瑞穂国を去ってから一年が経った。
 私たちは温泉の素材を捜しながら、様々な国を転々としていた。その間、烏助が定期的に瑞穂国の情報をもたらしてくれた。
 切り株に座り、烏助の報告書を見ながら私はため息をつく。

 父は条件を呑まなかった。

 一つ目の条件、華怜を正当に裁くこと。

 命令をきかず、私を城から追放したこと。
 刺客を使い、私を殺そうとしたこと。
 すべての行いが父を激昂させた。

 しかし華怜にはまだ利用価値があると判断したらしい。父が彼女を裁くことはなかった。
 華怜は一月ほどは部屋に引きこもっていたが、ある日突然、皆の前に現れたそうだ。変わり果てた姿に下女たちは「ひっ」と悲鳴を小さく上げた。見下していた私に情けをかけられた事実は、彼女の誇りを粉々に砕いたのだろう。美しかった顔立ちは屈辱で歪み、見る影もなくなっていた。目は血走り、瞳孔が開き、理性の光を失っていたそうだ。

 その後、華怜は自暴自棄になり堕落の道を辿った。妻子がいる役人に言い寄り、国庫金で高価な酒や着物を購入した。正室の娘が粗暴な振る舞いをすることで瑞穂城内部の腐敗は進み、才がある者は逃げ出したという。


 二つ目の条件、瑞穂国をより良い国にしていくこと。

 しかし父は反対に、民たちの税を重くした。寒気が要因の不作や瑞穂城内部の腐敗も重なり、彼らは貧困に喘いだ。老人は口減らしのため自死を選び、娘たちは金を稼ぐために身を売りはじめた。治安も悪化し、瑞穂国の城下町には近寄らない方がいいと旅人の間で噂になっているほどだ。


 三つ目の条件、私たち三人に危害を加えないこと。

 瑞穂国を発ち、様々な国を転々としていた私たち。烏助の情報によると、父は血眼になって私や岳を捜しているらしい。刺客の場所を教えてくれた烏助や、列島の地理に明るい蒼玄のおかげで、今はまだ出くわしたことはなかった。

 蒼玄は呆れたように言う。


「まさか全ての条件を反故するとはな」
「そうですね……」


 私は呟き、膝の上に乗せた拳を握った。ここ数月ほどずっと浮かんでいた考えを口に出す。


「……蒼玄とは分かれて行動した方がいいでしょうか」


 父が狙っているのは私と岳で、蒼玄は巻き込まれているだけだ。罪悪感に襲われ提案したのだが、返ってきたのは不機嫌そうな声だった。


「氷織を男と二人きりにさせるもんか」
「……!」


 朱色の瞳が私をじっと見つめる。顔から火が出そうなほど熱くなっていった。穏やかに降り続ける雪の冷たさが心地よい。
 私の反応に蒼玄はけらけらと楽しそうに笑った。その余裕そうな表情がちょっと悔しくて睨むが、すぐに顔をほころばせ受け流されてしまう。

 そのとき肩に烏助を乗せた岳が現れた。真剣な表情で名を呼ばれる。


「氷織様」
「……来たのね」
「はい」


 彼は頷く。
 私は複雑な感情を抱えながら、空を眺めた。無限に広がるかのような空の下で、ひとつ、またひとつと雪がゆっくりと落ちてくる。まるで息を潜めたかのように静まり返った世界の中で、雪は穏やかに降り続けていた。
 白い息を吐きながら、私は呟く。


「災いが訪れるまで、あと少し」


 明朝、私たちは瑞穂国の城下町へやってきた。
 城下町の入り口あたりにそびえ立つ、木造の火の見櫓を見上げる。今は誰も見張っていないようだった。


「この様子じゃ、見張りなんかしても意味ないからなァ」


 私の視線に気づいた蒼玄が、町並みを眺めながら言う。
 普段であれば活気に満ちあふれている大通りは、異様なほど静かだった。あれほど賑わっていた通りには一人も歩いていない。

 岳には下で見張ってもらうようにお願いし、私と蒼玄は火の見櫓の階段をのぼっていく。そして最上階に辿り着いたとき、瑞穂城から黒煙があがっているのが見えた。うっすらと何かがぶつかる衝突音もする。

 半刻ほど経っただろうか。怒号の声が大きくなった。
 城下町の奥に、人々の群れが見えた。同時に家の中から多くの女性や老人たちも現れる。おそらく機が熟すまで家の中に避難していたのだろう。

 大蛇のようにうごめきながら、人々の群れは城下町の入り口に向かって動いていく。
 地味で質素な服を着た民たちの中心に、一点だけ鮮やかな色が見えた。

 華怜だった。

「国の宝」とまで讃えられていた華怜の姿は、今は惨めなまでに変わり果てていた。
 石畳や瓦礫で傷つけたのだろう。華やかな着物は引き裂かれ、泥と血で汚れていた。長く美しかった髪の毛は乱れ、雪道を裸足で歩かされていた。
 彼女の両腕は縄で後ろ手に縛られ、縄の先は怒り狂った民の手に握られている。華怜は地面を引きずられるようにしながら、前に進まされていく。彼女がよろめくたびに怒声が飛び変わった。

 家の中から飛び出した民たちも、次々と華怜に向かって罵声を浴びせていく。


「罰を与えろ!」
「お前のせいだ!」


 その光景を見て、立っていられないくらいの痛みが走る。

──同じだった。

 華怜の命によって城下町を歩かされたあの日と、何もかも、同じだった。

 彼女が傷だらけになっている様子を見ても、晴れやかな気持ちにはならなかった。悲しみと困惑と、様々な感情が渦巻き言葉にならない。嵐のように吹き荒れる感情によろけそうになったとき、私の手のひらに温かな体温が包んだ。
 見上げたそこには、朱色のまなざしがあった。
 荒立った心が少しずつ落ち着いていく。私は再び目の前の風景を見下ろした。

 そして群衆が火の見櫓の近くへ来たとき、華怜の目が私たちを捉えた。
 彼女の目が一瞬だけ、驚いたように見開く。次の瞬間、憎悪に満ちた鋭い光を放った。


「氷織ぃぃ!! お前がぁぁ!!!!!」


 彼女の叫びは、周囲の喧噪を切り裂くように響き渡った。狂気の炎を燃やしながら絶叫する。


「私を見下すなぁぁぁぁ!!!!!」


 華怜は狂ったように私への怨念の言葉を叫び続けていたが、長くは続かない。群衆に押し流され、再び人々の中に埋もれていった。そのまま城下町への外まで連れて行かれる。
 私はその様子を見えなくなるまで、ずっと眺めていた。

 町に再び静寂が戻ってきたとき、蒼玄は私の肩を抱いた。


「……氷織がしたことは間違っていない」
「……」
「この国はいずれ消えゆく運命だった」


 貧困に喘ぎ、攻めてきた民たちを前に、城を守るはずの衛士たちは逃げ出した。能ある者がいなくなった瑞穂城では、統率をとれる者もいない。あっという間に父は複数人の民に囲まれ、農具を何度も振りかざされ絶命したらしい。縄で引きずられていった華怜も、同じような最期を迎えるのだろう。

 私の選択は、多くの人を苦しませる結果になった。

 この選択が正しかったかは分からない。これからも分かることはないのだろう。
 胸に走る鋭い痛みに目を閉じる。この痛みが、この選択をした自分への罰だと言い聞かせながら、しんしんと降り続ける雪の冷たさを感じていた。


「行きましょうか」


 私の声がけに蒼玄は「あぁ」と相づちを打つ。火の見櫓の階段を降りると、見張りをしていた岳が近づいてきた。そして独り言のように呟く。


「……終わったのですね」


 私が頷けば、彼は生まれ育った城下町の方へ目を向けた。そこには人はおらず、閑散とした通りには静かに雪が降り続けていた。

 そのとき、城下町とは反対の方向から雪を踏む足音が聞こえた。後ろを振り向けば、そこには笠を深くかぶった一人の男性が立っていた。灰色の着物の上に、紺色の羽織を重ねている。腰には太い革の帯が巻かれ、短刀が差し込まれていた。

 警戒心を強める私たちの前で、男は笠をあげた。その顔を見て驚く。


「あなたは……」