(花が、咲いている)
蕾だったはずの此岸花が幽玄な光に照らされ、大地を覆い尽くすように咲き誇っていた。花びらは細く、しなやかに伸び、生き物のように揺らめいている。その赤はあまりにも鮮烈で、まるで雪に滴る鮮血のようだ。
「己の影と向き合うとき、花は咲くだろう」と語った蒼玄の言葉が蘇る。私は静かに尋ねた。
「……蒼玄は、過去と向き合ったの?」
「……向き合うしかなかった」
ぽつりと呟き、花々に目を落とす。洞窟の天井からは細い光筋が差し込み、此岸花を神秘的に照らしている。美しい花だが、同時に底知れぬ恐怖を感じさせる。まるで生と死の境界線に立っているような感覚。先ほど見た光景を思い出してしまい腕をさすった。
蒼玄は話を切り替えるように明るく言う。
「さあ、此岸花を採取しよう。特別な温泉が作れるはずだ」
私たちは協力して、慎重に此岸花を採取した。開花した花におそるおそる触れたが、特に何も起こらない。「根には毒があるから気をつけてくれ」という蒼玄の言葉に従い、慎重に茎を折り取っていく。
作業中、私は時折蒼玄の横顔を盗み見た。彼はただ無表情で花を摘んでいる。その固い横顔に胸が痛み、私はそっと逸らした。
此岸花を採取し、洞窟を後にする頃には、夜も更けていた。蒼玄はくるりと私たちの方を振り向き、明るい声で言う。
「温泉をつくるか!」
「……」
「……あぁ」
引きつった顔で頷く私たちに蒼玄は苦笑し、しゃがんで印を結んだ。温泉が現れると同時に、湯気が夜空にのぼっていく。鞄を広げ、素材をどれにしようかと見比べている。私たちはしばらく立ち尽くしていたが、不意に岳が動き出した。蒼玄に近づいて話しかける。
「……今回はどんな素材を使うんだ?」
「珍しいな、アンタが興味を持つなんて」
「いいだろう、別に」
「俺に元気がないと思ったか?」
「なっ!」
岳は顔を真っ赤にさせて声をあげる。「別にお前の心配なんかしていない!」とむきになり、そっぽを向いた。「冗談だ」と蒼玄は目を細め、素材の説明をしはじめる。
彼の前には、私の手のひらよりも大きい薄桃色の花びら、木の器に詰められた深緑の粉、一寸ほどの橙色の果実が並んでいた。
「この大きな花びらは『天心蓮』、心を癒す効果がある。この粉は『静寂石』を削ったものだ。これも同じような効果だな。香り付けには『橘の実』を使おうと思っている」
それらの素材をまとめて温泉に放り込み、最後に先ほど採取した此岸花を静かに入れた。棒でかき混ぜると、湯は薄紅色になり、ふわりと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
「よし、できたぞ」
蒼玄に「ほら」と促される。少しだけ和らいだ空気に安心したように、岳は目を細めた。
「私たちは夕餉の準備をしていますので」
岳の言葉に頷く。彼らの優しさや気遣いが、心の中で蛍のように灯っていた。
私は温泉の裏手に回り、階段を登っていく。
そして深呼吸をし、ゆっくりと温泉に足を入れた。驚くほど心地よい温度が、私の体を包み込む。徐々に体を沈め、やがて肩まで湯に浸かった。
温泉に全身を浸すと、不思議な感覚が全身を駆け巡った。まるで体の芯から温まっていくような、そして同時に何かが溶けていくような感覚。私は思わず目を閉じ、その感覚に身を委ねた。
湯面から立ち昇る湯気は、橘の実を中心とした複雑な香りを放っていた。爽やかな柑橘系の香り、深みのある木の香り、そして微かに感じる花の香りが混ざっていた。香りの調和が、私の心を落ち着かせ、同時に何か懐かしいような感情を呼び起こしていた。
私はゆっくりと手を動かし、湯をすくい上げた。
指の間から零れ落ちる薄紅色の湯を見て、蒼玄の父の腹から流れる鮮血を思い出す。その記憶を皮切りに、狭間の洞窟で見た蒼玄の過去が次々と浮かび上がってしまう。
幼い蒼玄の笑顔、愛情に満ちた両親のまなざし。暗転したあとに見た、村人たちからの迫害や母の死、そして唯一の家族である父親の自死。
『なぜ、なぜ、俺を置いて……!』
蒼玄の咆哮を思い出し、私はぐっと目頭に力を込めた。悲しかっただろう、苦しかっただろう。彼の気持ちをなぞって心に湧き上がったのは、黒い嵐のような禍々しい激しい感情だった。
村人からの迫害や妻の死、荒れ狂う海のような激しさに耐えきれず、彼の父は自身に刃物を突き刺した。
死は救いだ。残される者の方がずっと辛い。母が死んだあと、自死も許されずただ生かされ続けた自分の人生と重ね合わせる。
黒い禍々しい嵐は過ぎ去り、心に残ったのは、一縷の悲しみだった。
洞窟で彼の過去を見たときも、胸が締め付けられる苦しさがあった。そのときは津波のように押し寄せる感情に困惑するしかできなかった。しかし今、私の胸の内にある感情は、瞳からあふれる涙となって流れ続けていた。
「蒼玄……」
私は小さく名をなぞる。その声に気づいた蒼玄が、湯船の縁に座った。
「どうした? 具合でも悪くなったか?」
「……あなたの過去を、思い出して……」
私は涙を拭おうとしたが、次々と溢れ出てくる。蒼玄は一瞬だけ見開いたあと、優しく見守ってくれていた。その笑みの中には、陰りのある感情など何も滲んでいない。思わず尋ねてしまう。
「なぜ……なぜ笑っていられるの? あんな思いをしたのに……」
華怜から受けた暴力や惨い言葉たち、下女たちの冷たい囁き声や視線、民たちから投げられた石や暴言。体にできた傷は何一つ残っていない。しかし心の中にできた傷は、過ごす日々の中で何度も痛みを訴えた。その痛みが疼くたび、恨みや憎しみなど澱のような感情が一緒くたになり、私から生きる気力を奪っていった。
私たちの間に沈黙が流れる。蒼玄はぽつりと聞こえるか聞こえないかくらいの声量で言った。
「長い時間、恨んださ……もう俺は、恨み疲れた」
彼の言葉には様々な感情が含まれていた。
私はなんと答えればいいか分からず、うつむことしかできない。堰を切ったように涙は止まらず、次々とあふれ出てくる。温泉の水面に落ちては、波紋が広がっていく。蒼玄は穏やかに言った。
「優しいな、お前さんは」
蒼玄は私の頭を優しく撫でた。その感触に、涙が止まってしまう。小さな鳥が羽ばたくように、心臓の鼓動が大きく打ち始める。今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。
私が見上げると、彼もまたやわらかな表情で見つめ返していた。「やっと泣き止んだな」と白い歯を見せ、手が離れる。胸が締め付けられ、もっと撫でて欲しいと言ってしまいそうになる。しかし私の唇は動くことなく、ただ薄紅色の水面を見つめることしかできなかった。
*
狭間の洞窟を後にしてから三日目の夕暮れ時、私たちは霧雨の里と呼ばれる人里にたどり着いた。
空からは細かな雨が降り続き、人里全体が薄い霧に包まれているように見えた。その光景は美しくもあり、少し物悲しくもあった。
「ここで一泊するか」
蒼玄の提案に、私と岳は頷いた。長時間歩き続けた足は疲れ切っており、温かい食事と柔らかな寝床が恋しかった。
里の中心に向かって歩きながら、私は周囲の様子を観察していた。霧雨の里は、その名の通り霧に包まれた静かな街だった。石畳の道には雨水が溜まり、行き交う人々は皆、笠を深くかぶっていた。
しばらく歩くと、「霧の休み処」という小さな宿屋が目に入った。木造の趣のある建物で、軒先からは提灯の温かな光が漏れていた。住民によると里にある唯一の宿屋らしい。
宿に入ると、温かな空気と木の香りが私たちを包み込む。優しげな表情の老婆が微笑んでいた。
「いらっしゃい。旅のお客さんかい?」
女将と思しき彼女の声は、どこか懐かしさを感じさせるものだった。
「あぁ、一泊したいんだが空いているかい?」
「もちろんさ。こんな辺境の里にくる物好きは中々いないからねぇ。まずは温かいお茶でも飲んで、ゆっくりしておくれ」
彼女の親切な言葉に、私たちは微笑みを浮かべながら小さく会釈を返した。
半刻ほど経つと、女将は部屋に夕餉を運んでくれた。山菜がたっぷりと使われた夕餉に舌鼓を打つ。蒼玄が褒め言葉を口にすれば、女将は嬉しそうに顔をほころばせた。
私たち以外に客はおらず、女将と旅の話で盛り上がる。話の途中で、狭間の洞窟の話になり、洞窟に描かれていた壁画の特徴を話すと、興味深そうに頷いた。
「そりゃ、春蕾の一族じゃないかねぇ」
「春蕾の一族?」
「あぁ。この地方に伝わる不思議な力を持つ一族のことさ。彼らは春の呼び寄せたと言われている」
女将は言い伝えの内容を語りはじめた。
春蕾の一族は、冬になると恵みが詰まった雪を降らせ、春には雪を溶かした。彼らのおかげで、この地方は豊かな水に恵まれ、作物が実り、人々は幸せに暮らしていた。
しかし約三百年前。突然、長く厳しい冬が続いた。作物は育たず、多くの人が飢えに苦しんだ。国の長たちは、民の怒りを鎮めるために、その一族を「災いをもたらす者」として追い詰めていった。かつては信仰の対象として崇められていた彼らは、一転して忌み嫌われる存在になってしまう。
生き残った者たちは、身を守るために力を隠して生きることを選んだ。彼らは互いに離れ離れになり、人々の中に紛れて暮らすようになった。
「……春蕾の力を持つ者はまだいるのでしょうか?」
「どうだろうねぇ。御伽噺のような話だからねぇ」
女将は首を傾げながら、のんびりと言った。
「人間は、勝手だな」
蒼玄が湯飲みを傾けながら、聞こえるか聞こえないくらいの声で呟く。その固く張り詰めた横顔を、私はそっと盗み見ていた。