泉は長がいる屋敷を超えた先、鬱蒼とした森の中に隠されていた。その存在を知る者は限られ、足を踏み入れることを許される者はさらに少ないそうだ。
 古びた鳥居をくぐり、苔むした小道を抜けると、視界が一気に開けた。巨石に囲まれた聖域は、まるで時が止まったかのような静寂に包まれている。風すらも遠慮がちに吹き、木々のざわめきさえも聞こえない。

 中央に佇む泉は、まるで巨大な鏡のようだった。水面は綺麗に磨きあげられた銀盤のようで、周囲の景色を鮮やかに映し出されている。水面近くから岸辺一体にかけて、小さな花々が群生していた。

 蒼玄はしゃがみこみ、花にそっと触れた。翡翠色の花弁が重なり合い、空に向かって徐々に開いている。


「これが蛍火の花だ」


 そう言って、泉へ視線を向ける。私と岳も倣うようにして、じっと息を潜めた。泉に映る夜空の星々や木々を眺めながら、そのときを待ち続ける。
 半刻ほど経った頃、蒼玄はぼそりと呟いた。


「そろそろか」


 泉の中心から一つの光が浮かんだ。

 その光を皮切りにして、次々と光が舞い上がっていく。一つ、二つと増えていき、気づけば無数の蛍が聖域に舞い降りた。蛍たちは花の間を縫うように舞い、花々は呼応するかのようにぼんやりと黄金色に輝いた。花の光は蛍の動きにあわせて、まるで波のように広がっていく。

 幻想的な光景に呆然としていると、蒼玄は「どうだ?」と尋ねてきた。

 胸の内をつきあげるような衝動があった。しかし同時に、心の奥底で押し込まれているような、息苦しさを感じてしまう。私はやっとの思いで、「光っています」とただ事実を答えた。
 彼は一瞬だけ眉根を寄せたあと、「そうか」とだけ頷く。それ以上は何も言わずにしゃがみこみ、蛍のようにやわらかく光る花を採取した。


 *



 長の使いである青年に改めて礼を言い、私たちは町の入り口へと歩いていた。
 郷の中にも多くの蛍たちが踊っており、人々の目を楽しませている。石畳の上を滑るように進む蛍の列は、まるで光の川のようだった。
 蛍を追いかけて怒られている子ども、近くを通り過ぎる蛍に感嘆の声をあげる民の声、そんな彼らの姿を横目で見ながら通り過ぎる。

 すると蒼玄は独り言のように言った。


「自分と違い、人間の生は儚く短い。だからこそ、この一瞬に感動できるのだろう」


 間をあけ、ぼそりと言う。


「俺はそれが、少しうらやましい」


 いつも飄々としている彼にしては珍しく寂しげな声だった。
 ちらりと見上げるが、横顔からは何を考えているか分からない。朱色の瞳に蛍の光が、時折またたいていた。

 郷の外へ出てから暫し歩き、人目のつかない場所へと来た。先ほど見せた寂しげな表情は幻だったのかと思うくらい、蒼玄は嬉々として言った。


「さぁさっそく温泉の準備だ!」


 蒼玄がしゃがんで祝詞を呟きながら印を結ぶと、空気が微かに震えはじめた。
 地面に文様が浮かび上がり、湯気が昇っていく。湯気が晴れると、そこには洞窟で見たときと同じ温泉が佇んでいた。檜の香りが漂い、角形の湯船の表面には細かい傷が無数についている。
 岳は唖然とした顔で温泉を見上げながら言った。


「疑問なんだが、この湯はどこの湯なんだ……?」
「老湯守が守っていた温泉と繋がっている。今も湧いているから、一回一回新しい湯に入ることができるんだ」
「その湯が汚されたりはしないのか?」
「老湯守の弟子が常に守ってくれているから、そこは心配ないさ」


「よし」と腕まくりをした蒼玄は鞄を広げ、素材を吟味していく。

 お湯の温度を調整する炎帝晶と、温泉に沈まないようにする風霊草を取り出す。そして悩むような素振りを見せたあと、苔がびっしりと生えた石と、手のひらほどの大きさのつるりとした鱗を手に取った。
 私の目線に気づいたのか、それぞれ説明してくれる。


「この苔は朝露の苔だ。入浴後にしっとりとした肌触りが期待できる。朝日をたっぷりと浴びた苔を使うのがコツだな。
 次に黄龍香。その名の通り龍の鱗だ。これは香り付けで使う」
「龍?」
「龍とはいっても実態はただの大蛇だ。昔の人間には伝説の龍のように見えたんだろうよ。
 これはこのままでも使えるが、今回は……」


 蒼玄の唇が僅かに開き、言葉を静かに紡ぐ。


「大神の焔 息吹に宿りし 顕れ出でよ」 


 鱗に向かって息を吹きかけると、黄龍香から炎が立ち上がった。優雅に舞う蝶のように、ゆらゆらと揺れながら大きくなっていく。雷雨の直後の大地から立ち上るような鮮烈な香りが満ち、そのまま温泉の中へと放り込んだ。


「燃やすと一度しか使えないが、せっかく蛍火の花を調合するんだ。贅沢にいこう」


 地面に広げた他の素材たちも次々と投げ入れていく。全て入れ終わったあと、軽く跳ねて温泉の縁に飛び乗る。湯船に立てかけてあった棒を持ち、温泉をかき混ぜた。すると水面から微かな光が放たれ、翡翠の色を帯びた。

 蒼玄は額の汗をぬぐい、温泉から飛び降りる。


「できたぞ」


 満足そうな笑みで私と向き合った。「さぁ入れ」と目が語っている。


「……最初に入っていいのですか?」
「あぁ、お前さんの状態的にも早く入った方がいい」


 腹あたりに目線を送りながら言う。私は頷き、湯船に設置された階段を登った。そして片足ずつゆっくりと身を沈めていく。すぐさま蒼玄が近くへやってきて、感想を尋ねてくる。


「どうだ湯加減は?」
「前より、熱いです」
「せっかくの露天風呂だからな」


「さて俺たちは夕餉の準備でもするか」「ゆっくり浸かってくれ」と蒼玄の声に、こくりと頷く。私は湯船の縁に後頭部を預けた。木々が揺れる音が聞こえ、目の前には満天の星空が広がっていた。

 そのまま星たちを眺めていると、ふわりと一粒の光が舞った。湯船の底を見れば、蛍火の花が強く発光していた。水面から先ほど見た景色と同じ、蛍のような光が漂っていく。

 私はそっと光に触れた。ほのかに温かい。

 泉で無数の蛍をみたとき、胸の内には押し込められた感情があった。再び同じ感情が押し寄せ、深く激しい衝動となって体を巡っていく。血液と共に駆け巡った感情は喉元を通り、私は気づけば呟いていた。


「……きれい」
「そうだろう?」


 驚いて見れば、いつの間にか蒼玄が縁に座っていた。
「おい! 準備の途中だぞ!」と岳が怒っている声が聞こえる。彼は人差し指にとまった光を見つめながら、「気づいたかい?」と尋ねてくる。


「さっき君はこの光を見て、『光っている』って言ってたんだぜ」
「……あ」
「少しずつ回復に向かっているな」


 蒼玄は満足そうに微笑み、軽い身のこなしで温泉から降り立った。
 彼の言葉が頭の中で反復され、私は再び満天の星空を眺める。これまでは「空に星が浮かんでいる」と事実を認識するだけだった。しかし今は──

 そよ風に揺れる葉擦れの音が聞こえた。大地を思わせるような力強い香りの中には、ほのかに草花の甘い香りが漂う。温泉の湯気が立ち上がり、星空との境界をぼやかしていく。白い視界の中で、蛍のような光が次々と飛び立っていった。


(世界はこんなにも、美しい)


 自分の体が驚くほど軽い。まるで天と地の狭間に浮かんでいるようだった。心地よい浮遊感に身を任せながら、私は目をゆったりと閉じた。

 はっと目を開いたのは、「そろそろのぼせるぞ」という蒼玄の声が聞こえたときだった。気づけばずいぶん長く浸かっていたらしい。両手をつき、体を持ち上げて縁に座った。体勢を整え、階段に足を踏み出す。少し眠ってしまったのか、頭の中がぼんやりとしていた。

 私のふわふわとした様子を見かねたのだろう。翼を広げ空を飛んだ蒼玄が、「ほら」と手を差し出した。その手をじっと見つめたあと、私はそっと手を重ねる。豆がところどころ潰れているからか、硬く大きな手のひらだった。彼に支えてもらいながら、注意しながら階段で降りていく。

 地面に降り立ったと同時に、羽団扇で服を乾かしてもらった。

 そのあと岳が用意してくれた焼き魚や味噌汁など夕餉を食べている間に、蒼玄は温泉に入った。「あ~~~! いい気持ちだなァ!」と声を張り上げる蒼玄。焼き魚をかじりながら岳に問う。


「岳もこのあと入るの?」
「……あんな怪しい奴が用意した湯など入りません」


 不機嫌そうに口を結びながら言う。強要するつもりはなかったので、「そう」とだけ相づちをうった。
 夕餉を食べ終える頃、「あぁさっぱりした」と晴れやかな笑顔で蒼玄はあがった。体から湯気があがっている。


「黄龍香と合わせてよかったなァ。先ほど泉で見た景色をうまく再現できた」
「温泉についての感想もいいが、そろそろ宿に戻るぞ」


 そっけない岳の言葉に、「つれないねェ」と肩をすくめる。蒼玄が再び印を結ぶと、白い靄と共に温泉は跡形もなくなった。荷物をまとめ、帰路につく。

 蛍の大部分は旅立ってしまったらしい。今はわずかに残った蛍だけが、ふわりと浮かんでいるだけだった。時折吹き抜ける夜風の涼しさが、湯の温もりが残った肌に心地よい。雲の隙間から満月が覗いており、私は月を追いかけるようにして宿まで歩いて行った。

 宿に戻ると、蒼玄は布団の上であぐらをかき、地図を眺めた。どうやら次の目的地を考えているらしい。岳が地図を眺めながら尋ねる。


「次の素材は何だ?」
「『此岸花』を取りに行こうと思っている」
「此岸花? 彼岸花ではなく?」


 岳の疑問の声に、彼は「そうだ」と同意するように頷く。


「見た目は彼岸花そっくりらしい。だが此岸花は特定の場所にしか生えず、採取も難しいらしい」
「毒でもあるのか?」


 岳の問いに、蒼玄は腕を組んで唸った。「噂によると……」と前置きして言葉を続ける。


「『己の影と向き合うとき、花は咲くだろう』と」
「己の影?」


 私が首をひねると、蒼玄も詳しいことが分からないのか肩をすくめた。岳は苦々しげに言う。


「取り方もよく分かっていないものを取りに行くのか……」
「しかもここから一月はかかる」
「なっ!」


 岳は目をくわっと開き、怒りを露わにした。そして蒼玄を指さして、私の方を見ながら声を張り上げる。


「氷織様! こんな奴についていくつもりですか!」
「そうは言っても、私には行く場所もないし……」
「一月も歩かせるなんて! そんな過酷な旅……」
「過酷なんかじゃないわ」


 岳の言葉を遮るようにして、私は首を横に振る。
 脳裏に浮かんでいたのは、華怜の歪んだ笑みや、下女たちの囁き声、そして民たちの憎悪に満ちた視線だった。
 自嘲の笑みを浮かべながら言う。


「あの離れにいる頃に比べれば」


 私の言葉に、岳は目を見開いた。ぐっと唇を結び、絞り出すように言う。


「……申し訳ございません。出過ぎた真似を……」


 私の身を案じてくれたのは分かっていたので、不快な気持ちにはならなかった。気にしないでと、ふるふると首を横に振る。
 すると「謝る相手が違うんじゃないかい?」と蒼玄は目を細め、圧を込めて言った。私は岳と目線を合わせて、謝罪を促す。岳は苦虫をつぶしたような顔をしたが、拳を握りしめ、小さな声で言った。


「す、すまなかった……」
「ん、聞こえなかったなァ?」
「貴様!」


 耳に手をあておどけたように言う蒼玄と、立ち上がって怒りを表す岳。蒼玄はけらけらと笑っていた。