私と岳が昼餉の準備をしていると、何かを打ち付ける音が響いた。
何事かと蒼玄の方を見れば、霧氷の実を石で叩きつけていた。氷は割れ、実だけを取り出している。
興味がわいた私は近づき「どんな実なんですか?」と尋ねれば、割った実の中を見せてくれた。
若草色の実の中は、桜色だった。中心には濃い色の芯があり、そこから繊細な筋が放射状に広がっている。まるで桜の花びらをそのまま閉じこめたようだ。
「香りも悪くない」
蒼玄の言葉に従い、実を鼻先に近づけた。
途端、甘い香りが鼻腔いっぱいに広がった。果実のようなみずみずしいが、どこか心が落ち着くような心地もする。不思議な香りだ。
「香りづけはこれでよさそうだ」
鞄の中から炎帝晶と風霊草を取り出す。そして小瓶に入った桃色の液体を手に持った。
「それは?」
「『桜霞の雫』という桜の色素を抽出したものだ。ジジイの温泉がある郷の名産品だな」
それを三滴ほど温泉に垂らすと、湯の色が淡い桃色に変化した。
いつもより多めに炎帝晶を入れ、凍ったままの「霧氷の実」も五粒ほど湯の中に沈める。そして棒でかき混ぜ「入っていいぞ」と促した。
階段を登り、湯に足を入れる。霧氷の実のせいか、いつもより少しぬるい。ゆっくりと身を沈めていくと、不思議な感覚が全身を包み込んだ。湯は絹のようになめらかで、まるで優しく抱きしめられているような心地がする。
湯に浸かっているうちに登山で溜まっていた疲れが溶けていくのが分かった。木々に引っかかったり、石で転んだりしてできた細かい傷が治っていく。傷だけではない。心の中にあった不安や迷いなども、少しずつ和らいでいくような気がした。
目を閉じると、先ほど嗅いだ霧氷の実の香りが鮮明に感じられた。
その香りを吸い込むたびに、白霧山での記憶が蘇ってくる。羅針盤片手に山の中を彷徨ったこと、無事に岳と再会できて安心したこと。そして最後に思い出したのは、蒼玄と寄り添って眠ったときのことだった。
「……っ!」
思わず両手で頬を包む。
蒼玄の逞しい腕に抱かれた感触。彼の吐息が耳元にかかったときの、くすぐったさ。彼の胸に頭をもたせかけ、力強い心音を聞いていたときの安心感。
あのときは必死だったため気づかなかったが、今思えば、かなり密着していた。ふと彼の着物から覗く肌を思い出してしまい、慌てて首を横に振った。
「氷織?」
「ひゃ!」
突然名を呼ばれ、間抜けな声を出してしまう。私の反応に驚いたようで、彼は目を丸くしていた。
「考えごとか?」
「な、何でもないです……」
蒼玄の顔を直視できず、目線を逸らしてしまう。しかし彼の視線は突き刺さったままだ。
何か話題を……と考えを巡らし、先ほど名を呼ばれたことを思い出す。朱色の瞳を見ながら口を開いた。
「そう、いえば」
「?」
「私の名前を呼んでくれましたね」
はじめは「お前さん」とか「姫さま」と呼ばれていた。
私の指摘に、蒼玄はきょとんとし、何度か瞬きをした。そして、ふいっと顔を逸らしてしまう。
「……嫌だったらいいが」
「い、嫌なんかじゃないです」
慌てて言うが、彼がこちらを見ることがなかった。何か怒らせてしまったかしらと、湯船の底に沈んだ霧氷の実を見つめる。
そのため私は、彼の耳の端が真っ赤に染まっていたことに全く気づいていなかった。
*
私は朝靄の立ち込める道を、蒼玄と岳と共に歩いていた。次の目的地は「千鳥ヶ滝」という名の滝である。そこには「滝壺の宝珠」という名の月光にあたると光る不思議な石があるらしい。
「転ぶなよ」
「はい」
近頃、蒼玄の何気ない言葉が私の胸を熱くさせる。苦しい、けれど嫌じゃない。この感情は何なんだろうとずっと考えているが、答えは見つからなかった。
昼過ぎ、私たちが小さな林を抜けようとしたとき目の端にあるものが留まった。
「あれは……」
木の下で一羽の鳥が網に絡まっていた。脱出しようともがいているが、動けば動くほど羽が絡まってしまう。私は気づけば鳥に駆け寄っていた。
私は素早く網を解き、岳が慎重に鳥を抱き上げる。おそるおそる手を伸ばし鳥の羽を優しく撫でた。羽は少し抜けてしまっているが目立った外傷はない。遠目からは白い鳥に見えたが、角度によっては虹色に光って見える美しい鳥だ。
「大丈夫よ、もう安全だからね」
私の声に応えるように鳥は小さく鳴いた。そして驚いたことに、私の肩に飛び移ってきた。その温かさと羽の柔らかさに思わず微笑む。
「見たことがない鳥だ」
蒼玄が不思議そうに鳥を観察しながら言った。
私は鳥を優しく撫でながら、その美しい羽を横目で見つめた。
蒼玄は変わらず思案顔で鳥を見つめている。そのとき、鳥が口づけをするように私の頬にくちばしで軽くつついた。彼は面白くなさそうに眉をひそめる。
「喧嘩を売っているのか?」
鳥は「チチッ」と鳴く。その声さえも愛らしくて頬を寄せれば、また口づけをくれる。蒼玄はますます面白くなさそうな顔をした。
岳が近づいてきて、鳥と目線を合わせながら提案する。
「名をつけてはいかがですか?」
「名前……」
鳥は同意するように私の前を楽しそうに飛んだ。
新雪を思わせるような白い羽と、黒曜石のような色をしたつぶらな瞳。頭の中に浮かんだ名前を口に出す。
「……白雪」
そう呼んだ瞬間、再び肩の上に乗って「チチッ」と軽く鳴いた。「いいですね」と岳が頷いてくれる。蒼玄は相変わらず何故か不機嫌そうだ。
「鳥に嫉妬するな」
「……うるさい」
男性二人で囁き合っているが、何のことか分からず首を傾げる。
そして新しい仲間となった白雪と共に旅を続けた。
道中、私たちは様々な会話を交わしながら歩を進めた。時には笑い声を上げ、時には真剣な表情で語り合う。こんな風に自由に笑い、語り合える喜び。空を見上げながら、太陽の光に目を細めた。
その日の夕方、私たちは小さな渓谷にたどり着いた。清らかな小川のせせらぎと周囲の豊かな緑に囲まれ、心が落ち着いていく。
私と岳が野宿の準備をする傍で、蒼玄は新しい温泉を作り始めた。渓谷で採取した薬草を試したいそうだ。彼はいくつかの素材を調合し、棒でかき混ぜる。湯船から放たれる不思議な光を見て、私は感嘆の声をあげた。
「さて、できたぞ」
蒼玄が満足げに額の汗をぬぐった。興味なさげな岳の顔を見て、私は提案する。
「岳、一度くらい入ってみたら?」
「!? いえ、私は……」
「そうだそうだ、入ってみろ」
蒼玄が面白おかしく囃したてたので、岳はきっと睨んだ。その目線を受け流した蒼玄は羽団扇を取り出した。
何をするのだろう?と思っていると、岳に向かって羽団扇を軽く振った。すると岳の体がふわりと持ち上がる。
「うわぁ!」
岳らしくない情けない声をあげながら、温泉まで運ばれる。そのまま湯船の中に落とされてしまった。水面に叩きつけられ、けたたましい水音が響く。
「が、岳……!」
さすがに乱暴すぎないかと思いながら温泉に寄れば、岳が勢いよく温泉から出てきた。そして飛んでいる蒼玄を睨みつけながら怒りの声をあげた。
「蒼玄! お前いつか覚えてろ……よ……なんだ、これは……」
怒りの声が途中で萎み、困惑したように温泉の湯をすくった。熱っぽい視線で見つめ、湯を肩にかけていく。今まで「あんな怪しい奴の温泉には入らない」と断固として断っていた人とは全く思えない。
岳の様子を見て、私も蒼玄も大笑いした。
「いい反応するなぁ」
夜になり、私たちはたき火を囲んで座っていた。膝の上で眠る白雪を撫でながら、私は炎を見つめる。暖かな光が私たちの顔を照らし、穏やかな空気が流れていた。
やがて蒼玄が「少し周辺を探ってくる」と言って立ち去り、岳と二人きりになる。
岳はなんだかぼんやりとしていた。物思いに耽っているようにも見える。「岳?」と名前を呼べば、我に返ったように私の方を見て、やわらかく微笑んだ。
「氷織様、よく笑うようになりましたね」
「え?」
「あ、いえ……」
「……そうね」
失言だったと思ったのか慌てて口をつぐむ岳に、私は微笑んで肯定する。
岳が私の見張り役に任命されたのは十歳の頃だった。それから十年以上、彼は人の目を盗んでは食べ物をくれたり、新しい着物をこっそり渡してくれたりした。
「心の部分が完全に凍り付けば、何をしても楽しめず、悲しめず、ただ肉体の死を待ち続ける物質へと成り果てる」
蒼玄は私の体についてそう説明した。
おそらく岳がいなければ、私は既に死を待ち続ける物質に成り果てていただろう。胸の内に湧き上がる熱いものを感じながら名を呼ぶ。
「ねえ、岳」
「はい」
「城の離れにいた頃のこと、覚えてる?」
「……もちろんです」
「毎日が辛かったわ」
私の言葉に、岳は静かに相づちを打った。
たき火を見つめながら、懐かしさと切なさが入り混じった感情を抱く。
「でも、岳がいてくれたおかげで、なんとか耐えられたの」
「私なんて、大したことは……」
「違うわ。岳がいてくれたから、私は希望を持ち続けられた。覚えてる? 私の誕生日に、花を持ってきてくれたでしょう」
岳の頬が少し赤くなったのを見て、私は胸が温かくなるのを感じた。
「ええ……城の庭から密かに摘んできたんです」
「あのとき、本当に嬉しかった」
私は目に涙が浮かぶのを感じた。
「誰も覚えていないと思っていた私の誕生日を、岳だけが……」
私は膝を抱える。辛かった日々の中にも、小さな喜びや温かな瞬間が確かにあったのだ。
たき火のゆらめきを見ながら、瑞穂城近くの洞窟で交わした会話を思い出す。
「雪が止んだら、城へ戻って」
「姫様を置いて帰るなど……!」
岳は優しく、不器用な人だ。そして正義感が強い。
瑞穂城で私がいないと気づいたあと、そのまま城に留まることも選べたはずだ。しかし彼は烏助の力を使って、洞窟まで駆けつけてくれた。
彼の人生を巻き込んでしまった罪悪感は、いまだに私の心をちくりと刺す。
もう一度謝ろうと私は口を開く。そして岳の真っ直ぐな瞳を見て、唇を閉じた。きっと彼が求めているのは謝罪じゃない。
一呼吸置き、私は静かに言う。
「ありがとう、一緒に来てくれて」
その言葉に、岳は一瞬言葉を失ったように見えた。そして少し気まずそうに目線を逸らしながら答える。
「……いえ」
私は首をひねる。その横顔がひどく悲しそうに見えたのだ。
表情の意味を問おうとしたが、烏助の鳴き声が聞こえて尋ねることはできなかった。