまに夏実のことを思うなら、夏実は爽と結ばれたほうがええって。俺が間に入れば入るほど、夏実は爽に近づく。もう気付いとるやろ、夏実の気持ち」

 言葉を失った。これまでの出来事が万華鏡のように回りながら、形を変えてきらめき始めた。合宿で出会った夏実ちゃんの笑顔。タイミングを見計らって隠れて話した他愛もない話。夏祭りの日の罰ゲーム。毎日献身的に応援してくれ、良かれと思っていろいろ連れて行ってもらって。その思いの深さを知ってさらに惹かれつつも、自分の器の小ささに気付かされて前に進めなかった。

 夏実ちゃんに想いを伝えるのが怖くて、涼にいの存在や葵への告白に失敗したのを言い訳にして、告白できない理由を探していた。幼馴染だから、その関係がずっと続けば、告白する怖さからも逃げられるし、いつか来るかもしれない別れを避けられるから、想いに気づかないふりをしていた。もしかすると夏実ちゃんもそうなのかもしれない。夏実ちゃんが大切にする三人の幼馴染の関係は、誰もが傷つかずに済むように見えて、実はみんなを傷つけているのだ。

「気付いたやろ。自分の気持ちも、夏実の気持ちも。今の爽なら、夏実の過去の傷を癒せると思うで。ほやけん、爽が開けちゃれ。純粋扉。ヒントはその制服。鍵の代わりになるもので開くが。よーく、考えてみなはい。悔しいけん、ヒントだけ教えちゃる。でも、夏実と爽なら答えにたどり着けると信じとる。……夏実をよろしくな」

「はい」

 涼にいは優しく微笑んで去っていったのを確認してから、みんなのもとへ戻った。男と男の約束に、決意を新たにしながら。
 夏実ちゃんたちは八幡浜に戻る方向へ。俺や葵、沖浦と太田は広島に向かう方向へ。市坪駅前でそれぞれの電車を待っている。でも、純粋扉の開け方を教わったのに、今から広島に戻るべきか、迷っている。

「なあ爽、何しとんや、今チャンスじゃろ」

 沖浦が袖をぐいっと引っ張って、みんなの輪の外に連れ出した。

「ちょ、まって、なんのことや」

「とぼけんなや、告白のチャンスに決まっとるじゃろうが。お前と夏実ちゃんの距離感、全然進歩しとらんし、なんならこの前より遠くないか?」

「いや、まぁ、それは」

 確かに今も、葵とお母さんと仲良く女子トークをしていて、その輪には入れなかった。

「お前、せっかく格好良いところ見せたんじゃけ、勢いで行けって」

「うん、まぁ、そうよなぁ」

「キレ悪ぅ。今日まぐれでストライクもらったカーブくらいキレ悪いで」

 ごめん沖浦、全然耳に入らない。夏実ちゃんの方を見ていたら、気になってそれどころじゃなかった。

 夏実ちゃんと出会い、トライアウトに誘われ、夏実ちゃんの近くで練習し続けて。時には喧嘩もしたけど、最後は応援してくれた。そしてそのおかげで、自分でも満足の行くプレーが出来た。涼にいから調査書と純粋扉を開けるヒントを渡され、自信になった。あの扉を開けて、この夏の区切りをつける。それから、その後に、ちゃんと告白する。

「ごめん沖浦、ちょっと俺戻るわ」

「爽! それでこそ男じゃ! 任せとき、今度は俺が慰めちゃる!」

 二人でみんなの輪の中に入り直した。

「ごめん、ちょっと聞いてくれん?」

 一気にみんなの視線が俺に集まる。夏実ちゃんが、不思議そうに振り返った。

「俺、やっぱ今日、八幡浜に戻るわ。やり残したことがあるけ」

 え? はぁ? の大合唱。そっか。いきなりだとそうなるか。

「爽くん、今日戻らんと、学校は大丈夫がか?」

 夏実ちゃんのお母さんも心配してくださっている。その横で、夏実ちゃんは何も言わずに見守っている。

「すみません、どうしても、忘れ物というか、やり残したことがあって。あと一泊だけさせてください。いや、もし無理なら最終のフェリーで帰るんで、最悪、そんな感じで!」

「ったく、最後まで落ち着きがないのが、お前らしいな」

 最後まで嫌味っぽい太田。エースナンバーを争った仲であり、苦しい時期に助言をくれた大切な仲間。結局一番認めてくれていたのは太田だったかもしれない。

「じゃ、また来週。まだ卒業しとらんのんじゃけ、授業サボんなよ」

「はいはい」

 一緒に悩んで考えて、無い頭をフル回転してくれた沖浦も、太田と同じく俺のことを信じて認めてくれる大事な仲間だ。この二人と一緒にもう一度高校野球をやり直したい気もある。だが、俺は独立リーグ、沖浦は大学野球、太田はまだわからないが最終的には間違いなくプロの道に進むだろう。また新しいそれぞれの道で切磋琢磨し合えたら良いな。

「風張くん、おつかれ」

「ありがとう、あ……光原さん」

 葵、と言いかけたが、やっぱりやめた。気を使って名字で呼んでくれているのだから、こっちも元に戻さないと。これで心置きなく夏実ちゃんに気持ちを伝えられそうだ。

「自分のこと、好きになれた?」

「うん、まぁ、前よりは、ね」

「だよね。表情が全然違うもん。良い顔してて、かっこよかったよ」

 光原さんに言われて意識し始めて、結果として太田に言われた良い顔ができるようになった。やっぱり周りのみんなに支えてもらえているからこそ、今の自分があるのだ。

「ちょ、かっこよかったって! やっぱお前ら!」

「はいはい行きますよー」

 太田は最後にため息をついて、沖浦と光原さんを引っ張って改札を抜けていった。