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 レオの厚意でその日は泊まらせてもらい、次の日、私たちは出発した。
 瑞穂国であったことやレオとの出会いについて話しながら、私たちは歩を進めていく。目的地は決まっていなかった。地面の雪を見つめながら、小さい声で問う。


「……これからどうすればいいのでしょう」
「どうしたい?」


 蒼玄に聞かれ、私は迷う。
 この一年の旅は心が安まることがなかった。隠れるように歩き、逃げるように旅をしていた。しかし父が殺された今、私たちを害なす者はいなくなった。
 私は苦笑しながら本音を漏らす。


「そうですね……まずは、休みたいですね」


 私の言葉に蒼玄は一瞬だけきょとんとしたあと、ニヤリと笑った。表情の意味が分からず首を傾げれば、楽しそうに唇をあげた。


「それならいい方法があるじゃないか」


 夕刻、私は森の中で蒼玄が温泉を調合する様子を見つめていた。岳は近くの町へ先に行き、宿を捜してくれているため二人きりである。
 彼の温泉に入るのは久しぶりだ。刺客に追われる日々を過ごしていたので、ゆっくり湯に浸かる暇がなかったのだ。

 私は右手で胸をおさえる。

「心が凍っている」と告げられたあの日から、私たちの旅ははじまった。蛍火の花、此岸花、霧氷の実……そのあとも様々な素材を試し、私の心を溶かすために尽力してくれた。蒼玄曰く「大部分は溶けているが、まだ完全には溶けていない」らしい。

 蒼玄をちらりと見れば、真剣な表情で調合していた。彼は温泉の縁に腰かけ、様々な素材を湯の中に入れていく。棒でかきまぜたり、湯を舐めたりしては首を傾げていた。その姿に思わず微笑んでしまう。


「あともう少しなんだけどなァ……」


 蒼玄の呟きが聞こえた。彼の表情には、どこか物足りなさが浮かんでいる。極上の温泉を作ろうと旅をしてきたが、まだ何かが足りないのだろうか。
 私は立ち上がり、見上げながら励ました。


「きっと、すぐに完成しますよ」


 蒼玄は手を止め、私を見おろしながら微笑む。
 のどかな空気が透き通る夕暮れ。夕陽のやわらかな光が彼を包み込んでいた。その優しいまなざしに胸が締め付けられる。


「ありがとう、氷織」
「白雪も『がんばれ』って言ってます」


 温泉の縁に止まる白雪を指さして、私はくすくす笑う。小首を傾げている姿に、蒼玄も声を出して笑った。黒いつぶらな瞳がかわいらしい。
 すると私たちの笑い声に反応するように、白雪が飛び立った。


「あっ……」


 白雪の真っ白な羽が一枚、ふわりと温泉に落ちる。

 その瞬間だった。

 温泉全体が、まるで月光を浴びたかのように、柔らかな光を放ち始めた。


「これは……」


 蒼玄の声が震えている。彼は恐る恐る手を伸ばし、光る湯面に触れた。何度も確認するように触れ、真剣な表情で湯を舐める。そして慌てて縁から飛び降り、私の両肩を掴んだ。


「氷織! 今すぐ温泉に入ってくれ!」


 彼の声には、喜びと興奮が溢れていた。子供のように無邪気な表情に、私は目を丸くする。
「は、はい」と私は急かされるまま、温泉の裏手に回って階段を上る。そして、ゆっくりと温泉に足を入れた。

 入った瞬間、今までの温泉とは全く違うと確信した。

 湯の温もりが、まるで私を抱きしめるように全身を包み込む。そして温もりと共に、不思議な感覚が全身を巡っていく。

 湯面から立ち昇る湯気は、夕陽に照らされて神秘的な光景を作り出していた。
 湯の色は琥珀色だが、光の加減で微かに金色に輝いて見える。湯面には小さな光の粒子が浮かんでいて、星空を湯船の中に閉じ込めたかのような幻想的な光景を生み出していた。

 香りはこれまでにない複雑さと深みを持っていた。森の中にいるような清々しさと、花々の甘さ、そして微かに感じる果実の香りが絶妙な調和を奏でている。その香りを吸い込むたびに、心が軽くなっていくのを感じた。

 私は目を閉じ、その感覚に身を委ねる。
 湯に浸かりながら、私は周囲の自然との一体感を感じていた。歌うように揺れる木々、頬をゆったりと撫でる風、黄昏の空にまたたく星。すべてが調和し、私の心を癒していく。

 すると、私の中で何かが溶け始めるのを感じた。長い間、私の心を覆っていた氷が少しずつ、でも確実に溶けていく。その氷が溶けるにつれ、様々な感情が湧き上がってきた。

 蒼玄との思い出が次々と鮮やかに蘇る。彼への思いが、溢れんばかりに湧き上がってくる。

 気がつくと、私の頬に涙が伝っていた。
 そして気づく──これら全てが「私」なのだと。



「氷織?」


 蒼玄の声には、不安の色が滲んでいた。
 私は安心させるように「大丈夫です」と首を振り、蒼玄を見つめた。


「できましたね」
「え?」
「極上の温泉が」


 私がそう言えば、彼は一瞬だけきょとんとし、大声で笑いはじめた。
 急に笑い出した意味が分からずまばたきを繰り返せば、優しいまなざしで私を見つめ返した。


「実はな、」
「はい」
「極上の温泉が完成したら、死のうと思っていたんだ」


 想像していなかった言葉に息を呑む。
 思い出したのは、旅のはじめに洞窟を出発したあとの会話だった。

「もしその、お前が言う『極上の温泉』とやらが出来たらどうするんだ?」

 岳の質問に、蒼玄は立ち止まり振り向いた。彼は微笑んでいたが、決して踏み込ませない孤独を宿していた。
 あのときの表情の意味を理解してしまう。そして蒼玄が死んでしまうところを想像してしまい、呼吸ができなくなるくらい胸が苦しくなった。


「もうやり残したこともないと思ってな。父のように自死しようと……」


 そこで言葉を切って、まぶたを伏せる。そして再び私の瞳を見据えた。
 彼の目には、もはや死を望むような暗さはなかった。


「でも今は、生きたい」


 目を細めて笑う彼を見て、衝動が胸を突き上げる。
 気づけば私は手を伸ばして、彼の頭を優しく抱きしめていた。


「聞いて欲しいことがあるの」


 心臓がうるさくて仕方がない。だけどこの気持ちをどうしても伝えたかった。
 私たちは顔を合わせ、見つめ合った。岳はいつものように微笑んでいる。私は口を開いた。


「私、あなたのことが ──」