情動が聞こえる。

 親指がこっそり人差し指の方へ逃げる、キュッと強張った音が聞こえたから、思わず手に力が入る。親指が逃げて招き猫のようになった右手からやけくそで投げたボールは、力んだ甲斐もなく当然のようにすっぽ抜けた。濁った回転で突き進むボールは打席に立てた人形に直撃し、人形の首がまたもげた。

 今日だけでも何度も首が折れ、そのたびに苛立つ捕手が補強を繰り返してくれている。黒土で汚れたボールがまともにキャッチャーミットに収まるまでは、安心して捕手の顔色をうかがうこともできない。

 次の球をまだ投げてもいないのに、もう暴投した時の言い訳を考えている。甲子園を目指す高校球児が最後の夏の大会前に練習することではない。ストライクを投げられるようになる、なんて。

「ナイボー」

 後輩捕手からの、心のこもっていない呆れ果てた声かけが気まずい。ミットを外してわざとらしく見せびらかしてきた左手は、大きく夏みかんのようにパンパンに腫れている。

 まだ午前中なのに、太陽光は黒土で反射されて、じかに顔や首を焼いてくる。帽子の下の拭いきれない汗を練習用のユニフォームで拭ってみるが、汗が広がるだけでなんにもならない。それを制汗剤のツンとした透き通る薄荷の刺激でごまかす。

 差し入れの夏みかんを頬張りながら、背中を地面に預ける。背中に溜まった冷たい汗と地面の熱気が混ざって、絶妙に気持ち悪い。

 みかんは投げると甘くなるというが、夏みかんもそうなのだろうか。まだ手を付けていない夏みかんをボール代わりに手に取り、天高くスナップを効かせて投げてみる。が、スナップが上手く効かず、ボールは明後日の方向に飛んでいった。点々と転がっていく様を目で追いながら、溜息がこぼれた。

 あの頃の夏みかんは、確かもっと甘かった。皮をむいた瞬間、柑橘系の爽やかな香りの粒が空気中に舞って、体を包み込んでいく。橙色の空間の中で、確かに俺は誰かと夏みかんを食べていた。微弱な記憶は、まるで夏みかんの一粒の果実。脆さゆえに、苦味のある莢に包まれて、記憶の奥深くに潜ってしまっている。

 全力投球の後の血豆をひっかく感触。チームメイトからの乱暴な叱咤激励。スポーツドリンクの薄い酸味。外野に寝転んだときの芝生のあおい匂い。腰の引けたバッターが悔しそうに空振りする姿。そして、大暴投で試合を壊したときの息苦しい冷や汗。次から次へと上書きされていく、記憶。幼い頃の記憶を思い出す余裕なんて、今は無い。

 ゴールデンウィークまであと一週間。その後に待ち構えているのは高校生活最後の地区予選。だからこそ、まともに投げられないことに焦っていた。春から夏への橋渡しのような風が背中を押してきて、冷や汗がさらに体を強張らせる。夏が否応なしに迫ってくる。春と夏に押しつぶされそうになってもまだ、最後の夏への扉は開きたいと思えなかった。

 練習後はシャワールーム一択。いつもどおり、白い詰め襟の学ランを脱ぐ際に錨型になっているボタンにテロテロ生地のアンダーウェアが引っ掛かる。苛立ちながら全裸になりシャワールームに飛び込んだ。

 結露した自分の体から熱が剥がれていくのを感じる。一ミリに刈り揃えた坊主頭から豆でめくれた足の指先の皮まで、火照った体を心地よく冷やしていく。

 出ると、真っ黒に日焼けしている顔がニヤッと笑ったのが見えた。チームメイトの太田だ。俺と同じ投手で、嫌な奴。

「よ、ノーコン十一番の風張(かざはり)(そう)くん」

 嫌味な言い方。自分がエースとしてチームを背負っていると自慢したげな感じ。

「普通のオーバースローで投げたほうが、コントロールが安定してストライクが取れるんじゃないのか? 大げさに目立つフォームでさ。話題性狙いなんだろ? 控えなんだから大人しくしとけよ」

「うるせぇ。そんなんじゃねぇわ」

 普通に投げてストライクが取れるのならとっくにそうしている。それが出来ないから、最後の望みをかけて投球フォームを改造しているのだ。昔、誰かから体を大きく使った方が良いと言われたことを思い出し、全身を大きく使うトルネード投法に変えることにしたのが二週間前。直感的に、自分の内なる声に導かれたような気がして、これしか無いと思って取り組み始めた。決して話題性や目立ちたいからではない。

 気分が優れないまま家路につくと、キャプテンの沖浦からゴールデンウィ―ク中の合宿の予定表がメッセージで送られていた。

 連絡船に乗り込み、瀬戸内の景色を眺めながら揺られた。太陽の光が海面に強引に押し付けられ、眩しいくらい輝いている。デッキ席に座っている後輩たちが学生帽を海風に飛ばされないように、左手で抑えて並んでいる。おだやかな波とバタバタ鳴るエンジンが、彼らのはしゃぐ声をかき消す。

 松山観光港への到着は、午前八時半を過ぎていた。空港から伸びるボーディング・ブリッジのような廊下をくぐり抜け、路線バスに乗り込むと、午前十時過ぎに松山駅に到着した。今度はごうごうと重低音が響いているプラットホームから特急電車に乗り込み、独特のにおいがする座席に座る。少しすると、立派な野球場が見えてきた。いつかあそこでプレーしてみたい。そう思いながら、部員のみんなで窓ガラスに頬を押し付けるように、すぎていく球場を見送った。

 田園風景が少しずつ住宅街に変わり、やっと待ち合わせ場所の八幡浜駅に着いた。

 広島水産高校野球部御一行と書かれた板を前面に置いているバスに乗り換えていく。全員揃っているか確認してから、バスはゆっくりと走りだした。

 海岸沿いの国道をくねくねと走っていく。左に見えるリアス式海岸と漁村の風景。そこから細長い山道を抜け、長いトンネルを抜けると、そこはみかんの国だった。一面のみかん畑。山の麓からてっぺんまで、全部みかんの段々畑。愛媛っぽい。

 かなりの高台でバスが停車した。降りると、目の前には立派な日本家屋がそびえ立っていた。ギンギラの太陽が早くも腕や顔を攻撃してくる。

 みかんの段々畑の真ん中にあるこの日本家屋は合宿所で、それを包み込むように、夏みかんの爽やかな香りが辺りに立ち込めている。かごいっぱいに積まれている夏みかんを見ていると、かごいっぱいに入った野球のボールが連想された。

 先頭を切って沖浦が引き戸をレールの上にガラガラガラと滑らせた。壁一面に高校球児たちのメッセージやプロ野球選手のサインが並んでいる。女将さんが奥から出てきてくれたタイミングで、並んで挨拶をし、中まで案内してもらった。

 まず大広間で歓迎会が開かれた。そこで特に目を引いたのは、俺と同じくらいの年の、セーラー服姿の女の子だった。日に焼けたせいか、よく見るとその髪は真っ黒というよりは所々赤みがかっている。茶髪までは行かずとも、黒髪とは言い切れないような、そんな焦げ茶色の特徴的な髪色。頭髪検査、大丈夫だろうか。艷やかな前髪が邪魔にならないようにピンで留めている。自身の坊主頭のことを思うと、ちょっと羨ましく感じる。忙しくしているせいで少し汗ばんだうなじに思わず目が行く。

 一瞬、彼女が振り返った。まるで釘付けにされたかのように、目が離せない。その澄んだ瞳に吸い込まれそうだ。無意識のうちに目で追っていたのに気づかれたのか、目線を外された。その後はこちらに視線を持ってこようともしない彼女。視線は持ってこようとしないのに、徐々に近づいてくる。怒られるのではないかとハラハラしつつ、鼓動はどんどん早くなっていく。

 情動が聞こえる。身体の内側から響いてくる、勢いのある情動が確かに聞こえる。情感的な、郷愁的な、喉元をスプーンでえぐられるような、そんな重たくて酸っぱくて、でも心地よい不安定な感情。

「何か、御用でしょうか?」

 はじめてこの女の子の声を聞いたが、その声は意外と凛々しい。ほわほわとした微笑みとのギャップもあり、上手く言葉が出てこない。別に用事はないからと言いたいだけなのに、どうしたものか。焦れば焦るほど声が声にならない。

 その時、ハッと頭にあの景色が思い浮かんだ。――夕方、高いところで足をぶらつかせながら誰かと夏みかんを食べている。一体何なのだろう。ときどき思い浮かんでは消えるデジャブのようなもの。徐々に消えていくその光景の先には、セーラー服の女の子のスカートがあった。かすかな風で裾が揺れて、夏みかんの爽やかな香りが漂ってきている。

「あ、トイレ……」

 違う、違う。でも、もう言葉として出てしまったから仕方がない。逃げるように部屋を出て、襖を閉めて廊下に出ると、対照的な静けさがそこにはあった。

「その先の突き当りを右ですよ」

 襖を少しだけ開けて、覗くようにこちらに声をかけてくれた。にこっと笑ったその子から、香水とは違う、太陽の恵みを受けた果実のような自然な甘い香りが漂ってきた。嗅覚は視覚よりも記憶しやすいらしい。この香りは、忘れたくないものになりそうだ。

 お屋敷は探検するのが面白い。予想外なものに巡りあったりするときもある。と思ったのだが、意外と作りが簡単ですぐに見つかった。軋む床板をそぉっと進み、ドアノブに手を掛けるもビクともしない。鍵穴は何度もこじ開けられているみたいにボロボロに錆びている。この開かずの扉、何かおかしい。

 でも、こんなに広いのだから、別のトイレがあるはずだ。別のトイレを探そうと目線をずらした途端、なぜか違和感を覚えた。

 ここ、前にも来たことがあるような気がする。

 なんだかよく分からないまま、とりあえず辺りを見渡してみる。するとまた別の扉の前に、共同便所の文字を見つけた。そこで一応用を足して、すぐに大広間へと戻った。



 民宿の裏側に広がっていたのは、みかん畑をスプーンですくってくり抜いて作ったような、黒土の立派なグラウンドだった。観客席はないがしっかりネットで囲まれていて、マウンドやブルペンもある。

 合同練習でしっかりと汗をかき、帰ってきたタイミングで、あのセーラー服の子が玄関先から風呂場まで案内してくれた。お昼にちょっとだけ目が合ったことには触れられず、淡々とその役目を果たされたのがちょっぴり残念だった。

 風呂場の扉を開けた瞬間に中から破裂したように蒸気が飛び出し、あっという間に湯気が視線を遮った。徐々にそれが晴れると同時に、みかんの皮のツンとする酸味が鼻を突いてきた。木造の風呂釜からは湯が溢れ、いくつもの赤いみかん袋が浮かんでいる。

「夏みかんの湯は、うちの名物なんです。こうして湯の中に皮を入れとくと、香りが良くなるばかりやのうて、冷え性、リウマチ、神経痛、美肌効果まであるんですよ。風呂につかることで筋肉がほぐれるので、シャワーで済ますのとは大きな違いがあるんです」

 しっとりと、それでいて丁寧に説明してくれるおかげで、知識がすんなり入ってくる。

「一応ここの次期女将、目指しとりますんで。この民宿のお手伝いをしとったら、自分が役に立っとるような実感がありますけん、やりがいにもなっとるんです。あ、ちょっと口が動きすぎましたね。すみません、失礼いたします」

 ニッコリと笑うセーラー服の次期女将さんが、そそくさと戻っていってしまった。ちょっと訛っているのが可愛らしい。

 脱衣所から風呂場に移ると、先程の立派な木造の風呂釜が待ち受けていた。風呂場いっぱいにヒノキが程良く優しく香っている。浴槽の中で立ち上がると、ちょうど目線よりも少し高いところにある小窓から、みかん畑の先に宇和海が望める。

 しばし湯につかって、目を閉じる。体中から疲れがどろっと流れていくような、独特の気持ち良さ。のぼせてしまうかもしれない。

 いつの間にか人は減って、気づいたら風呂場にいるのは俺だけになっていた。木造の柔らかい浴槽に腰を下ろして、小窓があるほうの壁に背中を預ける。

 顔に湯を当てて目を開けると、目の前に赤いネットに入った真新しい夏みかんの皮が湯船に浮かんでいるのが見えた。他のみかん袋とは違い、まだ剥きたてでしっかりした夏みかんの皮。香りも他のものよりだいぶ強い。他のみかん袋がどれもふやけて柔らかくなってしまっているのに、どうしてこれだけこんなにまだ元気なのだろう。

 不思議に思ったが、気のせいかと思ってもう一度湯船に入り直し、鼻までつかる。

 ――とっぷん。
 上からネットに入った皮が落ちて来た。

 ――とっぷん。
 まただ。

 ――しゅくっ。

「痛っ」

 今度は頭の上に落ちて来て、ついつい声が出てしまった。

「えっ?」

 聞き覚えのある高い女子っぽい声が外から聞こえた。恐る恐る窓に向かって、ゆっくり腰を上げる。目がギリギリ出ないところで一呼吸置き、一気に外に顔を出したその瞬間。

「え、えっ?」

 目の前には、女の子と思われる顔面があった。ピンで止めた前髪は艷やかに赤みがかった焦げ茶色。一歩引いた彼女はセーラー服。え、まさか、もしかして。さっき食事の世話をしてくれたあの子だ。今度はガッツリ目が合った。

「あっ、えっと、あの、失礼しましたぁ……」

 彼女の顔はゆっくりと下に降りていった。崩れそうなお団子頭に隠れていた色っぽいつむじを見てしまい、飲み込むようにそれを頭からかき消す。脚立を降りるような音だけが湯気に隠れて消えた彼女の唯一の手がかり。一体何だったのか。何が起きたのか。

 窓からは元通りの宇和海と八幡浜市内の景色が見える。さっきのは夢だろうか。それとも疲れからきた幻か。一旦落ち着こうと、とりあえずまた鼻まで湯船につかった。

 夏みかんの皮がときどき鼻の頭を優しく小突いてくるから、一気にのぼせてしまった。



 部屋まで戻ると、別室のはずの沖浦が勝手に入ってテレビをつけていた。少しは遠慮というものを覚えてくれればいいのに。
「爽、ここの時期女将さん、ぶち可愛かったのう?」

「興味ない」

 変な噂を立てられても面倒なだけだから、本音は言わない。たしかに可愛かったけど。

「素直じゃないのう。ガン見しとったじゃろうが」

「しとらんけ!」

急にさっきのつむじが頭の中に浮かんでくる。見えてしまった髪の毛の生え際。いやいやいや、今はそんな事を考えている時期じゃない。そんな事を考える暇があったら野球のことを考えていないと。

 でも、例えばセーラー服のあの子は、好きな人とか彼氏とかいるのだろうか。そりゃいるだろうな。いや、個人的にはそうであってほしくはないな。しらんけど。

 不思議なもので、会話に間が開いた時など、ふとした瞬間に、前髪をピンで止めたセーラー服のあの子を思い出してしまう。今何しているのかな、と考えてしまい、気付いたら窓の外の真っ暗闇を漠然と眺めて、頬杖をついていた。