今まで感じたことのないような激しい感情が、私の体を巡り始めた。体中の血液が炎に変わったかのようだ。
心臓の鼓動が激しくなり呼吸が荒くなる。指先が痺れ、全身が熱を帯びてくる。そして熱は私の中心へと集まっていった。体はひどく熱いが、頭の中は驚くほど冷静だった。
感覚が研ぎ澄まされていく。
「おい、動くな!」
私の首元に刃物をあてた刺客が叫んだ。一度、静かに目を閉じて深く息を吸い込む。その瞬間、周囲の空気が一瞬凍り付いた。刺客は「あっ……がっ……」と倒れた。見下ろせば彼の指先が凍っている。
そのまま手を前に差し出せば、手のひらから細かな雪の粒子が湧き出した。はじめは霙のようだったが、やがて渦を巻きながら私の周りを舞い始める。雪の渦は次第に大きくなり、小さな吹雪のようになった。
「な……何!?」
華怜の愕然とした声をあげた。しかし、私には気にする余裕はなかった。
私は手を伸ばし吹雪を操った。近くにいた刺客たちがまず風の餌食になった。彼らの体は紙人形のように軽々と持ち上がり、遠くへと吹き飛ばされた。
私に襲いかかろうとした刺客たちが見えたので、人差し指で素早く空をなぞる。すると氷の刃が、彼らを鋭く襲った。呻き声と共に倒れ込む。彼らの悲鳴が風にかき消されていく。
「なによこれ、なによこれ……!」
華怜の絶望的な叫びが聞こえた。
彼女は頭をかきむしり、憎悪に満ちた顔でこちらを睨んでいる。二十人ほどいた刺客たちは既に雪の中に埋まっており、ぴくりとも動かない。
華怜が慌てて逃げようとしたので、足下に大量の雪を発生させて拘束した。引きつった顔でずりずりと後ずさりをする彼女を見下ろし、冷たく言い放った。
「華怜」
「ひっ」
「あなたを生き埋めにするわ。犯した罪を、苦しみながら悔やみなさい」
指を軽く動かせば、華怜の顔が大きく歪んだ。その顔を見て、私は口だけの笑みを浮かべる。「許、して、お姉さま」と聞こえたが、無言で睨みつけた。
「許して」
その言葉は私が何度も呟いた言葉だった。体を殴られたとき、母親を侮辱されたとき、民たちから石を投げられたとき、私はその言葉を祈るように呟き続けた。しかし華怜は救いの手など差し伸べることなく、ただ楽しそうにこちらを見下すだけだった。
華怜の悲鳴が私を昂ぶらせていく。自分の中に湧き上がる力の大きさに酔いしれていた。どのように動かせば力を操れるのか、教えられてもいないのに、私ははっきりと認識していた。強大な力が体に馴染んでいるのが分かる。
この力があれば、誰も私を傷つけることはできない。誰も私から奪うことはできない。この力さえあれば……
恍惚の笑みを浮かべながら手を動かす。白い嵐が華怜に襲いかかろうとしたときだった。
「氷織!」
突然、後ろから誰かに抱きしめられた。逞しい腕が私の体を拘束する。
「もういい……もういいんだ……」
「離して!」
私は叫んで逃れようとしたが、蒼玄の腕の力がそれを許さなかった。目の前には怯えきった目でこちらを見てくる華怜がいた。今までされてきた数々の行為を思い出し、私は衝動のままに、腕を振ろうとする。蒼玄の懇願するような声が耳元で響いた。
「頼む、氷織」
「どう、して」
「お前は!」
蒼玄は叫んだあと、絞り出すように言った。
「恨むだけの人生を歩まないでくれ」
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。振りかざした腕をぶらんと下ろす。体内に巡っていた様々な感情が、涙となって次々と流れていく。どうして、どうして。抱えていた様々な感情が一気に噴出し、終いには子どものように大声で泣き続けた。
蒼玄は私の体をずっと抱きしめていた。彼の温もりに促されるように、私はしゃくり上げながら涙を流し続ける。言葉にならない思いが、嗚咽とともに口から漏れる。蒼玄はただ私の体を強く抱きしめ続けてくれていた。
体内の怒りが少しずつ静まっていくのと同時に、吹雪が徐々に収まっていく。
「……私、は……」
冷静になった頭で見渡すと、そこには雪の上に倒れる刺客たちや呆然とこちらを見る岳がいた。そこで初めて、自分が何をしようとしていたのかを理解し始める。私は強大な力を衝動のまま操り、多くの人々を殺めようとした。
複雑な思いが渦巻き、呼吸が荒くなる。ひゅーひゅーと喉から空気だけが漏れていく。
彼は私を落ち着かせるように、強く引き寄せた。
「大丈夫だ。もう、終わった」
その言葉と共に、私の中の力が完全に静まる。雪原に再び穏やかな白銀の世界が戻ってくる。先ほどまでの激しい戦いが嘘のようだった。
華怜は白目を剥いたまま気絶していた。雪に倒れ込む刺客たちも呻いたり動いたりはしているが、戦うほどの体力もないようだった。
私の背中から温もりが消え、蒼玄は華怜の近くに立った。ぽたりぽたりと背中から流れる鮮血が雪の上に落ちる。
そして私の瞳をまっすぐに見据え、静かに尋ねた。
「どうする?」
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。息は白い霧となって、冷たい空気の中へ溶けていく。
「城へ連れて帰りましょう。裁きを受けてもらいます」
蒼玄は安心したように「あぁ」とだけ答えた。鞄の中から縄を取り出し、華怜をきつく縛り上げたあと遠くを見つめる。
視線の先には、項垂れて座り込む岳がいた。私は鋭い痛みを感じながら、彼の場所まで歩いていく。雪を踏む音だけが、静寂の雪原に響いた。
「岳……」
私は静かに呼びかけた。
岳はゆっくりと顔を上げる。その目には薄い透明な膜が張られ、後悔が滲んでいた。
「私は……とんでもないことを」
そこで言葉が途切れ、顔が歪んだ。
華怜の傍で跪いた岳を見たとき、まるで誰かに刃物で突き刺されたような激しい痛みが私を貫いた。長年信頼し、頼りにしてきた人。私の唯一の味方だと信じていた人。その岳が、私を裏切った。その現実を受け入れられず、声を出すことさえもできなかった。
「申し訳ございません、氷織様。どんな罰でも受ける覚悟です」
切れ長の瞳に浮かぶ後悔と悲しみに、私の心が揺れる。裏切られた怒りと、長年の信頼がぶつかり合う。
その瞬間、記憶の奥底から懐かしい記憶が次々と蘇った。
あの城で誰もが私を見捨てたときも、岳だけは味方でいてくれた。尽くしてくれていた。
こっそり渡してくれた食事や着物、誕生日に摘んでくれた花、他愛のない話の中で浮かべてくれた微笑み。冷たい水の中で溺れそうになるような日々の中で、何度も何度も手を伸ばし、私を救ってくれた。
長い沈黙の後、私は口を開く。
「……では、これからも私を守って」
「え……?」
首を差し出すように頭を垂れていた岳は、驚いたように顔を上げた。私は優しく微笑む。
「あなたを許すわ。私の傍で罪を償って」
彼の漆黒の瞳からぽろりと涙がこぼれた。「なぜ……こんな私を……」と困惑したように唇を震わす。
その時、蒼玄がやってきて岳を縛っていた縄を小刀で切った。縄が雪の上に落ち、岳は自由になった両手を見つめている。
「さぁ立って、岳」
手を差し出せば、岳は一瞬だけ唇を結び、震えながら手のひらを重ねた。
そのあと私の命令に頷き、岳は雪原に倒れる刺客たちを縄で縛りはじめた。
私と蒼玄は雪の上に座り、手当の道具を広げた。華怜が切り落とした片翼の跡から、鮮血が滲み出ている。見ているだけで心臓が握りしめられるように痛んだ。
「蒼玄、ごめんなさい。私のせいで……」
「気にするな。氷織は何も悪くない」
どこまでも優しい彼の言葉に、涙が浮かんだ。
泣いていることがばれないよう静かに鼻をすすり、器と薬草を手に取った。器で薬草をすり潰し、薬を作っていく。指先にとった薬を傷口に塗りながら語りかけた。
「ありがとう」
「ん?」
「私を止めてくれて。蒼玄が止めてくれなかったら、私は華怜と同じになってしまったわ」
「俺は手助けしただけだ。止められたのは……」
蒼玄はそう言って、首だけ振り向いた。
「氷織の強さだ」
彼の言葉に見開き、そして微笑みを返す。心地よい沈黙が私たちの周りを包んでいた。
薬を塗り終わり、彼の背中に包帯を巻いていると、不意に蒼玄は「あ」と声をあげた。
彼の視線を追うように見れば、雪の中から一つの若葉の芽が出ている。蒼玄は温泉の素材を選んでいるときのように楽しげに言った。
「もうすぐ、春だな」