エレベーターで最上階まで登れば、温泉までの案内が載ってる。女湯の暖簾を潜って、早速服を脱ぎ去った。ビニール袋に梱包すれば、少しだけ匂いがマシになった気がする。
帰り用に浴衣を持ってきたのは、ナイス判断だったと思う。身体を軽く洗ってから、温泉に浸かる。中には、人はまばらだった。
ちょうどご飯の時間だから、みんなご飯に行ってるのかもしれない。ぼーっと広い窓から、外の景色を眺める。緑が生い茂って、ところどころに赤茶けた色が混ざり始めていた。秋はもう近いんだなぁ、なんて感想を浮かべていれば、近くのご婦人に「一人?」と声を掛けられた。
「あ、いえ、友人と」
「あら、今時の子は、一緒に入らないのね」
ほぉっと頷いてから、ご婦人は少しだけ私に近づいてくる。昔だったら、きっとこんなにスムーズに会話できなかったと思う。成長してる自分に、大人だから当たり前かとも考えてしまった。
「準備が色々あるみたいで」
「そうなのねぇ……待ってあげればよかったのに」
それは、私もそう思う。でも、待つことで、文香に負荷が掛かる気がしてあっさり引き下がった。プレッシャーは掛けたくなかったのだ。まぁ、このご婦人には関係ないことだろうけど。
「待たれるのも、しんどいかなと思いまして」
「そんな関係なの?」
「ちっちゃい頃からの幼なじみで気心は知れてますけどね」
「ふぅん」
自分から話しかけてきたくせに、興味なさそうに木々へと目を移す。そして、肩にちゃぷん、ちゃぷんとお湯を掛けながらつぶやいた。
「待つことだけがいい結果を生むわけじゃないけど、待つことも大事だと思うの」
「それは、そうだとは思いますけど」
「ほら、選ぶことも疲れちゃうでしょ。元気がない時なんて、選ぶだけで嫌なのよ」
選ぶだけで嫌。
その言葉がやけに、心に染みてしまう。会社で働いていた時、私は選ぶことが嫌で同じものばかり食べていたことを思い出したから。何を食べようかと考えることすら、苦痛だった。
「そうですね」
「あ、いえ、あなたたちがどうかはわからないのよ。でも、選んでくれるのが嬉しい時ってあるじゃない。ご飯これから帰って作るのか、何にしようかしらって、考えるところからって結構疲れてしまうのよ」
ご家族の愚痴だろうか。きっとそう。でも、その気持ちはわかるから、あの時、文香にどっちがいい? と聞いたことを悔やんだ。
身体は温まっているのに、心に急激に寒い風が吹き付ける。私は、文香のために北海道まで来たのに。文香のために行動できていないのかもしれない。
だって、こんなにご婦人と話しているのに、文香は来る気配がないんだもん。
「私ったら勝手に、話しすぎたわね。ごめんなさい。露天風呂も、すごいわよ。行ってみたらいいわ」
しゅんとした気持ちで、温泉から出ていくご婦人を見送る。言う通りだと思う。選んであげる優しさは、文香に必要な優しさだろうか? どう思ってるのかなんて、聞いてみないとわからない。聞かないことが優しさだと思って、聞かなかったけど……
提案された通り、外に出ればふわりと冷えた風が漂っていた。温まりすぎた身体を、クールダウンしてくれる風を受けながら、ちゃぷんと露天風呂に浸かる。
すりガラスのような枠が設置されているけど、しっかりと山々が手に入った。まるで私も、自然の一部になったような気持ちになる。空はだだっ広く紫色とオレンジを混ぜ合わせて、キレイだった。
戻ったら、文香の話を聞こう。選んだ方が楽なら、私が選ぶし。聞いて欲しくないなら、聞いて欲しくなるまで聞かないからと伝えて。
目を閉じて、温泉に身を任せれば、なんでも聞けるような気がする。今なら、自然な言葉を選べるだろう。傷つけてしまうなら、きちんと謝って、傷つけたくなくて、守りたくて、言葉にしてると伝えよう。
文香は、一向に温泉には来なかった。他の階の温泉に行ってる可能性もあるけど。
髪の毛も身体も、全て拭いとる。すっきりとした気持ちと、ポカポカとする身体で部屋に向かった。すれ違う人たちは、カップルだったり、友人だったり、一人は少ない。
温泉に泊まるたびに、他の人は、誰かと一緒に来てるんだなと思ってしまう。寂しさではなく、単純に感心してしまうのだ。誰かと一緒に過ごすことが、苦痛だったから。
それでも、文香と旅をしようと決意したのは、文香なら大丈夫な気がしたからもある。文香を元気付けたいという思いの方が強かったのも。
部屋に戻れば、文香はぐったりと布団に横になっていた。微かに湿ってる髪の毛を見れば、お風呂には入ったのだろう。扉の音にも気づかずに、天井をぼーっと見上げていた。
布団を引っ張って、くっつけてから私も横になって天井を見上げる。
「文香は」
声を出せば、やっと私が戻ってきたことに気づいたらしい。慌てたような布団が動いた音がして、つい黙ってしまう。
「おかえり」
「文香は、温泉入った?」
「ううん、シャワーだけ浴びたよ」
温泉、入りたくない? 嫌だった? 選びたかった?
どれも違う気がして、息だけ飲み込む。どう切り出すのが、正解だろうか。
「どこ行きたいか、聞かなくてごめんね」
「えっ? 選んでくれて、助かったなって思ったよ」
「選ぶことすら、今はしんどい?」
文香はごろんっと横になって、私を見つめる。私も文香の方に寝返りを打った。いつもの文香と目が合う。そして、口元を緩めて、私の方に手を伸ばす。
「いつだって結梨は気にしいだね」
「文香が嫌なことはしたくないけど、私、不器用だから」
「選んで欲しいと思ってる。まだ、ちょっと選ぶのは難しいかも」
それは、心が疲れ切っているから? 聞かずともわかってしまった。だって、文香の瞳には、涙が浮かんでいる。こんなによく泣く子じゃなかった。それでも、泣いて少しでも、すっきりできるならそれでいい。
だから、手を伸ばして、背中をさする。私の前でなら泣けるなら、いくらでも泣いて欲しい。そんな思いを込めて。
「じゃあ、私が次の目的地も勝手に決めていい?」
「負担じゃないなら、任せていい?」
「楽しいのよ、行きたいところ考えるの」
文香に気を使わせたくない。でも、それも本心だ。私はいつだって一人でどこに行こうか決めて、考えているから、正直その方が楽だ。
「それならよかった」
「嫌なら聞かないけど。文香の話聞いてもいい?」
一瞬、瞳を伏せて、文香は考え始める。つーっと頬を伝って布団に落ちていく涙に目を奪われながら、深呼吸を繰り返す。静かな部屋に、私の呼吸音だけ、響いていくような気がした。
温泉に入ったからか、喉がカラカラに乾いてる。喉の奥がはりついて、言葉も出にくいくらい。文香の返事を待つ間に、起き上がってケトルに水を張る。
「お茶だけ入れちゃうね」
ごくごく飲める方がいい。でも、文香のためには温かいものの方がいい気がした。だから、ケトルを沸かしながら、冷蔵庫に入っていたお水を開ける。ごくごくと飲み干せば、喉の通りは良くなった。
沸いたお湯でお茶を入れて、湯呑みを文香の近くに差し出す。
「あったかいお茶淹れたから」
「うん、ありがとう」
文香も起き上がって、ゆっくりと口に運ぶ。こくんっと小さく喉が上下してから、ふぅふぅっと改めて冷まし始めた。
「熱すぎた? ごめん」
「めっちゃ、熱かった」
「ごめんごめん、お水もあるよ」
「ううん、あったかいのがいい」
両手でしっかりと湯呑みを握りしめて、体育座りのように身体を縮める。そして、前を向いたまま、文香は「聞きたい?」と口にした。
「聞いても、いいなら」
「どれのこと?」
どれのこと。私が知ってるのは、婚約破棄をしたことと。婚約相手がクズだったこと。あとは、仕事を辞めたことくらいだ。
どう答えていいかわからなくて、バカみたいな返答を口にする。
「最初から?」
「いいよー」
ゆっくりと、震える声で耳にしたのは、想像もよらない言葉たちだった。
「賢そうだから、私と付き合ってくれるって言ってくれたの」
上から目線も謎。本当に腹立たしい男だ。目の前にいたら助走つけてぶん殴るレベル。
「でも、可愛くないから。他の可愛い子と、遊んでてもいいよねって」
「は?」
「嫌だって言ったら、わかったよ。って言ってくれたんだけど、遊び相手はたくさんいて。そのうちの一人と結婚することにしたから、別れようって言われたんだぁ」
ただ、淡々と事実を口にしてるだけ。それなのに、震えてる声が、痛みを伝えてくる。
「それで、同じ会社の人だったから居づらくなっちゃって。でも、いじめられたりしたわけじゃないよ」
「いじめられたりしてたら、今すぐにその会社に乗り込んで大声で暴言吐いちゃう」
「外面がいい人だったからさ、みんな、振られた私の方に何かあるって、思っちゃったんだろうね。可哀想って言いながら、私の悪いところばっかり探されるようになって」
ぱたぱたと瞬きをするたびに、長いまつ毛がしなる。そんなことばかり、考えていた。今すぐにそいつをぶん殴りに行けたら、どれだけ楽だろうか。
「まぁ、私も悪かったんだよね。可愛げなんてないし」
「そんなことない!」
絶対にない。私より、文香の方が可愛くて、楽しい女の子だ。陰鬱で人と話すことすら億劫な私より、可愛い。それだけは、わかる。聞き出したことを少しだけ後悔しながら、手をぎゅっと握りしめた。
「なんか、高校生みたいだね、うちら」
「失恋で泣いて、慰め合って、天井見上げて?」
「そうそう」
文香が茶化した言葉に、答えずに布団に寝転がる。どう答えていいか、今度こそ思いつかなかった。私は、そんな高校生活を送っていない。文香は、きっとそんなプロトタイプな高校生活を送っていたと思うけど。
私には、そんな話をできる友人も。失恋したって泣けるような相手もいなかった。変だったから。
文香も手を繋いだまま、布団に寝転がる。そして、微かに聞こえる声で「ありがと」とつぶやいた。私は、無理矢理聞き出したことを、激しく後悔してる。文香に、辛い記憶を追体験なんてさせなければよかった、と。
「話したらちょっと楽になった」
嘘か、本当か、私には見極められない。でも、言葉通り受け取っておこう。だって、わからないから。
「うん」
「お母さんもお父さんもそんなことで、って言うから私、ちょっとしんどかった」
ため息混じりに吐き出される言葉に、一番胸がぎゅうっと詰まる。一番の味方で居てくれるはずの両親が味方じゃないのは、どれだけ怖いだろうか。まぁ、うちの両親も同じようなことを言う気はするけど。
ぐうっというお腹の音に、文香の方を向く。文香は恥ずかしそうに繋いでいない方の手で、顔を隠した。