つぎの日、食堂に行くと一年生の未央ちゃんがため息をついていた。
「二日だけ、家に帰ることになっちゃいました」
たしか、未央ちゃんの両親は仕事で海外にいて実家が無人、っていうのが夏休みに寮に残っている理由だったはずだ。その両親が急遽休みを取って帰国したらしい。
「あーあ。今年は家族に縛られずにのびのびできるー、って思ったんですけどね」
「そんなこと言いつつ、未央ちゃん、嬉しそうだけど」
わたしが言うと、未央ちゃんはむっとした顔をつくった。
「そんなことないですよー。せっかく、柚先輩たちの夏休みを盛り上げようって思ってたところなんだから」
未央ちゃんは「もどってきたら手伝いますからね!」と、わたしの手をにぎって、ぶんぶんふった。たった二日間帰省するだけなのに大げさだ。
わたしはお礼を言ってから部屋にもどると、制服に着替えた。二段ベッドの上段でスマホをいじっていた七緒が、不思議そうに訊いてくる。
「柚、校舎行くの?」
「うん。図書室に」
「凪都に会いに行く感じ?」
「そんなところかな。校舎行くのに制服着用っていうルール、面倒だよね。部活に行くひとはTシャツでもいいらしいけど」
するり、と胸もとでリボンを結ぶ。
「あ。七緒といちゃいちゃするのも忘れてないからね、心配しないで」
「それはどうもありがとう。さすが相思相愛のルームメイト」
いえい、とハイタッチを求める手を差し出されて、わたしも手を伸ばす。気持ちのいい音が鳴った。お互いくすりと笑ってしまう。
「でもま、わたしが言うのもなんだけど、柚は柚のしたいこと優先していいからね。……凪都といい感じっぽいし。恋愛相談なら乗るよー?」
「えっ」
にやりと笑う七緒に、つい、声が裏返った。
「い、いや、そういう理由で会いに行くわけじゃないんだけど……!」
「そうなの?」
「そうだよ!」
ふうんと七緒は笑ったあと、ぱちんと手を叩いた。
「まあとにかく、柚のやりたいように過ごしてよ。あ、でもひとつお願いがあるんだけど、いい?」
「なに?」
「髪のアレンジさせて。髪型変えたら、凪都もどきっとするかもだしさ」
ベッドから降りた七緒に腕を引っ張られて、椅子に座らせられる。
「ちょっと、だから凪都はそういうんじゃなくて……!」
「いいじゃんいいじゃん。わたしの髪は短いし、たまにひとの髪をいじりたくなるんだよね。この夏休み中、柚の髪型はわたしの自由にさせてほしいなあ」
抗議する間もなく、七緒はわたしのボブヘアを器用に編み込んでいった。
「はい完成。いってらっしゃい」
どん、と背中を叩かれる。……七緒、絶対面白がってる。
わたしは七緒から逃げるみたいに部屋を出た。玄関に向かえば、春野さんと未央ちゃんがいた。外出手続きをしているらしい。昨日の今日だし、春野さんと話すのは気まずいけど、無言で出ていくのもよくないよね。
「図書室に行ってきます。未央ちゃん、お家でゆっくりしてきてね」
「わっ! あ、東坂さん……。いたのね、びっくりした」
春野さんがびくっとふり返った。未央ちゃんも「ひゃっ」と肩を跳ねさせている。驚かせちゃったみたいだ。申し訳ない。
気を取り直した春野さんが、わたしの顔を見て「あ」と微笑んだ。
「東坂さん、いつもと髪型違うね。かわいい」
「あー、さっき七緒にいじられちゃったので」
「似合ってるよ。……あ、そうだ。ちょっと待ってて」
春野さんは自分の部屋に走っていって、もどってきたときには、手に白いキャップを持っていた。
「今日は暑いから、倒れたら大変だしね」
はい、とキャップを頭に乗せられる。もしかしたら、昨日調子が悪かったことを心配してくれているのかもしれない。あれはべつに、暑さで気分が悪くなったわけじゃないけど。でも気づかってくれるなら、その気持ちを無駄にしたくない。
「ありがとうございます。お借りします」
わたしはキャップの位置を調整してから、女子寮を出た。図書室まで外の通路を歩きながら、すこし考える。うちの両親はなにも言ってこないな、って。
家は、高校から五駅離れた場所にある。電車通学だってできる範囲だ。でも寮で生活したいってわたしが言ったとき拒否されることはなかった。夏休みも「帰らない」「わかった」なんて短いやりとりをしただけ。
数年前――お姉ちゃんが家を飛び出した日から、わたしは両親と関わらないようにしていたし、ふたりもわたしと距離を置いていた。
「なあなあ、この前、うちの生徒が救急車で運ばれたんだって。知ってる?」
「あー、聞いた。大騒ぎだったらしいな」
運動部っぽいひとたちが前から歩いてくる。そうなんだ。倒れたって、熱中症かな。
「ていうかさ、そのひと、死んだってまじ?」
……え?
ちょうど、すれちがったところだった。わたしの後ろで、会話がつづいている。
「まじ? そうなん?」
「って先輩から聞いたよ。その先輩は、べつの先輩から聞いたって言ってたけど」
「又聞きじゃん! 信用できねー、さすがにうそじゃね?」
からかうような笑い声。……なんだ、うそか。うそでも、そういうことは言ってほしくない。胸がきゅっと絞られたように痛んで、わたしは歩くペースを速めた。こんな暑い日だと、図書館までの短い距離でもすぐに汗だくになった。
朝から嫌な話を聞いた。最悪だ。気を取り直して一番奥の席に向かったけど、凪都はいなかった。ここに来たら会えると思ったのに。あ、でもまだ九時か。わたしが早すぎたのかも。仕方なく、いつも凪都の座っている椅子に座った。
――暇な夏休みになる、って思ったんだけどなあ。
わたしは部活にも入っていないから、引きこもり生活まっしぐらだと思っていた。まさか、こんなに遊びの計画を立てることになるなんて、予想外だ。
十時を回ったころ、凪都がやってきた。
「おはよ、柚。早いな。髪型変えた? キャップも、めずらしい」
「あ」
とたんに「髪型変えたら凪都もどきっとするかも」って七緒の言葉を思い出す。あわてて首をふった。べつにこれは、凪都のためにしてきたわけじゃない。
「髪は七緒にいじられて。キャップは熱中症対策にって、寮母の春野さんが貸してくれたんだよ」
「へえ。いいんじゃない。似合ってる」
平坦な調子のほめ言葉はお世辞だと思うけど、小さく胸が跳ねた。頭の中でニヤニヤと笑う七緒が浮かんで、わたしはまた首をふる。凪都はわたしのことなんて気にせず、マイペースに首をかしげた。
「昨日、眠れた?」
「あ、うん……。音楽のおかげで。ありがとう」
「本はだめだったんだ」
「本、は……、ちょっと苦手で」
視線が泳ぐ。一ページも読めなかったなんて、言えない。
「いらなかったら、いつでも返してくれればいいよ」
「ご、ごめん」
「なんで謝んの。俺が勝手に世話を焼こうとしただけ。役に立たなかったからって、柚が謝ることじゃない」
凪都は飄々と言って、わたしのとなりに座った。
「それで? 柚のやりたいこと、決まった?」
黒い瞳が、わたしに向いている。相変わらず、陽射しを浴びてもどこか薄暗い瞳だった。
「いろいろ考えたんだけど……、えっと、海に行く、とかはどうかな」
図書室の窓から見える海は、水がきらめいているのがわかる。通学組の生徒なら、毎日自転車や電車で海のそばを通るだろうけど、わたしは寮暮らしだから、海には近づかない。海水浴なんてもう数年していなかった。だけど夏の定番だし、凪都も楽しんでくれるかもしれない。
「海ね。了解。行こう」
凪都は立ち上がり、そのまま外に歩いて行こうとする。って、え……?
「行くんでしょ、海」
凪都はふり返って、わたしを手招く。
「行くって、いまから? そんな急に……」
追いかけて外に出ると熱気が襲ってきた。凪都は「あつ」とシャツの胸もとを仰ぎながら言う。
「行けるときに行かないと」
「二日だけ、家に帰ることになっちゃいました」
たしか、未央ちゃんの両親は仕事で海外にいて実家が無人、っていうのが夏休みに寮に残っている理由だったはずだ。その両親が急遽休みを取って帰国したらしい。
「あーあ。今年は家族に縛られずにのびのびできるー、って思ったんですけどね」
「そんなこと言いつつ、未央ちゃん、嬉しそうだけど」
わたしが言うと、未央ちゃんはむっとした顔をつくった。
「そんなことないですよー。せっかく、柚先輩たちの夏休みを盛り上げようって思ってたところなんだから」
未央ちゃんは「もどってきたら手伝いますからね!」と、わたしの手をにぎって、ぶんぶんふった。たった二日間帰省するだけなのに大げさだ。
わたしはお礼を言ってから部屋にもどると、制服に着替えた。二段ベッドの上段でスマホをいじっていた七緒が、不思議そうに訊いてくる。
「柚、校舎行くの?」
「うん。図書室に」
「凪都に会いに行く感じ?」
「そんなところかな。校舎行くのに制服着用っていうルール、面倒だよね。部活に行くひとはTシャツでもいいらしいけど」
するり、と胸もとでリボンを結ぶ。
「あ。七緒といちゃいちゃするのも忘れてないからね、心配しないで」
「それはどうもありがとう。さすが相思相愛のルームメイト」
いえい、とハイタッチを求める手を差し出されて、わたしも手を伸ばす。気持ちのいい音が鳴った。お互いくすりと笑ってしまう。
「でもま、わたしが言うのもなんだけど、柚は柚のしたいこと優先していいからね。……凪都といい感じっぽいし。恋愛相談なら乗るよー?」
「えっ」
にやりと笑う七緒に、つい、声が裏返った。
「い、いや、そういう理由で会いに行くわけじゃないんだけど……!」
「そうなの?」
「そうだよ!」
ふうんと七緒は笑ったあと、ぱちんと手を叩いた。
「まあとにかく、柚のやりたいように過ごしてよ。あ、でもひとつお願いがあるんだけど、いい?」
「なに?」
「髪のアレンジさせて。髪型変えたら、凪都もどきっとするかもだしさ」
ベッドから降りた七緒に腕を引っ張られて、椅子に座らせられる。
「ちょっと、だから凪都はそういうんじゃなくて……!」
「いいじゃんいいじゃん。わたしの髪は短いし、たまにひとの髪をいじりたくなるんだよね。この夏休み中、柚の髪型はわたしの自由にさせてほしいなあ」
抗議する間もなく、七緒はわたしのボブヘアを器用に編み込んでいった。
「はい完成。いってらっしゃい」
どん、と背中を叩かれる。……七緒、絶対面白がってる。
わたしは七緒から逃げるみたいに部屋を出た。玄関に向かえば、春野さんと未央ちゃんがいた。外出手続きをしているらしい。昨日の今日だし、春野さんと話すのは気まずいけど、無言で出ていくのもよくないよね。
「図書室に行ってきます。未央ちゃん、お家でゆっくりしてきてね」
「わっ! あ、東坂さん……。いたのね、びっくりした」
春野さんがびくっとふり返った。未央ちゃんも「ひゃっ」と肩を跳ねさせている。驚かせちゃったみたいだ。申し訳ない。
気を取り直した春野さんが、わたしの顔を見て「あ」と微笑んだ。
「東坂さん、いつもと髪型違うね。かわいい」
「あー、さっき七緒にいじられちゃったので」
「似合ってるよ。……あ、そうだ。ちょっと待ってて」
春野さんは自分の部屋に走っていって、もどってきたときには、手に白いキャップを持っていた。
「今日は暑いから、倒れたら大変だしね」
はい、とキャップを頭に乗せられる。もしかしたら、昨日調子が悪かったことを心配してくれているのかもしれない。あれはべつに、暑さで気分が悪くなったわけじゃないけど。でも気づかってくれるなら、その気持ちを無駄にしたくない。
「ありがとうございます。お借りします」
わたしはキャップの位置を調整してから、女子寮を出た。図書室まで外の通路を歩きながら、すこし考える。うちの両親はなにも言ってこないな、って。
家は、高校から五駅離れた場所にある。電車通学だってできる範囲だ。でも寮で生活したいってわたしが言ったとき拒否されることはなかった。夏休みも「帰らない」「わかった」なんて短いやりとりをしただけ。
数年前――お姉ちゃんが家を飛び出した日から、わたしは両親と関わらないようにしていたし、ふたりもわたしと距離を置いていた。
「なあなあ、この前、うちの生徒が救急車で運ばれたんだって。知ってる?」
「あー、聞いた。大騒ぎだったらしいな」
運動部っぽいひとたちが前から歩いてくる。そうなんだ。倒れたって、熱中症かな。
「ていうかさ、そのひと、死んだってまじ?」
……え?
ちょうど、すれちがったところだった。わたしの後ろで、会話がつづいている。
「まじ? そうなん?」
「って先輩から聞いたよ。その先輩は、べつの先輩から聞いたって言ってたけど」
「又聞きじゃん! 信用できねー、さすがにうそじゃね?」
からかうような笑い声。……なんだ、うそか。うそでも、そういうことは言ってほしくない。胸がきゅっと絞られたように痛んで、わたしは歩くペースを速めた。こんな暑い日だと、図書館までの短い距離でもすぐに汗だくになった。
朝から嫌な話を聞いた。最悪だ。気を取り直して一番奥の席に向かったけど、凪都はいなかった。ここに来たら会えると思ったのに。あ、でもまだ九時か。わたしが早すぎたのかも。仕方なく、いつも凪都の座っている椅子に座った。
――暇な夏休みになる、って思ったんだけどなあ。
わたしは部活にも入っていないから、引きこもり生活まっしぐらだと思っていた。まさか、こんなに遊びの計画を立てることになるなんて、予想外だ。
十時を回ったころ、凪都がやってきた。
「おはよ、柚。早いな。髪型変えた? キャップも、めずらしい」
「あ」
とたんに「髪型変えたら凪都もどきっとするかも」って七緒の言葉を思い出す。あわてて首をふった。べつにこれは、凪都のためにしてきたわけじゃない。
「髪は七緒にいじられて。キャップは熱中症対策にって、寮母の春野さんが貸してくれたんだよ」
「へえ。いいんじゃない。似合ってる」
平坦な調子のほめ言葉はお世辞だと思うけど、小さく胸が跳ねた。頭の中でニヤニヤと笑う七緒が浮かんで、わたしはまた首をふる。凪都はわたしのことなんて気にせず、マイペースに首をかしげた。
「昨日、眠れた?」
「あ、うん……。音楽のおかげで。ありがとう」
「本はだめだったんだ」
「本、は……、ちょっと苦手で」
視線が泳ぐ。一ページも読めなかったなんて、言えない。
「いらなかったら、いつでも返してくれればいいよ」
「ご、ごめん」
「なんで謝んの。俺が勝手に世話を焼こうとしただけ。役に立たなかったからって、柚が謝ることじゃない」
凪都は飄々と言って、わたしのとなりに座った。
「それで? 柚のやりたいこと、決まった?」
黒い瞳が、わたしに向いている。相変わらず、陽射しを浴びてもどこか薄暗い瞳だった。
「いろいろ考えたんだけど……、えっと、海に行く、とかはどうかな」
図書室の窓から見える海は、水がきらめいているのがわかる。通学組の生徒なら、毎日自転車や電車で海のそばを通るだろうけど、わたしは寮暮らしだから、海には近づかない。海水浴なんてもう数年していなかった。だけど夏の定番だし、凪都も楽しんでくれるかもしれない。
「海ね。了解。行こう」
凪都は立ち上がり、そのまま外に歩いて行こうとする。って、え……?
「行くんでしょ、海」
凪都はふり返って、わたしを手招く。
「行くって、いまから? そんな急に……」
追いかけて外に出ると熱気が襲ってきた。凪都は「あつ」とシャツの胸もとを仰ぎながら言う。
「行けるときに行かないと」