結局わたしたちは、そのまま海に向かうことになった。高校から海へは、まっすぐ坂がのびている。五分歩くと、海沿いを走る電車の踏切があって、そこを越えたら。

「わー、海だねー」

 ざああ、と寄せてくる波の音が、耳に心地よく届いた。あちこちで白波を輝かせる海が、そこにあった。

「朝一で来て正解だったかも。昼間は観光客多いもんね」

 砂浜には、ちらほらと人影があるだけだから、ゆっくりできそうだ。いまから行くよ、なんて図書室で言われたときにはびっくりしたけど、凪都の判断が正解だったみたい。

「ねえ、せっかくだから入ろうよ。足だけでも」
「はいはい。柚、結構テンション上がってる?」
「かも。だって、久しぶりだから」

 思ったよりもわくわくしている自分に、わたしもびっくりだ。砂浜を進んで靴と靴下を脱ぐと、波の中に入ってみた。ぐぐっと波に引っ張られる感覚に、つい笑みがこぼれる。

「冷たい、気持ちいいー!」
「柚が満足そうで、なによりだよ」

 となりに立つ凪都は呆れたみたいに笑った。やわらかな黒髪が、潮風に踊っている。そんな姿を見ていると、なんとなく恥ずかしくなって、目をそらした。ふたりで海に来るなんて、デートみたいだ。凪都はそんなこと一切考えていないんだろうけど。七緒が変なことを言ったせいで、わたしだけ意識しちゃってる。

 キャップが風に飛ばされないように手で押さえながら、「海の匂いがするねー」なんて、ごまかすために言ってみた。でもちょっと、わざとらしかったかも。赤くなっている顔を見られたくなくて、水深の深いところに進んでみる。

 膝のあたりで波が揺れた。そのとき。

「わ……っ!」

 波に引っ張られて、体勢が崩れた。倒れる! ……と思ったけど、なんとか踏みとどまる。凪都が腕を引っ張って支えてくれたから、助かった。

「ご、ごめん、ありがとう! ……凪都?」

 あわててお礼を言ったけど、わたしの腕をつかむ凪都が、どこかぼんやりしていることに気づいた。

「死んだプランクトンの匂い」

 ぽつりと、そんな声がした。

「え?」
「知らない? 潮の匂いは、死んだプランクトンの匂いって」

 一瞬で、世界が暗くなった気がした。ただの世間話と言えばそうなんだけど、凪都が言うと、重い。さっきまで楽しかったのに、空気がどんと重みを増して体にのしかかった。凪都の瞳が、一瞬で死にたがりのそれになっている気がした。寄せて返す波みたいに、ふらりと、そちら側に踏み込んだみたいに。

「くらげってさ、死ぬと海水に溶けるんだって」

 凪都は淡々と話しつづける。

「くらげは九〇パーセント以上が水分らしいよ。だから死んだら、水に溶けて消えていくんだってさ」

 消える。この世界から。

 音もなく、なにも残さず、消えていく。

 凪都が消える様子を想像してしまった。

「やめて、凪都!」

 とっさに叫んでいた。

「……変なこと、言わないで」

 凪都は、かすかな笑みを浮かべてわたしを見た。その指先が、わたしの腕を手放す。

「柚ってさ、なんでそんなに他人が死ぬのを怖がるわけ?」
「……普通、だれだって怖いよ」
「でも程度がある。柚のそれは、普通を越えてる」

 なんて言えばいいのかわからなかった。また、お姉ちゃんの声が聞こえた気がして、頭が痛んだ。ぎゅっと目を閉じる。薬、飲まないと。あ、でももうなくなりそうだから、買いに行かなきゃいけないんだっけ。

「柚はなにを悩んでるの」

 おそるおそる、目を開けた。凪都の黒い瞳に、わたしが映っている。

「……どうして、そんなこと知りたいの。凪都には関係ないよ」

 つい拒絶の言葉をぶつけてから、あせった。ちがう、もっと言い方がある。凪都を突き放したいわけじゃない。でも凪都は気にした様子がなかった。

「そうかもしれないけど。でもいま聞かないと、一生聞けなくなるかもしれないし」

 そんなことをつぶやくから、今度こそ、がん、と頭を殴られたような気がした。

 ……なに、その言い方。自分がいつ消えてなくなるかわからない、みたいな。いますぐに死んじゃっても不思議じゃない、みたいな。どうして。わたしの話なんていいんだよ。凪都の話のほうが大切でしょ。なのに、どうしていつもいつも、はぐらかすの。

「わたしより、凪都の話をしてよ」
「俺はいいんだよ。たいした話なんてないし」
「うそ。じゃあなんで、そんなに死のうとするの、どうし――」

 ふいに、わたしの言葉が途切れた。

「柚?」

 凪都が不思議そうな顔をする。だけど、わたしは答えられない。わたしの視界に、もふもふとした大きなものが映っていた。派手な水音を上げて、それが近づいてくる。

 ……犬、だ。

 多分、ゴールデンレトリバー、なんだけど……。さあっと顔から血の気が引いた。

「ちょっ、待って! 無理! わたし、犬、苦手……っ!」
「え、あ、柚?」

 どんどん近づいてくる犬が怖くて、わたしは凪都を引っ張って盾にした。いや、身代わりにする気なんてなかったんだけど、つい、そうしてしまった。悪意はない。まったくない。だけど、引っ張られた凪都はバランスを崩した。

「あ」

 わたしたちの声が重なって、ばしゃん、とひときわ大きな水音がした。

「……あ、あの。ごめん、凪都」
「あー……、うん」

 ぽたぽたと、凪都の髪から雫が落ちた。凪都は波打ち際に座り込んでいた。胸の下あたりで、たぷたぷと波が揺れている。ズボンもシャツも、ずぶぬれだ。悪意はないんです、信じてほしい……。

 犬は、凪都にじゃれついていた。遠くから、飼い主の女性が「すみませんーっ!」と焦ったように走ってくるのが見えた。散歩中にリードが外れて、犬が脱走したらしい。だけど犬には飼い主の焦りなんて関係ないみたいで、ぶんぶんしっぽをふっている。凪都だけじゃ満足できない様子で、わたしにまで「なでてくれ」って言いたそうに近寄ってきた。ひえ、っと悲鳴がこぼれる。

「待って待って、無理だから、凪都助けて……っ!」

 大きい犬は苦手だ。むかしかまれたことがあって、トラウマだった。凪都の肩を必死で揺さぶると、凪都がふっと噴き出す。

「ちょ、ちょっと! 笑ってる場合じゃなくて!」
「いや、だって……。はは、意味わかんないし、急展開すぎる。……あー、もう、ほら、柚はおさわり禁止だってさ。こっち来な」

 ぬれることもお構いなしで、凪都は遠慮なく犬の首に腕を回して、わしゃわしゃとなでた。浜辺では飼い主の女性が申し訳なさそうな顔で待っていて、凪都が犬を連れていくと、ぺこぺこと頭を下げる。わたしは変わらず凪都の背に隠れていたけど、犬の首輪にリードがつけ直されたところで、ようやくほっとできた。

 助かった。と思ったら、犬が盛大に身ぶるいした。

「あ」

 もう一度わたしと凪都の声が重なる。

「……柚さーん?」
「……ごめん」

 わたしは、凪都をまた盾にしていた。いや、悪意はなくて……。凪都の陰に隠れていたから、流れでそうなっただけでして。

「反省してなくない?」
「し、してます! ごめんなさい!」

 犬のシャワーを浴びた凪都は、じとりとわたしを見たあと、また噴き出した。

「まあいいんだけどさ。あー、おもしろ」

 そう言って、また笑う。

 わたしはいまさらだけど、どきん、と心臓が跳ねた。きらきらと光る雫をまとって笑う凪都はまぶしくて、そういう笑い方をわたしははじめて見た。心から楽しそうな笑顔。暗さなんてない笑顔。

 ……なんだ、そういう顔、できるんじゃんか。

 すこしみとれて、それからわたしも笑えてきた。

「ごめんね、凪都」
「ほんとだよ」

 凪都とこうやって笑い合うのは、はじめてだった。それが……、嬉しい。

 飼い主の女性はまたぺこぺこと謝ってから、犬を連れて歩いていった。犬は水しぶきを上げながら浅瀬を歩いていく。それを見送ると、凪都はまた海に入った。今度は浅瀬で寝転んでいる。波が来るたび、髪がゆらゆらと水に遊ばれていた。わたしはスカートを押さえながら、となりに立つ。

「いいの? 替えの服もないのに、そんなことして」
「どうせ五分で寮にもどれるから、平気。というか柚がその心配する? こうなったの、だれのせいだと思ってるわけ?」
「……わたしです。ほんと、ごめん」
「まあいいよ。柚が濡れなくて済んだなら、なにより」

 からかうように言って、それにしても、と凪都がつぶやいた。

「柚がてんぱったり、はしゃいだりするの、はじめて見た」
「え?」

 凪都が、目を細めてわたしを見上げていた。

「俺といるとき、いつも緊張してるみたいだったから。柚がちゃんと笑ってるとこ、はじめて見た気がする」
「……凪都だって、そうだよ。ねえ、わたしは結構楽しんでるんだけど、凪都も楽しい?」
「まあ、久々に笑ったかな」
「そっか。ならよかった」

 目が合うと、またふたりで笑った。今日は楽しい日。

 だから、多分――、一瞬凪都が悲しそうな瞳をしたのは、見間違いだ。